六道さんで逢いましょう

『――八瀬様』

 祖父母が昔を懐かしみ、菜穂子が初めて聞く話にあれこれ驚いていた頃。
 閉められたドアの向こうから、八瀬さんを呼ぶ男性と思しき声が小さく聞こえてきた。

『餓鬼道の獄卒からこちらを預かってきました』

 そう言って、姿無く二つ折りにされた紙だけが扉の隙間から差し込まれる。
 どうやら死者ではない菜穂子の存在を鑑みて、祖父母と八瀬さん以外、出来る限り菜穂子には接触をさせないようにと取り計らわれているらしかった。

『ああ……』

 そしてその中身を一瞥した八瀬さんの表情は、お世辞にも良い報告と思える表情(それ)ではなかった。

『八瀬君? 本来のお仕事が立て込んでるんやったら、行ってくれても構へんよ? 少しの間くらいやったら、ここで菜穂子と喋ってるさかいに』

 おい、と祖父のツッコミが速攻入っているけれど、祖母はにこやかにそれを無視(スルー)している。

『ああ……いえ、何と言いますか……餓鬼道の獄卒が、辰巳一家と接触出来たみたいなんですけどね』

 どうやらさっきまで聞いていた「調査結果」は、あくまで八瀬さんが秦広王筆頭補佐官から聞いた情報だったということで、ここへ来て情報が直接上書きをされたようだ。

『どのツラ下げて……か。まあ、ある意味自己防衛ではあるんでしょうね』

 呟くその表情は、とても苦々しげだ。

『八瀬さん?』
『いえね。どうやら辰巳一家(むこう)は、誰一人として幸子(あのこ)には会いたくないらしいんですよ』
『え?』

 ポカンと口を開けたのは菜穂子だけではない。

『血の繋がった家族やのに、そんなこと言うてはるの?』

 驚いたように問いかけた祖母も同様だ。
 祖父だけは無言のまま、ただ目だけを細めていた。

『こればっかりは……血の繋がりがかえって憎しみに繋がることもありますし。まあ、僕もここで色々と見てきましたから、そこは諸手を上げて先生の味方いうのは出来ひんのですけど』

 辰巳幸子(さっちゃん)を見殺しにしてしまった自分たちが、今更どのツラ下げて声などかけられるのか――と、そう餓鬼道の獄卒に語ったんだそうだ。
 どうやら八瀬さんは、彼らの意思次第で、真実を映す「浄玻璃(じょうはり)の鏡」とまでは言わないが、各王の補佐官が持つ連絡用の鏡を転用して、餓鬼道と賽の河原を一時的に繋いで互いに会話をさせることを考えていたらしかった。
 ただ、肝心の辰巳一家の方にそれを固辞されてしまったのだ。

『そこだけ切り取って聞くと、後悔と悔悟の涙に濡れて餓鬼道で罪を償おうとしているように聞こえるんですけど……』
『八瀬さんは、違うと思てはるんですか?』

 何となく、答えを聞かずとも表情がもう「そうだ」と言っている気がしたが、菜穂子も聞かずにはいられなかった。
 せめてそうあって欲しいとの願望が、そうさせたのかもしれない。

『それはもちろん、多少はそんな思いもあるとは思いますよ? ただ一番の理由は、目の前に再び自分達が犯した罪の象徴が現れるのが嫌なんやないかと思うんですよね。何年餓鬼道で飢えの責め苦を受けているのかは分かりませんけど、恐らくは「この上まだ自分達は新たに苦しまないといけないのか」と……そっちの思いの方が強いんやないかと』

 餓鬼道とは、満たされることのない飢えと乾きに苦しむ世界だと言われている。
 生前に、強欲、嫉妬、貪りの心に囚われた人が主に餓鬼道に落ちると言われていて、食糧難の折に一人分を切り捨てて、自分達の飢えを満たそうとした辰巳一家は、確かに餓鬼道行きと言われても仕方がない状況ではあったのだ。

『未だに彼らがそこから抜け出せていないのは、本質のところでは「あの時代は仕方がなかった」と言う責任の転嫁があるからやと思いますよ。たとえ無意識にせよ、そこに向き合いたくないんでしょうね』

 仕方がない。
 それで済まされたとしたら、辰巳幸子(さっちゃん)の立場はどうなるのか。

『将来は分かりませんよ? 辰巳家の関係者ではなく、洋子の嫁ぎ先の船井家の関係者が三途の川を渡ったところで、もしかしたら心境が変化する可能性もある。本音と向き合おうと思えるようになるかも知れない。ただ……今は、これでは無理ですね。皆さんやったら、どう思います? 家族に会わせてあげる言われて、実際に()うてみたら「ごめんね、あの時は仕方がなかったんよ」――とか言われたら』
『…………』

 菜穂子も、祖父も祖母も、八瀬さんのその言葉には、返す言葉なく絶句してしまった。

『……ゴメンで済んだら警察いらん、とはよう言うたもんやな』

 ガキンチョ呼ばわりして、ケンカ腰だった祖父が一番眉間に皺を寄せているのは、菜穂子としてはやや意外だった。

『親姉妹(きょうだい)は会いたがらん。本人は小学校に未練がある。そら、いつまでたっても賽の河原から出られんわけやわな』
『おじいちゃん……』

 子どもたちは賽の河原で石を積む。
 石は徳。何度も何度も積むことで、その思いが親に届いて、地蔵菩薩に届いて、最後救われる。
 ではその子自身に問題がないにも関わらず、親に思いが届かない場合は……?

『正直、八十年かそこらでは、地蔵菩薩様も動かれないでしょうねぇ……』

 十王庁における一年と、人の世における一年とではとらえ方がまるで違うのだと八瀬さんがため息を(こぼ)す。
 先代の閻魔王自体が千年以上その地位にいたそうだから、それを聞いてしまえば確かに「たかが八十年」なのかも知れない。

『じゃあ、辰巳幸子(さっちゃん)はまだまだ当分賽の河原に……?』
『そうなりますね』

 目こぼしとか、例外とかないものなのかと思った菜穂子を嘲笑うつもりはもちろんなかっただろうが、それでも八瀬さんの声に迷いはなかった。
 毎日、毎月、毎年。
 人の世から死者の世へと渡ってくるものは後を絶たない。
 その中のただ一人に目をかけると言うことは、本来相当に無理を通すことになる。

 恐らく、祖父が祖母を待ち続けたことに関しては別の補佐官あるいは王が、祖母を賽の河原で子どもたちの「先生」になってもらおうとしていることに関しては八瀬さんが、それぞれにかなりの無理を通しているはずだ。
 この上辰巳幸子(さっちゃん)に対して、誰か何か便宜を図るということは、十王庁の誰にとっても難しいことになるのかもしれなかった。

『……おじいちゃん』
『!』

 もしかしなくても、菜穂子の声色から言わんとすることを察したんだろう。祖父の肩がピクリと揺れたように見えた。

『ずっと、とは言わへんけどさ……せめて、辰巳幸子(さっちゃん)が賽の河原からすくい上げられるまでだけでも、おばあちゃんに先生させてあげられへんかなぁ?』
『……菜穂子』
『おじいちゃんはさ、もう、おばあちゃんにはゆっくりして欲しいんやって言うてたけど、あの子を教えるのって、そんなにおばあちゃんに負担がかかることかな? むしろこのまま、おばあちゃんが次の王様のところに行ってしまう方が、後悔しはらへん?』
『…………』

 顔色を窺うように問いかけた菜穂子に対して、祖父は唇を噛みしめ拳を握りしめて、黙り込んだ。
 もともと、そう饒舌だったわけではない。男は黙って――というような不言実行が美徳とさえされていた時代の人だ。今この瞬間何を思っているのかなどと、菜穂子に分かるはずもなかった。

『……ちょっと表で頭冷やしてくる』

 扉の向こうに行かれてしまうと菜穂子は追いかけようがなくなってしまうのだが、かと言って今のこの段階で、引き止める方法も言葉も思い浮かばない。

『まあ……すぐ戻って来はると思うえ』

 だから長年連れ添った祖母の言葉を信じるよりほかはなかった。

『秦広王様のところの官吏もあちこちに居てますから、大丈夫や思いますよ。もしかしたら、辰巳幸子(あの子)の様子を見に行かはったのかもしれませんし。頭の中を整理したくならはったんと違いますか』

 そして八瀬さんも、そう言って祖母の言葉を後押しした。

『あの……八瀬さん』
『はい』
『真面目な話、ここでおばあちゃんが「残る」となったら、おじいちゃんの待遇ってどうなるんですか?』

 祖母にはここで先生をさせてあげて欲しいと言ったものの、その結果祖父はどうなるのかと言えば、そこのところは聞けていないままだった。

『再就職って難しいんですか?』

 聞いてみます、は確約ではない。本当に聞いてみてくれているのかも確かめようがない。
 本音と建前が見え隠れするのは、多分あの世でもこの世でも同じ。
 実際の感触を、菜穂子は知りたかった。

『……貴女のお祖父様次第ですね』

 祖父が出て行った扉を見ながら、八瀬さんは静かに呟いた。

『生者の世界でも「ひと目顔を見られればそれでいい」って思っていたはずが、実際に見た途端にそれ以上の欲が出てくる人っていますよね』
『まあ、そうですね』

 八瀬さんが何を言わんとしているのかがとっさに分からず、菜穂子は瞬きをする。

『さすがにね、高辻先生の近くで働きたいとまで言われると無理があるんですよ。今、初江王様の所で雑用係してはるのは、生前の区役所勤務経験と、たまたま欠員が出ての需要があったからこそ。それ以上は十王庁の根幹に関わると、どの王も危惧されてるんです』

 あの人の希望は聞いて、自分の希望は聞いてくれないのか。あるいは、ゴネれば何とでもなるのではないか――等々。
 ある意味「死者の国の司法機関」である十王庁が、必要以上に融通の利く場だと思われてしまうのは困るのだろう。
 今の所で雑用係を続けさせてもらうか。ひと足先に、六道の世界へ足を踏み入れるか。
 祖父の場合は、その二択になる。それが精一杯の選択肢だろうと、八瀬さんは言ったのだ。

『私とあの人は……同じ行先にはならへん、いうことやね八瀬君』
『!』

 それまでのやり取りをどう見ていたのか、不意に祖母がそう口を開いた。

『おばあちゃん……?』
『先生……』
『お国のためやった言うても、あの人は戦地で戦ってきた人やさかいにね。辰巳幸子ちゃんの家族の方と同じや言われたら、何も言われへんのかもしれへんね』
『……っ』
『それにさんざん、私に「天国行け」ばっかり言うてたしねぇ……裏を返したら、そこに自分のことは入ってない()う話になるさかいに』

 目を瞠る私の隣で、八瀬さんは苦しげに表情(かお)を歪めていた。

『先生……僕からはそれは言えません。これでも閻魔王様の筆頭補佐官。守秘義務がありますから……』
『ああ、そうやったね。そやけどまあ、同じ所には行かれへんから、今回みたいな特例が認められてるようなところがあるんと違う? もちろん、土下座してまでお願いしてくれてはったのもあるとは思うんやけど』
『…………』

 元からある結論の実行を、祖父自身の熱意が踏み留まらせた。
 それがギリギリ、十王庁の根幹に触れないための妥協点だったとしたら。

 ――きっと、祖母の考えは正しい。
 六道の中のどの世界に行くことになるのかは分からなくとも。同じではないことだけは予測がついたのだ。
 菜穂子にも。

『おじいちゃんは……元から分かってた……?』
『戦争を経験した人間の行先は、貴女のお祖父様が先生を待っていらした間だけでも何人も見てきたはりますからね。いくら戦争関係者の審議がもめがちでも限度がある。戦争を知らない世代と同じように審議してもらえるとしたら、空襲の被害にあった一般市民くらい――ということくらいはうっすら理解してはると思いますよ』

 だからこその「ひと目」会いたい、だったのでは。
 直接的な肯定ではないにせよ、それは肯定と同じではないかと菜穂子には思えた。

『もう、とっくに「ひと目」は超えてますしね。実際に「ひと目」()うて心境がどのくらい変わってはるか。まぁ……先生の言う「()よ天国行け」な心境自体には変化はなさそうな気もしますけど』
『……確かに』

 祖父が何を思って表に出て行ったのかなどと、今の菜穂子には確かめようがない。
 戻って来るまでは手をこまねいて様子をみているしかなさそうだった。

『たとえ後悔して、供養を欠かさずやってたとしても、心のどこかに「仕方がなかった」いう思いが残ってたら台無しなんやろうかね……』

 まるで閉ざされた扉のすぐ向こうに辰巳一家がいるかのような、そんな表情で祖母がポツリと呟いた。

『あのさ、おばあちゃん。何となくやけど……辰巳幸子(さっちゃん)が納得して、それを言うんやったらええと思うけど、ご両親やら妹さんやらがそれを言うのは、何か違う気がするわ……』

 祖母が亡くなった時、親戚の誰かが「高齢やったし、仕方がない」と言ったとかで、後で父と母が激怒していた。
 何歳になろうと親が亡くなってるのに、仕方がないも何もないだろう! と、言っていた。
 状況は違うかも知れない。けれど「仕方がない」を、本人以外が口にすることは「違う」という点では、中身は同じことなんじゃないかと菜穂子は思ったのだ。

『そうか……そうなんかも知れへんねぇ……』

 思わぬことを言われた、と言う表情で祖母はしばらく菜穂子をまじまじと眺めていた。

『なんや、おばあちゃんより菜穂子の方がしっかりしてるなぁ』
『そんなことない、そんなことない! たまたまやって、きっと!』
『そうか? ()うたこともない幸子ちゃんを気にかけてあげたりしてるあたり、菜穂子も案外、おばあちゃんみたいに「先生」とか向いてそうな気がするえ?』
『いやいや、まさか! それは多分、前田珈琲で船井さんとお孫さんに会うたからやろうし、そんなん考えたこともなかったよ!』

 まだ、将来何になりたい、どこに就職したい……何も決められていないことは確かだ。向いていると言われれば嬉しくなるのも確かだけど。

 ただ、祖母の頃とは時代が違う。いざ、向いているから教員の道へ――と言っても、今は大学の段階で教育実習やら受けて教員免許を取得しないことには、ほぼ無理だったはずだ。
 自主的に留年でもしない限りはまず無理だし、留年してまで教師を目指すかと問われれば……まだ、そんな決意は固まってもいない。

 辰巳幸子(さっちゃん)が気になるのは、ひとえに、あのおじいさんと孫の影響だろうと思う。
 無理無理! と、大きく左右に手を振る菜穂子に、祖母は何かを思い出そうと首を傾げていた。

『小学校より上の教員免許やったら、そらそうかもしれんけど。そやけど保育士とかやったら、まだまだ門戸は開かれてるはずやけどな』
『保育士……?』

 それは教員免許とは別物なのか。将来の職業としてこれまで考えてみたこともなかったため、ピンとこない。
 答えに困る菜穂子に「そう言うたら」と、祖母が話題を現実に引き戻していた。

『菜穂子、アンタ東京の大学に行く言うた時には「教えてもらいたい先生がいる」言うてたな。それはええことやと、おばあちゃんも思てたけど……そろそろ就職の話、周りから色々と言われてるんと違うの』
『う……』

 現実的すぎて、思わず胸に手を当ててしまったほどだ。
 卒業生に連絡を取ったり、学内のキャリアセンターに顔を出すようになったりと、早い学生はもう動き始めているくらいだ。

『それはそうなんやけど……まだ具体的にイメージ固まってなかった。そろそろ動いた方がええんやろうけど、何したらいいのか分からへん。まだ』

 大学進学も応援してくれていた祖母が目の前にいるからか、菜穂子は思わず父にも母にも吐露していない本音をポロリと零してしまった。
 何をすればいいのか、どこを目指せばいいのか。
 迷っているのは、噓偽りない事実だった。

『まあ「先生」どうや言うてるのは、単におばあちゃんが、アンタは他人にモノ教えるのが向いてるんと違うかと思ただけやさかいにな。菜穂子の人生や。じっくり考えて、迷たらええ』
『おばあちゃん……』
『東京の大学は、行ってよかったか?』
『うん。それは、胸張って言える。おばあちゃんが味方してくれたおかげやと(おも)てるよ』
『そうか。それはよかった。まあ、どないするんやとは言うたけど、あんまり根詰めて考えんようにしよし。焦ってもロクなことにならへんさかいにな』

 ゆっくり考えればいい。
 心配をかけていることは分かる。けれどそう言ってもらえたことは、悩む菜穂子の背中を押してくれた気がした。
 それだけでも、ここで会えたことに意味はあったと思えた。

『ありがとう。次はおばあちゃんと、おじいちゃんやね』
『そうやねぇ……』

 そんな菜穂子に、祖母は困ったように微笑み返したのだった。

◇◆◇◆◇

『真面目な話、八瀬君、仮に幸子ちゃんの妹さんの旦那さんが()()()に来たから言うて、肝心の妹さんとは会われへんことない?』

 純粋な疑問と言うよりは、確認しているといった口調だ。
 祖母にそう聞かれた八瀬さん自身、かなり困った表情を浮かべていた。

『それは何とも……聞く限りはギリギリ赤紙招集されなかった年代の人やとは思いますけど、だからと言って今の今まで清廉潔白に生きてこられたのかどうかは……』

 船井老人の生前の行い次第で、彼の妻と同じ道を歩むことになるかも知れないが、それは現時点では確認のしようもない。
 八瀬さんの困惑は、そういうことだろう。

『ああ、うん、それもあるんやけど、何番目かの王様のところで、生前関係のあった人やら動物やらを呼んで、その死者の行いを証言してもらうのやろう? 今のままでは辰巳一家からは誰も呼べへんのと違う?』

 祖母の問いかけに、言いたいコトが分かったのか八瀬さんは『……ああ』と、小さく頷いた。

『そうですね。基本的には三悪道――地獄道、餓鬼道、修羅道にいる死者は証言の場には呼べません。秦広王様の審議の場からかなり離れたところにあるのもそうなんですけど、一番は、そんなところに送られるようになった性根から言うても、証言に信憑性はないと思われるんですよ』
『そうよねぇ……そうなると、その旦那さんと幸子ちゃんの妹さんを会わせる時に、幸子ちゃんもこっそり同席させる――いう手は使えへんのよねぇ』

 ああ、とそこでようやく菜穂子は、祖母が考えていたプランを察した。
 それと同時に、それを実行することがとても難しいことも。

『おばあちゃん、でもさ、辰巳幸子(さっちゃん)って卒業まで小学校に通いたかったのと、おばあちゃんと歌を歌いたかったのが未練なんやないの? 家族の話って今まで一言も聞いてない気がするんやけど』

 少なくともここまで、菜穂子は一言もそんな話を聞いていない。
 そう言うと、祖母は虚を突かれたように黙り込んだ。

『まあ確かに「家族なんやから」言うのは、万人に通じる話でもないですしね』

 むしろ八瀬さんの方が、菜穂子に共感する姿勢を見せたくらいだ。

『八瀬君まで……』
『僕も正直、病気が分かった段階で「穀潰し」「金喰い虫」言われて、最後はほとんど放置でしたから。秦広王様の所で僕が会うたのも、最後まで僕に寄り添ってくれてた近所の野良猫やったくらいで』

 あっさりと微笑(わら)いながらそんなことを言っているが、実際には物凄く重い話だ。
 戦後復興期の食糧難で見殺しにされた辰巳幸子(さっちゃん)と、同じく貧乏の末に薬も手に入れられず息を引き取ったらしい八瀬さん。
 家族に夢を見ていない、という意味ではむしろ彼の方が辰巳幸子(さっちゃん)の心境を理解していそうだった。

『――まあ、そやから言うて高辻先生にベタベタまとわりついていいかと言えば、それはまた話は違うんですけどね』

 まさか菜穂子の心の中を読んだわけでもないだろうが、そう言って八瀬さんは意味ありげに口元を歪めていた。

『戻れるんなら、僕も小学生に戻って先生に教えて欲しいくらいやのに』

 ……どうやら、共感よりも嫉妬の方が上回っているらしい。
 思わず半目になってしまった菜穂子に気が付いたのか、八瀬さんは軽く咳払いをして態勢を整えていた。

『ああ、でも、先生が歌わはるんなら、僕も同席したいです。あの当時、授業で(うと)てええ歌なんて、九分九厘軍歌やったでしょう? もっと普通の歌を先生の声で聞きたいです』

 軍歌。
 そう言えばいつだったか、どこかの幼稚園で歌わせている話が広がって「時代錯誤」だなんだと世間を賑わせていたような気がする。
 戦時歌謡や愛国歌と言った区別もあるらしいが、内容自体は軍隊内で士気を高めるために作られた歌や、戦死した犠牲者を悼むことを目的とする歌やら様々あるそうだ。

『おおもとは日露戦争の悲惨さを訴える反戦の歌やった筈なんやけど、いつの間にかすり替わってしもたなぁ……まぁ今やから言えるけど、確かに授業中は軍歌ばっかりやったわ。そやから放課後とか、生徒連れて疎開先で短い遠足なんかに行った時には、こっそり唱歌を(うと)てあげたりしてた。幸子ちゃんもそっちが頭に残ってしもてたんかも知れへんね』
『唱歌……って、たとえば「さっちゃん」も?』
『そうやね』

 もちろん、おかしな四番以降の歌詞はついていない――祖母は茶目っ気混じりにそう言って、肩を竦めた。

『え、おばあちゃんはその話知ってたん!?』

 八瀬さんが知らなかったくらいだから、てっきり……と菜穂子は思ったものの、考えてみれば船井老人が、洋子(おくさん)が歌っていたのを聞いていると言っていたくらいだ。どこかで耳にしたことがあるのかもしれない。
 驚く菜穂子に『知ったのはついさっき』と祖母は苦笑いを見せた。

『幸子ちゃんじゃなくて、別の子が賽の河原でさっき歌ってたんよ。おばあちゃんが先生してた頃やったら「誰や! 子どもに何て歌聞かせてるんや!」って怒ってたやろうけどなぁ……あの子かてどこかからの又聞きで歌ってたんやろうし、一概には責められんかったわ』

 唱歌としては三番までが正しい。ちゃんと教えてあげないと――と呟いている祖母に、菜穂子はもう、これは祖母が賽の河原に残るのは確定だろうと言う気さえしはじめていた。

 きっと祖母は、あの子を見捨てられない。
 そうなると、問われているのは祖父の覚悟だけという話になってしまう。
 決断の時は、きっとすぐそこ。そんな気さえ、今はしていた。