終わった、色んな意味で。
逃げるなんて、どうかしている。
視界の端に残像のように映る青と魚たち。館内スタッフが「走らないでください」と声をかけられ、「すみません!」と謝り、それでも足は止めなかった。
外に繋がる通路を抜けて、やっと視界を広げる。
そこは静寂ではなく、水が波を打って枠の外を飛び越えていた。それを呆然と眺める。
逃げたあとの自分の気持ちなんて、考えたくもない。
歓声の隙間から見知った顔が俺を見つけた。
「お、影井ー、イルカショー始まってるぜ!それにしても逸れてどこいって…てか、なんでそんな息きらしてんの?」
宮瀬くんが俺にそう問う。息を吸って、ゆっくりと吐いたあとへらりと笑った。「別になんでもない」と。
なんでも大アリだけれど。
「あれ?才野は?」
宮瀬くんの横から顔を覗かせた小野寺くんが俺の後ろ付近に視線をやり、首を傾げている。
「えっと、さ、才野くんとも、はぐれちゃって」
俺は、嘘をついてばかりかもしれない。
でも、言えなかった。宮瀬くんが「やっぱりつまねえって先帰ったのかもな」となんてことないかのように言って小野寺くんが「それな」と笑っていた。
湧き上がる複雑な感情に言葉をつけることができずに、俺は「あはは」なんて誤魔化して笑って彼らの輪に入っていった。どこまでも嘘つきで、バカだ。
「影井くん隣どうぞ。きた時には椅子埋まってて、立ち見だけど」
「ありがとう田中くん」
飛び上がったイルカショーが空中で輪っかを潜った。
息は整ってきているのに、まだ心臓がうるさい。
飛び跳ねたイルカをみて、才野くんが球技大会でダンクをした日を思い出してしまう。どこまでも飛んでいきそうだと思った。
俺は、この人と一緒にいていい人間なのだろうか、とも。
彼が放った『影井 楓』という答えが、間違いであればいい。そしてその気まぐれが、彼の中の暇つぶしと揶揄いを生んだだけだと言ってくれればそれで済む話だ。
俺は、何をそんなに怖がって逃げているのだろうか。
才野くんから、どう言われるか、心配だから?
ふざけた嘘をついて、本当に『嫌われた』ら、嫌だからか。
うるさい心臓を落ち着けるように片手を添える。
ーーー分からない、自分のことも、才野くんのことも。
「あれ、影井くん」
「え?」
田中くんから声をかけられ、顔をあげて田中くんの方を見れば田中くんの瞳が俺の鞄の方に向けられていた。
「ついてたストラップは?」
「え?」と鞄に視線を落とす。あれ、ない。
ひゅっと息をのんで、鞄を持ち上げる。
前についている小さなポケットから、財布などが入っているチャックの中もあけて目を凝らすがない。
「どした?影井」
「ストラップがないみたいです」
小野寺くんの質問に答える気持ちの余裕がない俺に、田中くんが代わりに説明する。「あの、バスケットボールのやつです」と心配を帯びた声色でそう付け加えられる。
きゅっと唇を結ぶ。なくしたら、まずい。
「ごめん、ちょっと探してくる」
「手伝うよ」
小野寺くんの言葉に首を横に振った。楽しんでいるのに、雰囲気を壊してはまずいと「大丈夫」と言ってへらりと笑う。
「またあとで合流するから!あれだったら、先に帰っててもいいし」
すぐに見つかるという憶測と、もし見つからなかった時の保険としてそう言った。
宮瀬くんが「待って落ち着けって」と走り出そうとする俺を引き止める。
「同じものなら、ネットとかにゴロゴロ売ってんだろ?そこまで必死になって探さなくてもよくね?」
すぐに首を横に振った。
「あれ、俺のじゃないんだ、預かり物…いや、落とし物…えっと、ひとまず、持ち主に返すまで俺が持っておかないと!」
そう言ってきた道をまた走り出した。
再び青の静寂に包まれながら、俺は大事なものを見落とさないように地面を見渡して歩く。
なんだか自分の不甲斐なさに泣きそうになってきた。中学時代の最後の試合、せっかく出してもらった試合で怪我した記憶が蘇ってくる。
俺は、いつもこうだ。大事な時に、どうしようもない壁にぶち当たる。
「すみません、落とし物としてこちらではお預かりしていないみたいです」
頼みの綱であった、館内の問い合わせ室を訪れたがあえなく撃沈。
さきほど才野くんから逃げ出した、クラゲが舞っている場所へと戻ってくるが、才野くんも柴田もいない。
才野くん、沙織ちゃんと2人なのだろうか。
柴田、大丈夫かな。あいつ振られたって立ち直りがきっと早い、帰りに毒づいてすっきりして終わるのだろう。そして、また新しい恋ができるはずだ。
大丈夫、きっと。
「……っ」
小さなクラゲが泳いでいる水槽の前でへなりとしゃがんだ。
顔を下に向けた。光があまりあたらない床に手を置く。
ストラップ、どうしよう。
「影井」
後ろから聞こえた声。顔を向けなくても誰だか分かってしまった。
だから、すぐに反応ができなかった。
しゃがみこんで下を向いたままでいると、近づいてきた足音が俺の前で止まる。
見えた靴にまた心臓が痛くなって、唇をきゅっと結んだ。
その人は、才野くんは、俺の前にゆっくりとしゃがんだ。
何度も何度もきいたような、揺れる音がして、はっと顔をあげる。
「…探し物、これ?」
探していたストラップが目の前にある。そして、ぐちゃぐちゃの感情の発端が目の前にいる。
「な、んで」
「なんでって、普通に拾っただけだけど」
拾ったものを、持ち主に届けただけという当然の行為を才野くんは冷静な顔で言う。違う、そういう意味じゃないんだ。
なんで、君はそんなに冷静なの。というか、沙織ちゃんは。
「いらないなら、俺が貰うけど」
「だ、だめ」
才野くんの方にいってしまいそうなそれに慌てて手を伸ばすが、才野くんは緩くかわした。
「…そんなに大事?これ」
「…っ、才野くんには関係ない」
「ある」
「ないよ」
「なんでそう言い切れるんだよ、それに影井の言葉にもう信憑性ないし」
くっと言葉が詰まった。何も言い返せない、きっと才野くんは俺がついてしまった嘘のことを言っている。
「誰が誰を嫌いだって?影井」
「…ごめん」
「何の謝罪だよ、それ」
「嘘、ついたから」
「罪悪感?」
「…うん」
才野くんは少し困ったように笑っている。
手に持っているストラップが意図的にかゆらゆらと揺れていた。
「俺、何度も言ってるよな、影井のこと嫌いじゃないって」
「うん…」
「影井はさ、どう思う?あの心理テスト」
どうって。手を伸ばせばすぐに奪えそうなストラップに手を伸ばさないのは、また才野くんの気まぐれで手元に返ってこない気がしたから。
気まぐれ、なんて才野くんは言ったことないけど。
俺とは別の世界を生きているような才野くんが、ここまで俺に関わってくる理由は『気まぐれ』や『暇つぶし』以外にはありえないという勝手な思い込み。
「…才野くんだって言ってたじゃん、しょうもない心理テストって」
「影井もそう思う?」
「う、ん」
「じゃあ、俺に嘘をついた理由はなに」
「そ、れは、才野くんみたいに俺とは全然違う、完璧な人が、俺なんかを、その、好き、とか、全くもって違う、あり得ない結果が露呈して、迷惑をかけてしまうことが考えられたから…です」
才野くんは、ため息をついた。そしてしばらく黙る。
そして目の前に差し出されたストラップ。
おそらく、呆れられたのだろう。
ゆっくりとそれを受け取った。
手に握ったストラップに少しの冷たさを感じる。


