夜笛の禁軍長と洗濯宮女――赤瑪瑙の後宮シンデレラ

第3話 嫉妬の落とし物、外苑の社
 梅がほころぶ昼、後宮の空気は少し軽くなった。洗濯場でも笑い声が増え、布の乾きも早い。干し場の端で誰かが「春は楽でいい」と言った。楽ならいい。けれど楽な分、口が動く。口が動く分、噂も増える。

 「禁軍長が、姫君と婚礼らしいよ」
 「処刑役だって言われてるのに、姫君って……逆じゃない?」
 「夜に笛を吹くんだって。姫君、寝られるのかな」

 みなみは桶を抱えたまま口の端を持ち上げた。笑っている顔を作るのは、作法部屋で学んだより早い。

 「おめでとうございます、ですね」

 声に出した瞬間、手の中の鍵束が滑った。じゃらり、と金属が床を打つ音が大きく響き、みなみは顔が熱くなる。拾おうとして指が空を掴んだ。鍵が一つ、回廊の溝へ転がり、すっと消えそうになる。

 凜翔が横から手を伸ばし、鍵束を拾い上げた。鍵の数をすぐに数える。一本、二本、三本、四本。欠けがないと分かると、紙の角を揃えるときのように鍵を揃えてみなみに返した。溝へ落ちかけた鍵は、凜翔が靴の先で止め、指先でつまみ上げた。

 「今は責めるより、拾い直す順番です。落とした場所、ここ。次に、鍵の数。次に、鍵穴に戻す。次に、息を吐く」

 凜翔の声は小さい。小さいから耳に入る。みなみは頷き、鍵を棚へ戻した。胸の奥の熱さが少し冷える。息を吐く、まで言われると本当に息を吐けるのが不思議だった。

 夜、みなみは帳面を開き、練習のように一行書いた。
 「おめでとうございます」
 書いて、消して、書き直した。字を整えても、胸の中は整わない。そこで次の行に、冴奈の言葉を書いた。
 「口に出すときは、誰かを刺さない言い方を選ぶ」

 翌朝、冴奈が湯を注ぎ、みなみの手に椀を押し当てた。

 「羨むのは悪ではない。拍手しながら布を掴む指があるのも、あなたの手よ」

 みなみは椀を受け取り、湯の湯気を見た。自分の指が椀の縁をきつく押さえている。

 「……私、変ですか」

 冴奈は笑わない。笑わずに言う。

 「変じゃない。黙って腐らせるのが危ない。口に出して、手を動かしなさい。動かす手は、布だけじゃないわ」

 その日の午後、幹太が外苑の社へ向かう支度をしていた。古い札を確かめ、「六」と「七」の意味を掴むためだという。みなみは凜翔の後ろに付き、門をくぐった。

 出立の前、凜翔は倉の小さな机へみなみを呼び、紙束を二つに分けた。

 「今日は持ち物を減らします。落とし物をすると、余計な線が増えます」

 凜翔は紙の角を揃え、紐を結び直した。結び目の位置まで揃えている。みなみが指を出すと、凜翔はすぐ「指は紙の外側」と言った。紙に指の油が付くのが嫌らしい。みなみは指を引っ込め、代わりに荷物袋の口をしっかり結んだ。

 冴奈はみなみの袖口へ、小さな薬袋を忍ばせた。

 「外の風は乾く。喉が乾いたら湯に溶かしなさい。……それと、羨む気持ちは外で吐いておいで。内側に溜めると、鍵みたいに落ちるわ」

 みなみは「はい」と答え、薬袋の重さを確かめた。重さがあると、落とさないように気をつけられる。

 外苑の空気は後宮より乾いていて土の匂いが濃い。川の音が近い。橋の下に霧が溜まり、白桜京の外側が少しだけ見えた。荷車の轍が固まり、草がまだ短い。みなみは足元を見て歩いた。幹太の言葉が頭に残る。「夜明けは静かだ。聞かれる」。聞かれるなら、今も聞かれる。土へ吸われる踏み方を意識した。

 凜翔が小声で言う。

 「数は、落ち着きますか」

 「はい。六つなら、数えられます」

 「七は、余ります」

 凜翔がそう言って、自分の紙束を抱え直した。余る。余った分が怖さになる。みなみはその言い方が、少しだけ好きになった。

 みなみは歩幅をそろえるため、心の中で「いち、に、さん」と数えた。数えると、足音が土へ沈む。数えないと、鍵が落ちる。

 風が止んだ。鳥の声も消える。みなみの背中が冷え、足が止まりそうになる。

 前方の影が枝から落ちたように動いた。

 刃が光る。

 幹太は一歩で間合いを詰め、腕を払った。刃が空を切る音が短く鳴る。次の瞬間、幹太の外套が翻り、刺客の顔が見えなくなった。みなみの視界も同時に塞がれた。乾いた布の匂いが鼻をかすめる。

 「見なくていい」

 幹太の声が近い。みなみは言われた通り目を伏せた。けれど耳は勝手に聞いた。息が詰まる音、地面に膝が落ちる音、縄が締まる乾いた音。幹太の呼吸は乱れていない。乱れていないことが、逆に怖い。

 刺客が引きずられていくとき、みなみは一瞬だけ顔を上げた。幹太が刃の血を布で拭っている。拭い方が洗濯場みたいに丁寧で、みなみは言葉を漏らした。

 「……見てしまいました」

 幹太は布を畳み、短く言った。

 「見るなら、帰ってから帳に書け。今は、足元」

 みなみは頷いた。足元を見る。足元を見ると、前に進める。

 社の前に着くと、幹太は札を日向へ透かした。札の繊維の奥に、古い墨の跡が見える。凜翔が声を落として読み上げた。

 社の鈴緒が風に揺れ、鈴の音が一つ鳴った。みなみは足を止め、手を合わせた。祈り方は教わっていない。けれど弟の咳の音だけは、いつでも思い出せる。

 「湯が、間に合いますように」

 声にすると小さすぎて鈴に負けた。みなみはもう一度だけ手を合わせ、袖の中の薬袋を押さえた。

 幹太はみなみの祈りに触れず、札だけを見た。けれど、みなみが手を下ろすのを待ってから、札をもう一度日向へ傾けた。

 凜翔が続きの行を読み上げた。

 「六夜の灯、婚礼の列。七つ目の火、宮を舐める」

 みなみは喉が乾き、唾を飲んだ。婚礼。火。噂の姫君。線が繋がって嫌な形になる。さっき「おめでとうございます」と言った自分の口が、急に重くなる。

 幹太は札を戻し、短く言った。

 「噂の縁談は、命令だ」

 みなみは幹太の横顔を見た。表情は変わらない。けれど札の端を押さえる指が少しだけ強い。

 「断れば、守るべきものが燃える。……そういう脅しだ」

 みなみは息を吐き、言った。

 「私……知らないふりをしないで聞きます。何を守りたいんですか」

 幹太はみなみを見ないまま少し間を置いた。

 「倉と、人。あと……言葉にすると軽くなるものだ」

 それだけ言って歩き出した。言葉にすると軽くなる。冴奈が言ったのと似ている。みなみは追いながら、胸の中の重さを一つずつ数えた。

 後宮へ戻ると、倉の周りで不審な影が見えたという報告があった。夕陽の中で白壁が赤く染まる。赤が、赤瑪瑙の色に見えて、みなみの掌が冷えた。

 凜翔が紙を取り出し、倉の鍵の数をもう一度数え始めた。みなみはその横で指を開いたり閉じたりした。

 「……六つ目が灯なら、七つ目は」

 夜、みなみは帳面を開き、外苑で見たものを一つずつ書いた。土の匂い、鈴の音、幹太の外套が翻った瞬間の風。書いているうちに、指先の震えが少しだけ落ち着く。

 最後に、今日の「羨み」を書いた。
 『縁談が羨ましかった。でも、命令は羨む形ではない』

 書き終えたとき、扉の外で笛の音が一節だけ鳴った。みなみは顔を上げ、息を吸った。六つ目を数えるなら、今日の六つ目は「祈りを口に出せたこと」だと思った。七つ目が何か分からないまま、灯籠の火を見つめた。