ズキズキと痛む頭の中で呼ぶ声が聞こえる。
ぼぉーっとして、頭が重くて動けない動きたくない。
だけど何度も私の名前を呼んでる気がして。
誰の声?誰が私を呼んでるのー…?
「高須…!」
パチッと目が開いた。ずっと真っ暗闇にいるみたいだったのに急に明るい世界にびっくりして目を細める。
え、ここはどこ?
「高須、大丈夫か!?」
まだ頭がぼぉーっとして上手く思考が働かない。
ここはどこなの…保健室、ぽいな?薬品の匂いがするし、この部屋の感じはたぶん学校の保健室だと思うんだけど。
「痛いとこないか?大丈夫か?」
保健室のベッドに横になって、布団まで掛けられて寝かされてるっぽい。
でもなんで保健室?保健室に来た記憶なんてないんだけど…私スーパーにいたよね、スーパーで買い物してたの。
今日はチーズフォンデュにしようって実咲と…実咲?
「実咲っ!!?」
がばぁっと勢いよく起き上がった、そのせいでズキッと頭が痛んだ。
「痛…っ」
「急に動くなっ、頭打ったんだから!」
頭打った…?なんで頭打ったんだろ…
あ、階段から落ちたからか。そうだ思い出した、確か学校の屋上から…あれ?スーパーの近くの階段だっけ?どっちだ??でもここは学校、じゃあ落ちたのは屋上の…?
実咲は?
「門倉先生…!?」
パッと目を開けたら目が合った。イスから立ち上がって身を乗り出した門倉先生と目が合った。
それは27歳の、私の副担の門倉先生で。
「高須、俺のことわかるんだな!?」
「え…あ、はい…わかります、けど」
すっごいぐっちゃぐちゃな顔で私を見てる、その顔は不安げで今にも泣きそうなほどに。
「記憶…、あるんだな!?」
「…っ!」
記憶…は、ある。たぶんしっかり覚えてる、門倉先生に屋上の掃除を頼まれてご褒美にってガリガリ君をもらって帰ろうとした時階段から落ちたの。
落ちたんだけど、私の中にあるもう1つの記憶は…
これは何?夢なの?
それにしてはリアルで、何日も何日もとても夢とは思えない日々だった。
ご飯食べたり、眠ったり、出掛けたりして…目の前にいたのは17歳の門倉先生だった。
それは夢?私が勝手に作り出した群像ー…?
「どこか痛むか?」
「あ、いえ…大丈夫です」
若干の痛みはあるけど骨が折れてるとかそんな痛みはなくて、たぶんそこまで大事には至ってない。起き上がれるし話せるし、だからいいとは思うんだけどふわふわとした記憶の交差がイマイチ理解出来てなくて。
本当に夢なのか、それともー…?
「守れなくてごめん、高須」
門倉先生が私に向かって頭を下げた。悔しそうに歯を食いしばって、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せて。
「一緒にいたのに…」
「……。」
門倉先生が腕を掴んでくれた、でもきっと間に合わなくてここにいるんだ。だけど何ともないし、ちょっと体が重いくらいだし。
「良かった、記憶がなくなったらどうしようかと思ったよ」
そう、記憶だってあるから。
落ちる前のことも、それよりも前のことも抜けることなく全部ー…
「俺は階段から落ちて記憶がなくなったから」
え…?
その言葉に息が止まる、思わず見開いた視線の先が真っ白になるようで。
「高須まで記憶なくすようなことになったらどうしようと思ったよ」
え、待って。ちょっと待って。
急に頭の中がぐわんぐわんと回り出す、ふわふわしていた思考回路がハッキリと色濃くなっていく。
「親御さん迎えに来てくれるって言うから、確認しに1回職員室戻るから高須はまだ寝てて」
保健室から門倉先生が出て行く、でも何も言えなかった。返事をすることさえ出来なかった。
階段から落ちたって言ってたよね?
階段から落ちたせいで記憶がないって…
門倉先生が記憶をなくしたのは高校生の頃、それは約10年前の話。
私が会った門倉先生も高校生で、10年前の姿だった。
門倉先生の記憶は階段から落ちたことが原因だとしたら、あの時…
私が階段から落ちた時、実咲はどうだったんだろう?手を引っ張ってくれた実咲はどうなったんだろう?
ということはあれはやっぱり夢じゃない、夢なんかじゃない。だって覚えてる、触れた感触がしっかり残ってる。
「…っ」
ゴクリと息を飲む、静かな保健室でバクバクと鳴る心臓の音に狂いそうになりながら自分の胸を掴むように押さえた。
じゃあもしかして?本当に?
信じられないことだけどあれは…
過去にタイムスリップしてたんだー…!?
門倉先生の記憶は階段から落ちたせいだとしたら、もしかしてそれはー…
昨日は全然眠れなかった。さすがに打ち身くらいはあったけど、それぐらいで特にはなかった。
でもそんなことより、門倉先生のことが気になって。
「……。」
全く授業に集中出来ない、ペラペラと英文が聞こえてるけどちっとも頭に入って来ない。
今は英語の授業中なんだ、聞くしかないんだけど…頭がズキズキと痛むの。何ともないって思ってた頭が、叫んでるみたいにうるさいの。きゅーっと押し潰されそうになるから、あの日のことを思い出すと。
「高須さん、大丈夫かしら?」
頭を押さえながら俯いてたら呼びかけられてしまった、英語の佐藤先生に。
わかってたけど今は授業中、明らかに聞いてなかったのはきっとバレてる。でもちょっと都合よくて、昨日の今日だから私のことを知らない先生はいないから。
「体調良くないの?」
「はい…、あの保健室行ってもいいですか?」
本当はそんなことないんだけど、どうってことなかったんだけど。でも授業を聞いていられるほど強くもいられない。
すぐに出た許可にもう一度返事をして立ち上がった。
後ろから教室を出て、保健室へ…なんて気分にもなれないけど。
とぼとぼと廊下を歩いて、一番奥まで行きついたら階段を下りた。今度は丁寧に、足を滑らせないように昨日のことを思い出しながら。
私が屋上の階段から落ちて保健室に運ばれるまでそんな時間はかかってないはず、だけど何日も何週間も過ごした気がしてる。それはきっと過去に行ってたから、過去で高校生の門倉先生に会ってたから…と、思うの。
つまりは一瞬だけ消えて戻ってきた?その辺の原理はよくわからないなぁ…
だけど全て鮮明に思い出せる、実咲と過ごした日々のことー…
「高須!」
階段を半分下りた踊り場から窓の外を眺めていたら呼びかけられた、下から上がって来た門倉先生に。
あ、やばい心臓がドクンと鈍い音を出す。
「こんなところでどうした?授業中だぞ」
ぼぉーっと外見ちゃってたから言い訳も出来なくて、何て言おうか口ごもってしまったけど私が何も言わなくても今ならどうにかなってしまって。
「…大丈夫か?体調、よくないのか?」
昨日のこと、罪悪感のように思ってるんだと思う。誰より1番心配してくれてるのは門倉先生だから。
「いえ…、そんなことはないですけど」
だけど門倉先生の方は見られなくてじっと窓の方を見て少し俯いた。窓の縁に手をかけて、グラウンドを見るようにして。
心臓がドクンドクン響く、重くて鈍い苦しさを伴うような音がしてる。
どうしよう、何て言えばいいんだろう。聞きたいのに聞けない、聞くのが怖くて。
「高須…どうした?」
声が震えるの、もしそうだったらどうしようって思うと怖くてー…
「高校生の時の門倉先生はどんな人でしたか?」
でも確かめたいことがあるの、どうしても。
「え…いや、だから覚えてないよ?高須も知ってるでしょ、記憶ないんだよ俺」
確かめなくちゃ、すごく勇気の入ることだけど知らなきゃいけないと思うの。
「1人暮らしはしてましたか?」
「1人暮らし?あー…、してたかも覚えてないけどたぶん」
「どんな家でしたか?」
「家!?それはわかんないな~、住んでた記憶ないし事故に遭う前は1人暮らししてたって言われただけだから」
「それは誰に言われたんですか!?」
もしあれが夢じゃないのなら、現実なんだとしたら?
ねぇ実咲は今どこにいるの?
「親戚の人だよ」
聞き覚えのあるその人は、お母さんもお父さんもいないって言ってた唯一の血縁関係のある人。
あんまりよさそうには思ってなかったみたいだけど、それでも実咲にとっての親族になる。それは確か…
「お父さんのおばさん…の子供っていう人ですか?」
そう言ってた、ちゃんと覚えてるよ。
「え、なんで知ってるの?この話誰にも言ったことないんだけど」
不思議そうに私を見る門倉先生の顔を、ゆっくり息を吸って見上げる。1つずつ繋がっていくみたいに、失ったピースが埋められていくから。
「門倉先生はいつまでの記憶がないんですか?」
「え、いつまでって…」
もう気が気じゃいられなくて声は大きくなっていくばかりだった。
「いつ記憶がなくなったんですか!?」
「何?どうした!?そんなこと聞いてっ」
「教えてください!」
どんどん声が大きくなる、吹き抜けの階段はよく響いて気付いたら必死に門倉先生の方を見てた。だけど1番奥まで来てしまったから教室からは遠くてきっと誰にも聞こえていない。
「えー、いつってなぁ…」
「覚えてないですか!?」
「それはさすがに覚えてるけど」
「じゃあいつですか…っ!?」
心の中で手を合わせて祈った。少し困った様子の門倉先生を前にして必死に祈り続けた。
どうか、どうか、その答えがー…
「高校2年の夏かな」
私の記憶と違ったらいいのにって、思ってたのに。
「だから高校生の頃の記憶がないんじゃなくて実際は高校2年生の夏までの記憶がないんだよ」
ゾクゾクと体中が震え始める、まだ暑い夏の日にもかかわらず寒くて急に体温が下がったみたいだった。目の前が真っ暗になる、どこを見たらいいかわからなくて。
「それが、どうかしたか?」
どうせなら夢であってほしかった。全部、全部、私の勝手な妄想で片付けてしまいたかった。
手がふるふると震える、きゅっと握りしめて抑え込んで声を振り絞った。
「…高校生の時に階段から落ちたことが原因で記憶がないんですよね?」
「あぁ、そうだけど」
「それって1人だったんですか?」
「え?」
昨日から考えていた。門倉先生の記憶を失った理由を聞いてからずっと考えてた。
でも考えれば考えるほど恐怖のどん底に突き落とされる。
「誰かと一緒にいたんですか?」
もしかして私のせいですかー…?
「それは…わからないなぁ、覚えてないから」
どうして私は過去へ行くことになったんだろう、それは今でもわかってなくて。
死のうとしていた実咲を食い止めることだって本位じゃなかったの。前の前で死んでほしくない、ただ実咲といたいって願ったからでそのために過去へ向かったわけじゃない。
じゃあ私が過去へ行った意味は?
「何か覚えてないんですか!?どうしてそこにいたとか、何をしようとして階段から落ちたとか!?」
「何も覚えてないよ、事故以前のことだって覚えてないのに」
「思い出してくださいよ!」
「無茶言うなよっ」
だってね、実咲は生きるって言ってた。生きようと思ったって言ってた。
あの時の実咲は自分から死のうなんて考えてなかったはずなの、だから自ら階段の上から飛び降りるなんてしない。そうせざる得なかった何かがあったってことだよ。
「何でもいいんで、何か…っ、何かないんですか?覚えてること…っ」
「…、覚えてることはないけど」
詰め寄る私にふぅっと息を吐いて、静かに口を開いた。
それは門倉先生の思い出したくなかった過去ですか?忘れたい出来事でしたか?
「聞いただけだから詳しくはわからないけど、俺が落ちた階段は…」
それでも私は知りたいんです、聞かない方がよかったかもしれなくても。
「S町にあるスーパーの近くの階段だよ」
それは紛れもなくあのスーパーだった。
実咲と出掛けた、お母さんに会った、あのスーパー、だからそれはきっと私が落ちた階段とおんなじ…
「それぐらいしか事故のことはわからないんだよ、誰も見てなかったみたいだし偶然通りかかった人が倒れてる俺を見付けて救急車呼んでくれたみたいで…」
ドクンッと大きな鉄槌でも落ちて来たみたいだった。息が苦しいどころじゃない、息の仕方がわからなくなってハァハァと呼吸が荒くなる。
「高須?」
一気に溢れ出す、重くて苦い涙が胸をえぐってボロボロと落ちていく。
「どうした…!?」
そうだったんだ、そうゆうことだったんだ。
そんなこと思ってもみなかった、私の行動がこんなことになってるなんて思ってなかった…門倉先生の記憶がないのは私のせいだったんだ。
「…っ」
私がっ、ちゃんと前を見ていなかったから…気を付けろって言われたのにわかってなかったから、自分のことでいっぱいいっぱいで周りのことなんて見てなくて、だから…っ
私が門倉先生の記憶を奪ってしまった。
「高須、どこか痛いのか!?どうしたんだ?昨日の痛みがまだっ」
私のせいだよ、私が悪いんだよ…!
門倉先生の記憶がないのは私のせい、自分勝手な私のせいだ…っ
「門倉先生っ、ごめ…っ、ごめんな…さいっ」
「なんだ!?どうして高須が謝るんだ?」
「ごめんなさい…っ」
「どうしたんだよ、なんで泣いて…っ」
押し寄せて来る罪悪感と絶望が胸を締め付ける。嗚咽交じりの声で先生にすがりついて謝っても、そんなの意味がなくて。
謝っても何の意味もない、どうしようもない。
だって門倉先生には記憶がないんだ。私が一緒にいたことさえ覚えてないんだ。
「高須…?」
門倉先生の記憶を奪ってしまった。私の身勝手で門倉先生の人生を変えてしまった。
最悪だ最低だ。
過去まで行って何してるんだ。
こんなの門倉先生の人生をめちゃくちゃにしに行っただけじゃない…っ
ずっと消えてなくなりたいと思ってた。
いっそのこと消えてしまえたらいいのにって思ってた。
だけど消えたところで、門倉先生の記憶が戻ってくるわけでもないんだ。
私はなんてことをしてしまったの?
****
「天毬、天毬!」
ドアの向こうからお母さんが呼んでる。
ドンドン叩く音と叫ぶ声が部屋に響いて、だけどずしんと重い体は起き上がることが出来なくて。鉛のように重たい、布団にくるまって顔を出すことさえも億劫だ。
今日も学校を休んでしまった。今日で何日目だったかな、それももうよくわかんないや。
でも力が入らないの、ぐわんぐわん頭が回って気持ち悪い。
“明日も元気に学校来いよ!”
門倉先生に会うのが怖くて、どんな顔で門倉先生に会ったらいいのかわからなくて…今日も学校へ行けなかった。
さらに布団の中に入り込んだ、震える体を無理やり閉じ込めるように。
どれだけ泣いても涙が止まらない、私が泣いていいことでもないのに…止まらないの。
どうしてこんなことになっちゃったのかな?なんであんなことしちゃったのかな?
私、どうしたらいいの…
「天毬、門倉先生見えてるわよ」
え?門倉先生…!?
がばっと勢いよく体を起こして布団を剥いだ。ベッドの上から慌ててドアの方へ…と思ったけど、私の部屋には鍵がついてる。こっちからじゃないと開けることが出来ない、だから勝手に開けれることはないけど。
「天毬、…天毬が何日も学校休むから門倉先生が心配して来てくださってるよ」
……。そんなの、しないでいいのに。しないでください、私のことなんか…あ、また涙が。ぎゅーって締め付けられて押し出される。
今門倉先生のことは、私…っ
「高須、大丈夫?」
…!
穏やかで優しい声が、ドア越しに聞こえた。だけどその声が余計に胸に刺さる。
「ごめん高須」
どうして?
「怖い思いさせて…俺がそばにいたのに高須のこと助けられなかったから」
どうして門倉先生が謝るんですか?
「本当にごめん」
謝らなきゃいけないのは私の方なのに、でも謝っても謝っても足りないよ。
ねぇわからないよ。こんなことになるなんて思わなかった、こんなはずじゃなかったよ。
あの日の私はこんなんじゃなかった。
私、嬉しかったんだよ。嬉しくて、嬉しくて、少しだけ自分を好きになれた気がした。
自分でいいんだって思えたの、それは…実咲がいたから。実咲がいてくれたから。
でもそれがいけなかったの?そんなこと思ったから?
「高須、学校来てよ」
私が実咲とずっといっしょにいたいって願ったから?
「高須に会いたいよ」
そんなこと叶うはずなかったのにね。叶えられるはずなかったのに…
全部私のせいだ。私が悪いんだ。
とめどなく溢れてくる涙が苛立って仕方ない。
「…私は会いたくないです」
それでも、会いたくて。
こんなこと願っちゃダメだってわかってるのに、わかってるけど…実咲に会いたい。もう一度、実咲に会いたい。
会いたいよ、実咲…!
どこを探しても未来に実咲はいない。
実咲の存在を消してしまった。
もし、あれがなかったら今頃実咲は…
****
「天毬!今日は…学校、行くの?」
久しぶりに制服に袖を通した、ずっと部屋に引きこもってたから髪の毛を整えるのも久しぶりでちょっと苦戦してしまった。
「うん、そうしようかなって」
コクンと頷いたらお母さんが嬉しそうに笑った、笑ってた、そんな顔も久しぶりだった。
そんな風に笑ってくれるんだって、思ったりして。
「じゃあ、いってきます」
スクールバッグを肩に掛けて家を出る、学校へ行くため…のフリをして。わざと学校へ行くフリをした、本当は学校なんか行くつもりないのに少し気になったから見てみたくなって。
10年後の未来はどうなってるのかなって、見てみたくなった。実咲の住んでたアパートは、どうなってるのかなって。
「……ない、か」
この辺はあまり来たことがなかったから、あまり想像がついてなかった。
だけど、10年前であのボロボロ加減だったもんね10年後の未来で残ってるわけないよね。
いつどんな風にしてなくなったかわからないけど、今ここにあるのはおしゃれなカフェだった。コーヒーのいい香りが外まで漂ってる、アパートの面影なんて一切ない。
町も人も何もかも変わってる、もう実咲がいた頃のここじゃない。どこにも実咲が生きてた証がないみたい。
誰か覚えてるかな、実咲のこと。
“ずっと1人だったから”
覚えて…
ねぇ実咲、どうして私たちは出会ったのかな?
その答えを実咲は知ってるの?
知ってるんだったら、教えてよ。
****
どこに行けばいいのかわからなくて、思い出を探すみたいに。
どこにもいないのに、いるはずないのに…実咲と初めて笑い合ったあの場所で実咲のことを思いながら、動かなくなった体を抱えてた。
どうすればいいのか、考えても考えても今はもうガンガンと響く頭を支えるので精一杯だ。
ずっとここにいようかな、ずっとここにいたら迎えに来てくれるかな?
そんなこと絶対ありえないよねー…
「高須!」
呼ばれた声に顔を上げる、少し視線を向ければ息を切らしながら走って来たから。
「高須、こんなとこで何やってるんだよ心配するだろっ」
ハァハァと肩で息をして、額から流れる汗を拭いた。必死な表情を見ればわかる、わざわざ私を探しに来たんだと思った。
「こんな河川敷の土手で…」
でも、私は…
ちょこんと三角座りをしたまま、スッと川の方へ顔を向けた。わざと視線を外すようにして。
「高須のお母さんが、今日は学校に行くって言ったけど気になったからって学校に電話してきて…っ、でも高須来てなかったから!」
まだハァハァ息をしてる、どれだけ走って来たんだろう。学校は?授業は?あったんじゃないの?知らないけど。
「あ~…っ、見付かってよかったよ」
はぁーと大きく息を吐いてしゃがみ込んだ。そんなに必死にならなくても子供じゃないんだから、高校生なんだから、ちょっと帰って来ないくらいどうってことないでしょ。
そんなの全然大したことなくて、ちょっと外に出るくらい別に…っ
「お母さん、心配してるよ」
前を見ていた視線が、下に落ちる。膝の上に顔を伏せてきゅっと目を閉じた。
「お母さん、心配になってお父さんにも連絡しちゃったって」
穏やかな声が耳を刺激して、瞳がじわっと熱を帯びる。
「そしたらお父さんもすぐ帰るって…」
なんで今そんなこと言うんですか?どうしてそんなこと言えるんですか?
「高須のことちゃんと思ってるよ」
私が1番言ってほしかった言葉を。
「高須は1人じゃないよ、大丈夫だから」
ずっとずっと不安だった。私がいない方がいいんじゃないかって思ってた。
上手く笑えない私なんか、邪魔なだけだと思ってた…でも本当はね、私だって一緒に笑いたかったよ。
「先生だって…っ」
声を荒げる、そうしないと声が出せない気がして。
「1人じゃなかったです…!」
涙でぐちゃぐちゃの目で見つめる、ぼやっとしか見えない表情はどんな顔をしてるのかわからない。
やっぱり子供なのかな、こうやって泣きじゃくることしか出来ないんだ。子供だから、私…っ
「高校生の先生だって1人じゃなかった…っ」
まだまだ暑い夏、あの夏よりも未来は日差しが強い。きっと川の水だって生ぬるい、実咲と遊んだ川は気持ちよかったけど。
「あの日他にもいたんです、隣に女の子が…いたんです!」
ここにはそんな気持ちいい川も実咲もいないから。
「その子のせいで門倉先生は…っ」
全然、全然、ないから。
「記憶を失ってしまったんです」
何もないよ、あの記憶も全てないんだよ。私が奪ってしまったから門倉先生の記憶を、17年もの記憶を門倉先生から実咲から消してしまった。
両手で顔を覆って、ひくひくと声を殺して泣いた。泣く資格なんてないのに絶えずこぼれ続ける涙は重くて冷たくて震えが止まらなかった。
なんてことをしてしまったんだろう、こんなこと許されはずない許されちゃいけない。私がしたことはそれだけ門倉先生の人生を変えてしまったんだから。
私だけが未来を生きていくなんて出来ないよ、笑って生きていくなんて出来ない。
私が門倉先生の未来を奪ってしまったからー…
「その子は無事だったのかな?」
ふわっと包む込むような優しい声が、私の中に入ってきた。ぽろっと一粒の涙がこぼれて、少しだけ視界がクリアになったおかげで門倉先生の表情がよく見えた。
じぃっと私を見つめて、私の返事を待つみたいに。
「その子は…無事、でした」
静かに口を開いて答えた、震えそうになる唇を必死に落ち着かせながら。ドクンドクン響く胸の音が体中に響いて苦しい。
だってこんなの聞いたら門倉先生はー…っ
「よかった」
にこりと笑った、温かい表情で私に微笑んだ。少し目を細めて、ふんわりと弧を描くような口元は全てを悟るみたいで。
そんな顔、学校では見たことなかった。
だけどそれも門倉先生らしい表情をしていた。
ふぅっと息を吐いて私の隣に座る。草が生える河川敷の土手にべたっと腰を下ろして川を眺めるように前を見た。
「俺の両親ね、事故で亡くなったんだ」
それは10年前、実咲から聞いた話だった。
「それも覚えてないんだけどさ、車に乗ってる時…相手の飲酒運転でね」
そうだったんだ、事故とは言ってたけど詳しい話は聞いてなくてなんとなく聞かない方がいいかと思ってたから。門倉先生からその話を聞くなんて。
「俺だけ助かったんだよ」
え…?門倉先生だけ、助かった…?
それは初めて聞く話だった。実咲はそんなこと一言も言ってなかった。そんな話私には教えてくれなかった。
実咲はずっと抱えてたの?そんな思いを1人でずっと背負い込んで、生きて来たの…?
あ、どうしようまた涙が止まらなくなる。
一緒にいたのに、隣にいたのに。もっと実咲のこと、私…っ
「だから目の前で何か起きるなんて嫌だったんじゃないかな」
ふっと声を漏らしながら私の方を見た。
「覚えてないけど本能的にそう思ったんだと思う、その子を守りたかったんだと思うよ」
「……。」
そんなの、わからない。ねぇ実咲、わからないよ。
実咲はそれでよかったの?
「もう大切な人を失いたくなかったんだよ」
実咲はずっと寂しそうだった。苦しそうだった。生きていくことを諦めて、それでも毎日必死に過ごしていた。
なのに、どうして?
「だからその子が元気だったらいいよ」
門倉先生は笑えるんですか?なんで笑うんですか、全然笑えないです…笑わないでください、お願いだから。
私の涙は止まらなくなるから。
だってこれでいいはずない、いいわけないんだよ。
私に出来ることはないの?私じゃ何も出来ないの?
ねぇ実咲、もう一度名前を呼んでー…
「“てまりちゃん”が元気だったらいいよ」
門倉先生と目を合わせた。そんな呼び方、門倉先生は絶対にしないから。
「え、どうして名前…」
「ノートに書いてあったんだよ」
“書いといたら思い出せるし”
ノートに書いてあった…?
ふと思い出した、何気なくラクガキをして遊んでいただけだったあの数学のノートを。
「“ガリガリ君交換”ってよくわかんないメモもあったけど」
「……。」
書いてた、なんならそれ一番最初に書いてた。
そっか、実咲の記憶はなくなってもあのノートは存在してるんだ。
他に何書いてたっけ?実咲が好き勝手書いてたノートだから…
「俺はどうやら“てまりちゃん”のことが好きだったらしいんだ」
…っ!
ぼんっと顔が熱くなる、ただでさえ泣きじゃくってぐちゃぐちゃなのに、そんなこと思い出させないでよ恥ずかしい。しかもそれを門倉先生に言われるって。
「だから守りたかったんだよ」
一度瞬きをした門倉先生は真っ直ぐ遠くを見つめ、凛とした瞳は前を見ていた。実咲とはどこか似ていて、どこか違う。
そんな瞳の色、実咲はしてなかった。
「それにね、俺は事故にあってよかったって思ってて」
「え…、どうしてですか?」
少しだけ視線を落とした、ほんの少しだけ。
「俺ね、高須にはあんなこと言ったけどずっと死にたいって思ってたんだよね」
ずしんと胸に響く、重くて苦しいあの感覚が蘇ってくる。実咲の思いが、伝わってくるみたいで。
「まぁそれも今となっては覚えてないんだけど!」
「……。」
門倉先生はケラッと笑ってたけど。何もおもしろくないのに楽しそうにケラケラ…だけどこれが私の知ってる門倉先生だ。
「親戚に言われたんだよ~、めちゃくちゃ暗くて怖かったって!こいつ死ぬんじゃないかってずっと怖かったらしいよ」
いや、だから。なんでそんな笑って話せるんですか、意味わからないんですけど。
それって笑っていいことなの?実咲はこれでいいの、ねぇ…
「だからね、親戚も距離取ってたらしくて」
…!それは…実咲が言ってた、けど。
距離を取ってるとは言ってなかった、あんまりいいようには思ってなかったしたぶん実咲も思われてなくて。
「事故に遭ってからのが明るくていいって」
それは未来が変わってるみたいだった。
「…仲良いんですか?親戚の人と」
「うん、たまにご飯とか行くぐらいね」
あの頃じゃ想像できなかった未来だった。
事故に遭ってからのが明るくていいなんて、記憶を失った人に言っていいのか私にはわからないけどそんな風に明るい声で話す門倉先生がいるのは今の門倉先生を見てる人がいるからで。
あの頃の実咲にはなかった、実咲にはできなかった。
実咲はこんな未来を望んでたのかな?誰かと一緒にいる未来をー…
「俺、今の人生楽しいんだよね」
そうやってふっと笑った門倉先生は気付けば顔を上げて空を見てた。澄み渡るような青くて眩しい空を、愛おしそうに。
「だからこれでいいだよ、記憶がなくて可哀想っていう人もいるけど俺はこれでよかったんだよ」
もし実咲がここにいたら門倉先生には会えなくて、今目の前で笑う門倉先生はいなかった。
実咲に会いたかった、未来でも実咲と会いたかった。
「事故に遭う前の俺も今の俺も変わりなく俺だから」
だけど私ね、門倉先生にも会いたかった。
「だって生きてればいいことあるだろ?」
許されるなんて思ってない。
だけど、笑ってくれる門倉先生がいてくれて私はまた救われた。笑ってくれる門倉先生がいたから、また顔を上げられる気がした。
今ここに少しでも明るい未来があるのなら、生きていてくれるのなら。未来にいてくれるのなら。
実咲にもう会えなくても、私は実咲のことー…
「でも1つだけ心残りがあってさ」
目を伏せた門倉先生が少しだけ寂しそうな顔をした。ずっと笑ってた門倉先生には似合わない表情で、息を吐いた。
「“てまりちゃん”は今どうしてるのかな?」
それは胸に刺さる痛みがあった。
「一度も会いに来てくれたことはないし、どんな子なのかもわからなくて…」
会えるはずないから会いに行けなくて、会いたくても会えない。
門倉先生も会いたいと思ってたんだ。記憶にない“私”と。
「会いたいよね、てまりちゃんに」
風が吹く、生温かい。髪の毛が揺れて顔にかかる。門倉先生の横顔を見つめながら。
「てまりちゃんは何でも出来る高校生になるのが夢だったらしいのね」
「……。」
“何でも出来る高校生になる!”
やばい、それは思い出したくなかったかも。何言ってんの私、すごい恥ずかしいんだけどあのノート恥ずかしいことしか記録してないんだけど。いっそのこと捨ててほしかったよ。
「そんな高校生になってるといいよね」
私の方を見た門倉先生がにこっと笑った。
「あ、もう大人か」
「…そう、ですね」
「そんな大人になってるのかな、てまりちゃんは」
「…。」
まだまだそんな大人にはなれてなくて、そんな高校生にもなれていない。
何でも出来る高校生ってなんだよって思うけど、そんな風に…なってるといいよね“てまりちゃん”が。先生の中での“てまりちゃん”はそうであってほしいよね。
私もそんな風になれるのかなー…?
「高須と同じ名前の“てまりちゃん”」
「え…」
「だから高須に笑っててほしい」
「…っ」
にこっと目を細めて大きな口を開けて笑う、それは子供みたいに無邪気で“先生”とは思えなくて。
「てまりっていい名前だな」
胸がきゅーっと締め付けられて熱くなるの、今ここに実咲がいる気がして。実咲が笑ってるみたいで、胸がいっぱいになる。
ぽろぽろこぼれ落ちる涙は実咲への想いで満たされていくから。
「ちなみに“てまりちゃん”は“先生”のことが好きだったらしいんだよね」
右手で口を隠してこそっと私の耳元で教えてくれた、すっごいいらないてまりちゃんの情報。
本当にあのノートはロクなことが書いてない。なんでそんな余計なことばっかり書いたかな、それも実咲が勝手に書いたやつだし全然違うしそうゆう意味じゃないし。というかそれは…っ
「だから先生になっちゃった」
ニカッと歯を見せて笑う門倉先生が嬉しそうだったから。
「え…?」
だから先生になったって、それは…?
「記憶失ってさ、高校2年生までの自分がわからなくなって迷ってたんだけどね…何がやりたいとか何になりたいとか、そうゆうのも全部忘れちゃったからね」
……。そうだ、きっとよかったことばかりじゃない。今は笑ってる門倉先生でも絶対たくさん悩んだはずだ。
「だから先生になってみようかなって!」
「……。」
「思い切って先生になってみた!」
「…あの、前後の文章が繋がりません」
突然過ぎるんだけど、だからの接続詞あってる?なんでそこで先生になろうと思ったのか私にはまったくわからない。
「てまりちゃんの好きな人に対抗してみようかなって!」
「…。」
は?
やっぱり聞いてもよくわからない理由だったのに門倉先生は満足げに笑っていた。そんなめちゃくちゃな理由で先生になるって何、それでよかったの門倉先生の人生は…
「高校生の俺だったらさぁ、そんなこと言われたら悔しいと思うんだよ!絶対振り向かせたいって思うと思うんだよな~!」
いや、本当に何言ってるの?そこと張り合ってどーすんの?
「だからいつかてまりちゃんに会った時、そんな話が出来たらいいなぁって思ってね」
呆れたのに、くだらなくて。
なのになぜか瞳の奥にぶわっと熱を帯びて熱い痛みが刺激するから。
もう散々泣いていい加減涙だって乾いて…、って思ったんだけどなぁ。
今すごく嬉しかった、嬉しかったの…
私の中に実咲がいるように、門倉先生の中にも私がいて。
それは心の奥に眠る実咲がいるみたいな。
また涙がこぼれ落ちる。ぽろぽろ、ぽろぽろ、こぼれて…今までの涙と違う、真っ暗だった私の心を明るくしてくれるようで。
でも不思議なんだ、泣いてるのになぜか声が漏れちゃうから。
「高須?」
「…ふっ、ふふっ」
「え、笑ってる?」
「ふふふっ」
「笑ってる!?」
泣きたいのか笑いたいのか自分でもわからない、でも門倉先生がいたから。そこに、実咲がいたの。
“オレは天毬が好きだよ”
どっちも私の知ってる門倉実咲だった。
「高須何笑ってっ」
「くだらないからです」
「くだらない!?」
思えばずっと門倉先生はこんな人だったけど、出会った時からこんな人だった。
こんな人が副担ってどーなんだろって思ってたもん。今はまぁそれなりにあれだけど…
「高須が笑ってるの初めて見た」
目を合わせたら少し照れた。
なんで門倉先生相手に頬赤く染めなきゃいけないの、なんかむかつく。
「そりゃ門倉先生といたら誰でも笑いますよ、しょーもなくて」
「しょーもない!?」
「はい、門倉先生がいつも楽しそうに笑ってるんで…」
うざいくらい元気で生徒から人気のある門倉先生はいつも笑ってて、だからみんなも笑ってて。
明るくなるの、門倉先生の周りがみんなの周りが…それはまるで笑顔の花が咲くみたいに。
“こんな名前、付けたのかなって思った”
何気なく思った、でもそれはきっとそんな意味だったんじゃないかって。
「もしかして、みんなに笑顔の花を咲かせる存在だから“実咲”…!」
これがそうなんじゃないの?そう思いを込めて付けたんじゃないの…お父さんとお母さんが願って付けた、実咲って名前。
バッと門倉先生の方を見た。少し泣きそうな顔で見ちゃったけど、それでも門倉先生は変わらず笑ってて。
「そんな由来だったら嬉しいな」
大きな口を開けて笑ってた、誰よりも楽しそうに。
ねぇ実咲、実咲はどんな未来を描いてた?
どんな大人になりたかった?
私はね、何でも出来る大人になりたい。
だから諦めないよ。
実咲と約束したから。
もう一度実咲に会えたら、またどこかで出会えたら、今度は2人で夢を叶えようね。
私も書いておけばよかったかな、実咲のこと…なんて思ったりして。
「じゃあ学校帰るぞ、高須!」
私はずっと覚えてるから、実咲のこと。
ぼぉーっとして、頭が重くて動けない動きたくない。
だけど何度も私の名前を呼んでる気がして。
誰の声?誰が私を呼んでるのー…?
「高須…!」
パチッと目が開いた。ずっと真っ暗闇にいるみたいだったのに急に明るい世界にびっくりして目を細める。
え、ここはどこ?
「高須、大丈夫か!?」
まだ頭がぼぉーっとして上手く思考が働かない。
ここはどこなの…保健室、ぽいな?薬品の匂いがするし、この部屋の感じはたぶん学校の保健室だと思うんだけど。
「痛いとこないか?大丈夫か?」
保健室のベッドに横になって、布団まで掛けられて寝かされてるっぽい。
でもなんで保健室?保健室に来た記憶なんてないんだけど…私スーパーにいたよね、スーパーで買い物してたの。
今日はチーズフォンデュにしようって実咲と…実咲?
「実咲っ!!?」
がばぁっと勢いよく起き上がった、そのせいでズキッと頭が痛んだ。
「痛…っ」
「急に動くなっ、頭打ったんだから!」
頭打った…?なんで頭打ったんだろ…
あ、階段から落ちたからか。そうだ思い出した、確か学校の屋上から…あれ?スーパーの近くの階段だっけ?どっちだ??でもここは学校、じゃあ落ちたのは屋上の…?
実咲は?
「門倉先生…!?」
パッと目を開けたら目が合った。イスから立ち上がって身を乗り出した門倉先生と目が合った。
それは27歳の、私の副担の門倉先生で。
「高須、俺のことわかるんだな!?」
「え…あ、はい…わかります、けど」
すっごいぐっちゃぐちゃな顔で私を見てる、その顔は不安げで今にも泣きそうなほどに。
「記憶…、あるんだな!?」
「…っ!」
記憶…は、ある。たぶんしっかり覚えてる、門倉先生に屋上の掃除を頼まれてご褒美にってガリガリ君をもらって帰ろうとした時階段から落ちたの。
落ちたんだけど、私の中にあるもう1つの記憶は…
これは何?夢なの?
それにしてはリアルで、何日も何日もとても夢とは思えない日々だった。
ご飯食べたり、眠ったり、出掛けたりして…目の前にいたのは17歳の門倉先生だった。
それは夢?私が勝手に作り出した群像ー…?
「どこか痛むか?」
「あ、いえ…大丈夫です」
若干の痛みはあるけど骨が折れてるとかそんな痛みはなくて、たぶんそこまで大事には至ってない。起き上がれるし話せるし、だからいいとは思うんだけどふわふわとした記憶の交差がイマイチ理解出来てなくて。
本当に夢なのか、それともー…?
「守れなくてごめん、高須」
門倉先生が私に向かって頭を下げた。悔しそうに歯を食いしばって、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せて。
「一緒にいたのに…」
「……。」
門倉先生が腕を掴んでくれた、でもきっと間に合わなくてここにいるんだ。だけど何ともないし、ちょっと体が重いくらいだし。
「良かった、記憶がなくなったらどうしようかと思ったよ」
そう、記憶だってあるから。
落ちる前のことも、それよりも前のことも抜けることなく全部ー…
「俺は階段から落ちて記憶がなくなったから」
え…?
その言葉に息が止まる、思わず見開いた視線の先が真っ白になるようで。
「高須まで記憶なくすようなことになったらどうしようと思ったよ」
え、待って。ちょっと待って。
急に頭の中がぐわんぐわんと回り出す、ふわふわしていた思考回路がハッキリと色濃くなっていく。
「親御さん迎えに来てくれるって言うから、確認しに1回職員室戻るから高須はまだ寝てて」
保健室から門倉先生が出て行く、でも何も言えなかった。返事をすることさえ出来なかった。
階段から落ちたって言ってたよね?
階段から落ちたせいで記憶がないって…
門倉先生が記憶をなくしたのは高校生の頃、それは約10年前の話。
私が会った門倉先生も高校生で、10年前の姿だった。
門倉先生の記憶は階段から落ちたことが原因だとしたら、あの時…
私が階段から落ちた時、実咲はどうだったんだろう?手を引っ張ってくれた実咲はどうなったんだろう?
ということはあれはやっぱり夢じゃない、夢なんかじゃない。だって覚えてる、触れた感触がしっかり残ってる。
「…っ」
ゴクリと息を飲む、静かな保健室でバクバクと鳴る心臓の音に狂いそうになりながら自分の胸を掴むように押さえた。
じゃあもしかして?本当に?
信じられないことだけどあれは…
過去にタイムスリップしてたんだー…!?
門倉先生の記憶は階段から落ちたせいだとしたら、もしかしてそれはー…
昨日は全然眠れなかった。さすがに打ち身くらいはあったけど、それぐらいで特にはなかった。
でもそんなことより、門倉先生のことが気になって。
「……。」
全く授業に集中出来ない、ペラペラと英文が聞こえてるけどちっとも頭に入って来ない。
今は英語の授業中なんだ、聞くしかないんだけど…頭がズキズキと痛むの。何ともないって思ってた頭が、叫んでるみたいにうるさいの。きゅーっと押し潰されそうになるから、あの日のことを思い出すと。
「高須さん、大丈夫かしら?」
頭を押さえながら俯いてたら呼びかけられてしまった、英語の佐藤先生に。
わかってたけど今は授業中、明らかに聞いてなかったのはきっとバレてる。でもちょっと都合よくて、昨日の今日だから私のことを知らない先生はいないから。
「体調良くないの?」
「はい…、あの保健室行ってもいいですか?」
本当はそんなことないんだけど、どうってことなかったんだけど。でも授業を聞いていられるほど強くもいられない。
すぐに出た許可にもう一度返事をして立ち上がった。
後ろから教室を出て、保健室へ…なんて気分にもなれないけど。
とぼとぼと廊下を歩いて、一番奥まで行きついたら階段を下りた。今度は丁寧に、足を滑らせないように昨日のことを思い出しながら。
私が屋上の階段から落ちて保健室に運ばれるまでそんな時間はかかってないはず、だけど何日も何週間も過ごした気がしてる。それはきっと過去に行ってたから、過去で高校生の門倉先生に会ってたから…と、思うの。
つまりは一瞬だけ消えて戻ってきた?その辺の原理はよくわからないなぁ…
だけど全て鮮明に思い出せる、実咲と過ごした日々のことー…
「高須!」
階段を半分下りた踊り場から窓の外を眺めていたら呼びかけられた、下から上がって来た門倉先生に。
あ、やばい心臓がドクンと鈍い音を出す。
「こんなところでどうした?授業中だぞ」
ぼぉーっと外見ちゃってたから言い訳も出来なくて、何て言おうか口ごもってしまったけど私が何も言わなくても今ならどうにかなってしまって。
「…大丈夫か?体調、よくないのか?」
昨日のこと、罪悪感のように思ってるんだと思う。誰より1番心配してくれてるのは門倉先生だから。
「いえ…、そんなことはないですけど」
だけど門倉先生の方は見られなくてじっと窓の方を見て少し俯いた。窓の縁に手をかけて、グラウンドを見るようにして。
心臓がドクンドクン響く、重くて鈍い苦しさを伴うような音がしてる。
どうしよう、何て言えばいいんだろう。聞きたいのに聞けない、聞くのが怖くて。
「高須…どうした?」
声が震えるの、もしそうだったらどうしようって思うと怖くてー…
「高校生の時の門倉先生はどんな人でしたか?」
でも確かめたいことがあるの、どうしても。
「え…いや、だから覚えてないよ?高須も知ってるでしょ、記憶ないんだよ俺」
確かめなくちゃ、すごく勇気の入ることだけど知らなきゃいけないと思うの。
「1人暮らしはしてましたか?」
「1人暮らし?あー…、してたかも覚えてないけどたぶん」
「どんな家でしたか?」
「家!?それはわかんないな~、住んでた記憶ないし事故に遭う前は1人暮らししてたって言われただけだから」
「それは誰に言われたんですか!?」
もしあれが夢じゃないのなら、現実なんだとしたら?
ねぇ実咲は今どこにいるの?
「親戚の人だよ」
聞き覚えのあるその人は、お母さんもお父さんもいないって言ってた唯一の血縁関係のある人。
あんまりよさそうには思ってなかったみたいだけど、それでも実咲にとっての親族になる。それは確か…
「お父さんのおばさん…の子供っていう人ですか?」
そう言ってた、ちゃんと覚えてるよ。
「え、なんで知ってるの?この話誰にも言ったことないんだけど」
不思議そうに私を見る門倉先生の顔を、ゆっくり息を吸って見上げる。1つずつ繋がっていくみたいに、失ったピースが埋められていくから。
「門倉先生はいつまでの記憶がないんですか?」
「え、いつまでって…」
もう気が気じゃいられなくて声は大きくなっていくばかりだった。
「いつ記憶がなくなったんですか!?」
「何?どうした!?そんなこと聞いてっ」
「教えてください!」
どんどん声が大きくなる、吹き抜けの階段はよく響いて気付いたら必死に門倉先生の方を見てた。だけど1番奥まで来てしまったから教室からは遠くてきっと誰にも聞こえていない。
「えー、いつってなぁ…」
「覚えてないですか!?」
「それはさすがに覚えてるけど」
「じゃあいつですか…っ!?」
心の中で手を合わせて祈った。少し困った様子の門倉先生を前にして必死に祈り続けた。
どうか、どうか、その答えがー…
「高校2年の夏かな」
私の記憶と違ったらいいのにって、思ってたのに。
「だから高校生の頃の記憶がないんじゃなくて実際は高校2年生の夏までの記憶がないんだよ」
ゾクゾクと体中が震え始める、まだ暑い夏の日にもかかわらず寒くて急に体温が下がったみたいだった。目の前が真っ暗になる、どこを見たらいいかわからなくて。
「それが、どうかしたか?」
どうせなら夢であってほしかった。全部、全部、私の勝手な妄想で片付けてしまいたかった。
手がふるふると震える、きゅっと握りしめて抑え込んで声を振り絞った。
「…高校生の時に階段から落ちたことが原因で記憶がないんですよね?」
「あぁ、そうだけど」
「それって1人だったんですか?」
「え?」
昨日から考えていた。門倉先生の記憶を失った理由を聞いてからずっと考えてた。
でも考えれば考えるほど恐怖のどん底に突き落とされる。
「誰かと一緒にいたんですか?」
もしかして私のせいですかー…?
「それは…わからないなぁ、覚えてないから」
どうして私は過去へ行くことになったんだろう、それは今でもわかってなくて。
死のうとしていた実咲を食い止めることだって本位じゃなかったの。前の前で死んでほしくない、ただ実咲といたいって願ったからでそのために過去へ向かったわけじゃない。
じゃあ私が過去へ行った意味は?
「何か覚えてないんですか!?どうしてそこにいたとか、何をしようとして階段から落ちたとか!?」
「何も覚えてないよ、事故以前のことだって覚えてないのに」
「思い出してくださいよ!」
「無茶言うなよっ」
だってね、実咲は生きるって言ってた。生きようと思ったって言ってた。
あの時の実咲は自分から死のうなんて考えてなかったはずなの、だから自ら階段の上から飛び降りるなんてしない。そうせざる得なかった何かがあったってことだよ。
「何でもいいんで、何か…っ、何かないんですか?覚えてること…っ」
「…、覚えてることはないけど」
詰め寄る私にふぅっと息を吐いて、静かに口を開いた。
それは門倉先生の思い出したくなかった過去ですか?忘れたい出来事でしたか?
「聞いただけだから詳しくはわからないけど、俺が落ちた階段は…」
それでも私は知りたいんです、聞かない方がよかったかもしれなくても。
「S町にあるスーパーの近くの階段だよ」
それは紛れもなくあのスーパーだった。
実咲と出掛けた、お母さんに会った、あのスーパー、だからそれはきっと私が落ちた階段とおんなじ…
「それぐらいしか事故のことはわからないんだよ、誰も見てなかったみたいだし偶然通りかかった人が倒れてる俺を見付けて救急車呼んでくれたみたいで…」
ドクンッと大きな鉄槌でも落ちて来たみたいだった。息が苦しいどころじゃない、息の仕方がわからなくなってハァハァと呼吸が荒くなる。
「高須?」
一気に溢れ出す、重くて苦い涙が胸をえぐってボロボロと落ちていく。
「どうした…!?」
そうだったんだ、そうゆうことだったんだ。
そんなこと思ってもみなかった、私の行動がこんなことになってるなんて思ってなかった…門倉先生の記憶がないのは私のせいだったんだ。
「…っ」
私がっ、ちゃんと前を見ていなかったから…気を付けろって言われたのにわかってなかったから、自分のことでいっぱいいっぱいで周りのことなんて見てなくて、だから…っ
私が門倉先生の記憶を奪ってしまった。
「高須、どこか痛いのか!?どうしたんだ?昨日の痛みがまだっ」
私のせいだよ、私が悪いんだよ…!
門倉先生の記憶がないのは私のせい、自分勝手な私のせいだ…っ
「門倉先生っ、ごめ…っ、ごめんな…さいっ」
「なんだ!?どうして高須が謝るんだ?」
「ごめんなさい…っ」
「どうしたんだよ、なんで泣いて…っ」
押し寄せて来る罪悪感と絶望が胸を締め付ける。嗚咽交じりの声で先生にすがりついて謝っても、そんなの意味がなくて。
謝っても何の意味もない、どうしようもない。
だって門倉先生には記憶がないんだ。私が一緒にいたことさえ覚えてないんだ。
「高須…?」
門倉先生の記憶を奪ってしまった。私の身勝手で門倉先生の人生を変えてしまった。
最悪だ最低だ。
過去まで行って何してるんだ。
こんなの門倉先生の人生をめちゃくちゃにしに行っただけじゃない…っ
ずっと消えてなくなりたいと思ってた。
いっそのこと消えてしまえたらいいのにって思ってた。
だけど消えたところで、門倉先生の記憶が戻ってくるわけでもないんだ。
私はなんてことをしてしまったの?
****
「天毬、天毬!」
ドアの向こうからお母さんが呼んでる。
ドンドン叩く音と叫ぶ声が部屋に響いて、だけどずしんと重い体は起き上がることが出来なくて。鉛のように重たい、布団にくるまって顔を出すことさえも億劫だ。
今日も学校を休んでしまった。今日で何日目だったかな、それももうよくわかんないや。
でも力が入らないの、ぐわんぐわん頭が回って気持ち悪い。
“明日も元気に学校来いよ!”
門倉先生に会うのが怖くて、どんな顔で門倉先生に会ったらいいのかわからなくて…今日も学校へ行けなかった。
さらに布団の中に入り込んだ、震える体を無理やり閉じ込めるように。
どれだけ泣いても涙が止まらない、私が泣いていいことでもないのに…止まらないの。
どうしてこんなことになっちゃったのかな?なんであんなことしちゃったのかな?
私、どうしたらいいの…
「天毬、門倉先生見えてるわよ」
え?門倉先生…!?
がばっと勢いよく体を起こして布団を剥いだ。ベッドの上から慌ててドアの方へ…と思ったけど、私の部屋には鍵がついてる。こっちからじゃないと開けることが出来ない、だから勝手に開けれることはないけど。
「天毬、…天毬が何日も学校休むから門倉先生が心配して来てくださってるよ」
……。そんなの、しないでいいのに。しないでください、私のことなんか…あ、また涙が。ぎゅーって締め付けられて押し出される。
今門倉先生のことは、私…っ
「高須、大丈夫?」
…!
穏やかで優しい声が、ドア越しに聞こえた。だけどその声が余計に胸に刺さる。
「ごめん高須」
どうして?
「怖い思いさせて…俺がそばにいたのに高須のこと助けられなかったから」
どうして門倉先生が謝るんですか?
「本当にごめん」
謝らなきゃいけないのは私の方なのに、でも謝っても謝っても足りないよ。
ねぇわからないよ。こんなことになるなんて思わなかった、こんなはずじゃなかったよ。
あの日の私はこんなんじゃなかった。
私、嬉しかったんだよ。嬉しくて、嬉しくて、少しだけ自分を好きになれた気がした。
自分でいいんだって思えたの、それは…実咲がいたから。実咲がいてくれたから。
でもそれがいけなかったの?そんなこと思ったから?
「高須、学校来てよ」
私が実咲とずっといっしょにいたいって願ったから?
「高須に会いたいよ」
そんなこと叶うはずなかったのにね。叶えられるはずなかったのに…
全部私のせいだ。私が悪いんだ。
とめどなく溢れてくる涙が苛立って仕方ない。
「…私は会いたくないです」
それでも、会いたくて。
こんなこと願っちゃダメだってわかってるのに、わかってるけど…実咲に会いたい。もう一度、実咲に会いたい。
会いたいよ、実咲…!
どこを探しても未来に実咲はいない。
実咲の存在を消してしまった。
もし、あれがなかったら今頃実咲は…
****
「天毬!今日は…学校、行くの?」
久しぶりに制服に袖を通した、ずっと部屋に引きこもってたから髪の毛を整えるのも久しぶりでちょっと苦戦してしまった。
「うん、そうしようかなって」
コクンと頷いたらお母さんが嬉しそうに笑った、笑ってた、そんな顔も久しぶりだった。
そんな風に笑ってくれるんだって、思ったりして。
「じゃあ、いってきます」
スクールバッグを肩に掛けて家を出る、学校へ行くため…のフリをして。わざと学校へ行くフリをした、本当は学校なんか行くつもりないのに少し気になったから見てみたくなって。
10年後の未来はどうなってるのかなって、見てみたくなった。実咲の住んでたアパートは、どうなってるのかなって。
「……ない、か」
この辺はあまり来たことがなかったから、あまり想像がついてなかった。
だけど、10年前であのボロボロ加減だったもんね10年後の未来で残ってるわけないよね。
いつどんな風にしてなくなったかわからないけど、今ここにあるのはおしゃれなカフェだった。コーヒーのいい香りが外まで漂ってる、アパートの面影なんて一切ない。
町も人も何もかも変わってる、もう実咲がいた頃のここじゃない。どこにも実咲が生きてた証がないみたい。
誰か覚えてるかな、実咲のこと。
“ずっと1人だったから”
覚えて…
ねぇ実咲、どうして私たちは出会ったのかな?
その答えを実咲は知ってるの?
知ってるんだったら、教えてよ。
****
どこに行けばいいのかわからなくて、思い出を探すみたいに。
どこにもいないのに、いるはずないのに…実咲と初めて笑い合ったあの場所で実咲のことを思いながら、動かなくなった体を抱えてた。
どうすればいいのか、考えても考えても今はもうガンガンと響く頭を支えるので精一杯だ。
ずっとここにいようかな、ずっとここにいたら迎えに来てくれるかな?
そんなこと絶対ありえないよねー…
「高須!」
呼ばれた声に顔を上げる、少し視線を向ければ息を切らしながら走って来たから。
「高須、こんなとこで何やってるんだよ心配するだろっ」
ハァハァと肩で息をして、額から流れる汗を拭いた。必死な表情を見ればわかる、わざわざ私を探しに来たんだと思った。
「こんな河川敷の土手で…」
でも、私は…
ちょこんと三角座りをしたまま、スッと川の方へ顔を向けた。わざと視線を外すようにして。
「高須のお母さんが、今日は学校に行くって言ったけど気になったからって学校に電話してきて…っ、でも高須来てなかったから!」
まだハァハァ息をしてる、どれだけ走って来たんだろう。学校は?授業は?あったんじゃないの?知らないけど。
「あ~…っ、見付かってよかったよ」
はぁーと大きく息を吐いてしゃがみ込んだ。そんなに必死にならなくても子供じゃないんだから、高校生なんだから、ちょっと帰って来ないくらいどうってことないでしょ。
そんなの全然大したことなくて、ちょっと外に出るくらい別に…っ
「お母さん、心配してるよ」
前を見ていた視線が、下に落ちる。膝の上に顔を伏せてきゅっと目を閉じた。
「お母さん、心配になってお父さんにも連絡しちゃったって」
穏やかな声が耳を刺激して、瞳がじわっと熱を帯びる。
「そしたらお父さんもすぐ帰るって…」
なんで今そんなこと言うんですか?どうしてそんなこと言えるんですか?
「高須のことちゃんと思ってるよ」
私が1番言ってほしかった言葉を。
「高須は1人じゃないよ、大丈夫だから」
ずっとずっと不安だった。私がいない方がいいんじゃないかって思ってた。
上手く笑えない私なんか、邪魔なだけだと思ってた…でも本当はね、私だって一緒に笑いたかったよ。
「先生だって…っ」
声を荒げる、そうしないと声が出せない気がして。
「1人じゃなかったです…!」
涙でぐちゃぐちゃの目で見つめる、ぼやっとしか見えない表情はどんな顔をしてるのかわからない。
やっぱり子供なのかな、こうやって泣きじゃくることしか出来ないんだ。子供だから、私…っ
「高校生の先生だって1人じゃなかった…っ」
まだまだ暑い夏、あの夏よりも未来は日差しが強い。きっと川の水だって生ぬるい、実咲と遊んだ川は気持ちよかったけど。
「あの日他にもいたんです、隣に女の子が…いたんです!」
ここにはそんな気持ちいい川も実咲もいないから。
「その子のせいで門倉先生は…っ」
全然、全然、ないから。
「記憶を失ってしまったんです」
何もないよ、あの記憶も全てないんだよ。私が奪ってしまったから門倉先生の記憶を、17年もの記憶を門倉先生から実咲から消してしまった。
両手で顔を覆って、ひくひくと声を殺して泣いた。泣く資格なんてないのに絶えずこぼれ続ける涙は重くて冷たくて震えが止まらなかった。
なんてことをしてしまったんだろう、こんなこと許されはずない許されちゃいけない。私がしたことはそれだけ門倉先生の人生を変えてしまったんだから。
私だけが未来を生きていくなんて出来ないよ、笑って生きていくなんて出来ない。
私が門倉先生の未来を奪ってしまったからー…
「その子は無事だったのかな?」
ふわっと包む込むような優しい声が、私の中に入ってきた。ぽろっと一粒の涙がこぼれて、少しだけ視界がクリアになったおかげで門倉先生の表情がよく見えた。
じぃっと私を見つめて、私の返事を待つみたいに。
「その子は…無事、でした」
静かに口を開いて答えた、震えそうになる唇を必死に落ち着かせながら。ドクンドクン響く胸の音が体中に響いて苦しい。
だってこんなの聞いたら門倉先生はー…っ
「よかった」
にこりと笑った、温かい表情で私に微笑んだ。少し目を細めて、ふんわりと弧を描くような口元は全てを悟るみたいで。
そんな顔、学校では見たことなかった。
だけどそれも門倉先生らしい表情をしていた。
ふぅっと息を吐いて私の隣に座る。草が生える河川敷の土手にべたっと腰を下ろして川を眺めるように前を見た。
「俺の両親ね、事故で亡くなったんだ」
それは10年前、実咲から聞いた話だった。
「それも覚えてないんだけどさ、車に乗ってる時…相手の飲酒運転でね」
そうだったんだ、事故とは言ってたけど詳しい話は聞いてなくてなんとなく聞かない方がいいかと思ってたから。門倉先生からその話を聞くなんて。
「俺だけ助かったんだよ」
え…?門倉先生だけ、助かった…?
それは初めて聞く話だった。実咲はそんなこと一言も言ってなかった。そんな話私には教えてくれなかった。
実咲はずっと抱えてたの?そんな思いを1人でずっと背負い込んで、生きて来たの…?
あ、どうしようまた涙が止まらなくなる。
一緒にいたのに、隣にいたのに。もっと実咲のこと、私…っ
「だから目の前で何か起きるなんて嫌だったんじゃないかな」
ふっと声を漏らしながら私の方を見た。
「覚えてないけど本能的にそう思ったんだと思う、その子を守りたかったんだと思うよ」
「……。」
そんなの、わからない。ねぇ実咲、わからないよ。
実咲はそれでよかったの?
「もう大切な人を失いたくなかったんだよ」
実咲はずっと寂しそうだった。苦しそうだった。生きていくことを諦めて、それでも毎日必死に過ごしていた。
なのに、どうして?
「だからその子が元気だったらいいよ」
門倉先生は笑えるんですか?なんで笑うんですか、全然笑えないです…笑わないでください、お願いだから。
私の涙は止まらなくなるから。
だってこれでいいはずない、いいわけないんだよ。
私に出来ることはないの?私じゃ何も出来ないの?
ねぇ実咲、もう一度名前を呼んでー…
「“てまりちゃん”が元気だったらいいよ」
門倉先生と目を合わせた。そんな呼び方、門倉先生は絶対にしないから。
「え、どうして名前…」
「ノートに書いてあったんだよ」
“書いといたら思い出せるし”
ノートに書いてあった…?
ふと思い出した、何気なくラクガキをして遊んでいただけだったあの数学のノートを。
「“ガリガリ君交換”ってよくわかんないメモもあったけど」
「……。」
書いてた、なんならそれ一番最初に書いてた。
そっか、実咲の記憶はなくなってもあのノートは存在してるんだ。
他に何書いてたっけ?実咲が好き勝手書いてたノートだから…
「俺はどうやら“てまりちゃん”のことが好きだったらしいんだ」
…っ!
ぼんっと顔が熱くなる、ただでさえ泣きじゃくってぐちゃぐちゃなのに、そんなこと思い出させないでよ恥ずかしい。しかもそれを門倉先生に言われるって。
「だから守りたかったんだよ」
一度瞬きをした門倉先生は真っ直ぐ遠くを見つめ、凛とした瞳は前を見ていた。実咲とはどこか似ていて、どこか違う。
そんな瞳の色、実咲はしてなかった。
「それにね、俺は事故にあってよかったって思ってて」
「え…、どうしてですか?」
少しだけ視線を落とした、ほんの少しだけ。
「俺ね、高須にはあんなこと言ったけどずっと死にたいって思ってたんだよね」
ずしんと胸に響く、重くて苦しいあの感覚が蘇ってくる。実咲の思いが、伝わってくるみたいで。
「まぁそれも今となっては覚えてないんだけど!」
「……。」
門倉先生はケラッと笑ってたけど。何もおもしろくないのに楽しそうにケラケラ…だけどこれが私の知ってる門倉先生だ。
「親戚に言われたんだよ~、めちゃくちゃ暗くて怖かったって!こいつ死ぬんじゃないかってずっと怖かったらしいよ」
いや、だから。なんでそんな笑って話せるんですか、意味わからないんですけど。
それって笑っていいことなの?実咲はこれでいいの、ねぇ…
「だからね、親戚も距離取ってたらしくて」
…!それは…実咲が言ってた、けど。
距離を取ってるとは言ってなかった、あんまりいいようには思ってなかったしたぶん実咲も思われてなくて。
「事故に遭ってからのが明るくていいって」
それは未来が変わってるみたいだった。
「…仲良いんですか?親戚の人と」
「うん、たまにご飯とか行くぐらいね」
あの頃じゃ想像できなかった未来だった。
事故に遭ってからのが明るくていいなんて、記憶を失った人に言っていいのか私にはわからないけどそんな風に明るい声で話す門倉先生がいるのは今の門倉先生を見てる人がいるからで。
あの頃の実咲にはなかった、実咲にはできなかった。
実咲はこんな未来を望んでたのかな?誰かと一緒にいる未来をー…
「俺、今の人生楽しいんだよね」
そうやってふっと笑った門倉先生は気付けば顔を上げて空を見てた。澄み渡るような青くて眩しい空を、愛おしそうに。
「だからこれでいいだよ、記憶がなくて可哀想っていう人もいるけど俺はこれでよかったんだよ」
もし実咲がここにいたら門倉先生には会えなくて、今目の前で笑う門倉先生はいなかった。
実咲に会いたかった、未来でも実咲と会いたかった。
「事故に遭う前の俺も今の俺も変わりなく俺だから」
だけど私ね、門倉先生にも会いたかった。
「だって生きてればいいことあるだろ?」
許されるなんて思ってない。
だけど、笑ってくれる門倉先生がいてくれて私はまた救われた。笑ってくれる門倉先生がいたから、また顔を上げられる気がした。
今ここに少しでも明るい未来があるのなら、生きていてくれるのなら。未来にいてくれるのなら。
実咲にもう会えなくても、私は実咲のことー…
「でも1つだけ心残りがあってさ」
目を伏せた門倉先生が少しだけ寂しそうな顔をした。ずっと笑ってた門倉先生には似合わない表情で、息を吐いた。
「“てまりちゃん”は今どうしてるのかな?」
それは胸に刺さる痛みがあった。
「一度も会いに来てくれたことはないし、どんな子なのかもわからなくて…」
会えるはずないから会いに行けなくて、会いたくても会えない。
門倉先生も会いたいと思ってたんだ。記憶にない“私”と。
「会いたいよね、てまりちゃんに」
風が吹く、生温かい。髪の毛が揺れて顔にかかる。門倉先生の横顔を見つめながら。
「てまりちゃんは何でも出来る高校生になるのが夢だったらしいのね」
「……。」
“何でも出来る高校生になる!”
やばい、それは思い出したくなかったかも。何言ってんの私、すごい恥ずかしいんだけどあのノート恥ずかしいことしか記録してないんだけど。いっそのこと捨ててほしかったよ。
「そんな高校生になってるといいよね」
私の方を見た門倉先生がにこっと笑った。
「あ、もう大人か」
「…そう、ですね」
「そんな大人になってるのかな、てまりちゃんは」
「…。」
まだまだそんな大人にはなれてなくて、そんな高校生にもなれていない。
何でも出来る高校生ってなんだよって思うけど、そんな風に…なってるといいよね“てまりちゃん”が。先生の中での“てまりちゃん”はそうであってほしいよね。
私もそんな風になれるのかなー…?
「高須と同じ名前の“てまりちゃん”」
「え…」
「だから高須に笑っててほしい」
「…っ」
にこっと目を細めて大きな口を開けて笑う、それは子供みたいに無邪気で“先生”とは思えなくて。
「てまりっていい名前だな」
胸がきゅーっと締め付けられて熱くなるの、今ここに実咲がいる気がして。実咲が笑ってるみたいで、胸がいっぱいになる。
ぽろぽろこぼれ落ちる涙は実咲への想いで満たされていくから。
「ちなみに“てまりちゃん”は“先生”のことが好きだったらしいんだよね」
右手で口を隠してこそっと私の耳元で教えてくれた、すっごいいらないてまりちゃんの情報。
本当にあのノートはロクなことが書いてない。なんでそんな余計なことばっかり書いたかな、それも実咲が勝手に書いたやつだし全然違うしそうゆう意味じゃないし。というかそれは…っ
「だから先生になっちゃった」
ニカッと歯を見せて笑う門倉先生が嬉しそうだったから。
「え…?」
だから先生になったって、それは…?
「記憶失ってさ、高校2年生までの自分がわからなくなって迷ってたんだけどね…何がやりたいとか何になりたいとか、そうゆうのも全部忘れちゃったからね」
……。そうだ、きっとよかったことばかりじゃない。今は笑ってる門倉先生でも絶対たくさん悩んだはずだ。
「だから先生になってみようかなって!」
「……。」
「思い切って先生になってみた!」
「…あの、前後の文章が繋がりません」
突然過ぎるんだけど、だからの接続詞あってる?なんでそこで先生になろうと思ったのか私にはまったくわからない。
「てまりちゃんの好きな人に対抗してみようかなって!」
「…。」
は?
やっぱり聞いてもよくわからない理由だったのに門倉先生は満足げに笑っていた。そんなめちゃくちゃな理由で先生になるって何、それでよかったの門倉先生の人生は…
「高校生の俺だったらさぁ、そんなこと言われたら悔しいと思うんだよ!絶対振り向かせたいって思うと思うんだよな~!」
いや、本当に何言ってるの?そこと張り合ってどーすんの?
「だからいつかてまりちゃんに会った時、そんな話が出来たらいいなぁって思ってね」
呆れたのに、くだらなくて。
なのになぜか瞳の奥にぶわっと熱を帯びて熱い痛みが刺激するから。
もう散々泣いていい加減涙だって乾いて…、って思ったんだけどなぁ。
今すごく嬉しかった、嬉しかったの…
私の中に実咲がいるように、門倉先生の中にも私がいて。
それは心の奥に眠る実咲がいるみたいな。
また涙がこぼれ落ちる。ぽろぽろ、ぽろぽろ、こぼれて…今までの涙と違う、真っ暗だった私の心を明るくしてくれるようで。
でも不思議なんだ、泣いてるのになぜか声が漏れちゃうから。
「高須?」
「…ふっ、ふふっ」
「え、笑ってる?」
「ふふふっ」
「笑ってる!?」
泣きたいのか笑いたいのか自分でもわからない、でも門倉先生がいたから。そこに、実咲がいたの。
“オレは天毬が好きだよ”
どっちも私の知ってる門倉実咲だった。
「高須何笑ってっ」
「くだらないからです」
「くだらない!?」
思えばずっと門倉先生はこんな人だったけど、出会った時からこんな人だった。
こんな人が副担ってどーなんだろって思ってたもん。今はまぁそれなりにあれだけど…
「高須が笑ってるの初めて見た」
目を合わせたら少し照れた。
なんで門倉先生相手に頬赤く染めなきゃいけないの、なんかむかつく。
「そりゃ門倉先生といたら誰でも笑いますよ、しょーもなくて」
「しょーもない!?」
「はい、門倉先生がいつも楽しそうに笑ってるんで…」
うざいくらい元気で生徒から人気のある門倉先生はいつも笑ってて、だからみんなも笑ってて。
明るくなるの、門倉先生の周りがみんなの周りが…それはまるで笑顔の花が咲くみたいに。
“こんな名前、付けたのかなって思った”
何気なく思った、でもそれはきっとそんな意味だったんじゃないかって。
「もしかして、みんなに笑顔の花を咲かせる存在だから“実咲”…!」
これがそうなんじゃないの?そう思いを込めて付けたんじゃないの…お父さんとお母さんが願って付けた、実咲って名前。
バッと門倉先生の方を見た。少し泣きそうな顔で見ちゃったけど、それでも門倉先生は変わらず笑ってて。
「そんな由来だったら嬉しいな」
大きな口を開けて笑ってた、誰よりも楽しそうに。
ねぇ実咲、実咲はどんな未来を描いてた?
どんな大人になりたかった?
私はね、何でも出来る大人になりたい。
だから諦めないよ。
実咲と約束したから。
もう一度実咲に会えたら、またどこかで出会えたら、今度は2人で夢を叶えようね。
私も書いておけばよかったかな、実咲のこと…なんて思ったりして。
「じゃあ学校帰るぞ、高須!」
私はずっと覚えてるから、実咲のこと。



