永遠の呪文は、レシートの裏に

永遠の呪文は、レシートの裏に

 1月の土曜日、午後五時二十分。東小町駅前の商店街は、吐く息が白くなるたび、豆電球の列が「まだだよ」と眠たげに見えた。パン屋のガラスに貼られた紙には、くっきりとこうある――点灯は午後六時。

 焼菓子店「ミソラ」のカウンターで、誠人は紙袋の口をきゅっと結び、リボンの端を指で切りそろえた。受け取った高校生が「友だちに渡す」と照れくさそうに言うと、誠人はレジ横の小瓶から星形の飴を二粒つまみ、そっと袋へ落とした。

 「一粒は、渡す前に自分で食べてくださいね」
 「え、なんで?」
 「口の中が甘いと、言葉がちょっと柔らかくなるんで」

 高校生が笑いながら出ていくと、ベルがちりん、と軽く鳴った。入ってきたのは、書類の束を抱えた女性だった。白いマフラーを巻いたまま、まっすぐカウンターに立つ。濡れた髪先を指で払うでもなく、息だけを整える。

 「東小町市役所、地域振興係の日和です。午後六時から商店街の豆電球を点灯する件、歩道使用の確認に来ました。責任者の方は」

 誠人は、いったん「いらっしゃいませ」を引っ込めて、レジ下から控えのファイルを引っぱり出した。

 「はい。責任者は、向こうの酒屋のご主人です。……ええと、これですね。今日の点灯の範囲と、コードの這わせ方と、立て看板の位置」
 「確認します」

 日和は、書類の端を揃えながらページをめくった。紙が擦れる音が、店の小さな暖房の風より冷たく聞こえる。誠人は、その横顔に「遠足のしおりを配る先生みたいだな」と思ってしまい、口角が勝手に上がった。

 「……念のため。店のレシートを見せてください」
 「レシート?」
 「こちらの店、購入者に何か書き添えていると聞きました。領収の体裁を崩すと、トラブルになります」

 誠人は「あっ」と声を上げた。レジ脇の箱から一枚つまみ、ひらりと差し出す。

 「書き添えてます。ほら、裏に。……あ、裏ですよ。表は触りません」

 日和が裏返すと、そこには油性ペンの細い文字があった。

 『永遠の呪文:おかえりなさい。今日はよく耐えました』

 日和の眉が、ほんの一ミリ動いた。

 「……呪文?」
 「はい。僕の、店内限定の魔法です」
 「そういう表現は、誤解を招きます」
 「でも、買った人の気分がちょっと上がったら、呪文っぽくないですか?」

 日和はレシートを返さず、じっと見つめたまま言った。

 「効果の根拠は」
 「え」
 「実績は。クレームは。統計は」
 「統計……ええと、星形の飴が減る速度は早いです」

 誠人が真顔で答えると、日和の口元がわずかに揺れた。笑いそうになって、ぐっと止めた、という揺れだ。

 「ふざけないでください。私は、白か黒かをはっきりさせたいんです」
 「じゃあ、こうしましょう。裏に書くのは、僕の勝手。読んで笑うかどうかは、お客さんの勝手。白黒は、読んだ人が決めます」
 「……あなた、世間知らずですね」

 ぴしゃり、と言われた。けれど誠人は、へこんだふりをせず、袋詰め台に手をついて首をかしげる。

 「世間は、けっこう広いですもんね。僕は、目の前の一人分しか見えてないかも」
 「それが危ういと言っているんです」
 「危ういなら、日和さんが見張ってください。僕、飴なら差し出せます」

 日和は、見張る、という言葉に反応したのか、視線を店の奥へ動かした。棚の隙間から見えるのは、点灯準備のために積まれた脚立と、束ねられた延長コード。そこに貼られた黄色い注意テープが、一本だけ途中で切れている。

 「……これ、どこへ行きました」
 「え?」
 「注意テープ。コードの固定に必要です。切れてる」

 日和の声が、急に低くなった。誠人は、初めて「いま目の前の問題」に彼女が一気に焦点を合わせたのを見た。目尻が少しだけ鋭くなる。視線がぶれない。

 「さっきまで、あったんですか?」
 「この店の分はここに置いておく、と酒屋の方が言ってました。点灯は午後六時。あと四十分。固定が不十分なら、歩道使用は認められません」

 誠人は、時計を見て「うわ」と声を漏らした。店の外では、手袋をした人たちが電球の列を引っ張り、脚立がきしむ音がする。六時に間に合わなかったら、商店街は真っ暗だ。

 「探します。たぶん、子どもが……いや、勝手に触る子はいないはず。ええと、僕、走ってきます」
 「走らないで。転んだら意味がない。まず、関係者に確認」
 「関係者って、今みんな外です」
 「だから、声をかける。順番に。焦って動くと、余計に遅れます」

 日和はそう言うと、店のドアを開け、冷気を連れて外へ出た。誠人も慌てて追い、商店街の中央へ。豆電球の列は、まだ眠っている。手袋の人々は、結び目をほどいたり、コードを束ねたり、息を白くしながら忙しそうだ。

 日和は、酒屋の主人にまっすぐ近づいた。

 「注意テープが一本足りません。どこに置きましたか」
 「あれ? さっき、工具箱に――あ、違う。段ボールに入れて……誰か持っていったかな」
 「誰が」
 「ええと、あの、背の低い……」

 主人が迷い始めると、日和はため息を吐かず、次の人へと視線を移した。誠人はその隣で、「名前、名前」と小声で繰り返し、片っ端から声をかけた。

 「すみません、注意テープ、見ませんでした? 黄色い、ぺたぺたのやつ」
 「ぺたぺたのやつ?」
 「ぺたぺたのやつです。ほら、踏んだら危ないってやつ」
 「それなら、八百屋の奥さんが――」
 「ありがとうございます!」

 誠人は走り出しかけ、日和に袖を掴まれた。

 「走らない」
 「はい」

 走りたい気持ちだけが先に行って、足がもつれそうになる。誠人は足を小刻みにして、早歩きに切り替えた。日和は、その横で歩幅を一定に保つ。寒さで赤くなった指先で、メモ帳に矢印を書き、次の店へ。

 八百屋の奥では、注意テープが――なかった。代わりに、同じ色のビニールひもが束になっていた。

 「これじゃ固定できないですね」
 「代替は不可。適切なものを」
 「え、代替ってだめなんですか。世間って厳しい」
 「世間じゃなくて、安全です」

 日和は即答した。誠人は、笑ってしまった。厳しいのに、言い切り方が妙にまっすぐで、嘘がない。

 「じゃあ、適切なものを、適切に探します」

 商店街の端の文具店、そして金物屋。扉を開けるたび、ベルが鳴り、冷気が入り、店主が顔を上げる。誠人が「すみません」と頭を下げると、店主はだいたいこう返す。

 「誠人くん、また何かやらかした?」
 「やらかしてません! ……たぶん!」

 金物屋の棚の前で、日和はテープの規格を確認していた。幅、粘着力、耐寒。誠人は、その横で星形の飴の小瓶を差し出す。

 「一粒、どうぞ」
 「勤務中です」
 「口の中が甘いと、言葉が柔らかくなるんで」
 「私は、柔らかい言葉を使う必要はありません」

 言いながら日和は、飴を取った。取ってから、しまった、という顔をして、マフラーの陰で口に入れた。噛まずに舐めているのが、頬の動きでわかる。誠人は「勝った」と心の中で小さく拳を握った。

 金物屋の店主が、奥から新品の注意テープを持ってきてくれた。

 「ほら。これでいいだろ。商店街の点灯、楽しみにしてるよ」
 「ありがとうございます!」

 誠人が受け取ろうとすると、日和が先に手を伸ばした。

 「領収書、お願いします。支払いは私が」
 「え、そこは僕が――」
 「原因の所在が不明なまま、商店街全体を止めるわけにはいきません。精算は後で、責任者へ。白黒、はっきりさせます」

 その言い方が、少しだけ柔らかかった。飴のせいだ、と誠人は勝手に決めた。

 店を出ると、空が青から紺へと沈み始めていた。豆電球の列が、まだ眠っている。誠人はテープを握りしめ、日和の歩幅に合わせた。

 「日和さん、さっき、僕のレシートの裏……変だと思いました?」
 「変です」
 「ですよね。でも、たまに、あれがないと帰れない人がいるんです」
 「……帰れない?」
 「店って、買い物して終わりじゃないですか。だから、最後に一言だけ、残したくて。『今日はここで終わり』って」

 日和は、足を止めなかった。けれど、視線が一瞬だけ、路肩の白線へ落ちる。白線は、はっきりしている。そこに沿って歩けば迷わない。

 「あなたの書く言葉は、責任が軽い」
 「軽いですか」
 「簡単に『永遠』なんて言う。永遠は、保証できません」

 誠人は、反射で「たしかに」と頷きそうになった。けれど、そのまま頷くと、彼女がまた白黒にしてしまう気がした。誠人は、少しだけ考え、言い換えた。

 「永遠って、保証じゃないです。……お願い、に近いかも。『覚えててください』って」
 「お願い」
 「はい。お客さんの財布の中に、僕の字が残って。次に取り出したとき、息が一回ぶんだけ楽になったら――それで、僕は十分です」

 日和は、何か言い返す準備をした顔で、口を閉じた。代わりに、手袋の親指で、コートのポケットの角を押した。そこに何か紙が入っているような仕草だった。

 商店街の中央に戻ると、酒屋の主人が焦った声を上げていた。

 「テープが見つからなくてよ……あ、日和さん!」
 「新品を用意しました。固定をやり直してください」

 日和がテープを渡すと、周りの人たちが「助かった」と口々に言った。誠人は脚立を運び、コードを押さえ、手袋の上からテープをぴんと引っ張った。日和は、固定の間隔を測り、結び目を指で確かめた。

 「……ここ、指が入ります。もう一巻き」
 「はい」
 「こっちは、角が立ってる。靴が引っかかる」
 「すみません、直します」

 誠人は、日和の言葉が「叱っている」より「直すため」に聞こえて、変に嬉しくなった。笑いそうになって、口を引き結ぶ。

 作業の合間に、近所の花屋の奥さんが誠人へ声をかけた。

 「誠人くん、あのね。こないだのレシート、まだ持ってるのよ」
 「え、ほんとですか」
 「『泣いていい日』って書いてあったでしょう。あれ、帰り道で見て、車の中で泣いちゃった。そしたら、家に着いたとき、ちゃんと『ただいま』って言えたの」

 誠人は、手の中のテープが少しだけ重く感じた。日和はその会話を聞き、黙ったまま、コードの位置を見ているふりをした。けれど、視線は一度だけ誠人へ滑り、すぐに床へ戻った。

 午後五時五十九分。豆電球の列の前に、商店街の人たちが集まった。寒いのに、誰かが紙コップの甘酒を配り始め、湯気が白く揺れる。

 「点灯します!」

 スイッチが入った瞬間、眠っていた豆電球が、一斉に目を覚ました。黄色い光が並び、通りの端までつながっていく。小さな歓声が起き、拍手がぱらぱらと広がった。

 誠人は、日和の横顔を見た。日和は拍手をしていない。けれど、光の列を見つめる目が、ほんの少しだけ丸くなっている。白か黒かを決める目ではなく、「いま目の前にあるもの」をそのまま受け取る目だった。

 誠人は、そっと言った。

 「日和さん、さっきポケット、押してましたよね。何か入ってる」
 「……関係ありません」
 「関係あります。僕、世間知らずなので、気になります」

 日和は一度、唇を噛んだ。それから、観念したようにポケットから紙を取り出した。折り目のついたレシートだった。裏に、細い字がある。

 『永遠の呪文:今日は、あなたがあなたを守った日』

 誠人は、息を呑んだ。自分の字だ。確かに、数日前、マフラーの女性に渡した気がする。だが、そのときは彼女が日和だとは気づかなかった。

 「……あなた、これを」
 「捨てられませんでした。意味が、わからないままでも」
 「意味、わからないのに?」
 「わからないからです。白黒つけたいのに、つけられない。……それが、嫌で」

 日和の声は、点灯の歓声に紛れて、ほとんど聞こえないくらい小さかった。誠人は、笑うべき場面じゃないのに、なぜか口角が上がりそうになった。彼女が「嫌だ」と言えたことが、少しだけ嬉しかったからだ。

 「じゃあ、意味、いっしょに決めましょう」
 「決める?」
 「はい。永遠って、保証じゃなくて、合言葉にしましょう。『またここで会う』って」

 日和はレシートを見つめたまま、首を横に振った。

 「それでも、永遠は言い過ぎです」
 「じゃあ、こうします。……『長持ちする呪文』」
 「それも曖昧です」
 「日和さん、曖昧に厳しい」

 誠人が言うと、日和はついに小さく笑った。笑ってから、慌てて咳払いをして、マフラーを直す。誠人は、そこでもう一度、小瓶を差し出した。

 「飴、もう一粒」
 「勤務中です」
 「口の中が甘いと」
 「……わかりました」

 日和が飴を取る。その指先が、少しだけ震えていた。

 店に戻る途中、誠人はレジのロール紙の交換を思い出した。日和は、点灯の確認を終えて書類をまとめ、最後に店の前で立ち止まった。

 「あなたの店のレシート、裏に書くのは……」
 「だめですか」
 「……表を汚さないこと。内容が誤解を招かないこと。苦情が来たら、必ず対応すること」
 「はい」
 「守れるなら、私は見て見ぬふりをします」
 「見て見ぬふりって、言い方」
 「白でも黒でもないでしょう。今日は、そうします」

 日和は小さく息を吐いた。吐いた息は白く、豆電球の光に照らされて、すぐに消えた。

 誠人が「ありがとうございます」と頭を下げると、日和は袋を受け取り、靴のつま先を揃えた。

 「でも、困っている人を見つけるのは早い。そこは、覚えておきます」
 「日和さんも、飴を受け取るのが早いです」
 「それは……偶然です」

 日和がドアを開ける。ベルがちりん、と鳴った。誠人は、その音に合わせて小さく両手を叩いた。

 「日和さん。今日は、拍手します」
 「五分だけです」
 「五分で十分」

 日和は振り返らず、豆電球の列の中へ歩いていった。誠人はカウンターに残ったレシートを一枚取り、裏に書いた。ペン先が紙をくすぐる音がする。

 『永遠の呪文』
 『明日も、あなたの名前を呼ぶ』