祖母が亡くなって、死後裁判の最初の王である秦広王の前までやって来た時点で、次の初江王の審議に向けて、関係者のチェックが行われたらしい。それは祖母に限らず、どの死者にも適用される一種の通過儀礼なんだそうだ。
大抵は本人と血の繋がりのある者、可愛がっていた動物がいれば動物と、近しい順に死者の生前を証言出来るか、出来るのであればその証言者は今どこにいるのかが秦広王と初江王、それぞれの補佐官の間で情報が申し送りされて、探し出すのだという。
『とは言え僕のように、十王庁内で官吏をしている関係者がいたならば、そちらが最優先の証言者となり得るんですよ。言わば公僕なんで、嘘をついて相手を貶めたり、必要以上に持ち上げたりということが出来ない。そんなことをすれば即、地獄行きですからね』
決してゴリ押しで祖母のところに押しかけようとしたのではないと、八瀬さんは慌てたように主張している。
『僕は秦広王様の補佐官から連絡があって、閻魔王様の許可も得て、初江王様の所に伺ったんですよ。そうしたら……なんと貴女のお祖父様が、もうその場にいらしていて』
祖父が亡くなったのは、祖母が亡くなる五年以上も前の話だ。
本来であれば成仏……というか、死後裁判も終わって六道のどこかにいるはずだったらしい。
要は祖母の生前を証言するために呼ばれたにしては、八瀬さんよりも早くそこにいるのはおかしいのだ、と。
『それでよくよく聞けば最後の十王、五道転輪王様のところに辿り着いた時に「妻を待ちたい」と願い出られたとかで』
『えっ、最後?』
元々、各王それぞれの審議を受ける際に「妻が現世を旅立った際には知らせて欲しい」と、祖父は都度申し出ていたらしい。
DVやモラハラが生前になく、今後もその可能性はなさそうだと王が判断すれば、基本的にその願いは却下されることなく、その死者の情報として都度次の王に申し送りされていくと言うのだから、思ったよりも良心的なシステムだ。
今風に言えば、地裁(閻魔王)時点でも祖母が来なかったために、祖父はその次、その次の王と申し送りされる格好になっていたということだ。
『通常、よほど罪科が定まらない場合を除いては、五道転輪王様のところにまで死者が辿り着くことはまずないんですよ。じゃあ、その部署はヒマなのかと言えば、そこまでいけば大抵が拗れているケースと言うことになるんで、一人当たりの裁判にかかる時間としては結局長くなるんですが』
夫や妻を待ちたいと望み、その正当性を王に認められた死者と言うのは、長い年月少なくはないそうだが、大抵は死後裁判を経て、王が行先を定めたその先の六道の界で日々を過ごしながら待っているらしい。
ただし天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄と六つの道がある以上は、相手と同じ六道の界に行けるとは限らない。なので先に指定された界で徳を積むか禊を済ませるかして、相手と同じところに行きたいと、再審を願い出るケースがほとんどだというのだ。
それが祖父の場合、本人の罪科がどうという話以前に、ただただ「祖母を待つ」と六道の道に進むことを拒否しつづけて、全ての王と謁見していたのだという。
『貴女のお祖父様は十王全員とお会いになった。それまでに相手が彼岸に来れば、もしも別の六道の界に行くとしても、まずは会いたいという望みは叶うわけですから。ただそれでも、高辻先生――貴女のお祖母様は、まだいらっしゃっていなかった』
祖父は地獄の掟(?)に従いながら、祖母を待った。
十人の王と会うまで、待ち続けた。
それでもまだ、祖母は三途の川を渡っていないと聞かされた。
『後で聞いた話ですが、貴女のお祖父様、五道転輪王様に土下座をして、雑用でも肉体労働でも何でもするから、三途の川を超えた、初江王様のところで待ちたいと、何度も何度も懇願されたそうですよ』
『わぁ……』
『なんでも貴女のお祖父様が亡くなられた時、高辻先生は足を悪くしておいでで、病院にはいらっしゃらなかったとか』
八瀬さんの言葉に、菜穂子もふと祖父が亡くなった当時のことを思い出す。
そうだ。
その何年も前から透析に通っていて、少し前から入院治療に切り替わっていたと聞いた気がする。
祖母も足を悪くしていて、そう頻繁に病院に見舞いに行くことが出来ずにいた、と。
そして祖父が亡くなったのは、明け方。祖母はおろか、家族の誰一人として、祖父の死に目には間に合わなかったのだ。祖父からも、家族の側からも、何も伝えられないまま祖父は一人で三途の川を渡って行ってしまった。
『確かに……それじゃおじいちゃん、少なくともおばあちゃんには会いたいと思うよね……』
『三途の川は、越えてしまえば戻ることは許されません。例外は十王とその直属の官吏だけです。これはまあ、秦広王様のところはもともと川の手前だと言うのもありますが、脱走を図って川を戻ろうとする不届き者がいた場合には、捕らえる者が必要になりますから、そのための決まりです』
実際には川を戻ったからと言って、身体までは元に戻らない。
それでも、川を渡ればあの世……と言うことは、戻れば生き返るのではと思っている人間が、どうやら一定数存在しているらしいのだ。
黄泉平良坂を、伊邪那美命から逃れるために走って逃げた古事記のイメージが定着しているからかもしれなかった。
『川を越えては戻れないから……だからその次の王様のところで待つ、と?』
『そのつもりで直談判されたようですよ』
『おじいちゃん……』
生真面目で、あまり口数が多くなかったように思う祖父だが、実際には孫も驚くほどの熱い思いを抱え込んでいたらしい。
『でも、おばあちゃんが亡くなって三途の川を渡ったところにおじいちゃんがいたということは、その初江王様の許可が下りていたってことなんですよね』
十王庁の王の一人ともなれば、一人一人の事情になど構っていられないと、話を切って捨てたとしてもおかしくはなかっただろうに。
『……根負けしたらしいですよ、ここだけの話』
そう言って、八瀬さんは苦笑した。
『貴女のお祖父様は、元は区役所勤務だったとか。なので初江王様は、書類整理や三途の川の見張りなんかの雑用を振って、お祖母様を待つことをお認めになられたみたいで』
そんな祖父は、自分が辿った死後裁判の経験から、祖母には閻魔王の審議が済んだところで、しかるべき六道の界へと進んで貰おうと考えていたらしい。
閻魔王は言わば地裁の長。
ならそこで不服がなければ、閻魔の庁の「地獄の沙汰」に納得をしているならば、五人の王と会うだけで六道の界に向かう場合があると、祖父はその身で体験したのだ。
戦争に行った自分はともかく、祖母は六道の界の悪とされる三道に行くことはないだろうと信じ切っていたのだという。
『……実際はどうだったんですか?』
祖父と祖母の裁判は、それぞれどんな判決が用意されていたのか。
気になった菜穂子が聞けば、八瀬さんは人差し指を口元に立てて、首を軽く横に振った。
『個人情報ですから。たとえお孫さんと言えど、お伝えは出来かねます』
『あ……まあ、そりゃそうですね……』
『ただ、今回は裁判以前の話ではあるんですよ。なんと言っても、僕が初江王様のところまで赴いたわけなんですから』
『ああ、えっと……賽の河原にいる子どもたちのお世話っていう話……』
『だってほら、元小学校教師ですよ? そりゃ、そんな死者はいっぱいいる言われたらそれまでですけど、閻魔王様の筆頭補佐官たる僕が知っている教師は、高辻先生だけ。他の補佐官たちは誰も、自分が教わった先生にお願いをしようなどとは思いつかなかったし、今まではそこまでの問題にはなってなかった』
八瀬さんがその話を閻魔王に通した後で、他の補佐官も小学校や幼稚園の先生を六道の界で探してみたらどうかとの話も出たらしいが、前例もないことなので、まずは言い出した八瀬さんの推す、菜穂子の祖母に引き受けてもらって、様子を見てみようとの話に落ち着いたのだそうだ。
『それで話をしに行ったら、おじいちゃんがいた――と』
『そうなんですよ。しかも、さぁ次の王のところに行こう! ぱぱっと閻魔王様のところまで行って、次の輪廻の輪に入ろう! と、それはもう凄い勢いでまくしたてていらっしゃるところに遭遇してしまって』
祖母を待って、待って、待ち続けた祖父は、ようやく会えたと言わばテンション爆上がりの状態で、さあ天道界(天国)へ! と言わんばかりの勢いだったらしい。
『そんなところにですよ、僕が「残って子どもたちの先生になってくれ」なんて言いに行ったら、どうなると思います?』
『どうなるって……あ、おじいちゃん、もしかして反対したとか……?』
菜穂子の問いかけに、八瀬さんが何とも言えない表情になる。
……それが、答えだ。
『苦労して戦後を乗り越えて、子どもを育てて、孫の成長をここまで見守ってきた。もう十分やろう。これ以上働かすな――とね。まあ、言うてはることは分からなくもないんですが』
『ないんですが……?』
『何が苦労かなんて、人それぞれでしょうに。それって、貴女のお祖父様の思う苦労であって、先生がそう思っているとは限らないと思いませんか』
『…………』
確かに、と菜穂子も思った。
ただそれと同時に、その理屈は祖父は認めないだろうな、とも思う。こうと決めたら梃子でも動かない頑固な一面を祖父は持っていたからだ。
そして大抵、そんな時は祖母や周りの家族が折れていた。
『あの、おばあちゃんは何て言ってるんですか……?』
やっぱり折れたんだろうか。
とは言え、それならわざわざ八瀬さんは菜穂子に声をかけたりするだろうか。
菜穂子は固唾を呑んで、八瀬青年の言葉の続きを待った。
『ああ……そこはさすが高辻先生ですよ。ちょっとだけ考える仕種をされた後に「その子どもたちの様子を見せてもらいに行くことは出来ますやろか?」って、仰って下さって』
結婚と共に教壇を離れたと言うから、もう五十年以上経過しているはず。それでも元教師としての血が疼いたのかも知れない。
『結果的に僕が背中を押したようなところもあるかもしれませんが』
どういうことだろうと尋ねてみれば、どうやら自分が教えた子どもが、大きくなって閻魔王の筆頭補佐官などと言う責任ある地位に就いていることに感動を覚えたようだと八瀬さんは微笑った。
『八瀬君がこんな立派に成長してくれてたんやったら、私が先生してたんも、ちょっとは報われてたんやなぁ……って、嬉しそうに笑って下さったんですよ』
いきなり現れて何を言い出すのかと、疑われても当然だと八瀬さんも思っていたらしいのだが、祖母は笑顔のまま「三途の川もそうやけど、十王様とか閻魔様とか、本当に居らしたんやねぇ」と、にこやかに微笑んだだけだったと言う。
『あー……』
目に見えるようだ、と菜穂子は思った。泰然自若。そんな言葉の似あう祖母だ。
時代が時代だっただけに、祖父が亭主関白を地でいっているように見えていたけれど、祖父と言い合ったりする様も見たことはない。
かと言って、祖母が抑圧された生活を送っていたのかと言えばそうでもなく、力仕事や害獣駆除なんかは妙に迫力のある笑顔でいつも祖父に「お願い」をしていた。
そこそこ菜穂子自身が成長したところで「手のひらで転がすって、こう言うことなんだな……」と思ったものだった。
『それで先生は「そんなすぐに次の王様のところに行かなくていいなら、ちょっと教えてみたいなぁ……」って』
『おじいちゃんは……?』
『金槌で殴られた、みたいにショックを受けたお表情をされてましたね』
出征した側と帰りを待っていた側。
祖母が何を思っていたのかは誰も聞いたことがない。
ただ戦後復興期を経て、生きている間、必ずしも順風満帆とは言えなかったと、少なくとも祖父は思っている。
だから、もう楽になって貰おうと。絶対に天道界(天国)に行って貰うと。祖父はそう決意して待っていたように、会えないなりに菜穂子は考えていた。
なのに「まだ働きたい」と言われたようなものだ。
どうして……! くらいには、思っているのかも知れない。
『……で、今は膠着状態とかなんですか?』
閻魔王の筆頭補佐官と本人が自己申告している今の地位から言えば、そのままゴリ押しで祖母を賽の河原まで連れていくことは可能なんじゃなかろうか。
そう思って菜穂子が首を傾げたのを見透かされたのか、八瀬さんはちょっと困ったように笑った。
『なんだかんだ、僕のことをまだ完全には信用してませんよね。まあ、無理もないと言えば無理もないんですが』
『いや、まあ、まだ夢から覚めないのかなぁ……くらいには思ってますね、ええ』
『貴女のお祖母様並みに「本当に居らしたんやねぇ」くらいに思っててもらったらいいんですけどね』
『まだそこまで人生達観できてません』
『いやいや、充分に先生のお孫さんやなと思える素地は多々ありますよ』
褒められているのかどうか、今ひとつ釈然としない言い方を八瀬さんはした。
『ああ、話が逸れましたね。膠着状態と言えば、膠着状態なんですよ。高辻先生に関しては、少なくとも十王庁の合議で許可は下りてますから、すぐにでも子どもたちの先生になって貰える。貴方のお祖父様にしたって、妻に一目会うまで待つ――と言う事情はもうそこで解決してますから、無理にでも次の界に行かそうと思えば行かせられる』
『でも、そうは出来てない……?』
『ええ。それは、高辻先生が首を縦に振らなかったんですよ。先生はしたいけれど、ここまで待ってくれていた夫の想いを無下にもしたくない。夫だけを無理やり六道の界に行かせるのはやめて欲しい――と』
『おばあちゃん……』
『十王庁としても、初の試みである以上、元教師であれば誰でもいいから、じゃあ次……とまでは言えない。高辻先生を最初の教師とすることで、諸々既に推し進めていましたから。引き受けたいが、祖父の了解が前提だと言われれば、今のところは貴方のお祖父様を説得する方が、新しい教師を探すよりもよほど早いわけです』
ただ、と八瀬さんはそこで困ったように眉根を寄せた。
『そもそも貴女のお祖父様、十王全員に頭を下げて、五道転輪王様のところでは土下座までして居残りをしていた方ですからね。こうと決めたことを容易には曲げない方だというのは既に実証済み。誰が何を言ったところで「これ以上妻を働かせたくない」の一点張りで、話が進まない。そうこうしている間に夏も深まり――精霊迎えの季節になった』
一年で唯一、先祖の霊が冥土から戻ることを許される行事。
つまりは、あの世とこの世の繋がる季節。
『お孫さんである貴女の説得なら、もしかしたら耳を傾けてくれるかも――貴女のお祖母様が、そう仰ったんですよ。お盆の行事で繋がっている間に、お祖父様を説得してもらう話は出来ないか、と』
『え…………ええっ⁉』
おばあちゃん、天然か‼
死者と生者と道の分かたれた者を相手に、普通はそんなことは考えない。
菜穂子の目は、これ以上ないほどに丸く見開かれていた。
◇◆◇◆◇
いったい、お盆の時期はどうやって先祖の魂が現世の家族のところに戻っているのかと言えば、言い伝えとして、小野篁が宮中と閻魔の庁とを行き来していた時代に、当時の閻魔王から、塔婆供養と迎え鐘を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える法儀「精霊迎えの法」を授かって実行したところから始まっているのだと、八瀬さんは言った。
『……だから、お盆の「六道まいり」の時期だけ、あの世からご先祖様が戻って来るって言われてるんですね』
具体的な法儀のやり方は、聞いたとて分からないだろうから、菜穂子も深くは聞かない。
何となくそう理解しただけのことで、八瀬さんも細かな訂正はしなかったのだから、それで充分ということなんだろう。
『ちなみに、五山送り火を過ぎてもあの世に戻らない魂ってあるんですか?』
純粋な好奇心で菜穂子が聞いてみたところ、八瀬さんは「いいえ」と首を横に振った。
『五山の送り火言うからには、文字通り魂をあの世に「送る」火になります。現世の方は追悼の意を込めて祈らはりますが、その後押しもあって、送られる側は基本的に強制送還ですよ』
『な、なるほど』
黄泉平良坂でも、振り返れば冥府に引き込まれてしまうとの言い伝えがあるくらいだ。よほど死者の国からの「引き」の方が強いということなんだろう。
『あ、じゃあさっき六道さんで鐘をついてきたから、おじいちゃんもおばあちゃんも、もう深町家に戻って来れるっていうことで合ってます?』
『合ってます。逆に言えば、今がその時期であるが故に、現世に出てしまえば十王庁の側からは、五山送り火が終わるまで高辻先生とも貴女のお祖父様とも話が出来ない――いう状況になるんです』
それで貴女への「お願い」という話になったわけなんです。
そう言って私の目を覗き込む八瀬さんの目も、また真剣だった。
『確かに祖先の霊があの世からこの世に戻る時期ですが、それを自身の目で確かめられる人はいません。皆が皆、祖先の霊を視認出来たら世の中パニックです』
『た、確かに』
霊能者だの陰陽師だのと呼ばれる人種であれば見えるのかも知れないが、そもそもそう言った人種は、どうしても胡散臭さが先に立ってしまうから、あとは「信じる気持ち」が全てなんだろう。
『お孫さんも、さすがに地上で普通に生活をしてらっしゃる限りは、お祖父様にもお祖母様にも会えませんし、話せません』
『え、じゃあ……』
『だから、ここへお招きしたんですよ』
ここ、のところで足元を指さすようにしながら、八瀬さんが菜穂子の言葉を遮った。
『篁様――当代の閻魔王様が、地上から通われていた時の法儀を特別に復活使用させてもらってます。魂さえ黄泉への通路を通り抜けられれば、「六道まいり」期間に入った今、先祖の魂と邂逅することが可能になる。要は、お祖父様とお祖母様とも話が出来るということになるんですよ』
『おじいちゃんと、おばあちゃんに……?』
『五山送り火までの期間限定ですけどね』
前代未聞。初の試み。唖然とする菜穂子をよそに、八瀬さんはそんなことをブツブツと呟いている。
『言い方を変えれば、十王庁がお二人の意思を尊重して、待てるのもそこまでなんですよ。こちらも、慈善事業で六道を回しているわけではありませんからね。そこで決着がつかなければ、十王庁いずれかの王が、問答無用で二人をそれぞれ「庁」あるいは「道」に引っ張り込むことになるでしょう』
『引っ張り込む……』
要は十王庁の方では、祖母の教師就任は既に決定事項なのだ。
後は祖父が納得するか、しないか。しないのであれば、五山送り火と共に問答無用で十王庁を離れて六道のどこかに行くことになるということだ。
『高辻先生からのお願いもありますから……一度この館で、お祖父様とお祖母様とにそれぞれ会っていただけますか』
『…………』
荒唐無稽だ。
夢の中の出来事としてしまう方が、よほど簡単だ。
だけど目の前に立つ八瀬さんの表情に揶揄いの色はない。
それよりなにより、菜穂子は祖父とも祖母とも「最期のお別れ」は出来なかったのだ。
せめて自分の到着を待っていて欲しかったと――直接、伝えることが出来るのなら。
『…………ぜひ』
そう答えてしまったのは、決しておかしな話ではなかったはずだ。
そんな私の様子を見ながらも、八瀬さんは「まずは祖父母別々に呼ぶ」と言った。
『まあ最終的には顔を合わせての話し合いが必要になりますけど。双方に意見の相違がある場合の裁判言うのは、まずはそれぞれから事情を聞くことが定石ですからね』
そんな風に話しているのを聞くと、まだ半信半疑ではあるものの、彼は本当に閻魔王の筆頭補佐官なのかと思わされてしまう。
それは裁判慣れしている人間の、物の言い方だからだ。
『見えへんかもしれませんけど、そこそこ優秀なんですよ、僕』
菜穂子の懐疑的な視線に気が付いたのか、自分を指さしながら八瀬さんは笑った。
『……小野篁卿の部下なんでしたっけ』
『そうですよ。今はあの方が閻魔の庁の王です』
小野篁。
生きている間から、あの世とこの世を行き来して、閻魔王の補佐をしていたと言われている。令和の世の中になっても、そんな伝承が残る有名人だ。
長い月日がたてば、世間一般の感覚からすると、それは代替わりくらいはするだろうけれど。
それが菜穂子でも聞き覚えのある名前だからかどうか、どうにも荒唐無稽感、よく出来た小説でも読んでいるかのような感覚が抜けきらない。
『官吏になれる人と、六道の界に行く人の違いって何なんですか?』
祖父は十人の王に土下座をして、イレギュラー的に居残りをしているようだが、祖母は八瀬さんが勧誘する形で次の王には会わずに留まっている状態だと言うなら、十王庁の官吏と言うのは試験ではなくスカウト基準なんだろうか。
ふと気になって試しに聞いてみれば、概ねその通りだと八瀬さんは頷いた。
『言うても、運の要素も結構あるかも知れませんね。僕の場合は、僕の裁判前に先代の閻魔王様が「もう限界、おまえに譲る。そろそろ輪廻の輪に入らせろ」と言い始めて、篁様とすったもんだされてるところに遭遇したといういわくがありまして』
『えぇ……』
『僕の前に相対していた死者と、何かあったみたいで……未だにその内容は僕ですら教えてもらっていませんが。まあでも、千年以上もたてば、何も起きなかったとしても「交代したい」くらいは思うんやないですかね』
『た、確かに』
『で、また僕も、結核が原因でピチピチの二十代で死んでしまって、六道の界に入ってしまうには色々と未練ありまくりだったわけなんですよ』
『!』
八瀬さんはさらっと言うが、内容は思ったより重い。
菜穂子は思わず彼をじっと見てしまった。
今の見た目が亡くなった時点での年齢なのであれば、確かに二十代には見える。
そして終戦前後に祖母が小学校教師だったことを思えば――まだ、結核に対して抗生物質を用いた化学療法が開発されていたかどうかといった時代のはず。
死にたくはなかった。
八瀬さんの表情が、それをありありと語っていた。
『とは言え、さすがに生き返ることが出来るわけでなし。碌に社会人経験もなく、世間も知らないままって言うのもな……と、やさぐれながら閻魔王様の審議を待っていたところに、揉めている先代王と筆頭補佐官に遭遇してしまって』
『そ、それもまたなんというか……』
『で、当然僕の歩んで来た人生は閻魔帳に載っているわけでしょう? それで閻魔王様が篁様に「じゃあ、僕をおまえの後釜にして、おまえが王になればいいじゃないか」と言い始めて……まあ、今に至るわけです』
『えぇ……』
言い始めて――から今に至るまでのところが、ばっさりと端折られてしまったが、要は先代の閻魔王が、八瀬さんの中に官吏としての才能を見出したんだろう。
『だから、僕はまだ筆頭補佐官としてはかなりの新米なんですよ。もっともっと篁様の信頼を得るためには、今回の高辻先生のスカウトだって、またとない機会だ』
グッと拳を握る八瀬さんに、菜穂子は何となく、祖母がなぜ「賽の河原に残る子どもたちの先生」となることに前向きなのか、理由の一端を見たように思った。
多分祖母は……同じく教え子である、八瀬さんの手助けもしてあげたいと、きっとそう思ったんだろう。
自分がその役目を引き受けることで、十王庁の中で八瀬さんの立場が向上すると思えば、確かに放置して次に進むことは出来ない気がする。
(うわぁ……これは色々と、おじいちゃん不利かも……)
そう思いながらも、菜穂子はふと思い立ったことを八瀬さんに尋ねてみた。
『あ、あの……祖父に今の、その初江王様でしたっけ、その王様のところで仕事を続けてもらうことって難しいんですか?』
『え?』
『あ、えと……おばあちゃんが教鞭をとっている間、おじいちゃんにはそっちで働いて貰って、休憩時間とかたまにデートでも出来るようになれば、ちょっとはおじいちゃんも妥協するのかな……とか』
あくまで、案の一つだ。
今のままなら、強制的に祖父だけ六道の界に向かわされると言うのであれば、共働きの道とかは残っていないのだろうか。
『……なるほど?』
思いがけないことを聞いた、という風に八瀬さんが口元に手をあてた。
『それは考えたことはありませんでしたね……うん、一度くらいお伺いは立ててみてもいいのかも知れない。どうせ今は事態は硬直していますし……分かりました、では貴女には先に高辻先生と逢って、話をしていて貰いましょう。その間に、今の案がアリかナシか、上に話を上げてみます』
回答次第では、祖父と逢って話をするのに、手札が一つ増えるかも知れない。
そう、八瀬さんは呟いた。
『……おばあちゃん』
『どのみち今、高辻先生はこちら側で子どもたちの居るところを見学中ですし、お祖父様の方は精霊迎えの行事に則って、こちらに向かっているところですから、話し合いの順番としてもちょうどいいですしね』
(えっ、おばあちゃんに逢える⁉)
菜穂子は、期待をこめて八瀬さんを見つめた。
大抵は本人と血の繋がりのある者、可愛がっていた動物がいれば動物と、近しい順に死者の生前を証言出来るか、出来るのであればその証言者は今どこにいるのかが秦広王と初江王、それぞれの補佐官の間で情報が申し送りされて、探し出すのだという。
『とは言え僕のように、十王庁内で官吏をしている関係者がいたならば、そちらが最優先の証言者となり得るんですよ。言わば公僕なんで、嘘をついて相手を貶めたり、必要以上に持ち上げたりということが出来ない。そんなことをすれば即、地獄行きですからね』
決してゴリ押しで祖母のところに押しかけようとしたのではないと、八瀬さんは慌てたように主張している。
『僕は秦広王様の補佐官から連絡があって、閻魔王様の許可も得て、初江王様の所に伺ったんですよ。そうしたら……なんと貴女のお祖父様が、もうその場にいらしていて』
祖父が亡くなったのは、祖母が亡くなる五年以上も前の話だ。
本来であれば成仏……というか、死後裁判も終わって六道のどこかにいるはずだったらしい。
要は祖母の生前を証言するために呼ばれたにしては、八瀬さんよりも早くそこにいるのはおかしいのだ、と。
『それでよくよく聞けば最後の十王、五道転輪王様のところに辿り着いた時に「妻を待ちたい」と願い出られたとかで』
『えっ、最後?』
元々、各王それぞれの審議を受ける際に「妻が現世を旅立った際には知らせて欲しい」と、祖父は都度申し出ていたらしい。
DVやモラハラが生前になく、今後もその可能性はなさそうだと王が判断すれば、基本的にその願いは却下されることなく、その死者の情報として都度次の王に申し送りされていくと言うのだから、思ったよりも良心的なシステムだ。
今風に言えば、地裁(閻魔王)時点でも祖母が来なかったために、祖父はその次、その次の王と申し送りされる格好になっていたということだ。
『通常、よほど罪科が定まらない場合を除いては、五道転輪王様のところにまで死者が辿り着くことはまずないんですよ。じゃあ、その部署はヒマなのかと言えば、そこまでいけば大抵が拗れているケースと言うことになるんで、一人当たりの裁判にかかる時間としては結局長くなるんですが』
夫や妻を待ちたいと望み、その正当性を王に認められた死者と言うのは、長い年月少なくはないそうだが、大抵は死後裁判を経て、王が行先を定めたその先の六道の界で日々を過ごしながら待っているらしい。
ただし天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄と六つの道がある以上は、相手と同じ六道の界に行けるとは限らない。なので先に指定された界で徳を積むか禊を済ませるかして、相手と同じところに行きたいと、再審を願い出るケースがほとんどだというのだ。
それが祖父の場合、本人の罪科がどうという話以前に、ただただ「祖母を待つ」と六道の道に進むことを拒否しつづけて、全ての王と謁見していたのだという。
『貴女のお祖父様は十王全員とお会いになった。それまでに相手が彼岸に来れば、もしも別の六道の界に行くとしても、まずは会いたいという望みは叶うわけですから。ただそれでも、高辻先生――貴女のお祖母様は、まだいらっしゃっていなかった』
祖父は地獄の掟(?)に従いながら、祖母を待った。
十人の王と会うまで、待ち続けた。
それでもまだ、祖母は三途の川を渡っていないと聞かされた。
『後で聞いた話ですが、貴女のお祖父様、五道転輪王様に土下座をして、雑用でも肉体労働でも何でもするから、三途の川を超えた、初江王様のところで待ちたいと、何度も何度も懇願されたそうですよ』
『わぁ……』
『なんでも貴女のお祖父様が亡くなられた時、高辻先生は足を悪くしておいでで、病院にはいらっしゃらなかったとか』
八瀬さんの言葉に、菜穂子もふと祖父が亡くなった当時のことを思い出す。
そうだ。
その何年も前から透析に通っていて、少し前から入院治療に切り替わっていたと聞いた気がする。
祖母も足を悪くしていて、そう頻繁に病院に見舞いに行くことが出来ずにいた、と。
そして祖父が亡くなったのは、明け方。祖母はおろか、家族の誰一人として、祖父の死に目には間に合わなかったのだ。祖父からも、家族の側からも、何も伝えられないまま祖父は一人で三途の川を渡って行ってしまった。
『確かに……それじゃおじいちゃん、少なくともおばあちゃんには会いたいと思うよね……』
『三途の川は、越えてしまえば戻ることは許されません。例外は十王とその直属の官吏だけです。これはまあ、秦広王様のところはもともと川の手前だと言うのもありますが、脱走を図って川を戻ろうとする不届き者がいた場合には、捕らえる者が必要になりますから、そのための決まりです』
実際には川を戻ったからと言って、身体までは元に戻らない。
それでも、川を渡ればあの世……と言うことは、戻れば生き返るのではと思っている人間が、どうやら一定数存在しているらしいのだ。
黄泉平良坂を、伊邪那美命から逃れるために走って逃げた古事記のイメージが定着しているからかもしれなかった。
『川を越えては戻れないから……だからその次の王様のところで待つ、と?』
『そのつもりで直談判されたようですよ』
『おじいちゃん……』
生真面目で、あまり口数が多くなかったように思う祖父だが、実際には孫も驚くほどの熱い思いを抱え込んでいたらしい。
『でも、おばあちゃんが亡くなって三途の川を渡ったところにおじいちゃんがいたということは、その初江王様の許可が下りていたってことなんですよね』
十王庁の王の一人ともなれば、一人一人の事情になど構っていられないと、話を切って捨てたとしてもおかしくはなかっただろうに。
『……根負けしたらしいですよ、ここだけの話』
そう言って、八瀬さんは苦笑した。
『貴女のお祖父様は、元は区役所勤務だったとか。なので初江王様は、書類整理や三途の川の見張りなんかの雑用を振って、お祖母様を待つことをお認めになられたみたいで』
そんな祖父は、自分が辿った死後裁判の経験から、祖母には閻魔王の審議が済んだところで、しかるべき六道の界へと進んで貰おうと考えていたらしい。
閻魔王は言わば地裁の長。
ならそこで不服がなければ、閻魔の庁の「地獄の沙汰」に納得をしているならば、五人の王と会うだけで六道の界に向かう場合があると、祖父はその身で体験したのだ。
戦争に行った自分はともかく、祖母は六道の界の悪とされる三道に行くことはないだろうと信じ切っていたのだという。
『……実際はどうだったんですか?』
祖父と祖母の裁判は、それぞれどんな判決が用意されていたのか。
気になった菜穂子が聞けば、八瀬さんは人差し指を口元に立てて、首を軽く横に振った。
『個人情報ですから。たとえお孫さんと言えど、お伝えは出来かねます』
『あ……まあ、そりゃそうですね……』
『ただ、今回は裁判以前の話ではあるんですよ。なんと言っても、僕が初江王様のところまで赴いたわけなんですから』
『ああ、えっと……賽の河原にいる子どもたちのお世話っていう話……』
『だってほら、元小学校教師ですよ? そりゃ、そんな死者はいっぱいいる言われたらそれまでですけど、閻魔王様の筆頭補佐官たる僕が知っている教師は、高辻先生だけ。他の補佐官たちは誰も、自分が教わった先生にお願いをしようなどとは思いつかなかったし、今まではそこまでの問題にはなってなかった』
八瀬さんがその話を閻魔王に通した後で、他の補佐官も小学校や幼稚園の先生を六道の界で探してみたらどうかとの話も出たらしいが、前例もないことなので、まずは言い出した八瀬さんの推す、菜穂子の祖母に引き受けてもらって、様子を見てみようとの話に落ち着いたのだそうだ。
『それで話をしに行ったら、おじいちゃんがいた――と』
『そうなんですよ。しかも、さぁ次の王のところに行こう! ぱぱっと閻魔王様のところまで行って、次の輪廻の輪に入ろう! と、それはもう凄い勢いでまくしたてていらっしゃるところに遭遇してしまって』
祖母を待って、待って、待ち続けた祖父は、ようやく会えたと言わばテンション爆上がりの状態で、さあ天道界(天国)へ! と言わんばかりの勢いだったらしい。
『そんなところにですよ、僕が「残って子どもたちの先生になってくれ」なんて言いに行ったら、どうなると思います?』
『どうなるって……あ、おじいちゃん、もしかして反対したとか……?』
菜穂子の問いかけに、八瀬さんが何とも言えない表情になる。
……それが、答えだ。
『苦労して戦後を乗り越えて、子どもを育てて、孫の成長をここまで見守ってきた。もう十分やろう。これ以上働かすな――とね。まあ、言うてはることは分からなくもないんですが』
『ないんですが……?』
『何が苦労かなんて、人それぞれでしょうに。それって、貴女のお祖父様の思う苦労であって、先生がそう思っているとは限らないと思いませんか』
『…………』
確かに、と菜穂子も思った。
ただそれと同時に、その理屈は祖父は認めないだろうな、とも思う。こうと決めたら梃子でも動かない頑固な一面を祖父は持っていたからだ。
そして大抵、そんな時は祖母や周りの家族が折れていた。
『あの、おばあちゃんは何て言ってるんですか……?』
やっぱり折れたんだろうか。
とは言え、それならわざわざ八瀬さんは菜穂子に声をかけたりするだろうか。
菜穂子は固唾を呑んで、八瀬青年の言葉の続きを待った。
『ああ……そこはさすが高辻先生ですよ。ちょっとだけ考える仕種をされた後に「その子どもたちの様子を見せてもらいに行くことは出来ますやろか?」って、仰って下さって』
結婚と共に教壇を離れたと言うから、もう五十年以上経過しているはず。それでも元教師としての血が疼いたのかも知れない。
『結果的に僕が背中を押したようなところもあるかもしれませんが』
どういうことだろうと尋ねてみれば、どうやら自分が教えた子どもが、大きくなって閻魔王の筆頭補佐官などと言う責任ある地位に就いていることに感動を覚えたようだと八瀬さんは微笑った。
『八瀬君がこんな立派に成長してくれてたんやったら、私が先生してたんも、ちょっとは報われてたんやなぁ……って、嬉しそうに笑って下さったんですよ』
いきなり現れて何を言い出すのかと、疑われても当然だと八瀬さんも思っていたらしいのだが、祖母は笑顔のまま「三途の川もそうやけど、十王様とか閻魔様とか、本当に居らしたんやねぇ」と、にこやかに微笑んだだけだったと言う。
『あー……』
目に見えるようだ、と菜穂子は思った。泰然自若。そんな言葉の似あう祖母だ。
時代が時代だっただけに、祖父が亭主関白を地でいっているように見えていたけれど、祖父と言い合ったりする様も見たことはない。
かと言って、祖母が抑圧された生活を送っていたのかと言えばそうでもなく、力仕事や害獣駆除なんかは妙に迫力のある笑顔でいつも祖父に「お願い」をしていた。
そこそこ菜穂子自身が成長したところで「手のひらで転がすって、こう言うことなんだな……」と思ったものだった。
『それで先生は「そんなすぐに次の王様のところに行かなくていいなら、ちょっと教えてみたいなぁ……」って』
『おじいちゃんは……?』
『金槌で殴られた、みたいにショックを受けたお表情をされてましたね』
出征した側と帰りを待っていた側。
祖母が何を思っていたのかは誰も聞いたことがない。
ただ戦後復興期を経て、生きている間、必ずしも順風満帆とは言えなかったと、少なくとも祖父は思っている。
だから、もう楽になって貰おうと。絶対に天道界(天国)に行って貰うと。祖父はそう決意して待っていたように、会えないなりに菜穂子は考えていた。
なのに「まだ働きたい」と言われたようなものだ。
どうして……! くらいには、思っているのかも知れない。
『……で、今は膠着状態とかなんですか?』
閻魔王の筆頭補佐官と本人が自己申告している今の地位から言えば、そのままゴリ押しで祖母を賽の河原まで連れていくことは可能なんじゃなかろうか。
そう思って菜穂子が首を傾げたのを見透かされたのか、八瀬さんはちょっと困ったように笑った。
『なんだかんだ、僕のことをまだ完全には信用してませんよね。まあ、無理もないと言えば無理もないんですが』
『いや、まあ、まだ夢から覚めないのかなぁ……くらいには思ってますね、ええ』
『貴女のお祖母様並みに「本当に居らしたんやねぇ」くらいに思っててもらったらいいんですけどね』
『まだそこまで人生達観できてません』
『いやいや、充分に先生のお孫さんやなと思える素地は多々ありますよ』
褒められているのかどうか、今ひとつ釈然としない言い方を八瀬さんはした。
『ああ、話が逸れましたね。膠着状態と言えば、膠着状態なんですよ。高辻先生に関しては、少なくとも十王庁の合議で許可は下りてますから、すぐにでも子どもたちの先生になって貰える。貴方のお祖父様にしたって、妻に一目会うまで待つ――と言う事情はもうそこで解決してますから、無理にでも次の界に行かそうと思えば行かせられる』
『でも、そうは出来てない……?』
『ええ。それは、高辻先生が首を縦に振らなかったんですよ。先生はしたいけれど、ここまで待ってくれていた夫の想いを無下にもしたくない。夫だけを無理やり六道の界に行かせるのはやめて欲しい――と』
『おばあちゃん……』
『十王庁としても、初の試みである以上、元教師であれば誰でもいいから、じゃあ次……とまでは言えない。高辻先生を最初の教師とすることで、諸々既に推し進めていましたから。引き受けたいが、祖父の了解が前提だと言われれば、今のところは貴方のお祖父様を説得する方が、新しい教師を探すよりもよほど早いわけです』
ただ、と八瀬さんはそこで困ったように眉根を寄せた。
『そもそも貴女のお祖父様、十王全員に頭を下げて、五道転輪王様のところでは土下座までして居残りをしていた方ですからね。こうと決めたことを容易には曲げない方だというのは既に実証済み。誰が何を言ったところで「これ以上妻を働かせたくない」の一点張りで、話が進まない。そうこうしている間に夏も深まり――精霊迎えの季節になった』
一年で唯一、先祖の霊が冥土から戻ることを許される行事。
つまりは、あの世とこの世の繋がる季節。
『お孫さんである貴女の説得なら、もしかしたら耳を傾けてくれるかも――貴女のお祖母様が、そう仰ったんですよ。お盆の行事で繋がっている間に、お祖父様を説得してもらう話は出来ないか、と』
『え…………ええっ⁉』
おばあちゃん、天然か‼
死者と生者と道の分かたれた者を相手に、普通はそんなことは考えない。
菜穂子の目は、これ以上ないほどに丸く見開かれていた。
◇◆◇◆◇
いったい、お盆の時期はどうやって先祖の魂が現世の家族のところに戻っているのかと言えば、言い伝えとして、小野篁が宮中と閻魔の庁とを行き来していた時代に、当時の閻魔王から、塔婆供養と迎え鐘を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える法儀「精霊迎えの法」を授かって実行したところから始まっているのだと、八瀬さんは言った。
『……だから、お盆の「六道まいり」の時期だけ、あの世からご先祖様が戻って来るって言われてるんですね』
具体的な法儀のやり方は、聞いたとて分からないだろうから、菜穂子も深くは聞かない。
何となくそう理解しただけのことで、八瀬さんも細かな訂正はしなかったのだから、それで充分ということなんだろう。
『ちなみに、五山送り火を過ぎてもあの世に戻らない魂ってあるんですか?』
純粋な好奇心で菜穂子が聞いてみたところ、八瀬さんは「いいえ」と首を横に振った。
『五山の送り火言うからには、文字通り魂をあの世に「送る」火になります。現世の方は追悼の意を込めて祈らはりますが、その後押しもあって、送られる側は基本的に強制送還ですよ』
『な、なるほど』
黄泉平良坂でも、振り返れば冥府に引き込まれてしまうとの言い伝えがあるくらいだ。よほど死者の国からの「引き」の方が強いということなんだろう。
『あ、じゃあさっき六道さんで鐘をついてきたから、おじいちゃんもおばあちゃんも、もう深町家に戻って来れるっていうことで合ってます?』
『合ってます。逆に言えば、今がその時期であるが故に、現世に出てしまえば十王庁の側からは、五山送り火が終わるまで高辻先生とも貴女のお祖父様とも話が出来ない――いう状況になるんです』
それで貴女への「お願い」という話になったわけなんです。
そう言って私の目を覗き込む八瀬さんの目も、また真剣だった。
『確かに祖先の霊があの世からこの世に戻る時期ですが、それを自身の目で確かめられる人はいません。皆が皆、祖先の霊を視認出来たら世の中パニックです』
『た、確かに』
霊能者だの陰陽師だのと呼ばれる人種であれば見えるのかも知れないが、そもそもそう言った人種は、どうしても胡散臭さが先に立ってしまうから、あとは「信じる気持ち」が全てなんだろう。
『お孫さんも、さすがに地上で普通に生活をしてらっしゃる限りは、お祖父様にもお祖母様にも会えませんし、話せません』
『え、じゃあ……』
『だから、ここへお招きしたんですよ』
ここ、のところで足元を指さすようにしながら、八瀬さんが菜穂子の言葉を遮った。
『篁様――当代の閻魔王様が、地上から通われていた時の法儀を特別に復活使用させてもらってます。魂さえ黄泉への通路を通り抜けられれば、「六道まいり」期間に入った今、先祖の魂と邂逅することが可能になる。要は、お祖父様とお祖母様とも話が出来るということになるんですよ』
『おじいちゃんと、おばあちゃんに……?』
『五山送り火までの期間限定ですけどね』
前代未聞。初の試み。唖然とする菜穂子をよそに、八瀬さんはそんなことをブツブツと呟いている。
『言い方を変えれば、十王庁がお二人の意思を尊重して、待てるのもそこまでなんですよ。こちらも、慈善事業で六道を回しているわけではありませんからね。そこで決着がつかなければ、十王庁いずれかの王が、問答無用で二人をそれぞれ「庁」あるいは「道」に引っ張り込むことになるでしょう』
『引っ張り込む……』
要は十王庁の方では、祖母の教師就任は既に決定事項なのだ。
後は祖父が納得するか、しないか。しないのであれば、五山送り火と共に問答無用で十王庁を離れて六道のどこかに行くことになるということだ。
『高辻先生からのお願いもありますから……一度この館で、お祖父様とお祖母様とにそれぞれ会っていただけますか』
『…………』
荒唐無稽だ。
夢の中の出来事としてしまう方が、よほど簡単だ。
だけど目の前に立つ八瀬さんの表情に揶揄いの色はない。
それよりなにより、菜穂子は祖父とも祖母とも「最期のお別れ」は出来なかったのだ。
せめて自分の到着を待っていて欲しかったと――直接、伝えることが出来るのなら。
『…………ぜひ』
そう答えてしまったのは、決しておかしな話ではなかったはずだ。
そんな私の様子を見ながらも、八瀬さんは「まずは祖父母別々に呼ぶ」と言った。
『まあ最終的には顔を合わせての話し合いが必要になりますけど。双方に意見の相違がある場合の裁判言うのは、まずはそれぞれから事情を聞くことが定石ですからね』
そんな風に話しているのを聞くと、まだ半信半疑ではあるものの、彼は本当に閻魔王の筆頭補佐官なのかと思わされてしまう。
それは裁判慣れしている人間の、物の言い方だからだ。
『見えへんかもしれませんけど、そこそこ優秀なんですよ、僕』
菜穂子の懐疑的な視線に気が付いたのか、自分を指さしながら八瀬さんは笑った。
『……小野篁卿の部下なんでしたっけ』
『そうですよ。今はあの方が閻魔の庁の王です』
小野篁。
生きている間から、あの世とこの世を行き来して、閻魔王の補佐をしていたと言われている。令和の世の中になっても、そんな伝承が残る有名人だ。
長い月日がたてば、世間一般の感覚からすると、それは代替わりくらいはするだろうけれど。
それが菜穂子でも聞き覚えのある名前だからかどうか、どうにも荒唐無稽感、よく出来た小説でも読んでいるかのような感覚が抜けきらない。
『官吏になれる人と、六道の界に行く人の違いって何なんですか?』
祖父は十人の王に土下座をして、イレギュラー的に居残りをしているようだが、祖母は八瀬さんが勧誘する形で次の王には会わずに留まっている状態だと言うなら、十王庁の官吏と言うのは試験ではなくスカウト基準なんだろうか。
ふと気になって試しに聞いてみれば、概ねその通りだと八瀬さんは頷いた。
『言うても、運の要素も結構あるかも知れませんね。僕の場合は、僕の裁判前に先代の閻魔王様が「もう限界、おまえに譲る。そろそろ輪廻の輪に入らせろ」と言い始めて、篁様とすったもんだされてるところに遭遇したといういわくがありまして』
『えぇ……』
『僕の前に相対していた死者と、何かあったみたいで……未だにその内容は僕ですら教えてもらっていませんが。まあでも、千年以上もたてば、何も起きなかったとしても「交代したい」くらいは思うんやないですかね』
『た、確かに』
『で、また僕も、結核が原因でピチピチの二十代で死んでしまって、六道の界に入ってしまうには色々と未練ありまくりだったわけなんですよ』
『!』
八瀬さんはさらっと言うが、内容は思ったより重い。
菜穂子は思わず彼をじっと見てしまった。
今の見た目が亡くなった時点での年齢なのであれば、確かに二十代には見える。
そして終戦前後に祖母が小学校教師だったことを思えば――まだ、結核に対して抗生物質を用いた化学療法が開発されていたかどうかといった時代のはず。
死にたくはなかった。
八瀬さんの表情が、それをありありと語っていた。
『とは言え、さすがに生き返ることが出来るわけでなし。碌に社会人経験もなく、世間も知らないままって言うのもな……と、やさぐれながら閻魔王様の審議を待っていたところに、揉めている先代王と筆頭補佐官に遭遇してしまって』
『そ、それもまたなんというか……』
『で、当然僕の歩んで来た人生は閻魔帳に載っているわけでしょう? それで閻魔王様が篁様に「じゃあ、僕をおまえの後釜にして、おまえが王になればいいじゃないか」と言い始めて……まあ、今に至るわけです』
『えぇ……』
言い始めて――から今に至るまでのところが、ばっさりと端折られてしまったが、要は先代の閻魔王が、八瀬さんの中に官吏としての才能を見出したんだろう。
『だから、僕はまだ筆頭補佐官としてはかなりの新米なんですよ。もっともっと篁様の信頼を得るためには、今回の高辻先生のスカウトだって、またとない機会だ』
グッと拳を握る八瀬さんに、菜穂子は何となく、祖母がなぜ「賽の河原に残る子どもたちの先生」となることに前向きなのか、理由の一端を見たように思った。
多分祖母は……同じく教え子である、八瀬さんの手助けもしてあげたいと、きっとそう思ったんだろう。
自分がその役目を引き受けることで、十王庁の中で八瀬さんの立場が向上すると思えば、確かに放置して次に進むことは出来ない気がする。
(うわぁ……これは色々と、おじいちゃん不利かも……)
そう思いながらも、菜穂子はふと思い立ったことを八瀬さんに尋ねてみた。
『あ、あの……祖父に今の、その初江王様でしたっけ、その王様のところで仕事を続けてもらうことって難しいんですか?』
『え?』
『あ、えと……おばあちゃんが教鞭をとっている間、おじいちゃんにはそっちで働いて貰って、休憩時間とかたまにデートでも出来るようになれば、ちょっとはおじいちゃんも妥協するのかな……とか』
あくまで、案の一つだ。
今のままなら、強制的に祖父だけ六道の界に向かわされると言うのであれば、共働きの道とかは残っていないのだろうか。
『……なるほど?』
思いがけないことを聞いた、という風に八瀬さんが口元に手をあてた。
『それは考えたことはありませんでしたね……うん、一度くらいお伺いは立ててみてもいいのかも知れない。どうせ今は事態は硬直していますし……分かりました、では貴女には先に高辻先生と逢って、話をしていて貰いましょう。その間に、今の案がアリかナシか、上に話を上げてみます』
回答次第では、祖父と逢って話をするのに、手札が一つ増えるかも知れない。
そう、八瀬さんは呟いた。
『……おばあちゃん』
『どのみち今、高辻先生はこちら側で子どもたちの居るところを見学中ですし、お祖父様の方は精霊迎えの行事に則って、こちらに向かっているところですから、話し合いの順番としてもちょうどいいですしね』
(えっ、おばあちゃんに逢える⁉)
菜穂子は、期待をこめて八瀬さんを見つめた。


