第1話 赤瑪瑙の拾い物、禁軍長の目線
立春まで七日。夜明け前、白桜京の盆地に霧が沈み、後宮の白壁は上から下まで淡い灰色になっていた。川の水音だけが遠くで確かに聞こえて、回廊の朱は濡れた木の匂いを放つ。
洗濯場では、湯気と灰汁の匂いが混ざり合い、袖をまくった腕の皮がひりひりする。桶を叩く音、布を絞る音、女たちの呼吸がいっせいに立ち上って、霧の中へ溶けていく。
みなみは手の甲を見た。冬の冷えと灰汁で、細いひびが何本も走っている。指先で触ると、痛いのに、なぜか少し落ち着く。痛いところは、ここだと分かるからだ。
「みなみ、ここ、見て」
隣の桶の新人が、灰汁の濃さを指差した。みなみは覗き込み、泡の立ち方を確かめる。濃すぎず薄すぎず、布の油が落ちるちょうどの色だ。
「うまい。ちゃんと量ってるね」
年長の侍女がそう言うと、周りの手がぱちぱち鳴った。みなみも笑って手を打った。けれど拍手のあと、濡れた布の端を指で強くつまみ、ぎゅっとねじった。泡が指の股に残り、冬の冷えと灰汁の熱さが同時に刺す。
拍手する手と、布を掴む手が同じだと気づくと、みなみは少しだけ息が浅くなった。
「……次は、私も」
口に出した音は霧に触れてほどけ、誰の耳にも届かなかった。届かないのが、少し楽で、少し悔しい。
干し場へ運ぶ順番が来る。みなみは籠を抱え、白壁沿いの裏道へ回った。乾いた布の香りに混じって、石と木と、遠い花粉の匂いがする。春が来る匂いだ。来るなら、来るで、薬代がもう少し要る。そう考えると足が勝手に速くなる。
道の角で、侍女たちのひそひそ声が耳に入った。
「皇后さまの遺りもの、赤い数珠がなくなったって」
「赤瑪瑙だって。触ると冷たいらしいよ」
みなみは籠を抱え直し、聞こえなかったふりをした。聞こえなかったふりは、得意だ。得意なことが増えるほど、何かが減っていく気もする。
白壁の影に落ちる黒い点に気づいたのは、その直後だった。霧の下で、ひとつだけ艶のある赤が沈んでいる。みなみは膝を折って拾い上げた。
赤瑪瑙の数珠だ。玉はつるりとして掌に吸い付いた。冷たさが骨まで届くようで、みなみは反射で袖を引いて包もうとした。包んだ布が、うっすら赤く映る。玉の数を数えると、七つ、ではない。もっと多い。けれど一本の糸で繋がる感触が、不思議と落ち着く。
「……これ、今すぐ届けなきゃ」
決まりは知っている。けれど洗濯場へ戻らなければ桶が減る。桶が減れば給金が減る。給金が減れば、家の薬が途切れる。弟の咳の音が、霧より濃く頭にかかる。
昨夜も、家の土間で弟が身を折るように咳をした。母が薬草を揉み、湯に落として、湯気を布で誘う。湯気が鼻へ入ると弟の肩が少し下がる。その「少し」が欲しくて、みなみは後宮へ来た。学べば、湯の作り方も、葉の選び方も、もっと正しくなる。そう思えば思うほど、決まりの階段を一段だけ飛ばしたくなる。
みなみは数珠を懐へ滑り込ませ、白壁沿いを急いだ。決まりを忘れたのではない。後で、きっと。あとで必ず。そうやって言い訳の階段を、心の中でいくつも作った。
朱塗りの回廊へ出た瞬間、空気の温度が変わった。霧が一段、薄くなる。灯籠の火が床へ細い線を落としている。その線の先に、黒い外套が立っていた。
禁軍長・幹太。
噂の名は洗濯場でもよく転がる。「目線だけで人が止まる」「夜は笛を吹く」「笑わない」。どれも本当か嘘か分からないのに、名前だけが鋭く残る。
幹太は道の中央に立ち、まっすぐこちらを見た。みなみの足が勝手に止まる。籠の重さが急に腕へ落ちてくる。
「それを渡せ」
低い声だった。怒鳴らない。短い。理由も言わない。その短さが、余計に逃げ道を消す。
みなみは喉がからからになり、反射で言った。
「……知りません」
言った瞬間、喉の奥が熱くなった。嘘だと自分で分かっているからだ。懐の布が重くなった気がして、胸がきゅっと縮む。
幹太は腕を掴まない。代わりに背後へ視線を流した。護衛が二人、すっと動く。回廊の両端に立ち、足音を立てずに出口を塞いだ。石畳の上に、見えない柵が立ったみたいに感じる。
「拾い物なら、届けます。けど……私、本当に」
言い訳を重ねるほど声が細くなる。幹太は頷きもしない。頷かないのに待っている。みなみが自分でほどくのを。
そこへ、湯の匂いが来た。薬草の青い香りと焼き米の甘い香り。
女官長の冴奈が、湯椀を両手で持って現れた。霧の中でも髪の乱れひとつない。足取りが静かで、湯気の揺れだけが先に見えた。
「みなみ。飲みなさい」
みなみが受け取ると指が震えて湯が揺れた。冴奈は湯の縁を押さえて、こぼれないように支える。湯は熱すぎず、喉へすっと入った。温かさが腹へ落ち、指先の冷えを少し押し返す。
冴奈はみなみの顔を覗き込み、叱るのではなく淡々と言った。
「喉がひゅうひゅうしている。嘘をつくと声が乾くのよ。……隠すなら責任を持ちなさい。拾った場所と時刻、手に触れた順番。ぜんぶ言うの」
みなみは懐の布を押さえた。指先に赤瑪瑙の冷たさが残っている。湯を飲んでも消えない冷たさだ。
「……白壁の裏です。洗濯場から干し場へ運ぶ途中で。夜明け前、霧が一番濃いころ」
みなみは懐から数珠を取り出した。差し出す手が途中で止まりそうになる。奪われるのが怖いのではない。自分が嘘をついたことが怖い。
幹太は受け取り、数珠の玉を一つだけ指で転がした。玉の表面が灯籠の光を細く切り、赤い線が床へ落ちた。
「倉の鍵が、ひとつ足りない」
幹太はそれだけ言い、護衛に短く指示した。声を荒げないのに、周りの空気が整う。冴奈が受け答えの間合いを作り、みなみへ視線を戻す。
「今朝は洗濯場へ戻りなさい。あとで呼ぶ。逃げないで来るのよ」
みなみは小さく頷いた。頷きながら、胸の奥がまだ熱いのを感じた。嘘で熱くなった喉が湯で落ち着いたのに、恥ずかしさがまだ残る。
洗濯場へ戻ると、新人が「何があったの」と目を丸くした。みなみは「桶が待ってる」とだけ言い、布を叩いた。叩きながら、冴奈の「責任」の言葉が、灰汁より強く染みていた。
夜。寝所で灯りを落とし、みなみは小さな帳面を開いた。紙は安く、角が少し毛羽立っている。けれど「今日、嘘をついた」と書くと、喉の熱さが少し引いた。続けて「拾った場所、時刻、手に触れた順番」と書いた。冴奈の言葉を、そのまま写したのだ。
冴奈から渡された小さな軟膏を、ひび割れた指へ塗った。椿油と薬草の匂いがして、灰汁の匂いが少し引く。指がしみるのに、胸の奥は少しだけ静かになった。
帳面を閉じて回廊へ出ると、霧の薄い空気が頬を撫でた。灯籠の火が昼より柔らかい。木の匂いが濃い。
どこからか、笛の音がした。甘い、と言うほどではないのに、胸の固いところがほどけるような音だ。洗濯場で布を絞る手が止まるときの、あの一瞬の静けさに似ている。
灯籠の陰に、幹太の背中が見えた。昼の声と同じ人なのに、音だけが別の顔をしている。みなみは息を潜め、笛の終わりまで聞いた。
明日、呼ばれる。逃げない。そう決めたのに、指先がまだ少し震えていた。
立春まで七日。夜明け前、白桜京の盆地に霧が沈み、後宮の白壁は上から下まで淡い灰色になっていた。川の水音だけが遠くで確かに聞こえて、回廊の朱は濡れた木の匂いを放つ。
洗濯場では、湯気と灰汁の匂いが混ざり合い、袖をまくった腕の皮がひりひりする。桶を叩く音、布を絞る音、女たちの呼吸がいっせいに立ち上って、霧の中へ溶けていく。
みなみは手の甲を見た。冬の冷えと灰汁で、細いひびが何本も走っている。指先で触ると、痛いのに、なぜか少し落ち着く。痛いところは、ここだと分かるからだ。
「みなみ、ここ、見て」
隣の桶の新人が、灰汁の濃さを指差した。みなみは覗き込み、泡の立ち方を確かめる。濃すぎず薄すぎず、布の油が落ちるちょうどの色だ。
「うまい。ちゃんと量ってるね」
年長の侍女がそう言うと、周りの手がぱちぱち鳴った。みなみも笑って手を打った。けれど拍手のあと、濡れた布の端を指で強くつまみ、ぎゅっとねじった。泡が指の股に残り、冬の冷えと灰汁の熱さが同時に刺す。
拍手する手と、布を掴む手が同じだと気づくと、みなみは少しだけ息が浅くなった。
「……次は、私も」
口に出した音は霧に触れてほどけ、誰の耳にも届かなかった。届かないのが、少し楽で、少し悔しい。
干し場へ運ぶ順番が来る。みなみは籠を抱え、白壁沿いの裏道へ回った。乾いた布の香りに混じって、石と木と、遠い花粉の匂いがする。春が来る匂いだ。来るなら、来るで、薬代がもう少し要る。そう考えると足が勝手に速くなる。
道の角で、侍女たちのひそひそ声が耳に入った。
「皇后さまの遺りもの、赤い数珠がなくなったって」
「赤瑪瑙だって。触ると冷たいらしいよ」
みなみは籠を抱え直し、聞こえなかったふりをした。聞こえなかったふりは、得意だ。得意なことが増えるほど、何かが減っていく気もする。
白壁の影に落ちる黒い点に気づいたのは、その直後だった。霧の下で、ひとつだけ艶のある赤が沈んでいる。みなみは膝を折って拾い上げた。
赤瑪瑙の数珠だ。玉はつるりとして掌に吸い付いた。冷たさが骨まで届くようで、みなみは反射で袖を引いて包もうとした。包んだ布が、うっすら赤く映る。玉の数を数えると、七つ、ではない。もっと多い。けれど一本の糸で繋がる感触が、不思議と落ち着く。
「……これ、今すぐ届けなきゃ」
決まりは知っている。けれど洗濯場へ戻らなければ桶が減る。桶が減れば給金が減る。給金が減れば、家の薬が途切れる。弟の咳の音が、霧より濃く頭にかかる。
昨夜も、家の土間で弟が身を折るように咳をした。母が薬草を揉み、湯に落として、湯気を布で誘う。湯気が鼻へ入ると弟の肩が少し下がる。その「少し」が欲しくて、みなみは後宮へ来た。学べば、湯の作り方も、葉の選び方も、もっと正しくなる。そう思えば思うほど、決まりの階段を一段だけ飛ばしたくなる。
みなみは数珠を懐へ滑り込ませ、白壁沿いを急いだ。決まりを忘れたのではない。後で、きっと。あとで必ず。そうやって言い訳の階段を、心の中でいくつも作った。
朱塗りの回廊へ出た瞬間、空気の温度が変わった。霧が一段、薄くなる。灯籠の火が床へ細い線を落としている。その線の先に、黒い外套が立っていた。
禁軍長・幹太。
噂の名は洗濯場でもよく転がる。「目線だけで人が止まる」「夜は笛を吹く」「笑わない」。どれも本当か嘘か分からないのに、名前だけが鋭く残る。
幹太は道の中央に立ち、まっすぐこちらを見た。みなみの足が勝手に止まる。籠の重さが急に腕へ落ちてくる。
「それを渡せ」
低い声だった。怒鳴らない。短い。理由も言わない。その短さが、余計に逃げ道を消す。
みなみは喉がからからになり、反射で言った。
「……知りません」
言った瞬間、喉の奥が熱くなった。嘘だと自分で分かっているからだ。懐の布が重くなった気がして、胸がきゅっと縮む。
幹太は腕を掴まない。代わりに背後へ視線を流した。護衛が二人、すっと動く。回廊の両端に立ち、足音を立てずに出口を塞いだ。石畳の上に、見えない柵が立ったみたいに感じる。
「拾い物なら、届けます。けど……私、本当に」
言い訳を重ねるほど声が細くなる。幹太は頷きもしない。頷かないのに待っている。みなみが自分でほどくのを。
そこへ、湯の匂いが来た。薬草の青い香りと焼き米の甘い香り。
女官長の冴奈が、湯椀を両手で持って現れた。霧の中でも髪の乱れひとつない。足取りが静かで、湯気の揺れだけが先に見えた。
「みなみ。飲みなさい」
みなみが受け取ると指が震えて湯が揺れた。冴奈は湯の縁を押さえて、こぼれないように支える。湯は熱すぎず、喉へすっと入った。温かさが腹へ落ち、指先の冷えを少し押し返す。
冴奈はみなみの顔を覗き込み、叱るのではなく淡々と言った。
「喉がひゅうひゅうしている。嘘をつくと声が乾くのよ。……隠すなら責任を持ちなさい。拾った場所と時刻、手に触れた順番。ぜんぶ言うの」
みなみは懐の布を押さえた。指先に赤瑪瑙の冷たさが残っている。湯を飲んでも消えない冷たさだ。
「……白壁の裏です。洗濯場から干し場へ運ぶ途中で。夜明け前、霧が一番濃いころ」
みなみは懐から数珠を取り出した。差し出す手が途中で止まりそうになる。奪われるのが怖いのではない。自分が嘘をついたことが怖い。
幹太は受け取り、数珠の玉を一つだけ指で転がした。玉の表面が灯籠の光を細く切り、赤い線が床へ落ちた。
「倉の鍵が、ひとつ足りない」
幹太はそれだけ言い、護衛に短く指示した。声を荒げないのに、周りの空気が整う。冴奈が受け答えの間合いを作り、みなみへ視線を戻す。
「今朝は洗濯場へ戻りなさい。あとで呼ぶ。逃げないで来るのよ」
みなみは小さく頷いた。頷きながら、胸の奥がまだ熱いのを感じた。嘘で熱くなった喉が湯で落ち着いたのに、恥ずかしさがまだ残る。
洗濯場へ戻ると、新人が「何があったの」と目を丸くした。みなみは「桶が待ってる」とだけ言い、布を叩いた。叩きながら、冴奈の「責任」の言葉が、灰汁より強く染みていた。
夜。寝所で灯りを落とし、みなみは小さな帳面を開いた。紙は安く、角が少し毛羽立っている。けれど「今日、嘘をついた」と書くと、喉の熱さが少し引いた。続けて「拾った場所、時刻、手に触れた順番」と書いた。冴奈の言葉を、そのまま写したのだ。
冴奈から渡された小さな軟膏を、ひび割れた指へ塗った。椿油と薬草の匂いがして、灰汁の匂いが少し引く。指がしみるのに、胸の奥は少しだけ静かになった。
帳面を閉じて回廊へ出ると、霧の薄い空気が頬を撫でた。灯籠の火が昼より柔らかい。木の匂いが濃い。
どこからか、笛の音がした。甘い、と言うほどではないのに、胸の固いところがほどけるような音だ。洗濯場で布を絞る手が止まるときの、あの一瞬の静けさに似ている。
灯籠の陰に、幹太の背中が見えた。昼の声と同じ人なのに、音だけが別の顔をしている。みなみは息を潜め、笛の終わりまで聞いた。
明日、呼ばれる。逃げない。そう決めたのに、指先がまだ少し震えていた。

