夜笛の禁軍長と洗濯宮女――赤瑪瑙の後宮シンデレラ

第5話 赤瑪瑙の誓い、心に刻む帳面
 火事から四日。倉の煤が落とされ、白壁はまた白さを取り戻し始めた。修復の槌音が朝から響き、桜の花びらがその音に合わせてひらりと落ちる。白桜京の春は、騒がしくて優しい。

 倉を管轄する役所の下役が拘束され、火種と粉の袋の流れが繋がった。火事で混乱を起こし、警備を崩し、赤瑪瑙の玉の数と鍵の数を合わせて金庫を開ける。国庫を動かすための算段。縁談の紙は、口を塞ぐための縄だった。

 凜翔はその縄の結び目まで書き残そうとして、冴奈に止められた。

 「結び目の形まで書かなくていいの」

 「でも、次のために」

 「次が来ないようにするのが、あなたの仕事でしょう」

 凜翔は口を閉じ、紙の角を揃えた。揃えると落ち着く、と背中が言っている。

 療養部屋で幹太が目を開けた。冴奈が湯椀を持って立っている。湯気が幹太の顔の前で揺れた。

 「目が開いたなら、まず飲む。次に動かない。次に、言い訳は最後」

 幹太は湯を受け取り黙って飲んだ。飲み終えると布団の端を掴んで起き上がろうとする。冴奈は椀の底を指で叩いた。

 「次に動かない、って言ったでしょう」

 幹太は止まった。止まったまま目線だけで外を見た。外では護衛が交代している。幹太の指が小さく動く。命令を出したい指だ。けれど動かない、という命令に従っているのが、妙におかしい。

 みなみは湯椀をもう一つ持って部屋へ入った。湯の匂いが洗濯場の灰汁よりずっと優しい。みなみは幹太の前へ椀を置いた。

 「……あのとき、嘘をつきました」

 幹太は椀の湯気を見た。みなみは続けた。喉が乾く前に。

 「拾い物を、懐へ入れました。怖かったんです。奪われるのが……じゃなくて、私が、持っていないものを持っている気がして。返さなきゃいけないのに、返すのが怖くて」

 言ってしまうと胸の奥の熱さが少し落ち着く。冴奈が言った「口に出して、手を動かす」。今、口に出した。手は湯椀を離さず、震えを隠さない。

 みなみはさらに言った。

 「噂で……婚礼の話を聞いて。『おめでとう』って言ったのに、鍵を落として。笑って拍手して、布を掴んでました。自分が嫌になりました。でも、嫌になっても、布は洗わなきゃいけない。だから帳に書きました」

 幹太はしばらく黙った。黙っている間、みなみは逃げなかった。逃げないで椀の縁を指で撫でた。指先の皮が少し剥けている。洗濯場の仕事が、ここにも付いてくる。

 幹太が言った。

 「俺も同じだ」

 みなみは顔を上げた。

 幹太は目を合わせない。けれど声が、昨日までより少しだけ柔らかい。

 「守ると言いながら、奪われるのが怖い。だから短く命令して距離を取る。……それが楽だ。楽に逃げると、夜に笛を吹いて戻ってくる」

 みなみは小さく笑った。笑ってしまってから、慌てて口を押さえた。幹太は笑いに怒らない。怒らない代わりに、湯椀を一度だけ持ち上げた。飲め、という合図みたいに。

 凜翔が部屋の端で紙束を抱え直し、言った。

 「赤瑪瑙は倉へ戻します。玉の数、すべて揃っています。……ただし、保管の手順は増えます」

 幹太が短く言う。

 「増やす理由は」

 凜翔は紙を一枚めくり、息を吐いてから答えた。

 「理由は、七つ目を余らせないためです。余った分は、誰かの怖さになります」

 みなみはその言い方が好きだと思った。好きだと思うと、胸が少しだけ軽くなる。

 みなみは布包みを取り出した。自分の記録帳だ。表紙は薄い藍。夜に灯りを落として書いた跡が紙の奥に残っている。失敗したこと、やり直したこと、湯の匂い、笛の音、手が震えたこと。すべてが詰まっている。

 幹太の前へ差し出した。

 「これ……読まなくてもいいです。でも、持っていてください。私が逃げずに書いた証です」

 幹太が初めて包みを受け取った。指先が紙の角に触れ、角を揃えるように押さえる。その仕草が凜翔に少し似ていて、みなみの口元が勝手に緩む。

 表紙の題が見えた。

 『心に刻まれた君との物語』

 幹太は題を口に出さない。出さない代わりに短く言った。

 「命令ではなく、頼みがある」

 みなみは息を吸った。

 「一緒に帰る道を、決めたい」

 幹太は続けた。場所、時、暮らし方。決めるのはみなみだ、と。みなみはすぐ答えられなかった。答えられない自分が、少しだけ怖い。けれど怖いままでも、湯椀は落とさず持てる。

 冴奈が湯を配りながら、みなみの耳元へ言った。

 「怖いなら、怖いって言いなさい。言えば、手が動く。動けば、暮らしが続く」

 夕方、桜の庭へ出ると花びらが肩へ落ちた。冴奈が湯を配り、凜翔が手順書を抱えて歩き、護衛が一定の間隔で影を作る。後宮の中で、いつもと同じ動きが戻り始めている。

 その前に、門番がみなみを呼び止めた。小さな木箱を抱えた使いが立っている。箱の中には薬草と、紙包みが二つ。紙包みの端に、家の印が押してあった。

 母が土間で包みを開く様子が、湯気越しに浮かんだ。弟の咳が消えるわけではなくても、肩が少し下がる。その『少し』が届く。

 「家へ届ける分も入れておいた」

 幹太の声ではない。けれど幹太の指示だと分かる口調だった。みなみは箱を受け取り、喉が熱くなるのを感じた。熱くなるのに、乾かない。

 「ありがとうございます」

 言葉が刺にならず、湯気みたいに立ち上った。

 幹太は笛を持っていない。代わりにみなみの隣で立ち止まった。目を合わせないまま、みなみの足元を見る。石畳の角を踏まない歩き方を確かめるみたいに。

 みなみは自分の指を見た。布を掴む指。鍵を落とした指。笛を震えながら押さえた指。今は、湯椀を落とさずに持てる指。

 みなみは幹太へ言った。

 「家の薬が、途切れるのが怖いです。だから、拾い物を懐に入れました。……でも、今は違います。怖いままでも、逃げずに言います。ここで学びたい。外へ帰る道を、一緒に決めたいです」

 みなみは言い終え、指先を握ったり開いたりした。拍手の手と布を掴む手、その両方が自分の手だ。羨みも、怖さも、手の中にある。なら、手で湯を運び、帳に書き、誰かの喉が荒れないようにする。そう決めれば、羨みは刃にならず、灯籠の火みたいに役目を持てる。

 幹太は一拍置き、短く言った。

 「理由があるなら、守れる」

 みなみの手の震えが、止まった気がした。止まったのではなく、震えを抱えたまま立てたのだと分かった。怖さは消えない。けれど怖さのせいで、嘘をつく必要はなくなる。

 みなみは小さく頷いた。幹太は笛ではなく、言葉で言った。

 「大丈夫」

 みなみはその二文字を、胸の中で紙に写した。写すと同時に、肩から力が抜ける。抜けた分、息が深く入る。深く入った息は、笛ではなく言葉になる。

 「私、六つ数えます。こぼさない。拾い直す。拭く。書く。謝る。頼む。七つ目は……怖いけど、逃げない」

 六列の灯籠は、来年もまた並ぶだろう。七つ目の火は、倉の火ではなく胸の中の怖さとして語り直される。語り直すとき、みなみはきっと、拍手しながら布を掴む手を、そのまま抱えて笑える。

 みなみは帳面の角を揃え、胸に抱いた。
 みなみは笑って湯を啜った。薬草の香りが、桜の匂いへ溶けていった。
【終】 【完】