夜笛の禁軍長と洗濯宮女――赤瑪瑙の後宮シンデレラ

第2話 毒の湯、笛の湯薬
 立春まで六日。霧は昨日より薄く、白壁の上に淡い空が見えた。回廊の端には冬の名残の霜が細く残り、踏むときゅっと鳴った。

 みなみは洗濯場ではなく、作法部屋へ呼ばれた。床は磨かれ、畳の縁が真っ直ぐ揃っている。ここに足を踏み入れるだけで衣擦れの音が大きくなる気がする。洗濯場の音は逃げてくれるのに、ここでは音が自分を追いかけてくる。

 「洗濯係が、禁軍の手伝いですって?」
 「拾い物のせいじゃないの」

 背後の声が刺さる。みなみは振り向かず、唇だけを結んだ。口を開くと、昨日の嘘の熱さが戻りそうだった。

 凜翔が机の端を指で揃え、紙束を差し出した。

 「手順書です。書き写してください。字の大きさは、ここに合わせて。墨の濃さも、ここ」

 凜翔は手本の紙を見せ、角をぴたりと重ねて止めた。止める位置がいつも同じ。みなみは返事をして黙って筆を走らせた。筆先を少しだけ舐めて揃える。夜に灯りを落として練習するときと同じ癖が出る。

 「洗濯場の札より、丸い字です」

 凜翔がぽつりと言った。

 「布に書く札は、急いでて……」

 みなみが言いかけると、凜翔は否定しない。否定しない代わりに紙の端を押さえた。

 「急いでも、角は揃えられます。ここだけ見てください。線の終わりを、ぶらさない。ぶらすと、読み手が迷います」

 みなみは頷き、線の終わりを意識して書いた。読み手が迷う。迷わせたのは、昨日の自分だ。迷わせない書き方を覚えれば、迷わせない言い方も覚えられるかもしれない。

 昼前、御薬園へ湯を運ぶ者の列ができた。薬草の匂いが風に混じり、洗濯場の灰汁とは違う青さが鼻へ入る。小さな葉が乾く音、湯釜の火がぱちぱち弾ける音。香りも音も、洗濯場より整っている。

 巡回中の幹太が、石畳の上で立ち止まった。みなみの足音がひとつだけ高い。石の角を踏む癖があるのだと、自分でも気づかなかった。

 「音が出る」

 幹太はそれだけ言って石の角を軽く踏んだ。足裏の置き方が違う。踵からではなく、指の腹から置いている。みなみは真似をして踏み、音が減るのを感じた。

 幹太はみなみの顔ではなく足元を見て短く言った。

 「夜明けは静かだ。聞かれる」

 理由が添えられた。たったそれだけで、みなみの背筋が伸びる。洗濯場で褒められるより、ずっと分かりやすい。

 御薬園の湯釜の近くで騒ぎが起きた。湯を飲んだ侍女が二人、膝をついたのだ。顔色が青く、喉を押さえ、目を瞬かせている。周りの者が椀を落としそうになり、湯の匂いが一気に広がった。

 「毒だ!」

 誰かが叫ぶ。叫びが広がる前に、幹太の声が通った。

 「動くな。湯の椀を置け。触れるな。口を拭け。走るな」

 護衛が一歩で列を止める。幹太は凜翔を呼び、指を一本立てた。

 「湯釜の位置。配膳順。鍋の傷。三つ、今すぐ」

 凜翔は頷くと走らない。早足で、しかし紙を濡らさない歩幅で釜へ寄る。鍋の縁を覗き込み、指先で傷をなぞり、数えるように息を吐いた。

 「傷は四つ。二つは古い。二つは今日。配膳は右から左。最後の椀が、この人。湯の温度は、昨日より一度高い」

 凜翔は倒れた侍女の指輪の位置まで書く。みなみはその細かさに目が回りそうになった。けれど「目が回りそう」と思う暇があるなら匂いを嗅げ、と自分へ言う。

 みなみは湯の匂いを吸った。薬草の青さの奥に、粉っぽい甘さが混じっている。洗濯場で灰汁に粉を混ぜるときの匂いに似ていた。衣の汚れを落とすために入れる、乾いた薬種――あれだ。

 「……いつもの湯より、粉の匂いがします」

 口に出すと周りが一瞬静かになった。誰かが「洗濯係が何を」と言いかけたが、冴奈が湯椀を差し出してその口を止めた。湯で止めるのは、冴奈の得意技らしい。

 幹太がみなみを見た。目線だけで問いが飛ぶ。みなみは椀の縁へ鼻を近づけた。

 「御薬園の葉じゃなくて……乾いた粉です。布を洗う灰汁に入れると、こういう匂いがします。舌に、ざらっと残る。喉が荒れる感じも」

 幹太は凜翔へ向き直る。

 「粉の出どころ。棚、順に。袋の口。湿り。足跡」

 凜翔は紙に線を引き、棚の列を数え始めた。「一段目、空。二段目、袋が一つ、口が開いています。床、粉。靴跡は二つ、片方は小さい。指の跡が、袋の口に三本」と声を落として報告する。混乱するほど、手順を言葉にして落ち着く人なのだと、みなみは昨日より分かった。

 冴奈は倒れた侍女の脈を取り、湯の温度を変えて口へ含ませる。叱らない。叱らない代わりに椀を持つ手の角度を整え、周りの者に「息を合わせて」とだけ言う。洗濯場で布を絞るときみたいに、全員の手が同じ向きを向いた。

 夕刻、騒ぎは収まった。毒は致死ではなく、喉と胃を荒らす程度。けれど誰が混ぜたかはまだ分からない。幹太は湯釜を見たまま、冴奈へ短く告げた。

 「倉の見張りを増やす。湯の椀も、数を揃えろ。配膳係は単独で動くな」

 命令が落ちると同時に、人の視線がみなみに集まった。「拾い物の娘が、今度は湯に口を出した」とでも言いたげな目だ。みなみの喉がまた乾きかける。

 冴奈がみなみの背を軽く押した。

 「湯釜の周りを拭いて。粉が残ると、また誰かが倒れる」

 仕事を渡されると、目の痛みが薄れる。みなみは濡れ布で床を拭き、粉の筋を指でなぞって確かめた。凜翔はその筋を紙に写し、幹太はその紙を見て頷いた。頷きが一つ落ちるだけで、みなみは息を吐けた。

 夜。みなみは寝所で目を閉じても粉の匂いが鼻に残った。もし自分が気づかなければ、もっと倒れていたかもしれない。役に立った、と胸が少しだけ上がる。上がった瞬間、すぐ別の声が言う。たまたまだ、と。

 みなみは起き上がり、帳面を開いた。「粉の匂い」「袋の口」「靴跡、小さい」。凜翔の言葉を写していくと、頭の中のざらつきが少し減る。書くと、迷いが形になる。

 回廊へ出ると霧は薄いが冷える。指先がかさつき、布の繊維が引っかかる。灯籠の陰に幹太がいた。昼と同じ黒い外套。けれど手には湯椀がある。湯気が笛の前で丸く揺れている。

 幹太は椀を差し出した。

 「飲め。声が枯れている」

 みなみは受け取り、湯を啜る。薬草の香りが喉を撫で、昼の粉っぽさはない。

 「……どうして、分かるんですか」

 幹太は笛を膝に置き、目を合わせずに言った。

 「嘘をついた声は、乾く」

 昨日の冴奈と同じことを言った。みなみは湯を吹きそうになり、慌てて口を押さえた。笑っていいのか分からず肩だけが揺れる。幹太はそれを見ないふりをして火鉢へ赤瑪瑙の数珠をかざした。

 玉がじわりと温まり、甘い匂いが立つ。焼き砂糖のようで、洗濯場の灰汁の匂いを一瞬だけ忘れさせる。

 玉の内側に細い線が浮かんだ。文字だった。

 「六番目の幸運と七番目の悲劇」

 不揃いな線。炙られた跡の、ひそひそ声みたいな字。

 みなみは息を止めた。幹太の指が玉をもう一度転がす。

 「六は数える。七は、備える」

 みなみは思わず口を開いた。

 「……六つ、私も数えていいですか」

 幹太は返事をしない。しないけれど笛を持ち上げた。音が回廊へ流れ、みなみの胸の奥のざらつきを少しだけ丸めた。みなみは湯椀の底を見つめ、こぼさなかったことを、一つ目に数えた。