ノートをとじたら、キミに会える夢を見て。

びっくりするぐらいよく眠れた今日、昨日に引き続き休みの日曜日に門倉は何するのかなってじーっと見てみたけど微動だにせずステンレス製の流し台の前でぼぉーっと歯磨きをしていた。
もう5分くらいしてるけど何分するつもりなんだろ、てか私が見てることに気付いてる?無心に歯を磨いて、ずーっと前を見てるから…

「なんだよ」
「え?」
「見過ぎ」
「あ、気付いてた?」
「気付くだろ普通」

コップに水を注いで口をゆすいで、一連の流れを見といてあれなんだけど別にこれと言って用もなくて。何かしたいとか何かしようとか思うこともないし…

「ねぇ門倉」

下を向いて、ふぅっと息を吐く。
元の世界へ帰る方法だって見付けるべきなのかも、よくわからない。

「どっか遊びに行かない?」
「はぁ!?」

タオルで顔を拭いた門倉がしかめっ面でこっちを見た。
基本無表情だけどそんな顔も出来るんだと思ったり、まぁ私も何言ってるんだとは思ったけど。

「案内してよ」
「なんでだよ」
「なんか暇だから」
「暇じゃねぇーよ、ふざけんな」
「暇じゃん、5分も歯磨きして暇じゃん!」

かといって、ずっとこの世界にいるのも違うと思うから。
たぶん、それは違うのかなって…だからせめて外にぐらい出ようかなって。何か知ってるものがあるかもしれないし、見付かるかもしれないよね。

「つーか案内ってなんだよ、なんでオレが」
「私この辺の住んでないからわかんない」
「嘘つけよ、同じ学校だろ」

…確かに、制服一緒だもんねあの学校の生徒ってことはバレてる。そうなんだけど私があの学校に通うのは今から10年後であって、ここにいる私に今の土地感覚はあんまりない。
でもなんとなく1人で行くのはもう嫌なんだもん…

「まぁ、いーけど」
「え、いいの!?」

他に何て言えばいいかなって視線を下に向けた瞬間、門倉から返事が返って来たから思わず顔を見ちゃった。そんなあっさりいいって言われると思わなくて。

「別に、暇だから」

…そっか、暇だから。
いいんだ、暇だから…それはちょっとよかったって安心した、なぜか。

「じゃ、じゃあ門倉どこか連れてってよ!」

さすがに今日は門倉の服を借りた。ひょろひょろな門倉とはほとんどサイズが変わらなくて、門倉のが10センチも背が高いのにそれはちょっと癪だった。

どこかに連れてってくれるっていう門倉のあとをついて外へ出る。
どこに連れてってくれるのかな、門倉のよく行くところってどこだろう?門倉先生ならカラオケとかボウリングとか好きそうな感じするけど…

「って、川…!!!」

河川敷の川、に連れて来られた。
え、川?門倉って案外アクティブなの??でもそんなことより…

「ここってこんなにキレイな川だったんだ!」

それにちょっとびっくりした。あっちだと5年前の台風で川岸が崩れちゃって立ち入り禁止だったから、でもそういえば子供の頃はここにも遊びに来てたよね。
向こうの世界はどこもかしこも立ち入り禁止で、こうやって川に入るのなんて何年ぶりだろう?小学生以来かな、小学校2年生ぐらいの時は遊んでた気がする。
お母さんに連れて来てもらって遊んだなぁ、懐かしい。
ズボンの裾を折って靴下を脱いで、素足で一歩一歩川の中へ進んでいく。
おぉ、水が冷たい。こんなに冷たかったんだ川の水って…

「…これの何が楽しいんだ?」

同じく川の中に足を入れた門倉が眉間にしわを寄せて聞いて来た。全然自然を楽しむ顔してない。

「何が楽しいって門倉が連れて来たんじゃん」

そんなの私だって思ってるし、今川の中に入ってもちっとも楽しくないし。ただ冷たいなって感想しか出て来ないし。
でも門倉が連れて来てくれたから一応足くらいは浸かろうかなって…

「近かったから」
「……。」
「他に思い浮かぶとこなかったし」
「妥協案過ぎるんだけど」

意外とは思ったよ、無機質な門倉に川って発想あったんだって思ったよ。
連れて来られたから懐かしいって気持ちで入ってみたけど楽しさは見い出せないし、ただ足を川に浸けてるだけだもん。ふと我に返ったらむなしくなるくらい。

「川って何して遊ぶの?」
「オレに聞かれても」
「だよね」

なんなら門倉のが知らなそうだもん、門倉先生ならたくさん知ってそうなのに。
ただこうしてるだけで大きな口を開けて笑ってそうだし、水が冷たいってだけでバカみたいに笑ってそうだよ。そんな門倉先生はここにはいないけど。

「あ」

何かを見付けた門倉がそろっと近付いていく、下を見ながらゆっくりと進んで。なんだろうと思って門倉の方を見るとおもむろにしゃがみ込んだ。
そぉっと手を伸ばしたかと思えば勢いよく水の中に…

「手づかみすんの!?」

魚捕まえてた。何の魚かわかんないけど、10センチくらいの魚を両手で掴んでた。
これ見よがしに私に魚を見せてくる。そうゆうことは出来るんだ、めちゃくちゃアクティブじゃん躊躇なく魚を手づかみって…

「あっ」
「あぁっ」
「…っ」
「門倉っ」

―びっしゃぁぁぁ

そんでもって思いっきりすっ転んだ。掴んだ魚の生きの良さに負けてツルっと手も足も滑らせた。

「何してんのっ、大丈夫!?」
「……。」
「門倉…」

無言で門倉が立ち上がる、のそのそと水の中からびちゃびちゃになった姿で。
それはもう派手に転んだから、膝下ぐらいの水位しかなかったしそんな深かったわけじゃないけどばしゃぁっとこっちにも水がかかるくらい思いっきりやっちゃったから…

「ふっ」

あ、やばい。声が漏れちゃった。
でもこれはだって…

「ふふっ」
「……。」
「あははははっ」
「…おい」

あーーーっ
やば!今の何!?笑いが止まらないんだけどっ

「ははっ、ふふっ、あはははっ」
「笑いすぎだろ」

だってだって…あんなドヤァって顔した門倉笑うに決まってる。
魚捕まえて自信満々にドヤァって私にアピールしてくるんだもん、どんだけ嬉しかったのその魚は。
あんなに川の何が楽しいかわからないって言ってたのにすっごくいい顔してたんだもん、そんな門倉あまりに似合わな過ぎて。
私も手を伸ばした、両手で水をすくってそのまま勢いよく門倉めがけて水しぶきを飛ばした。

「お前っ、何すんだよ!?」

門倉にかかるように、すでにびっちゃびちゃの門倉だったから大してダメージないぐらいの水の量だったけど。

「なんかイラッとしたから」
「笑ってたじゃねーか!」
「ドヤ顔なんかむかついた」
「ふざけんなよっ」
「あっ、何する…っ」

今度は門倉が私に水をかけた。しかも私よりいっぱい、私がやったのよりいっぱい。
一気に服の色が変わるぐらい濡れた。

「ちょっと何すんの!」
「お前が先にやったんじゃねーか!」
「そっちはもう濡れてんじゃん!」
「……。」
「無言でかけてこないで!!」

門倉が水をかけてくるから私も仕返して、私がかけたら今度は門倉がやり返して。びしゃびしゃと水が舞う、10年後の世界より冷たい水はかかるたび気持ちがよかった。

「顔はなし!ノーカンだよ!」
「何のカウントだよ」
「ドッジでもそうじゃん」
「別に試合してねーよっ」

川なんか来て何するんだろって思ってた。
何が楽しいんだろうって…だけど、気付いたら笑ってた。私も門倉も、声を出して笑ってた。
何が楽しいわけでもないのに、ただ水をかけあってあーでもないこーでもないって言いながらびちゃびちゃになって笑ってた。

なんだかね、本当に楽しくなってきちゃったの。
ただこうして2人でいることが楽しくて、それだけだったのに。

そんな顔で笑うんだね、門倉は。
それは少し見覚えのある顔で、だけどどこか違った。意外といい顔してるじゃん、なんて思ったりして。

「あ、天鞠危ないっ」

水を掛け合うのに夢中でちゃんと足元を見てなかった、だから岩場で足を滑らせてしまって。ゆらっとバランスを崩した、だけどその瞬間伸びて来た手が私の腕を掴んだから。

「あっぶな」
「…あり、がと」

全然ご飯食べてないのに、ひょろひょろなのに、私でも支えられるって思ったのに…そんな強い力なんだ。
がしっと掴まれた手はちゃんと男の子の手で力だってあった。
だけどそれでびっくりしたわけじゃない、掴まれた腕よりも急に名前を呼ばれたことに反応しちゃってドキッて心臓が疼いた。

「気を付けろよ、ここ石多くて危ねぇーから」

あ、なんだろこれ…なんかやばい気がする。顔が急に熱くなる、こんなに水は冷たいのに。

「天鞠まで転んだら大変だ」

ドキドキ、心臓がうるさい。
水の滴る髪の毛に、透けたシャツ、私を呼ぶ声に見つめる瞳…真っ黒だと思ってた瞳がキラキラして見えて。
さらさらと流れる川のせせらぎが妙に静かだった。

門倉先生と同級生だったらこんな感じなのかな?
こんな風に騒いで、はしゃいで、笑って。
見つめ合った瞳と、風を感じて。

もし、門倉先生と同級生で同じ高校生だったら…

「実咲」

私も名前で呼んじゃったりするのかな。呼んだことのない、下の名前で。

「ん?」

たったそれだけ、一言にも満たない。
それなのに、ドキッって心臓が掴まれたみたいに奥から音を出したから。かすかに微笑んだ、その顔に。

「あっ、実咲ってかわいい名前だね!」

咄嗟に呼んじゃったから何か言わなきゃって、誤魔化したくて聞いたつもりだった。だけど、スッと視線を下に向けたから。

「…ごめん。嫌だった、よね?」
「……。」
「違うの!本当にっ、いいなぁって思ったから!だから…っ」

かわいい、なんて言わない方がよかったよね。
きっと10年後の世界なら今よりはもっと理解あるというか、ジェンダーレス的なあれで誰もそんなに言わないって…

「ごめん」

門倉が目を伏せたから、悲しい顔をしたから。そんなに嫌だったんだと思って。
男の子にしては珍しい名前かもしれないけど、でもかわいい名前だし…あ、かわいいがいけないんだよねその言い方がよくないか。

「あ、でも私“天毬”だよ?お寿司みたいってすごい言われたし!」
「そうだな」
「納得しないでよ!励ましてんだから!」

家庭科の授業で手毬寿司を習ってから小学校でのあだ名はお寿司だった。
あ、嫌なこと思い出しちゃった。今思い出してもこれは嫌な思い出…

「別に嫌とか思ってねぇから」
「え、そーなの?」
「思ってねぇよ、名前とか何でもいいし」
「……。」

そうかな?それはよくない気がするけど、名前って大事じゃない?だって誰かに呼ばれる時、必ず必要になるものでしょ。

「ただなんで…こんな名前、付けたのかなって思っただけ」

聞いたら、ダメなのかな?お母さんとお父さんのこと。
それは良い思い出なのか悪い思い出なのか、聞いても…

「あのね、“天毬”はお母さんが付けたんだけど縁を結ぶって意味で良い巡り合わせに恵まれますようにって付けたんだって」

毬は長い糸を使って作られるからそんな意味があるってお母さんが言ってた、だからお寿司なんて言われて悲しかったんだよね。私にはちゃんとした名前があるのにって、お母さんが付けてくれた名前があるのにって。

「だから実咲にもあるよ、名前の意味があると思う」

両親の思い出がどんなものかわからない、だけど名前があるってことはきっと愛されてたと思うんだ。

「実咲っていい名前だと思うもん」

だって名前は1番最初にもらえるプレゼントだから。

「だから別に嫌とか思ってねぇっつの」
「実って花が咲くとか!いい感じのあるよ!」
「適当言うなよ、まんまじゃねぇか」

あると思うよ、きっと素敵な意味が込められてる。将来を祈って付けられた名前だよ。
そんな風に生きてほしいって願いが込められた、愛だと思うんだ。

気付けば落としていた視線が私の方を見ていた。
だから目が合ってしまって…笑ったの。
私を見て、笑ったの。
その瞳はやさしくて、やわらかい表情に私の心臓はひたすらにドキドキして。
顔が熱くなる、赤くなって恥ずかしい。
胸がいっぱいだ。どうしてかな、嬉しいって思ってしまった。
私の言葉で笑う、実咲を見たら。


****


すっかり遅くなってしまった。日の入りが遅い夏のはずなのに、よくもまぁこんな暗くなるまで遊んでた子供みたいに。濡れてた服もすっかり乾いてた。

「あれ?」

玄関のドアを開けて中に入った実咲が電気をつけようとしたけどつかなかった。何度パチパチ押してもつかない、日が暮れたこともあって部屋の中は真っ暗でほとんど見えなくて。

「どしたの?」
「いや、電気がつかなくて…」
「なんで?昨日はついてたじゃん」

私もパチパチ押してみたけどやっぱりつかない。
停電?にしては隣の部屋は明るいし、ここまで来るのに街灯だってコンビニだって電気はついてた。実咲の部屋だけ電気がつかないって…少し考え込んだ実咲がハッとした顔で私を見た。

「やべ、電気代払うの忘れてた!」
「え!?そんなことあるの!?」

払うの忘れたって、じゃあ電気が使えないってこと?てことはこの真っ暗闇のまま…

「まぁいいか」
「よくないでしょ!」

なんでここで謎の順応性を見せるかな、いいわけないでしょ普通に困るでしょ。
電気がなかったら冷蔵庫も電子レンジもテレビも…あ、テレビはなかった。でも冷蔵庫は…ガリガリ君の当たり棒しか入ってなかったかもしれない。
え、じゃあいいのかな?特に心配するようなものは…いや困るよね!?冷房使えないんだよ!
でもなくても平気なくらいそこまで暑くもないけど。

「ねぇ電気代ってどうやって支払うの?」
「引き落とし」
「じゃあ引き落とされてないってこと?」
「残高がないんだろ」

残高がない?って、どうゆうこと?え、待って待って…

「実咲ってバイトしてる?」
「してない」
「株やってる?」
「やってねーよ」
「NISAとか…」
「は?」

まずここに疑問を持つべきだったかもしれない。
私も自分のことで精いっぱいで何も考えてなかったから、ただ居候させてもらえればそれでいいと思って気にもしてなかった。
実際は、おかしなことばかりなのに。

「この部屋って誰がお金払ってるの?」

両親のいない実咲がどうしてここに住んでるのか、高校生じゃあアパートは借りられない。大人の同意がなければ住むことが出来ない。
じゃあどうして、ここに…?

「親戚」
「親戚…?」

やっぱりいるんだ、そうだよね1人でどうにか出来る問題じゃないもんね。未成年にそれは無理だよね、詳しくはわからないけど。

「…の人がいるの?」
「いると言えばいる、けど」
「けど?」
「あくまでそれだけ」

……。
暗くて表情がよく見えない。でも、たぶん寂しそうな顔してると思った。
靴を脱いで実咲が部屋の中に入って行く、その後ろを手探りで中に入った。ほとんど見えない部屋の中は何も頼りにするものがなくて、物の少ない部屋だからまだよかったけど。

「親戚って…どうゆう人なの?」
「どうゆう?」
「あ、関係性?っていうか、どんな親戚なのかなって…」

実咲がふぅーっと息を吐いた、真っ暗な部屋では音だけはよく聞こえて。

「父親のおばさんの子供…って人、だったような…」
「……。」
「まぁそんな感じの親戚関係だよ」
「…会ったことはあるの?その、人には」
「あるよ、中学ん時までは世話になってたし」

中学までってことは、実咲の両親が亡くなったのはそれよりも前ってこと。もっと幼かった頃に亡くなったのかな、それから実咲はずっと…

「高校に入ってからはたまに連絡来るぐらいでほとんど会ってねぇよ」
「そう、なんだ…」
「連絡って言っても、基本金の話だし」
「…。」

電気がつかなくてよかったのかもしれない、実咲の悲しい顔見なくて済んだから。淡々と話す実咲の声はいつもと変わらなかったけど。

「向こうにも子供がいるんだけど、確か中学生…まだ卒業してなかったはずの、女なんだけど…」

でもね、やっぱり顔が見えたらよかった。そしたら実咲のこと少しでもわかってあげられる気がして。

「だから何かあったら困るって、ここに連れて来られたんだよ」

投げやりの言い方が、この暗闇ではより寂しさを増して胸が苦しくなる。薄い壁のアパートなのにどこからも音が聞こえなくて、実咲の感情の起伏が少ない声が少しだけ揺れた。

「別に何かしようとか思ってねーのにな、自意識過剰過ぎだろ」

それはすべてを諦めてるみたいな声だったから。
静かに窓に近付いた実咲の顔を月明かりが照らす。微かな光だったけど、少しだけ見えた。
ほんの少しだけ見えたの、だから表情が伝わってしまった。

「でも要は、いらないってことなんだよ」

笑ってるのに笑ってない実咲の顔が、笑いたくない実咲の顔が、胸をえぐって。

「だからオレなんかいなくてもいいんだよ」

何も見えなくてよかったって思ったのは私の方かもしれない、こんな顔実咲に見せられない。苦しくて、泣きそうになってるところなんか。

「どーでもいいんだよ」

17歳の門倉先生はそんなことを思ってたの?
私の知ってる門倉先生は屈託のない顔で笑う人だった。
そんなこと間違っても言うような人じゃなかった。
瞳の奥が熱を帯びる、水分が溜まって一度でも瞬きをしたらこぼれてしまいそうだ。

「ねぇ実咲…今楽しい?」
「楽しく見えるか?」

門倉先生、門倉先生は今が楽しいって言ってましたよね?
それは全部を忘れたからですか?
本当は全てを忘れたいと思っていたんですか?

門倉先生はどんな人生を生きて来たんですか?

「楽しいことなんかなかった、ずっと」

あの日の実咲の瞳が思い出される、光のない瞳をしていた実咲が学校の屋上のフェンスを掴んだあの瞬間…

「でも今日は、楽しかった」

実咲がふっと声を漏らすように微笑む、私を見て。

「天鞠といて」

勝手に、手が伸びた。
押さえきれなかった。止められなかった。
こぼれ落ちる涙が頬を伝って。
抱きしめたかったの、実咲を。どうしようもなく抱きしめたかった。

「実咲、大丈夫だから…!」

なんて言えばいいのかわからない、なんて伝えたらいいのかわからない。
実咲を救える言葉、私には持ってない。
だけどあるなら、私なんかで出来ることがあるなら探すから、実咲のために出来ること探すから。

「死のうなんて思わないで」

望まないで、死ぬことを。
門倉先生の記憶がどうしてなくなったのかわからない。
だけどもしそうなら、もしそうだったとしたら…今どうにか出来ないの?今の実咲の心を、どうにかしてあげられないの?
悲しい気持ちのまま、あんなことしてほしくないよ。

「実咲、生きてよ…っ」

だってほら、わかっちゃうんだもん。抱きしめた実咲から伝わってきちゃうんだもん。
実咲の心の叫びが聞こえる、痛いほどに。

「お願い、死のうとしないで」

実咲の背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。力いっぱい、これでもかって言うほど強い力で。
離したくなかったから、実咲のこと。

「悲しいことも辛いことも、嫌なこともいっぱいあるけど…生きてるからいいことだってあると思う」

こんなこと、思ったことあったかな?そんなこと私だって考えたことなかったよね。

「でも死んじゃったら意味ないから、何も出来ないから…っ!」

私だって諦めてたんだ、人生を。

「生きてたら出会えるから、実咲のことを想ってくれる人に」

だけど私たちまだ高校生だもんね、きっと諦めるのはまだ早いんだよ。だって言ってたよ、高校生ってさ何でも出来るお年頃なんだって。

「だから大丈夫、自分を諦めないで」

そう教えてくれたのは実咲でしょ?

だから生きて、未来で会いたいの。
あの門倉先生に会えなくても、実咲といたい。
実咲に会いたい。未来でも実咲に会いたいよ。
こんなことしか言えない私だけど、私も実咲に救ってもらったから。

ゆっくり実咲から離れた、少し見上げるようにして。

「私ね、嬉しかった」

でもちょっとだけ不安で俯いてしまった。

「私が消えたいって言った時、一緒に消えようって言われたこと」

あの瞬間、心が軽くなったの。
あんなこと言えなかった、言ったらダメなことはわかってた。
だから…ずっと閉じ込めて来た思いを、実咲はちゃんと私の目を見て答えてくれて私は救われたの。
嬉しかったよ、私を見てくれる人がいて嬉しかった。

「だから私も実咲と同じで、あんまり偉そうなこと言えないんだけどね」

たまに思う時があるの、無性にすべてをなくしたくなる時が。
死にたいとか、死のうとか、そこまでリアルに考えてるわけじゃないけど…むしろそんなことを考えることからも避けてるから、私は。

「全部、めんどくさくて」

めんどくさいって思う方がラクだと思ってた。そしたら何も考えずに済むし、何を思うこともないんじゃないかって。

「存在するのも、私でいるのも、全部全部めんどくさくて…」

だけど、どれだけ考えることをやめても眠れない夜はあって。
そこから逃げ出すことが出来ないの、暗闇が襲ってくるばかりで。何にもなれないあの瞬間が苦しい。

「いなくなった方がいいのかなって思うこともある…っ」

我慢していた涙が、ぼろぼろとこぼれて来る。大粒の涙が溢れかえって、ただでさえ何も見えない視界はぼぉーっとして前を見ることも出来なくて。
どうしよう、止め方がわからない。泣くことだってめんどくさいって思ってたのに、涙が止まらないの。
一度こぼれた涙は止めどなく流れるから、こんなにぐちゃぐちゃになって泣くなんて恥ずかしい。
誰にも見せたことないのに、こんな姿誰にも…

「天鞠…っ」

抱き寄せられた。今度は実咲が私を、引き寄せて抱きしめた。
私より大きな体に大きな手、力強い腕はぎゅっと抱きしめて離さない。
変なの、さっきだってくっついてたはずなのに今のがドキドキする。ドキドキ、音を出してるのがわかる。
心臓の音が私の体を駆け巡ってる。

「ずっとここにいろよ、好きなだけここにいていいから!」

実咲の胸の中はあったかかった。
人のぬくもりってこんなにあったかかったんだって、それだけでまた涙がこぼれた。真っ暗な部屋と涙のせいで何も見えなかったけど、実咲がいてくれたから。

「オレはお前に消えてほしくない」

もし10年先の未来で、門倉先生と同級生だったらどうなってたのかな?先生と生徒じゃなくて、同じクラスの…例えば隣の席だったら?

「ここにいろよ」

話しかけてくれたのかな?

「ここに…っ」

仲良くしてくれたのかな?

「ずっとずっと…、オレと一緒にいてほしい」

私のこと名前で呼んでくれたのかな?

「天鞠…っ!」

好きになったりしたのかな?

「…実咲っ」

そんな未来があったらよかったのに。そんな未来がほしいよ。
一緒に消えるんじゃなくて、一緒に生きたい。実咲と一緒に、ずっと生きていきたい。

実咲の胸の中でわーわーと声を出して泣いた、こんなこと初めてで自分でもびっくりしちゃった。
だけどそれよりも、抱きしめられた手に安らぎを感じて、私の頭をなでる手に胸がいっぱいになって。

少しかがんだ実咲と視線を交わした。
近付く吐息を感じて目を閉じる。静かに重なった唇に、息が出来ない。きゅっと胸がつままれたみたいに。
全然苦しくない胸の痛みなんてあるんだね。むしろ心地よくて、愛しい。

このまま時間が止まればいいのに、そんな風に思いながら実咲を抱きしめた。