第4話 六夜の灯、七つ目の火
六夜の祝儀の夜、回廊には灯籠が六列に並べられた。朱塗りの柱に沿って等間隔。凜翔が間隔を測り、冴奈が「それくらいでいい」と言い、凜翔がもう半歩だけ直す。半歩のやり取りが二回続いたあと、冴奈が湯椀を差し出して凜翔の口を塞いだ。
「湯で止めるの、ずるいです」
凜翔がぼそっと言い、冴奈が笑いを飲み込む。みなみはその二人を見て、胸の奥が少し軽くなる。こういう軽さがあるなら、ここで暮らすのも悪くない、と一瞬思う。すぐに思い直す。思い直す癖も、自分の癖だ。
みなみは灯籠の前で灯心の数を数えた。一本、二本、三本。数えると落ち着く。凜翔が「数えるなら、終わったら帳に書いてください」と真面目に言い、冴奈が「今は帳より足」と返す。みなみは笑いそうになって、咳払いでごまかした。
幹太が列の端に立ち、短く言った。
「列は崩すな。動くときは理由を言え。言えないなら、動くな」
みなみはその言葉を帳面に写したくなった。けれど帳面を出せば、手が塞がる。代わりに胸の中へ置く。胸の中へ置くと、手が空く。
凜翔が小さな木片をみなみに渡した。灯籠の間隔を測るための目印だ。
「これを当てて、同じ間隔にしてください。ずれると、風の道が変わります」
みなみは木片を柱へ当て、灯籠を半歩だけ動かした。半歩だけ。凜翔がよく直す半歩だ。冴奈が「真似が早い」と呟き、みなみの耳が熱くなる。
みなみは思わず頷いた。理由を言えない動きは、嘘に似ている。嘘は喉を乾かす。
火の粒が風で揺れた。揺れの向きが、川からの風の向きと同じだと気づいた瞬間、背中が冷える。
倉の方角から煙が立った。白壁の上に黒い帯が伸び、風が回廊へ押し込む。灰の匂いが鼻を刺し、喉がきしむ。
「火事!」
叫びが広がる。みなみは足が止まりそうになったが、冴奈の声がすぐ横で響いた。
「湯を持って、倒れる者へ。走るな、足元を見る! 息を合わせる!」
みなみは洗濯場で覚えたやり方で、濡れ布を口に当てた。灰の匂いが少し和らぐ。周りの侍女にも濡れ布を配りながら、回廊の角へ誘導する。布は人を守る道具にもなる。そう思うと、指が少し強く動いた。
桶を運ぶときの腕の使い方で、湯の重みを散らす。湯をこぼせば床が滑る。滑れば人が転ぶ。みなみは足元の濡れを見て、布で拭き、声を落として言った。
「こぼしたら、すぐ拭いて。火より、転ぶ方が早いから」
誰かが頷き、誰かが布を受け取る。小さな頷きが増えるほど、火の音が少し遠のく気がした。
幹太の命令も短く飛ぶ。
「倉の外へ出すな。門を閉めろ。灯籠の列を崩すな。煙の道を作るな」
護衛が動き、回廊の人の流れが整う。みなみは湯を運びながら、灯籠の列の隙間が風の道になるのを見た。祝儀の灯が煙を引っ張る。
倉の前へ着くと、赤瑪瑙の数珠が消えているのが分かった。倉番が顔を真っ青にして膝をつく。冴奈が湯を渡し、肩に手を置く。幹太は倉の扉を見て、目線だけで護衛を動かした。手で触れないのに、人が動く。
同時に噂が作られた。
「幹太が盗んだ」
「外套の切れ端が落ちてた!」
焦げた布切れが掲げられる。黒い布。確かに似ている。みなみは言葉を飲み込んだ。声を出すと喉が乾く。乾けば、また嘘をつく声になる。
廊下の脇で、倉を管轄する役所の文官がみなみを捕まえた。帯の印が目につく。目が笑っていない。男は紙を見せる。縁談の書付。名前の欄にみなみの名がある。墨が新しく、乾いていない。
「君が言うことを聞けば、家族は守る。聞かなければ、明日から薬が届かない。倉が燃えた夜に、薬が止まるのは偶然だと思うか?」
みなみは唇を噛んだ。弟の咳が頭の中で鳴る。口が勝手に「はい」と言いそうになる。言えば楽だ。けれど楽な道は、あとで喉を乾かす。
冴奈が間に入る。
「今は火事。紙はあとで。まず、倒れる者と、逃げ道」
冴奈が湯椀を差し出すと、文官は手を伸ばせずに引いた。湯の湯気が男の顔を白くぼかした。その湯気の向こうで、男の口が歪む。
凜翔が布切れから糸を一本抜き、光に透かした。
「織殿の特注です。禁軍の軍装と糸の撚りが違います。織殿の帳に、同じ撚りの記録が残っています」
凜翔の声は落ち着いている。落ち着いているから、周りの耳が向く。幹太は凜翔の紙を受け取り、短く言った。
「証拠は繋がる。今は火を止める」
みなみは息を吸い、火の匂いの中で風の流れを思い出した。灯籠の列、回廊の角、倉の戸口。煙が来た道筋。さっき自分が数えた灯心。数える癖が、今は役に立つ。
「火の出た場所は倉の西側です。風は川から東へ。灯籠の列の隙間が煙を引っ張りました。……誰かが火種を置くために通り道を作ってます。濡れ布の滴が、列に沿って落ちてるはず。急いで濡らした人がいる」
自分でも驚くほど、言葉が途切れなかった。言いながら、手が動く。湯を運び、濡れ布を配り、足跡を指差す。嘘の熱さではなく、働く熱さが喉にある。
御薬園の裏手で、赤瑪瑙の数珠を抱えた倉番を見つけた。倉番は息を切らし泥を踏んでいる。追いつこうとした瞬間、黒い影が上から降りた。布の影だ。
数珠が奪われる。
「返して!」
みなみの声が割れる。割れた声に幹太が振り向いた。幹太は影へ飛び込み、刃を受けた。布が裂ける音。幹太の肩口に赤が滲む。みなみの視界が白くなり、膝が抜けそうになる。
幹太は倒れながらも笛をみなみへ投げた。
「吹け。合図だ」
笛が掌に落ちた瞬間、冷たさが走る。赤瑪瑙を拾った朝の冷たさと同じ。みなみの手が震え、穴が指に合わない。息が詰まり、喉が乾く。七つ目の火が胸の中へ舐めるように来る。
冴奈の湯椀がすぐ横に差し出された。
「飲んで。息を整えてから。あなたは走らなくていい。音を出すの」
みなみは一口飲み、笛へ息を入れた。最初の音は、変な鳴き声みたいに裏返った。凜翔が小声で言う。「穴を全部塞いでから、短く」。みなみは頷き、もう一度。短い音。合図の音。回廊の奥で同じ音が返る。護衛が走り、影を囲んだ。逃げ道が消える。配置で逃げ道を消す。
影は逃げ場を失い、膝をついた。数珠が床へ落ち、赤い玉が灯籠の光を跳ね返す。凜翔がすぐ拾い、玉の数を数え、紙に書く。何個あったか、何個戻ったか。戻す順番まで決める。
幹太は地面に横たわり、目を閉じた。みなみは膝をつき、幹太の外套の裂け目を押さえた。指が赤く染まる。布を掴む指が、今は人を押さえている。
冴奈が幹太の脈を取り、布を裂いて傷を押さえた。裂かれた布の音が、洗濯場で布を裂くときよりずっと重い。
「息を合わせて。みなみ、手を離さないで」
みなみは頷き、押さえる手に力を入れすぎないようにした。力を入れすぎると血が止まらない、と冴奈がさっき言った。布を絞るときと同じだ。強すぎれば裂ける。弱すぎれば落ちない。
遠くで火が鎮まる音がした。ぱちぱちが減り、代わりに水の音が増える。六列の灯籠は、まだ倒れていない。みなみは灯籠の火を見て、胸の中で数を数えた。六つ目まで数えられたのに、七つ目は指が震えて数えられない。
六夜の祝儀の夜、回廊には灯籠が六列に並べられた。朱塗りの柱に沿って等間隔。凜翔が間隔を測り、冴奈が「それくらいでいい」と言い、凜翔がもう半歩だけ直す。半歩のやり取りが二回続いたあと、冴奈が湯椀を差し出して凜翔の口を塞いだ。
「湯で止めるの、ずるいです」
凜翔がぼそっと言い、冴奈が笑いを飲み込む。みなみはその二人を見て、胸の奥が少し軽くなる。こういう軽さがあるなら、ここで暮らすのも悪くない、と一瞬思う。すぐに思い直す。思い直す癖も、自分の癖だ。
みなみは灯籠の前で灯心の数を数えた。一本、二本、三本。数えると落ち着く。凜翔が「数えるなら、終わったら帳に書いてください」と真面目に言い、冴奈が「今は帳より足」と返す。みなみは笑いそうになって、咳払いでごまかした。
幹太が列の端に立ち、短く言った。
「列は崩すな。動くときは理由を言え。言えないなら、動くな」
みなみはその言葉を帳面に写したくなった。けれど帳面を出せば、手が塞がる。代わりに胸の中へ置く。胸の中へ置くと、手が空く。
凜翔が小さな木片をみなみに渡した。灯籠の間隔を測るための目印だ。
「これを当てて、同じ間隔にしてください。ずれると、風の道が変わります」
みなみは木片を柱へ当て、灯籠を半歩だけ動かした。半歩だけ。凜翔がよく直す半歩だ。冴奈が「真似が早い」と呟き、みなみの耳が熱くなる。
みなみは思わず頷いた。理由を言えない動きは、嘘に似ている。嘘は喉を乾かす。
火の粒が風で揺れた。揺れの向きが、川からの風の向きと同じだと気づいた瞬間、背中が冷える。
倉の方角から煙が立った。白壁の上に黒い帯が伸び、風が回廊へ押し込む。灰の匂いが鼻を刺し、喉がきしむ。
「火事!」
叫びが広がる。みなみは足が止まりそうになったが、冴奈の声がすぐ横で響いた。
「湯を持って、倒れる者へ。走るな、足元を見る! 息を合わせる!」
みなみは洗濯場で覚えたやり方で、濡れ布を口に当てた。灰の匂いが少し和らぐ。周りの侍女にも濡れ布を配りながら、回廊の角へ誘導する。布は人を守る道具にもなる。そう思うと、指が少し強く動いた。
桶を運ぶときの腕の使い方で、湯の重みを散らす。湯をこぼせば床が滑る。滑れば人が転ぶ。みなみは足元の濡れを見て、布で拭き、声を落として言った。
「こぼしたら、すぐ拭いて。火より、転ぶ方が早いから」
誰かが頷き、誰かが布を受け取る。小さな頷きが増えるほど、火の音が少し遠のく気がした。
幹太の命令も短く飛ぶ。
「倉の外へ出すな。門を閉めろ。灯籠の列を崩すな。煙の道を作るな」
護衛が動き、回廊の人の流れが整う。みなみは湯を運びながら、灯籠の列の隙間が風の道になるのを見た。祝儀の灯が煙を引っ張る。
倉の前へ着くと、赤瑪瑙の数珠が消えているのが分かった。倉番が顔を真っ青にして膝をつく。冴奈が湯を渡し、肩に手を置く。幹太は倉の扉を見て、目線だけで護衛を動かした。手で触れないのに、人が動く。
同時に噂が作られた。
「幹太が盗んだ」
「外套の切れ端が落ちてた!」
焦げた布切れが掲げられる。黒い布。確かに似ている。みなみは言葉を飲み込んだ。声を出すと喉が乾く。乾けば、また嘘をつく声になる。
廊下の脇で、倉を管轄する役所の文官がみなみを捕まえた。帯の印が目につく。目が笑っていない。男は紙を見せる。縁談の書付。名前の欄にみなみの名がある。墨が新しく、乾いていない。
「君が言うことを聞けば、家族は守る。聞かなければ、明日から薬が届かない。倉が燃えた夜に、薬が止まるのは偶然だと思うか?」
みなみは唇を噛んだ。弟の咳が頭の中で鳴る。口が勝手に「はい」と言いそうになる。言えば楽だ。けれど楽な道は、あとで喉を乾かす。
冴奈が間に入る。
「今は火事。紙はあとで。まず、倒れる者と、逃げ道」
冴奈が湯椀を差し出すと、文官は手を伸ばせずに引いた。湯の湯気が男の顔を白くぼかした。その湯気の向こうで、男の口が歪む。
凜翔が布切れから糸を一本抜き、光に透かした。
「織殿の特注です。禁軍の軍装と糸の撚りが違います。織殿の帳に、同じ撚りの記録が残っています」
凜翔の声は落ち着いている。落ち着いているから、周りの耳が向く。幹太は凜翔の紙を受け取り、短く言った。
「証拠は繋がる。今は火を止める」
みなみは息を吸い、火の匂いの中で風の流れを思い出した。灯籠の列、回廊の角、倉の戸口。煙が来た道筋。さっき自分が数えた灯心。数える癖が、今は役に立つ。
「火の出た場所は倉の西側です。風は川から東へ。灯籠の列の隙間が煙を引っ張りました。……誰かが火種を置くために通り道を作ってます。濡れ布の滴が、列に沿って落ちてるはず。急いで濡らした人がいる」
自分でも驚くほど、言葉が途切れなかった。言いながら、手が動く。湯を運び、濡れ布を配り、足跡を指差す。嘘の熱さではなく、働く熱さが喉にある。
御薬園の裏手で、赤瑪瑙の数珠を抱えた倉番を見つけた。倉番は息を切らし泥を踏んでいる。追いつこうとした瞬間、黒い影が上から降りた。布の影だ。
数珠が奪われる。
「返して!」
みなみの声が割れる。割れた声に幹太が振り向いた。幹太は影へ飛び込み、刃を受けた。布が裂ける音。幹太の肩口に赤が滲む。みなみの視界が白くなり、膝が抜けそうになる。
幹太は倒れながらも笛をみなみへ投げた。
「吹け。合図だ」
笛が掌に落ちた瞬間、冷たさが走る。赤瑪瑙を拾った朝の冷たさと同じ。みなみの手が震え、穴が指に合わない。息が詰まり、喉が乾く。七つ目の火が胸の中へ舐めるように来る。
冴奈の湯椀がすぐ横に差し出された。
「飲んで。息を整えてから。あなたは走らなくていい。音を出すの」
みなみは一口飲み、笛へ息を入れた。最初の音は、変な鳴き声みたいに裏返った。凜翔が小声で言う。「穴を全部塞いでから、短く」。みなみは頷き、もう一度。短い音。合図の音。回廊の奥で同じ音が返る。護衛が走り、影を囲んだ。逃げ道が消える。配置で逃げ道を消す。
影は逃げ場を失い、膝をついた。数珠が床へ落ち、赤い玉が灯籠の光を跳ね返す。凜翔がすぐ拾い、玉の数を数え、紙に書く。何個あったか、何個戻ったか。戻す順番まで決める。
幹太は地面に横たわり、目を閉じた。みなみは膝をつき、幹太の外套の裂け目を押さえた。指が赤く染まる。布を掴む指が、今は人を押さえている。
冴奈が幹太の脈を取り、布を裂いて傷を押さえた。裂かれた布の音が、洗濯場で布を裂くときよりずっと重い。
「息を合わせて。みなみ、手を離さないで」
みなみは頷き、押さえる手に力を入れすぎないようにした。力を入れすぎると血が止まらない、と冴奈がさっき言った。布を絞るときと同じだ。強すぎれば裂ける。弱すぎれば落ちない。
遠くで火が鎮まる音がした。ぱちぱちが減り、代わりに水の音が増える。六列の灯籠は、まだ倒れていない。みなみは灯籠の火を見て、胸の中で数を数えた。六つ目まで数えられたのに、七つ目は指が震えて数えられない。

