『え、ついさっき聞いたってコトは、辰巳幸子もその歌の続き聞かされてたりした!?』
一番くらいなら「さっちゃん」の歌を目の前で歌われたからといっても、可愛いものだ……で済むだろう。
なら、その先まで本人の意思と関係なく聞かされてしまったとしたら?
ある意味「いじめ」じゃなかろうかと顔を顰めた菜穂子に、祖母は何ともいえない表情を返してきた。
『まあ、イジメるつもりはなくて揶揄いたかっただけかも知れへんけど、子どものやること考えるこというのは、小学校だろうと賽の河原だろうと変わらへんからねぇ……』
否定をしないと言うことは、祖母自身も内心ではそう思っているということだ。
辰巳幸子《さっちゃん》は無自覚の内に傷つけられてきた可能性がある、と。
歌を――「さっちゃん」の歌を歌えと言うのは、もしかしたら辰巳幸子自身が、四番以降なんて存在しないことを祖母に明言して欲しいからではないだろうか。
単なる我儘、癇癪では済ませられないところまで、既に来ているのかも知れない。
そんな風に菜穂子が思っている傍で、八瀬さんが不意に動いた。
『八瀬さん?』
『八瀬君?』
訝しむ菜穂子と祖母をすり抜けるようにして、部屋の扉にそっと手をかける。
『――そろそろ、結論出たんと違いますか』
そう言って、開けられた扉の向こうには。
『おじいちゃん……?』
腕組みをして、しかめっ面の祖父がその場に立ち尽くしていた。
『……ヘンな歌、歌われとったわ』
『え?』
『あのガキンチョ、どっかの知らん子に「おまえも電車で足無くしたんか」って言われて、泣きそうな顔で震えとったんや』
『……っ!』
あまりに思いがけない、だけどタイムリーなその話に、菜穂子たちも思わず顔を見合わせてしまった。
『よっぽど、言うてる方のガキをしばき倒したろかと思たけどな。俺はここの官吏でも何でもないさかいに「あほなコト言うてんと、去ね!」言うてやるくらいしか、出来へんかった』
『おじいちゃん……』
『そもそもなんやねん、あの歌。俺でもあんなでたらめな歌詞聞いたことないぞ』
『あー……うん、都市伝説言うか、何や子どもならではの替え歌が、いつの間にやら歪んでしもたらしくて』
『は? そんな胸糞悪い話が野放しになっとんのか』
さすがの祖父も「有り得ない」と憤慨しているが、こればかりは既に年月をかけて、歪んだ方向とはいえ定着しかかってしまっているだけに、誰にもどうすることも出来ない。
『うーん……まあ、ほら今、ちゃんとコトの善悪を教えれるような人がおらん、いう話やし? なるべくしてなった事態という気も……』
仕方がない、で物事を片付けるなと言い合ったばかりだ。
菜穂子は頭をひねった末に「なるべくしてなった」と、少し言い方を変えて祖父に告げた。
もしかしたら、そんな菜穂子の言いたいことに察しがついたのかもしれない。祖父はそのまま、むすっとした表情のまま再び部屋の中へと入って来た。
『……ちゃんとした「先生」がおらんからや、言いたいんか』
『あー……うん、まあ……そんなトコ』
『監視する官吏はおるけどな』
『そやけど、それだけやと不十分やから今みたいな成り行きになってるコトない?』
『…………』
無言は肯定。
そんな気がした。
『確かに、ちょっと前までは言い伝え通りに、子どもが積み上げる石を蹴って崩す担当者がいたらそれで良かったみたいなんですけどね。時代と共に色んな子どもが出てくる。積み石を崩したところでまったく堪えへん子も、それは出てきます。賽の河原に「先生」が欲しい言うのも、あながち僕の我儘だけやないんですよ』
誰を「先生」として推薦するかは、ゴリ推ししたかもしれませんが――。
そんなことを言いながらも、八瀬さんの表情も至極真面目だった。
『現代社会でも「学級崩壊」言う単語が出て来てますでしょう。現代で起きることは、死者の世でだって起きかねない。いえ、現に今、起きかかってるんですよ』
賽の河原の学級崩壊。
荒唐無稽なようでいて、現に辰巳幸子は、無自覚のいじめの標的にされつつある。
それは今、この場にいる全員が実感したことだ。
『――ぜひ、高辻先生の力を十王庁に貸して下さい。貴方のお迎えで途絶えてしまった先生の教師生活を、もう少し続けさせてあげて下さい』
『!』
八瀬さん年が、そう言って深々と祖父に向かってそこで頭を下げた。
九十度よりも、深々と。
『……俺が戦地から帰って来て、その足で志緒を迎えに行ったことが悪いとでも言うんか』
唇と拳、どちらも切れてしまいそうなほどに強く噛みしめ、握りしめられている。
そんな祖父が八瀬さんにぶつける声も、震えていた。
『いえ、それは……』
『おまえの言い方やと、そうとしか聞こえんやないか!』
『おじいちゃん!』
『俺が……俺が、どんな思いで戦地から……っ』
思わず祖父に触れようと菜穂子は近付いたものの、実際に手や服に触れることが出来ない。
実際に血が流れるわけではないけれど、それでも思わず止めたくなるくらいには強い動作だ。
あの世とこの世、その境を思わぬところで見せつけられたようで、菜穂子も伸ばそうとした手を途中で急停止させるしかなかった。
『すみません。そればかりは、僕には分からない。この場の誰にも「気持ちはよく分かる」なんて傲慢なことは言えません。戦地へ赴いた人の思いを忖度することは傲慢と冒涜だ。それは僕ですら理解が出来る。――ただ』
ただ、の後あえて言葉を区切った八瀬さんに、祖父がその場でピクリと反応を見せた。
その先、何を言わんとしているのかは菜穂子にも分かった。分かったからこそ、八瀬さんが言ってはいけない気がした。
多分、反発しか生まないだろうから。
『おじいちゃん』
だからその先は、菜穂子が引き受けることにした。
『――おばあちゃんの希望、優先してあげよ?』
『『菜穂子』』
祖父母の声が、そこで重なる。
夫婦仲の良さを揶揄うべきか、一瞬だけ迷いが生じたものの、菜穂子は頭を振ってその考えを自身の中から追い出した。
『さっきも言うたけど、多分このまま……極楽浄土でも天道でもええんやけど、そこへ行ってしまうのは、絶対おばあちゃん心残りになるよ』
『心残り……』
『おじいちゃんも、辰巳幸子見たよね? 絶対、気になってるよね? おばあちゃんなんて、元々教えてはったんやから、おじいちゃん以上に気になってて当たり前やと思わへん?』
『…………』
言葉を失くして口を閉ざす祖父を横目に、菜穂子は今度は祖母の方へと向き直った。
『おばあちゃんも、ほら、今はもう女性が耐えて忍ぶ時代やないよ? おばあちゃんの希望を口にしたって、全然ええと思うよ?』
耐えて忍ぶは淑女の鑑。そんな時代は、とうに過ぎたはずだ。
『おじいさ――いいえ、あなた』
やがてそう言って祖母が顔を上げたのは、どのくらい経過してからのことだっただろうか。
もしかしたら、祖母から「おじいさん」以外の言葉で呼びかけられるのは久しぶりだったのかも知れない。
祖父が驚いたように祖母を凝視していた。
いや。だからこそ、祖母の言いたいことが分かったのかも知れない。祖母を見つめるその表情は、絶望とも諦めとも取れる表情だった。
『私に、ここで「先生」続けさせて貰えますか』
『志緒……』
『正直言うて、色んな王様に掛け合ってまで待っててくれて、嬉しかった。終戦後のあの日、夕陽差し込む小学校に迎えに来てくれたんと同じくらいに嬉しかった。もう充分「深町志緒」の人生は報われました』
『……報われた』
『はい。そやから最後のお願いです。どうか私に「高辻志緒」の人生も全うさせて下さい。迷って行き場を失ってる教え子と、他にも賽の河原でしんどい思いをしてる子らを世話させて下さい。あの子らを地蔵菩薩様の所へ送り出せたら、そしたら今度こそ、閻魔王様の審議に従って次の道に進もうと思てます。胸張って進めると思てます』
『俺は……もう用済みか?』
『そんなこと言うてません! 次の道がどこの道かは分かりませんけど、その更に先、生まれ変われるんやったら、またそこで会えたらええと思てます。また、あの小学校に来てくれたみたいに迎えに来てくれはったらええやないですか』
そう言って笑った祖母に、祖父もくしゃりと顔を歪めた。
『それでまた……「どちらさんですやろ」言われんのか?』
『あれは……! いきなり名乗りもせんと「俺や」とか言わはるから! 今度会う時は、ちゃんと名乗って下さい!』
『そうか……そう言われると返す言葉もないな……』
低い笑い声が少し震えていたのは、多分気のせいじゃないだろう。
一度だけ俯いて――そうして祖父は、今度はしっかりと顔を上げた。
『そしたら、俺はもうお役ご免やな。大人しく冥土の裁きに従うことにするわ』
『おじいちゃん……』
祖母の望みを叶えてやれ、と言ったのは菜穂子だ。それでも、胸を刺した痛みまでは菜穂子自身にもどうしようもなかった。
『長いことお騒がせしましたな、八瀬さん。この後どこに行ったらええんか、教えてくれるか』
『あなた……』
『……よろしいんですか?』
問いかける八瀬さんの表情からは何も読み取れない。けれど祖父は、それに反発することはなかった。
『深町志緒としては満足した、言われたら……俺は何も言われへんしな。高辻志緒としての思い出まで俺が縛ってしまうのは、筋が違う。まあ、本当やったら、丸ごと俺のモンでいて欲しかったけどな』
(おじいちゃん、真顔のヤンデレ発言)
――高辻志緒としての人生も、全うさせて欲しい。
どうやら祖父は、そこに反論の余地を見出せなかったようだ。
本人の笑顔を奪うようでは、ヤンデレの風上にもおけないといったところだろうか。
祖母がこちらから顔をそむけているのは、多分、間違いなく祖父の最後の発言に反応して、照れているからだろう。
『……菜穂子、おまえ何やあほなこと考えてへんか』
『へ!? いやいや、まさか!』
ニヤニヤ笑いかけてあわてて表情を引き締めた、そんな菜穂子の心の内を見透かしたかのように、祖父は半目になっていた。
菜穂子はあわてて顔と手をぶんぶんと横に振った。
『おじいちゃん、思い切ったなぁ……って、うん、オトコマエやん!』
『やっぱり、あほなこと考えとったやないか』
褒めたつもりが呆れた表情をされてしまったが、それも一瞬のことで、やがてふと口元を綻ばせた。
『……本当、ええ年齢して仕方がない奴やな』
仕方がない奴や。
生前からの、祖父の口癖。
それをまた聞くことが出来たのは、菜穂子にとっても思いがけない贈り物だった。
『ええ年齢って! 私まだ、ぴちぴちの十代なんやけど!?』
――口に出しては、それを言わなかったが。
『そしたら、まあ……この後何処に行ったらええんか、いう話ですけど』
それまでは菜穂子と祖父母のやりとりをジッと見守っていた八瀬さんが、そこで会話を引き取るように口を開いた。 話がひと段落した、と思ったのかも知れない。
『ああ』
祖父もそこで、綻ばせていた口元を引き締めるように、八瀬さんを見返した。
『初江王様が、雑用係の雇用延長を認めて下さいました』
『『『えっ!?』』』
ところが、誰一人思いもよらなかったその発言に、深町家全員が、それぞれに間の抜けた声を上げてしまった。
『八瀬君……?』
驚きから立ち直ったのは、祖母が早かっただろうか。
皆の疑問を代弁するかのように、八瀬さんに疑問の声を発していた。
問われた八瀬さんは『はぁ……』と、大仰とも取れるため息を吐き出していた。
『ご自身で納得して、高辻先生のことを手放して下さるなら――との条件付きやったんで、ここまで黙ってたんですよ。本当はもっと前から、落としどころとしてその選択肢はあったんですけどね。篁様、いえ閻魔王様がその代案をお考えになられて、初江王様を始め他の王も了承なされたとのことで』
『八瀬君、それ、無茶してない? 八瀬君のこの先のお仕事に影響あったりせえへん? そもそも、一人一人の希望を聞いてたらキリがない言う話やなかった?』
落としどころと言われれば、祖父母にとってはこれ以上ない落としどころだろう。
三途の川を挟むとは言え、先の見えない離れ離れとはわけが違う。
八瀬さんが、何かごり押しをしたのではないか。それぞれの王から不興を買ったり、閻魔王筆頭補佐官としての立場に悪影響を及ぼしたりはしないか。
祖母の心配は当然だ。菜穂子でも、そこは気になるくらいだ。祖父も無言ながら、気になっていることは間違いないだろう。
三人は固唾を呑んで、八瀬さんの言葉の続きを待った。
『確かに異論がなかったとは言いません。これが高辻先生やなかったら、ここまでのことをしたのかと言われれば、僕も否定はしきれませんから。ただそれだけどこの部署でも、賽の河原で子どもたちを教え導く――いう十王庁初の試みに、期待やら関心やらがあるんですよ』
一瞬の沈黙が永遠のように長く思えた後の、八瀬さんの答えがその言葉だった。
『何より王以上に地蔵菩薩様が期待されてるみたいで……話し合いの中で特に閻魔王様が提示された今回の代案を、誰より後押しされたのが彼の方やと聞いてます』
『地蔵菩薩様……』
『ご自分が賽の河原からすくい上げる子どもが、そのことで一人でも増えるのなら、と』
ここまでくると、もう十人の王の話以上に菜穂子の理解の範疇を越えている。
神は実在するのかと、今更なことを思ってしまったくらいだ。
『新規の部署の職場環境を整えるのは、あの世でもこの世でも基本中の基本でしょう。高辻先生が憂いなく先生としての仕事に全力を注いでくれはるのなら、ご主人をもう少し十王庁側に留め置くのも福利厚生の一環やないか、いう話になりましてね』
『福……それ、俺が言うのもなんやけどかなりの屁理屈と違うか』
唖然としながらも、福利厚生扱いされた祖父本人が、屁理屈ではないかと自己申告している。
『そんなことは皆分かってますよ』
だけど八瀬さんは、清々しいまでにその「屁理屈」を肯定していた。
『現代でも、優秀な女性に産後職場復帰してもらいやすいよう、会社内に託児所を設置してる所とかあると聞いてます。託児所はまあ、例としては極端ですけど、それに近い感覚で職場環境を整えたようなものです。あの世だろうがこの世だろうが、官吏の思いつくことなんて似たり寄ったり。本音と建前があろうと、玉虫色だろうと、関係者の中で落としどころが見つかったら、それでええんですよ』
『どこの政治家みたいなコト、言うとんのや』
『これでも一応閻魔王様の筆頭補佐官ですから』
『俺は褒めとらんぞ』
『僕には褒め言葉です』
『…………』
凄い。祖父が完全に言い負かされている。祖母に至っては、ぽかんと口を開けたままだ。
もちろん菜穂子は――文句など言うつもりもなかった。
結局のところ、閻魔王の提案と言う大きな後ろ楯があったにしても、八瀬さんはそれを武器に各部署との交渉あるいは折衝を繰り広げ、最終的には現状維持の上で祖母を迎え入れると言う力業を通してのけたのだ。
それは先代の閻魔王が、彼の登場と共に王の交代を決断するはずである。
恐らくは自分の後にそれまでの筆頭補佐官だった小野篁卿を据えるつもりは以前からあったにせよ、ではその後の筆頭補佐官をどうするという部分で二の足を踏んでいたところに、背中を押されたのだ。
冗談は抜きにして、もう千年くらいたてば、今度は彼が閻魔王を名乗るのではないかとさえ思えた。
『……どうかしはりましたか?』
呆れを通り越して、関心して見ていたのが伝わったのかどうか、八瀬さんがそう言って菜穂子の方を振り返った。
『いえいえ! その、何て言うか周囲が納得するように、おじいちゃんから一度おばあちゃんへの執着を手放すをの待ってはったんかな? と、思って』
『執着とはなんや、執着とは。人聞きの悪い』
傍で祖父がそんなことを愚痴っているが、そこは敢えて無視する。
どう考えてもヤンデレの執着だろう、なんて口が裂けても言えやしないのだから。
そんな菜穂子と祖父を見比べながら、八瀬さんは「ふふ」と、可笑しそうに口の端を持ち上げていた。
『奥様を待つ、言われて十人の王全員に土下座して回った、貴女のお祖父さんの行動力は、今や十王庁官吏の間でも語り草ですからね。しかも奥様――高辻先生の教職復帰に関しても強硬に反対されてた。そのご本人がようやく折れて、自分が身を引くことを決断した。まあそれだけでも話題性充分ですが、その潔さに王、あるいは地蔵菩薩様の御心が動いたと触れ回れば、さすがに誰も反対出来ませんでしょう?』
賽の河原で子どもたちを教えるという話にも、祖父が初江王の下に今のまま残ることにも。それでもまだ反対をするとなれば、今度は十王庁内での自分の立場が悪くなると、八瀬さんは言う。
王と地蔵菩薩の意思に反したことになるから、と。
『いや、高辻先生が教鞭をとられる「賽の河原の学校」の船出も明るくなろうというものです』
『く……っ』
『く?』
黒っ‼
うっかりそう言いかけて、菜穂子は慌てて言葉を呑み込んだ。たかが生まれてこの方十九年の自分では、どうしようもないところに八瀬さんはいると実感した。
さぞやお腹の中は黒いだろうな、などとうっかり口にしなかっただけでも頑張った方だ。
『ナ、ナンデモナイデス……』
それしか言葉に出来なかったけど、もしかしたら表情には出ていたかも知れない。
『ですが真面目な話、この件が無事に着地出来そうなのは、貴女が辰巳幸子――あの子との縁を思いがけず繋いできてくれたからやと思いますよ』
複雑な表情を浮かべていた菜穂子をよそに、八瀬さんはそう言って『感謝ですね』と、胸元に手を当てながら軽く頭を下げてきた。
幸子ちゃんとも、さっちゃんとも言わないあたり若干のわだかまりを感じるものの、もうそこは触れずにいようと内心で思う。
『やっぱり、お声がけしてよかった。これで無事に五山の送り火まで、例年通りにいけそうですし』
『あ……え……』
それより急に頭を下げられたことの方に戸惑いがあった。
とはいえ、言われてみればそれもそうかと菜穂子も腑に落ちるところはある。
確かにもうこれ以上、もめる要素はないのだ。辰巳幸子の家族、船井老人の行く末など、気にならないと言えば嘘になるが、それはもう、この場の誰にもどうしようもないことなんだろう。
あのおじいさんが亡くなって、三途の川を渡ろうというところに来るまでは、少なくとも現状維持になるだろうから。
『八瀬さん、その……』
『なんでしょう』
『もしかして、おじいちゃんとおばあちゃんと話出来るのは、これが最後いうことになります……?』
――例年通り。
そもそも、あの世とこの世の境界に引っ張り込まれていること自体が荒唐無稽、夢の延長のようなものだ。今まで通りのお盆行事がこの後は執り行われると言うのなら。
祖先の霊など、目に見えるはずもない。恐る恐る尋ねた菜穂子に、八瀬さんは柔らかい笑みを残したまま『……そうなりますね』と、答えをくれた。
『勝手にお呼びしといて何ですけど、もともと死んでもいないし意識不明の重体でもない人間がここにいること自体が、篁様以来のイレギュラーでしたからね』
どうやら亡くなる寸前の人間が、フライングのように迷い込むことは稀にあるらしい。
それでも菜穂子のように、まだピンピンしている人間が足を踏み入れるというのは、小野篁卿以来のことだったらしいのだ。
伝説上の人物と並列に語られたところで、菜穂子としても答えようがないのだが。
そんな、何ともいえない表情を見せる菜穂子を見て何を思ったのか、八瀬さんは『ただ』と、思いがけない話をその後に続けてきた。
『今回ご協力いただいた証は閻魔帳、もとい十王庁の記録にちゃんと残りますから、今後の人生の過ごされ方によっては、それこそ高辻先生のようにどこかしらにスカウトされる可能性も、無きにしも非ずですよ』
『『『え』』』
え、と声を発したのは菜穂子だけではない。
祖父と祖母も、驚いたように八瀬さんの顔を凝視した。
『どのくらいの寿命をお持ちかはここでは分かりませんけど、仮に八十年九十年あったとしても、そのくらいやったら確実に僕はまだ筆頭補佐官をやってるでしょうからね』
何せ前任者は千年以上でしたし。
そう言って笑う八瀬さんに、相槌を打っていいのかどうかも菜穂子には分からない。
『辰巳幸子次第かも分かりませんけど、ひょっとしたら高辻先生も、まだ賽の河原で先生をして下さってるかも知れません。その場合は、もれなく貴女のお祖父様も初江王様のところにいらっしゃるでしょうから、これっきり、言うのはさほど正確な表現やないように思いますね』
『……なるほど?』
辰巳幸子が納得して成仏していなければ、当然、祖母は賽の河原に「先生」として留まるだろう。
祖母が留まれば、祖父だって初江王の下から動くまい。
もしかしたら辰巳幸子が成仏していたとしても、残る別の子たちのために、そのまま残っているかも知れない。
『もし、その「賽の河原の学校」が軌道に乗ってたら、追加で職員雇ってもらう余地があるかも知れん言うことですか?』
八瀬さんの言葉を噛み砕きながら確認した菜穂子に、八瀬青年は「そう」とも「違う」とも言わなかった。
『確約出来ない話は、僕の立場では出来かねますが』
ただそれは、限りないイエスの返事じゃないかとも思えた。
『そっか……うん、分かった』
『菜穂子?』
ひと呼吸置いて、菜穂子は祖母の手を掴む――ことは出来ないので、ふわりと自分の手を祖母の手の近くに置いた。
『おばあちゃん、将来私が行くまでに、学校軌道に乗せといて』
『え?』
『おばあちゃんと交代でも、一緒に働くんでもいいよ。学校潰さんようにしといてくれたら、いずれまた会えるやろう?』
『それは……』
『そしたら、おじいちゃんも自動的に近くにいることになるんやろうし、一石二鳥やん』
祖母が賽の河原で「先生」をしている限りは、祖父は確実に初江王の下で働き続けるだろう。
聞かずとも分かる。
『お父さんと、お母さんまでそこで働けるかは分からへんけど、最悪は私がどこかの王様の審議にかかる時に生前の証人で呼んでくれたりしたら、ちょっとだけでも皆で会えるわけやし。そやから、出来たら私が行くまでは、今のところで待っててくれたら嬉しいな』
『菜穂子……』
『あほか。そんなもん、ホイホイと約束出来るか。うっかりおまえが早ようにこっち来たらどないするつもりや。あっちでなんぼでも長生きしとけ』
目を潤ませている祖母とは対照的に、やっぱり口の悪い祖父は、そんなことを言いながらそっぽを向いている。
『あはは……こればっかりは、どうにも分からへんやん。まぁ、待てたら待っといてよ』
『……ふん』
『そやねぇ』
祖父も祖母も、それは「否」ではないだろうと、菜穂子には思えた。
そう、信じようと思う。
一番くらいなら「さっちゃん」の歌を目の前で歌われたからといっても、可愛いものだ……で済むだろう。
なら、その先まで本人の意思と関係なく聞かされてしまったとしたら?
ある意味「いじめ」じゃなかろうかと顔を顰めた菜穂子に、祖母は何ともいえない表情を返してきた。
『まあ、イジメるつもりはなくて揶揄いたかっただけかも知れへんけど、子どものやること考えるこというのは、小学校だろうと賽の河原だろうと変わらへんからねぇ……』
否定をしないと言うことは、祖母自身も内心ではそう思っているということだ。
辰巳幸子《さっちゃん》は無自覚の内に傷つけられてきた可能性がある、と。
歌を――「さっちゃん」の歌を歌えと言うのは、もしかしたら辰巳幸子自身が、四番以降なんて存在しないことを祖母に明言して欲しいからではないだろうか。
単なる我儘、癇癪では済ませられないところまで、既に来ているのかも知れない。
そんな風に菜穂子が思っている傍で、八瀬さんが不意に動いた。
『八瀬さん?』
『八瀬君?』
訝しむ菜穂子と祖母をすり抜けるようにして、部屋の扉にそっと手をかける。
『――そろそろ、結論出たんと違いますか』
そう言って、開けられた扉の向こうには。
『おじいちゃん……?』
腕組みをして、しかめっ面の祖父がその場に立ち尽くしていた。
『……ヘンな歌、歌われとったわ』
『え?』
『あのガキンチョ、どっかの知らん子に「おまえも電車で足無くしたんか」って言われて、泣きそうな顔で震えとったんや』
『……っ!』
あまりに思いがけない、だけどタイムリーなその話に、菜穂子たちも思わず顔を見合わせてしまった。
『よっぽど、言うてる方のガキをしばき倒したろかと思たけどな。俺はここの官吏でも何でもないさかいに「あほなコト言うてんと、去ね!」言うてやるくらいしか、出来へんかった』
『おじいちゃん……』
『そもそもなんやねん、あの歌。俺でもあんなでたらめな歌詞聞いたことないぞ』
『あー……うん、都市伝説言うか、何や子どもならではの替え歌が、いつの間にやら歪んでしもたらしくて』
『は? そんな胸糞悪い話が野放しになっとんのか』
さすがの祖父も「有り得ない」と憤慨しているが、こればかりは既に年月をかけて、歪んだ方向とはいえ定着しかかってしまっているだけに、誰にもどうすることも出来ない。
『うーん……まあ、ほら今、ちゃんとコトの善悪を教えれるような人がおらん、いう話やし? なるべくしてなった事態という気も……』
仕方がない、で物事を片付けるなと言い合ったばかりだ。
菜穂子は頭をひねった末に「なるべくしてなった」と、少し言い方を変えて祖父に告げた。
もしかしたら、そんな菜穂子の言いたいことに察しがついたのかもしれない。祖父はそのまま、むすっとした表情のまま再び部屋の中へと入って来た。
『……ちゃんとした「先生」がおらんからや、言いたいんか』
『あー……うん、まあ……そんなトコ』
『監視する官吏はおるけどな』
『そやけど、それだけやと不十分やから今みたいな成り行きになってるコトない?』
『…………』
無言は肯定。
そんな気がした。
『確かに、ちょっと前までは言い伝え通りに、子どもが積み上げる石を蹴って崩す担当者がいたらそれで良かったみたいなんですけどね。時代と共に色んな子どもが出てくる。積み石を崩したところでまったく堪えへん子も、それは出てきます。賽の河原に「先生」が欲しい言うのも、あながち僕の我儘だけやないんですよ』
誰を「先生」として推薦するかは、ゴリ推ししたかもしれませんが――。
そんなことを言いながらも、八瀬さんの表情も至極真面目だった。
『現代社会でも「学級崩壊」言う単語が出て来てますでしょう。現代で起きることは、死者の世でだって起きかねない。いえ、現に今、起きかかってるんですよ』
賽の河原の学級崩壊。
荒唐無稽なようでいて、現に辰巳幸子は、無自覚のいじめの標的にされつつある。
それは今、この場にいる全員が実感したことだ。
『――ぜひ、高辻先生の力を十王庁に貸して下さい。貴方のお迎えで途絶えてしまった先生の教師生活を、もう少し続けさせてあげて下さい』
『!』
八瀬さん年が、そう言って深々と祖父に向かってそこで頭を下げた。
九十度よりも、深々と。
『……俺が戦地から帰って来て、その足で志緒を迎えに行ったことが悪いとでも言うんか』
唇と拳、どちらも切れてしまいそうなほどに強く噛みしめ、握りしめられている。
そんな祖父が八瀬さんにぶつける声も、震えていた。
『いえ、それは……』
『おまえの言い方やと、そうとしか聞こえんやないか!』
『おじいちゃん!』
『俺が……俺が、どんな思いで戦地から……っ』
思わず祖父に触れようと菜穂子は近付いたものの、実際に手や服に触れることが出来ない。
実際に血が流れるわけではないけれど、それでも思わず止めたくなるくらいには強い動作だ。
あの世とこの世、その境を思わぬところで見せつけられたようで、菜穂子も伸ばそうとした手を途中で急停止させるしかなかった。
『すみません。そればかりは、僕には分からない。この場の誰にも「気持ちはよく分かる」なんて傲慢なことは言えません。戦地へ赴いた人の思いを忖度することは傲慢と冒涜だ。それは僕ですら理解が出来る。――ただ』
ただ、の後あえて言葉を区切った八瀬さんに、祖父がその場でピクリと反応を見せた。
その先、何を言わんとしているのかは菜穂子にも分かった。分かったからこそ、八瀬さんが言ってはいけない気がした。
多分、反発しか生まないだろうから。
『おじいちゃん』
だからその先は、菜穂子が引き受けることにした。
『――おばあちゃんの希望、優先してあげよ?』
『『菜穂子』』
祖父母の声が、そこで重なる。
夫婦仲の良さを揶揄うべきか、一瞬だけ迷いが生じたものの、菜穂子は頭を振ってその考えを自身の中から追い出した。
『さっきも言うたけど、多分このまま……極楽浄土でも天道でもええんやけど、そこへ行ってしまうのは、絶対おばあちゃん心残りになるよ』
『心残り……』
『おじいちゃんも、辰巳幸子見たよね? 絶対、気になってるよね? おばあちゃんなんて、元々教えてはったんやから、おじいちゃん以上に気になってて当たり前やと思わへん?』
『…………』
言葉を失くして口を閉ざす祖父を横目に、菜穂子は今度は祖母の方へと向き直った。
『おばあちゃんも、ほら、今はもう女性が耐えて忍ぶ時代やないよ? おばあちゃんの希望を口にしたって、全然ええと思うよ?』
耐えて忍ぶは淑女の鑑。そんな時代は、とうに過ぎたはずだ。
『おじいさ――いいえ、あなた』
やがてそう言って祖母が顔を上げたのは、どのくらい経過してからのことだっただろうか。
もしかしたら、祖母から「おじいさん」以外の言葉で呼びかけられるのは久しぶりだったのかも知れない。
祖父が驚いたように祖母を凝視していた。
いや。だからこそ、祖母の言いたいことが分かったのかも知れない。祖母を見つめるその表情は、絶望とも諦めとも取れる表情だった。
『私に、ここで「先生」続けさせて貰えますか』
『志緒……』
『正直言うて、色んな王様に掛け合ってまで待っててくれて、嬉しかった。終戦後のあの日、夕陽差し込む小学校に迎えに来てくれたんと同じくらいに嬉しかった。もう充分「深町志緒」の人生は報われました』
『……報われた』
『はい。そやから最後のお願いです。どうか私に「高辻志緒」の人生も全うさせて下さい。迷って行き場を失ってる教え子と、他にも賽の河原でしんどい思いをしてる子らを世話させて下さい。あの子らを地蔵菩薩様の所へ送り出せたら、そしたら今度こそ、閻魔王様の審議に従って次の道に進もうと思てます。胸張って進めると思てます』
『俺は……もう用済みか?』
『そんなこと言うてません! 次の道がどこの道かは分かりませんけど、その更に先、生まれ変われるんやったら、またそこで会えたらええと思てます。また、あの小学校に来てくれたみたいに迎えに来てくれはったらええやないですか』
そう言って笑った祖母に、祖父もくしゃりと顔を歪めた。
『それでまた……「どちらさんですやろ」言われんのか?』
『あれは……! いきなり名乗りもせんと「俺や」とか言わはるから! 今度会う時は、ちゃんと名乗って下さい!』
『そうか……そう言われると返す言葉もないな……』
低い笑い声が少し震えていたのは、多分気のせいじゃないだろう。
一度だけ俯いて――そうして祖父は、今度はしっかりと顔を上げた。
『そしたら、俺はもうお役ご免やな。大人しく冥土の裁きに従うことにするわ』
『おじいちゃん……』
祖母の望みを叶えてやれ、と言ったのは菜穂子だ。それでも、胸を刺した痛みまでは菜穂子自身にもどうしようもなかった。
『長いことお騒がせしましたな、八瀬さん。この後どこに行ったらええんか、教えてくれるか』
『あなた……』
『……よろしいんですか?』
問いかける八瀬さんの表情からは何も読み取れない。けれど祖父は、それに反発することはなかった。
『深町志緒としては満足した、言われたら……俺は何も言われへんしな。高辻志緒としての思い出まで俺が縛ってしまうのは、筋が違う。まあ、本当やったら、丸ごと俺のモンでいて欲しかったけどな』
(おじいちゃん、真顔のヤンデレ発言)
――高辻志緒としての人生も、全うさせて欲しい。
どうやら祖父は、そこに反論の余地を見出せなかったようだ。
本人の笑顔を奪うようでは、ヤンデレの風上にもおけないといったところだろうか。
祖母がこちらから顔をそむけているのは、多分、間違いなく祖父の最後の発言に反応して、照れているからだろう。
『……菜穂子、おまえ何やあほなこと考えてへんか』
『へ!? いやいや、まさか!』
ニヤニヤ笑いかけてあわてて表情を引き締めた、そんな菜穂子の心の内を見透かしたかのように、祖父は半目になっていた。
菜穂子はあわてて顔と手をぶんぶんと横に振った。
『おじいちゃん、思い切ったなぁ……って、うん、オトコマエやん!』
『やっぱり、あほなこと考えとったやないか』
褒めたつもりが呆れた表情をされてしまったが、それも一瞬のことで、やがてふと口元を綻ばせた。
『……本当、ええ年齢して仕方がない奴やな』
仕方がない奴や。
生前からの、祖父の口癖。
それをまた聞くことが出来たのは、菜穂子にとっても思いがけない贈り物だった。
『ええ年齢って! 私まだ、ぴちぴちの十代なんやけど!?』
――口に出しては、それを言わなかったが。
『そしたら、まあ……この後何処に行ったらええんか、いう話ですけど』
それまでは菜穂子と祖父母のやりとりをジッと見守っていた八瀬さんが、そこで会話を引き取るように口を開いた。 話がひと段落した、と思ったのかも知れない。
『ああ』
祖父もそこで、綻ばせていた口元を引き締めるように、八瀬さんを見返した。
『初江王様が、雑用係の雇用延長を認めて下さいました』
『『『えっ!?』』』
ところが、誰一人思いもよらなかったその発言に、深町家全員が、それぞれに間の抜けた声を上げてしまった。
『八瀬君……?』
驚きから立ち直ったのは、祖母が早かっただろうか。
皆の疑問を代弁するかのように、八瀬さんに疑問の声を発していた。
問われた八瀬さんは『はぁ……』と、大仰とも取れるため息を吐き出していた。
『ご自身で納得して、高辻先生のことを手放して下さるなら――との条件付きやったんで、ここまで黙ってたんですよ。本当はもっと前から、落としどころとしてその選択肢はあったんですけどね。篁様、いえ閻魔王様がその代案をお考えになられて、初江王様を始め他の王も了承なされたとのことで』
『八瀬君、それ、無茶してない? 八瀬君のこの先のお仕事に影響あったりせえへん? そもそも、一人一人の希望を聞いてたらキリがない言う話やなかった?』
落としどころと言われれば、祖父母にとってはこれ以上ない落としどころだろう。
三途の川を挟むとは言え、先の見えない離れ離れとはわけが違う。
八瀬さんが、何かごり押しをしたのではないか。それぞれの王から不興を買ったり、閻魔王筆頭補佐官としての立場に悪影響を及ぼしたりはしないか。
祖母の心配は当然だ。菜穂子でも、そこは気になるくらいだ。祖父も無言ながら、気になっていることは間違いないだろう。
三人は固唾を呑んで、八瀬さんの言葉の続きを待った。
『確かに異論がなかったとは言いません。これが高辻先生やなかったら、ここまでのことをしたのかと言われれば、僕も否定はしきれませんから。ただそれだけどこの部署でも、賽の河原で子どもたちを教え導く――いう十王庁初の試みに、期待やら関心やらがあるんですよ』
一瞬の沈黙が永遠のように長く思えた後の、八瀬さんの答えがその言葉だった。
『何より王以上に地蔵菩薩様が期待されてるみたいで……話し合いの中で特に閻魔王様が提示された今回の代案を、誰より後押しされたのが彼の方やと聞いてます』
『地蔵菩薩様……』
『ご自分が賽の河原からすくい上げる子どもが、そのことで一人でも増えるのなら、と』
ここまでくると、もう十人の王の話以上に菜穂子の理解の範疇を越えている。
神は実在するのかと、今更なことを思ってしまったくらいだ。
『新規の部署の職場環境を整えるのは、あの世でもこの世でも基本中の基本でしょう。高辻先生が憂いなく先生としての仕事に全力を注いでくれはるのなら、ご主人をもう少し十王庁側に留め置くのも福利厚生の一環やないか、いう話になりましてね』
『福……それ、俺が言うのもなんやけどかなりの屁理屈と違うか』
唖然としながらも、福利厚生扱いされた祖父本人が、屁理屈ではないかと自己申告している。
『そんなことは皆分かってますよ』
だけど八瀬さんは、清々しいまでにその「屁理屈」を肯定していた。
『現代でも、優秀な女性に産後職場復帰してもらいやすいよう、会社内に託児所を設置してる所とかあると聞いてます。託児所はまあ、例としては極端ですけど、それに近い感覚で職場環境を整えたようなものです。あの世だろうがこの世だろうが、官吏の思いつくことなんて似たり寄ったり。本音と建前があろうと、玉虫色だろうと、関係者の中で落としどころが見つかったら、それでええんですよ』
『どこの政治家みたいなコト、言うとんのや』
『これでも一応閻魔王様の筆頭補佐官ですから』
『俺は褒めとらんぞ』
『僕には褒め言葉です』
『…………』
凄い。祖父が完全に言い負かされている。祖母に至っては、ぽかんと口を開けたままだ。
もちろん菜穂子は――文句など言うつもりもなかった。
結局のところ、閻魔王の提案と言う大きな後ろ楯があったにしても、八瀬さんはそれを武器に各部署との交渉あるいは折衝を繰り広げ、最終的には現状維持の上で祖母を迎え入れると言う力業を通してのけたのだ。
それは先代の閻魔王が、彼の登場と共に王の交代を決断するはずである。
恐らくは自分の後にそれまでの筆頭補佐官だった小野篁卿を据えるつもりは以前からあったにせよ、ではその後の筆頭補佐官をどうするという部分で二の足を踏んでいたところに、背中を押されたのだ。
冗談は抜きにして、もう千年くらいたてば、今度は彼が閻魔王を名乗るのではないかとさえ思えた。
『……どうかしはりましたか?』
呆れを通り越して、関心して見ていたのが伝わったのかどうか、八瀬さんがそう言って菜穂子の方を振り返った。
『いえいえ! その、何て言うか周囲が納得するように、おじいちゃんから一度おばあちゃんへの執着を手放すをの待ってはったんかな? と、思って』
『執着とはなんや、執着とは。人聞きの悪い』
傍で祖父がそんなことを愚痴っているが、そこは敢えて無視する。
どう考えてもヤンデレの執着だろう、なんて口が裂けても言えやしないのだから。
そんな菜穂子と祖父を見比べながら、八瀬さんは「ふふ」と、可笑しそうに口の端を持ち上げていた。
『奥様を待つ、言われて十人の王全員に土下座して回った、貴女のお祖父さんの行動力は、今や十王庁官吏の間でも語り草ですからね。しかも奥様――高辻先生の教職復帰に関しても強硬に反対されてた。そのご本人がようやく折れて、自分が身を引くことを決断した。まあそれだけでも話題性充分ですが、その潔さに王、あるいは地蔵菩薩様の御心が動いたと触れ回れば、さすがに誰も反対出来ませんでしょう?』
賽の河原で子どもたちを教えるという話にも、祖父が初江王の下に今のまま残ることにも。それでもまだ反対をするとなれば、今度は十王庁内での自分の立場が悪くなると、八瀬さんは言う。
王と地蔵菩薩の意思に反したことになるから、と。
『いや、高辻先生が教鞭をとられる「賽の河原の学校」の船出も明るくなろうというものです』
『く……っ』
『く?』
黒っ‼
うっかりそう言いかけて、菜穂子は慌てて言葉を呑み込んだ。たかが生まれてこの方十九年の自分では、どうしようもないところに八瀬さんはいると実感した。
さぞやお腹の中は黒いだろうな、などとうっかり口にしなかっただけでも頑張った方だ。
『ナ、ナンデモナイデス……』
それしか言葉に出来なかったけど、もしかしたら表情には出ていたかも知れない。
『ですが真面目な話、この件が無事に着地出来そうなのは、貴女が辰巳幸子――あの子との縁を思いがけず繋いできてくれたからやと思いますよ』
複雑な表情を浮かべていた菜穂子をよそに、八瀬さんはそう言って『感謝ですね』と、胸元に手を当てながら軽く頭を下げてきた。
幸子ちゃんとも、さっちゃんとも言わないあたり若干のわだかまりを感じるものの、もうそこは触れずにいようと内心で思う。
『やっぱり、お声がけしてよかった。これで無事に五山の送り火まで、例年通りにいけそうですし』
『あ……え……』
それより急に頭を下げられたことの方に戸惑いがあった。
とはいえ、言われてみればそれもそうかと菜穂子も腑に落ちるところはある。
確かにもうこれ以上、もめる要素はないのだ。辰巳幸子の家族、船井老人の行く末など、気にならないと言えば嘘になるが、それはもう、この場の誰にもどうしようもないことなんだろう。
あのおじいさんが亡くなって、三途の川を渡ろうというところに来るまでは、少なくとも現状維持になるだろうから。
『八瀬さん、その……』
『なんでしょう』
『もしかして、おじいちゃんとおばあちゃんと話出来るのは、これが最後いうことになります……?』
――例年通り。
そもそも、あの世とこの世の境界に引っ張り込まれていること自体が荒唐無稽、夢の延長のようなものだ。今まで通りのお盆行事がこの後は執り行われると言うのなら。
祖先の霊など、目に見えるはずもない。恐る恐る尋ねた菜穂子に、八瀬さんは柔らかい笑みを残したまま『……そうなりますね』と、答えをくれた。
『勝手にお呼びしといて何ですけど、もともと死んでもいないし意識不明の重体でもない人間がここにいること自体が、篁様以来のイレギュラーでしたからね』
どうやら亡くなる寸前の人間が、フライングのように迷い込むことは稀にあるらしい。
それでも菜穂子のように、まだピンピンしている人間が足を踏み入れるというのは、小野篁卿以来のことだったらしいのだ。
伝説上の人物と並列に語られたところで、菜穂子としても答えようがないのだが。
そんな、何ともいえない表情を見せる菜穂子を見て何を思ったのか、八瀬さんは『ただ』と、思いがけない話をその後に続けてきた。
『今回ご協力いただいた証は閻魔帳、もとい十王庁の記録にちゃんと残りますから、今後の人生の過ごされ方によっては、それこそ高辻先生のようにどこかしらにスカウトされる可能性も、無きにしも非ずですよ』
『『『え』』』
え、と声を発したのは菜穂子だけではない。
祖父と祖母も、驚いたように八瀬さんの顔を凝視した。
『どのくらいの寿命をお持ちかはここでは分かりませんけど、仮に八十年九十年あったとしても、そのくらいやったら確実に僕はまだ筆頭補佐官をやってるでしょうからね』
何せ前任者は千年以上でしたし。
そう言って笑う八瀬さんに、相槌を打っていいのかどうかも菜穂子には分からない。
『辰巳幸子次第かも分かりませんけど、ひょっとしたら高辻先生も、まだ賽の河原で先生をして下さってるかも知れません。その場合は、もれなく貴女のお祖父様も初江王様のところにいらっしゃるでしょうから、これっきり、言うのはさほど正確な表現やないように思いますね』
『……なるほど?』
辰巳幸子が納得して成仏していなければ、当然、祖母は賽の河原に「先生」として留まるだろう。
祖母が留まれば、祖父だって初江王の下から動くまい。
もしかしたら辰巳幸子が成仏していたとしても、残る別の子たちのために、そのまま残っているかも知れない。
『もし、その「賽の河原の学校」が軌道に乗ってたら、追加で職員雇ってもらう余地があるかも知れん言うことですか?』
八瀬さんの言葉を噛み砕きながら確認した菜穂子に、八瀬青年は「そう」とも「違う」とも言わなかった。
『確約出来ない話は、僕の立場では出来かねますが』
ただそれは、限りないイエスの返事じゃないかとも思えた。
『そっか……うん、分かった』
『菜穂子?』
ひと呼吸置いて、菜穂子は祖母の手を掴む――ことは出来ないので、ふわりと自分の手を祖母の手の近くに置いた。
『おばあちゃん、将来私が行くまでに、学校軌道に乗せといて』
『え?』
『おばあちゃんと交代でも、一緒に働くんでもいいよ。学校潰さんようにしといてくれたら、いずれまた会えるやろう?』
『それは……』
『そしたら、おじいちゃんも自動的に近くにいることになるんやろうし、一石二鳥やん』
祖母が賽の河原で「先生」をしている限りは、祖父は確実に初江王の下で働き続けるだろう。
聞かずとも分かる。
『お父さんと、お母さんまでそこで働けるかは分からへんけど、最悪は私がどこかの王様の審議にかかる時に生前の証人で呼んでくれたりしたら、ちょっとだけでも皆で会えるわけやし。そやから、出来たら私が行くまでは、今のところで待っててくれたら嬉しいな』
『菜穂子……』
『あほか。そんなもん、ホイホイと約束出来るか。うっかりおまえが早ようにこっち来たらどないするつもりや。あっちでなんぼでも長生きしとけ』
目を潤ませている祖母とは対照的に、やっぱり口の悪い祖父は、そんなことを言いながらそっぽを向いている。
『あはは……こればっかりは、どうにも分からへんやん。まぁ、待てたら待っといてよ』
『……ふん』
『そやねぇ』
祖父も祖母も、それは「否」ではないだろうと、菜穂子には思えた。
そう、信じようと思う。


