LED照明の白い光が、無機質な机と機械の並ぶ部屋を冷たく照らす。
一つだけ点灯するモニターの前には、疲れた男の背中が一つある。
男の名は下村別府、三十八歳。社会人になって十五年、中間管理職という名の雑用係だ。
部下が「できない」「無理です」と投げ出した仕事は、結局、別府が引き受ける羽目になる。
会社に飼い慣らされ、いいように使われている自覚はった。
独身で一人暮らし、家族のしがらみもないからと、つい業務を詰め込み、プロジェクトのスケジュール管理まで背負い込む。
三六協定なんてあってないような状態だったが、昨年、労基署からの指導が入り、残業管理が厳しくなったせいで、仕事はさらにやりづらくなった。
だからこその早出である。今日は午前中に顧客向けのデモンストレーションがあるため、それに合わせて検証データを準備する必要があり、早朝から実験室にこもっていた。早朝なら出勤時間を誤魔化せる裏技がまだ残っているのだ。
始業の八時半まであと二時間。眠気覚ましに缶コーヒーでも買おうと立ち上がった瞬間、足がもつれて尻餅をついた。日ごろの運動不足のツケが回ってきたらしい。
「いって……」と呻きながら顔を上げると、目の前の景色が一変していた。
実験室ではない。機械の無機質なうなりも、モニターの青白い光もない。代わりに、木のぬくもりに満ちた小さな部屋。窓から差し込むやわらかな光が、埃の粒子をキラキラと浮かび上がらせている。
「ここは……どこだ……?」
この状況でそう思うのは自然な流れだろう。
「あの……」
声をかけられ、別府は大きく目を見開いた。
目の前には見知らぬ女性がいて、彼女は尻餅をついている別府を見下ろしていた。茶色の髪を背中に流し、ヘーゼルの瞳はどこからどう見ても外国人だったが、年齢は二十歳前後くらいだろう。空色のワンピースがよく似合っている。
「どちらさまでしょう?」
「いや。それを聞きたいのは俺のほうだ」
外国人のわりには異様に日本語が堪能である。だが言葉が通じるだけありがたい。見知らぬ場所、初対面の人間で、ここで話が通じなければ現状の把握すらできない。
「あ、はじめまして。私は聖女のミュリエルです」
「聖女……? みゅりえる……? 舌を噛みそうな名前だし、見るからに日本人じゃないし……そのわりには日本語がうまい」
心の声はすべて口から漏れ出ていたらしい。
「にほんじん……?」
彼女は首を傾げつつも、慌ててフォローした。
「あ、リエと呼んでください」
「リエ……」
別府の周囲にも同じような名前の女性はいたが、名前で呼べばセクハラだなんだと言われる時代なので、女性を名前呼びすることに抵抗はあった。
それでも、本人がいいと言っているのであれば問題ないだろう。
彼女はキラキラとした笑顔をこちらに向けている。
「はい。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「下村別府……」
よく聞き取れなかったのか、ミュリエルは眉間にしわを刻む。かわいい顔が台なしだ。
「え? しもべ? もしかして、私。魔王の僕を召喚しちゃった……?」
「違う!」
お互い、聞き慣れぬ名前ではあるが、聞き取れたところがピンポイント過ぎる。だから、別府はゆっくり話し始めた。
「俺の名前は、し・も・む・ら・べ・っ・ぷ。両親が新婚旅行で別府温泉に行き、そこを気に入ったからそんな名前がつけられた」
と、初対面の人には何度も説明している名前の由来だが、安直につけすぎだろうと、いつも思っている。
「えぇと、しもむら、べ……ぷさん?」
「別府でいい」
ため息とともに吐き出せば「えぇと、べべさん?」と彼女から問われる。
「べっぷ」
だが、彼女は口の中で何度も「べっべ、べっべ……」と呟いている。お国柄の違いのせいか、発音しにくいのだろう。
「もうそれでいい。っていうか、俺の名前はどうでもいい」
別府は諦めたように手を振った。べっぷだろうがべっぺだろうがべべだろうが、あだ名のようなものだと思えばいい。
「それよりも、ここはどこだ? いったいなんなんだ? 俺のパソコンは? 検証中のデータ……」
これからデモンストレーションが控えているから、今日は窮屈なスーツ姿で出勤したのだ。それも尻餅をついてしまったから、あとで汚れていないか確認する必要がある。
「ここは、ララサバル王国のガルトンという街です」
「は?」
彼女の説明は非常に丁寧であったが、別府にはわけがわからない言葉だった。
「そんな名前の国は知らない。〝ら〟から始まる国の名前はラトビアとラオスしか知らん。なんなんだ? そのラララなんちゃらみたいな国の名は」
「ララサバル王国です」
ミュリエルは冷静に繰り返した。
「だから、知らん」
「う~ん」
ミュリエルは腕を組んで首をひねってから、ポンと手を打った。
「べべさんは、違う世界からやってきたんですね!」
「違う世界?」
「はい。私たちが存在する世界とは違う世界――異世界とも呼ばれておりまして、そちらの人間を、私たちは異界人と呼びます」
「異世界……? 漫画とかアニメの世界のあれか?」
別府はガクッと項垂れたが、一気に疲れが襲ってきた気がする。いや、それよりも。
「俺、元の世界に帰れる?」
「う~ん。召喚の術式はわかるのですが、それを返す術式はわかっていなくて……」
「つまり、俺を呼び出したのは君だが、俺を帰すことはできないと?」
「はい。申し訳ありません……」
今の話を信じれば、彼女の召喚の術によって別府はこの異世界に呼び出されたわけだ。つまり選ばれた民だと考えていいのだろうか。
「ちょっと聞くが……もしかして俺は勇者とかだったりするのか?」
「しません」
ミュリエルが即答するものだから、別府は思わずガクッと肩を落とした。
「え? じゃ、なんで俺がこの世界に召喚されたわけ? ラララの国を救ってくれとか、そういうわけではない?」
たいてい異世界における召喚というのは、そういう流れではないのだろうか。そして、チートな能力が授けられ、敵をばっさばっさ倒していくのだ。場合によっては、なぜかハーレムができているという。
「違いますね。そもそも私が召喚したのは家畜です。鶏です。それなのに、なぜか現れたのがべべさんで……」
そこでミュリエルの顔は一気に曇ったが、別府もはっとする。
「家畜……社畜……社畜、家畜?」
もしかして、家畜を召喚しようとした結果、なぜか社畜の自分が応じてしまったと、そういうことだろうか。
「あのぅ……」
ミュリエルが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「一応、召喚した責任があるといいますか。べべさん、こちらに知り合いって誰もいませんよね?」
「異世界に友達や親戚なんているわけないだろ」
「これからの生活は……」
「野垂れ死に。そして今から戻ったところで、検証終わらずで、デモもパァ。上司に怒られ半殺し」
早朝勤務も、スーツ出勤も、意味がなかった。
「死んではダメです! べべさんを召喚したのは私です。この家で暮らしてください。そして私は、べべさんが元の世界に戻れるように……なんとかします?」
「そこ、疑問形かよ!」
別府が呆れたように突っ込んだ。
「だから、召喚したものを元に戻す術式、使えないんです。そんなものがあるかどうかもわからない」
「だったら、いいよ」
別府はひらひらと手を振った。面倒な議論を切り上げるときによく使う仕草だ。
「悪いけど、俺にはここには知り合いが一人もいない。君の言葉に甘えて、この家に居候させてもらう。問題ないな?」
「はい。大丈夫です!」
「ところで君、他に家族は?」
「いません。私、一人で暮らしているので、べべさんが一人増えても問題ありません」
「いや、あるだろ!」
そこで別府が「よっこらしょ」と言いながらやっと立ち上がったが、打った尻が痛くて「いててて……」と、つい声が漏れてしまう。
痛みが落ち着いたところで、別府はドンと一歩近づいてミュリエルを見下ろした。
「男と女が一つ屋根の下。周りから変な噂を立てられるだろ? 俺は他に部屋を借りる。だが、そのために君に協力してもらいたい」
「え? 一緒に暮らすのはダメなんですか?」
「俺が君に欲情したらどうする?」
威圧的な視線にミュリエルは一瞬たじろいたが、すぐに「なるほど」と頷いた。
「そういうことですか」
ミュリエルが納得したところで、今度は小さな杖を「えいっ」と振り上げる。杖の先から小さな光の玉が生まれ、ふわりと浮かんで別府の股間へと吸い込まれていく。
「は? なんだ、今の光は……」
「はい。べべさんが私に欲情しない魔法をかけました。これで欲情の心配はありません。だけど、他の人には反応すると思いますので、そこは節度を守って、責任を持ってくださいね」
別府は目をぱちぱちと瞬いた。
「魔法……?」
「はい。べべさんは異界人だし同居人になるから言いますけど。私、聖女なんですよ」
「それは、先ほども言っていたな」
「聖女って神殿で暮らすんですけど……」
そこでミュリエルは、自身の生い立ちについて教えてくれた。赤ん坊の頃から聖なる力を発言させた彼女を、両親は多額の報奨金と引き換えに、神殿に預けたようだ。
「それって、人身売買に近いものを感じるな……」
「まぁ。とにかくそんなわけで、十八歳まで聖女として人々を癒やしながら神殿にいたわけですが、突然、女官殺しの犯人にされてわけです」
「展開が早い! 何かのミステリーか?」
「もちろん、私は殺ってないんですけど。なんか神官たちは、私を犯人にしたいみたいで……それで身体検査するから脱げって……」
今時、そこまでやったら間違いなくセクハラだ。いや、性犯罪に近いものを感じた。
何も言えず別府は押し黙るものの、ミュリエルも少し気まずそうに言葉を続ける。
「これは、間違いなくヤられると思って、有り金全部持って逃げてきました。あ、今の『萎える魔法』を構築したのも、それが原因です」
「まぁ。身の危険を感じたら逃げ出すのは間違いではないな」
「そして、たどり着いたのがこの街で、こうやってのんびり暮らしています」
「のんびりねぇ?」
別府は確認するかのように、室内をぐるりと見回した。
「まぁ、田舎の別荘みたいなところだな」
それがこの部屋の印象だ。悪くはないし、住めば都ともいう。
「あ、部屋はあまっていますので、べべさんのお部屋も準備できます」
「それは助かる」
いくら彼女に欲情しないとしても、世間体というものはある。
「ところで、私とべべさんの関係はどうしましょう?」
ミュリエルは真っすぐに別府を見上げ、輝く瞳で訴えてきた。
「べべさんに魔法をかけたので、恋人の線はなしですね。婚約者とか夫婦とかもなし」
「失礼だが、君の年齢はいくつだ? 俺はこう見えても三十八だが……」
「十八です! 二十歳も違うんですね。となれば、兄妹にも無理がありますね」
となれば――。
「べべさんは私の父ということでいいですか?」
「やっぱり、そうなるか」
恋人でもない、夫婦でもない、兄妹でもない、となれば遠い親戚という設定もあるが、結婚しても問題ないくらいの遠い親戚であれば、やはり変な噂は立ってしまう。
だから、父娘という設定が無難なところだろうとは思っていたが、それを彼女から言われてしまった事実にガクッと肩を落とすしかない。
「結婚していないのに、いきなり子持ちか……しかも異世界で……」
別府はがっかりした様子で、うなだれた。
一つだけ点灯するモニターの前には、疲れた男の背中が一つある。
男の名は下村別府、三十八歳。社会人になって十五年、中間管理職という名の雑用係だ。
部下が「できない」「無理です」と投げ出した仕事は、結局、別府が引き受ける羽目になる。
会社に飼い慣らされ、いいように使われている自覚はった。
独身で一人暮らし、家族のしがらみもないからと、つい業務を詰め込み、プロジェクトのスケジュール管理まで背負い込む。
三六協定なんてあってないような状態だったが、昨年、労基署からの指導が入り、残業管理が厳しくなったせいで、仕事はさらにやりづらくなった。
だからこその早出である。今日は午前中に顧客向けのデモンストレーションがあるため、それに合わせて検証データを準備する必要があり、早朝から実験室にこもっていた。早朝なら出勤時間を誤魔化せる裏技がまだ残っているのだ。
始業の八時半まであと二時間。眠気覚ましに缶コーヒーでも買おうと立ち上がった瞬間、足がもつれて尻餅をついた。日ごろの運動不足のツケが回ってきたらしい。
「いって……」と呻きながら顔を上げると、目の前の景色が一変していた。
実験室ではない。機械の無機質なうなりも、モニターの青白い光もない。代わりに、木のぬくもりに満ちた小さな部屋。窓から差し込むやわらかな光が、埃の粒子をキラキラと浮かび上がらせている。
「ここは……どこだ……?」
この状況でそう思うのは自然な流れだろう。
「あの……」
声をかけられ、別府は大きく目を見開いた。
目の前には見知らぬ女性がいて、彼女は尻餅をついている別府を見下ろしていた。茶色の髪を背中に流し、ヘーゼルの瞳はどこからどう見ても外国人だったが、年齢は二十歳前後くらいだろう。空色のワンピースがよく似合っている。
「どちらさまでしょう?」
「いや。それを聞きたいのは俺のほうだ」
外国人のわりには異様に日本語が堪能である。だが言葉が通じるだけありがたい。見知らぬ場所、初対面の人間で、ここで話が通じなければ現状の把握すらできない。
「あ、はじめまして。私は聖女のミュリエルです」
「聖女……? みゅりえる……? 舌を噛みそうな名前だし、見るからに日本人じゃないし……そのわりには日本語がうまい」
心の声はすべて口から漏れ出ていたらしい。
「にほんじん……?」
彼女は首を傾げつつも、慌ててフォローした。
「あ、リエと呼んでください」
「リエ……」
別府の周囲にも同じような名前の女性はいたが、名前で呼べばセクハラだなんだと言われる時代なので、女性を名前呼びすることに抵抗はあった。
それでも、本人がいいと言っているのであれば問題ないだろう。
彼女はキラキラとした笑顔をこちらに向けている。
「はい。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「下村別府……」
よく聞き取れなかったのか、ミュリエルは眉間にしわを刻む。かわいい顔が台なしだ。
「え? しもべ? もしかして、私。魔王の僕を召喚しちゃった……?」
「違う!」
お互い、聞き慣れぬ名前ではあるが、聞き取れたところがピンポイント過ぎる。だから、別府はゆっくり話し始めた。
「俺の名前は、し・も・む・ら・べ・っ・ぷ。両親が新婚旅行で別府温泉に行き、そこを気に入ったからそんな名前がつけられた」
と、初対面の人には何度も説明している名前の由来だが、安直につけすぎだろうと、いつも思っている。
「えぇと、しもむら、べ……ぷさん?」
「別府でいい」
ため息とともに吐き出せば「えぇと、べべさん?」と彼女から問われる。
「べっぷ」
だが、彼女は口の中で何度も「べっべ、べっべ……」と呟いている。お国柄の違いのせいか、発音しにくいのだろう。
「もうそれでいい。っていうか、俺の名前はどうでもいい」
別府は諦めたように手を振った。べっぷだろうがべっぺだろうがべべだろうが、あだ名のようなものだと思えばいい。
「それよりも、ここはどこだ? いったいなんなんだ? 俺のパソコンは? 検証中のデータ……」
これからデモンストレーションが控えているから、今日は窮屈なスーツ姿で出勤したのだ。それも尻餅をついてしまったから、あとで汚れていないか確認する必要がある。
「ここは、ララサバル王国のガルトンという街です」
「は?」
彼女の説明は非常に丁寧であったが、別府にはわけがわからない言葉だった。
「そんな名前の国は知らない。〝ら〟から始まる国の名前はラトビアとラオスしか知らん。なんなんだ? そのラララなんちゃらみたいな国の名は」
「ララサバル王国です」
ミュリエルは冷静に繰り返した。
「だから、知らん」
「う~ん」
ミュリエルは腕を組んで首をひねってから、ポンと手を打った。
「べべさんは、違う世界からやってきたんですね!」
「違う世界?」
「はい。私たちが存在する世界とは違う世界――異世界とも呼ばれておりまして、そちらの人間を、私たちは異界人と呼びます」
「異世界……? 漫画とかアニメの世界のあれか?」
別府はガクッと項垂れたが、一気に疲れが襲ってきた気がする。いや、それよりも。
「俺、元の世界に帰れる?」
「う~ん。召喚の術式はわかるのですが、それを返す術式はわかっていなくて……」
「つまり、俺を呼び出したのは君だが、俺を帰すことはできないと?」
「はい。申し訳ありません……」
今の話を信じれば、彼女の召喚の術によって別府はこの異世界に呼び出されたわけだ。つまり選ばれた民だと考えていいのだろうか。
「ちょっと聞くが……もしかして俺は勇者とかだったりするのか?」
「しません」
ミュリエルが即答するものだから、別府は思わずガクッと肩を落とした。
「え? じゃ、なんで俺がこの世界に召喚されたわけ? ラララの国を救ってくれとか、そういうわけではない?」
たいてい異世界における召喚というのは、そういう流れではないのだろうか。そして、チートな能力が授けられ、敵をばっさばっさ倒していくのだ。場合によっては、なぜかハーレムができているという。
「違いますね。そもそも私が召喚したのは家畜です。鶏です。それなのに、なぜか現れたのがべべさんで……」
そこでミュリエルの顔は一気に曇ったが、別府もはっとする。
「家畜……社畜……社畜、家畜?」
もしかして、家畜を召喚しようとした結果、なぜか社畜の自分が応じてしまったと、そういうことだろうか。
「あのぅ……」
ミュリエルが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「一応、召喚した責任があるといいますか。べべさん、こちらに知り合いって誰もいませんよね?」
「異世界に友達や親戚なんているわけないだろ」
「これからの生活は……」
「野垂れ死に。そして今から戻ったところで、検証終わらずで、デモもパァ。上司に怒られ半殺し」
早朝勤務も、スーツ出勤も、意味がなかった。
「死んではダメです! べべさんを召喚したのは私です。この家で暮らしてください。そして私は、べべさんが元の世界に戻れるように……なんとかします?」
「そこ、疑問形かよ!」
別府が呆れたように突っ込んだ。
「だから、召喚したものを元に戻す術式、使えないんです。そんなものがあるかどうかもわからない」
「だったら、いいよ」
別府はひらひらと手を振った。面倒な議論を切り上げるときによく使う仕草だ。
「悪いけど、俺にはここには知り合いが一人もいない。君の言葉に甘えて、この家に居候させてもらう。問題ないな?」
「はい。大丈夫です!」
「ところで君、他に家族は?」
「いません。私、一人で暮らしているので、べべさんが一人増えても問題ありません」
「いや、あるだろ!」
そこで別府が「よっこらしょ」と言いながらやっと立ち上がったが、打った尻が痛くて「いててて……」と、つい声が漏れてしまう。
痛みが落ち着いたところで、別府はドンと一歩近づいてミュリエルを見下ろした。
「男と女が一つ屋根の下。周りから変な噂を立てられるだろ? 俺は他に部屋を借りる。だが、そのために君に協力してもらいたい」
「え? 一緒に暮らすのはダメなんですか?」
「俺が君に欲情したらどうする?」
威圧的な視線にミュリエルは一瞬たじろいたが、すぐに「なるほど」と頷いた。
「そういうことですか」
ミュリエルが納得したところで、今度は小さな杖を「えいっ」と振り上げる。杖の先から小さな光の玉が生まれ、ふわりと浮かんで別府の股間へと吸い込まれていく。
「は? なんだ、今の光は……」
「はい。べべさんが私に欲情しない魔法をかけました。これで欲情の心配はありません。だけど、他の人には反応すると思いますので、そこは節度を守って、責任を持ってくださいね」
別府は目をぱちぱちと瞬いた。
「魔法……?」
「はい。べべさんは異界人だし同居人になるから言いますけど。私、聖女なんですよ」
「それは、先ほども言っていたな」
「聖女って神殿で暮らすんですけど……」
そこでミュリエルは、自身の生い立ちについて教えてくれた。赤ん坊の頃から聖なる力を発言させた彼女を、両親は多額の報奨金と引き換えに、神殿に預けたようだ。
「それって、人身売買に近いものを感じるな……」
「まぁ。とにかくそんなわけで、十八歳まで聖女として人々を癒やしながら神殿にいたわけですが、突然、女官殺しの犯人にされてわけです」
「展開が早い! 何かのミステリーか?」
「もちろん、私は殺ってないんですけど。なんか神官たちは、私を犯人にしたいみたいで……それで身体検査するから脱げって……」
今時、そこまでやったら間違いなくセクハラだ。いや、性犯罪に近いものを感じた。
何も言えず別府は押し黙るものの、ミュリエルも少し気まずそうに言葉を続ける。
「これは、間違いなくヤられると思って、有り金全部持って逃げてきました。あ、今の『萎える魔法』を構築したのも、それが原因です」
「まぁ。身の危険を感じたら逃げ出すのは間違いではないな」
「そして、たどり着いたのがこの街で、こうやってのんびり暮らしています」
「のんびりねぇ?」
別府は確認するかのように、室内をぐるりと見回した。
「まぁ、田舎の別荘みたいなところだな」
それがこの部屋の印象だ。悪くはないし、住めば都ともいう。
「あ、部屋はあまっていますので、べべさんのお部屋も準備できます」
「それは助かる」
いくら彼女に欲情しないとしても、世間体というものはある。
「ところで、私とべべさんの関係はどうしましょう?」
ミュリエルは真っすぐに別府を見上げ、輝く瞳で訴えてきた。
「べべさんに魔法をかけたので、恋人の線はなしですね。婚約者とか夫婦とかもなし」
「失礼だが、君の年齢はいくつだ? 俺はこう見えても三十八だが……」
「十八です! 二十歳も違うんですね。となれば、兄妹にも無理がありますね」
となれば――。
「べべさんは私の父ということでいいですか?」
「やっぱり、そうなるか」
恋人でもない、夫婦でもない、兄妹でもない、となれば遠い親戚という設定もあるが、結婚しても問題ないくらいの遠い親戚であれば、やはり変な噂は立ってしまう。
だから、父娘という設定が無難なところだろうとは思っていたが、それを彼女から言われてしまった事実にガクッと肩を落とすしかない。
「結婚していないのに、いきなり子持ちか……しかも異世界で……」
別府はがっかりした様子で、うなだれた。



