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凛とした背中姿は嫌でも視界に入ってくる。
綺麗な形の後頭部を覆う黒い髪の毛に今日は少し寝癖がついている。
夏を知らせる前の生暖かい風が少し開いた窓の隙間から入ってきて、才野くんの寝癖をゆらゆらと揺らした。
あれから数日経ったが特に何もない。何もないということは平穏で、そう、何もないということだ。
やはりあれは本当に気まぐれで何の意味もなさない、みじんこ程度の雑談の部類に入るのだろう、彼らにとっては。
しかし、気のせいだと思いたいが少し変わったことがある。
「プリント足らなかったら後ろで調整しろよお」
間延びした数学教師の言葉。頬杖をついていた腕を外す。きた。
こちらを向かない体、それはいつものことなのだが、まわってきたプリントと、それを掴んでいる手。
「…」
プリントに触れた瞬間、才野くんの手に一瞬力が入るようになった。
するりとこぼれ落ちてくるプリントを慌てて掴んでいた数日前とは違い、掴めば一瞬引っ張られる、そして、緩まる。
なんなんだ、一体。
少しむっとして勢いよくプリントを自分の方に寄せた。
「っ」
その小さなイラつきが、一瞬にして後悔と罪悪感で頭が埋まる。才野くんの人差し指に赤い線がつくられたからだ。
才野くんは、その傷を何もなかったかのように静かに見つめて下ろしていく。
「…ごめん」
流石にその背中姿に謝ったが何も反応はない。
やばいやばいやばい、さすがに今のは性格悪いって自分。
蚊の鳴くような謝罪だけでは埋め尽くされた罪悪感を拭い去ることは出来なかったが、教室という小さな檻の中では通常通り平穏な時間が流れ始めており、俺はそれ以上その背中に声をかけることができなかった。
「次の授業、移動教室だよな才野、一緒に行こうぜ」
長かった数学の授業が終わり、俺はすぐさま才野くんに声をかけようとしたが、そんな大きな声で容易く自分の勇気は消える。
ポケットに入れた片手をゆっくりと出した。
才野くんは「ああ」と返事をして、肩にまわされた小野寺くんの腕を荒々しく取り除きながら教室を出ていった。
しばらくどうしようか迷った。
才野くんは、あの傷をそのままにしている。それがどうしても解せない。
慌てて机の中から次の授業の教科書やらノートを引っ張り出し抱え込んで才野くんを追うように教室を出た。
「才野くん!」
見えた背中に目一杯の声を出した。
才野くんが驚いた様子で振り返る。
「影井…?」
離れた距離を縮めるように小走りで才野くんの前に立った。おそろしいほどに整った顔が背の低い自分を見下ろしている。分かりやすく萎縮した。
才野くんは変な気を遣ってか、隣に立っている小野寺くんに「先に行って」と言った。
少し周りの視線を気にしつつも、俺はポケットからそれを取り出す。
「さっきは、ごめん…勢いよくプリント取っちゃって」
差し出したのは絆創膏だった。
才野くんはそれを静かに受け取る。
本当は、理由を聞きたかった。なぜ一瞬プリントを受けとられるのを拒むのか。
しかし、それを聞くほどの勇気はなかった。
才野くんは、受け取った絆創膏を見つめて小さく口を開いた。
「あの心理テスト」
「え?」
「数日前に俺にやった心理テスト、あれ、発信元どこ」
「えっと、友達…」
詳しいことを言うと、ついた『嘘』がバレる。それは避けたい。
「当たらないよな、あれ」
「…え?」
才野くんの口角が少し上がった。「だって」と動く。
「俺、影井のこと、嫌いじゃない」
低く、真っ直ぐな声。嫌いじゃない、じゃあ、好き。
いや、それは絶対違う。だから、好きでも嫌いでないってそういう話だろ。何を変な飛躍させているんだ、自分。
へらりと誤魔化すように笑った。
「そ、うか、うん、良かった、学校の人気者に嫌われてるなんて知ってさすがに落ち込んでたからさ、うん、ありがとう才野くん」
そう言って歩きはじめると才野くんは俺の横並んだ。確かに行き先は一緒だし、ここで別々に動く方が不自然だよな。
「人気者とか、そういうのやめろよ」
「なんでだよ、本当のことじゃん、才野くんのファン学校中いや、学校外にもいるって噂きくよ」
「…バカバカしい」
「中学の時からそんな感じだったの?」
「……」
そうだったんだろうなあ、という間。しばらく沈黙が続いて才野くんが口を開いた。
「…あの心理テストって本当のやつ?」
「っ、うん、まあ、そう、だけど」
「…嘘、ついてないよな」
「ついてない、でも、なんで?」
隣を見ると綺麗な横顔が視界に入る。すぐに逸らした。自分みたいなのが隣歩いていると、ファンに抹殺されそうな気がする。走って逃げようかな。
視聴覚室まであと数十メートル。廊下の先を見て俺はたまらず静かに息をはいた。
Cの答えなんて、死んでも教えてたまるか。
「まさか、AとBの答えにも疑いがあるとか?」
「それ言ったら宮瀬と小野寺が荒れ狂うし、別にC以外は違わない」
そうか、ならなんでそんなに聞いてくるんだろう。
ーーー『好きな人』
不意に柴田のアホ面とアホみたいな声が脳内で蘇る。ぶんぶんと顔を横に振って掻き消した。今はお呼びじゃないんだよ、アホ柴田。
「まあ、ああいうのって当たる時と当たらない時あるみたいだからさ」
と、適当な言葉を並べて畳んだ。そのままくしゃくしゃに丸めてポイだ。あんなよくも分からない心理テストなんて忘れてしまえ。忘れてください、本当に。
「影井…」
「うわ、チャイムなった、急ごう才野くん」
そう言って駆け出す。数メートル先進んで、視聴覚室の戸を開けた。
「影井と才野、お前らギリギリだぞ、講義映像流すからはやく空いてるとこ座れ」
少し薄暗くなっている部屋に足を踏み入れながら「すみません」と言葉を放つ。
空いてるところ、空いてるところ、とあたりを見渡すがほとんど埋まっていた。
「影井、あそこ空いてる」
「え?」
才野くんに示されたところは、1番映像が見えづらいであろう端の机だ。2人分の椅子しか置かれていない。
「行こう」
と、腕を引っ張られた。



