水盤を回る小舟と、消した『たぶん』



 六月の放課後、駅前の細い水路を渡る風が、制服の袖口をひんやり撫でた。夕方なのにまだ明るくて、商店街の看板が早めに点灯し、ガラス越しの光が水面みたいに揺れている。

 諒真はその光の中で、喫茶店「ミズクラゲ」のエプロンひもを結び直しながら、口の中だけで唱えた。
 「今日こそ、先に」

 言っただけで、胸の奥がふわっと軽くなる。動いていないのに、動いた気分になる。自分のこの癖を、諒真はよく知っていた。

 店内には、いつも水の音がある。カウンターの下の循環ポンプが静かに息をして、金魚鉢と水草の水槽が、店の小さな心臓みたいに脈を打つ。
 客が少ない時間は、その音が会話みたいに聞こえる。諒真はその音が好きだった。レジ打ちもドリンク作りも、頼まれたら一瞬で動ける。けれど、閉店後にやるはずの「水槽のフィルター掃除」だけは、いつも最後に回してしまう。

 「諒真くん、今日こそね」
 店長がレモンの輪切りを並べながら、笑って言った。笑っているのに、目だけは「逃がさない」と言っている。

 「はい。今日こそ、先にやります。先に」
 諒真は胸を張った。胸を張ると、もう終わった気がする。そこで、入口のベルがちりん、と鳴った。

 入ってきたのは同じ学校の紗那だった。教室では、彼女はよく、思いついたらそのまま歩き出すみたいに席を立つ。今日はショルダーバッグを肩に、手には透明なボトルを持っていた。

 「ここ、まだ開いてる?」
 「開いてるよ。いらっしゃい」

 紗那は店内の水槽を見回して、目を少し細めた。問題集を見る目じゃない。何かを見つけるときの目だ。

 「水の音、落ち着くね」
 「それ、よく言われる」

 紗那は頷いてカウンター席に座り、ボトルを机の上に置いた。指先でふたをくるくる回す。
 「理科の先生に頼まれて、水路の水を少し採ってきたの」

 「え、なんで?」
 「雨のあとだけ水の色が変わるから。中に何がいるのか見たいんだって。小さな虫とか、プランクトンとか」
 そう言って、紗那はノートを取り出した。端が少し湿っている。

 「それ、濡れてない?」
 「大丈夫」
 紗那はさらっと笑い、紙の間から薄い透明シートを引き抜いた。
 「防水のしおり。図書室で見つけた。便利だから、自分で切って増やしてる」

 諒真は思わず「そんなのあるんだ」と言った。便利そうだと思っても、買いに行く前に忘れる自分と違って、彼女は手を動かして形にしてしまう。

 注文は温かいミルクティーだった。諒真がカップを温めて注ぐと、紅茶とミルクの甘い匂いがふわりと広がる。

 「今日は寒い?」
 「寒いっていうより……静かで」
 紗那は窓の外の水路を見た。
 「こういう時間、好き。人が少なくて、音がちゃんと聞こえる」

 諒真はその言い方が少し羨ましかった。自分は静かになると、やるべきことが浮かび上がってくる。だから、つい何かで埋めたくなる。

 ミルクティーを出した瞬間、店の奥から「ぶくっ」と嫌な音がした。ポンプが咳をしたみたいな音。

 諒真の背中が固まる。店長がレモンの手を止め、諒真を見た。
 「……今日こそ、先に、ね」

 「はい! 先に!」
 返事だけは元気で、諒真は奥へ駆けた。

 水槽は三つ。小さなメダカの水槽、水草の水槽、そして店の名物「クラゲ風ゼリー」を浮かべる浅い水盤。
 浅い水盤は、ガラスの縁から細い水が落ちる仕組みで、紙の小舟を浮かべると、ゆっくり回って子どもが喜ぶ。

 諒真はその紙の小舟を、ときどき、こっそり増やす。増やして、何に使うかというと——。

 フィルターのふたを開けた瞬間、諒真の声が漏れた。
 「うわ……」

 スポンジが見事に詰まっている。水草の切れ端が絡まり、ねばっとした泡がついていた。諒真は小さく呟く。
 「今日こそって言ったのに……」

 背後から足音が近づいた。
 「手伝おうか」
 紗那だった。ミルクティーのカップを両手で包んだまま、奥を覗き込んでいる。

 「いいよ、客席に——」
 「客、いない。店長さんも、今は大丈夫そう」
 紗那はさらっと言って、袖をまくった。諒真はその勢いに負けて、ゴム手袋を一つ差し出した。

 「じゃあ……スポンジ、押さえてくれる?」
 「うん」

 紗那が押さえると、諒真は水で洗い流して詰まりを取った。泡が落ち、水が少し澄む。ポンプの音が「ぶくっ」から「すうっ」に変わった。

 「直った」
 諒真が言うと、紗那は「よかった」と笑って、すぐに水盤のほうへ目を向けた。

 「ねえ、あれ」
 紗那の指が、水盤の中央を指した。

 紙の小舟が一つ、ゆっくり回っている。白い紙に、黒いペンの文字。
 諒真は一瞬で息を止めた。見覚えがありすぎる字だった。自分の字だ。

 紙の小舟には、こう書いてある。

 『今日こそ言う。閉店後、静かな時間に。……たぶん』

 「……たぶん、って何」
 紗那が笑いをこらえた声で言った。

 諒真の耳が熱くなる。店長に見つかったら終わる。いや、終わりはしないけど、今夜、帰り道の空気が重くなる。
 「それ、違うんだ。えっと……」

 「違わないよね。字、諒真だもん」
 「なんで知ってるの」
 「数学の小テスト。名前の書き方、同じだった」

 言い切られて、諒真は逃げ道をなくした。水盤の縁から落ちる細い流れが、静けさを支えている。

 「これ、誰に?」
 紗那が聞いた。

 諒真は答えられなかった。答えたら、紙の小舟が心の中で燃えそうだった。

 諒真には、紙の小舟を作る癖がある。「あとでやる」と書いた紙を折って舟にして、机の端に並べる。舟が増えると机が海みたいになって、何が何だかわからなくなる。それでも書いたことで安心して、結局、あとで、になる。

 「水に浮かんだまま、ってやつ」
 諒真がぽつりと言うと、紗那は首をかしげた。

 「なにそれ」
 「俺の『やる』って言ったやつ。言っただけで浮いてる。水に浮かんだまま、流れていく」

 言いながら、諒真は自分でおかしくなって、笑いそうになった。笑ったらもっと恥ずかしい。けれど、紗那は笑わなかった。代わりに、紙の小舟をそっとつまみ上げた。濡れた紙が今にも破れそうに揺れる。

 「破れる前に、ちゃんと読む人に渡そう」
 紗那はそう言って、諒真の前に差し出した。

 諒真の手が宙で止まる。
 「俺、『たぶん』って書いてるし」

 「じゃあ、消す?」
 紗那はバッグからペンを取り出した。迷いのない手つきで、まるで「次のページへ」みたいに。

 諒真は思わず笑った。
 「消したら、言わなきゃいけないじゃん」
 「うん」
 「店長に怒られる」
 「店長さん、今、レモンの輪切りに集中してる」
 紗那は真顔で言った。

 諒真は深呼吸して、紙の小舟の端を押さえ、ペンで「たぶん」の二文字に二重線を引いた。湿った紙にインクがにじむ。にじんだ分だけ、逆に本気に見えた。

 「……誰に渡すの」
 紗那がもう一度聞いた。今度は、笑っていない。

 諒真は手の中の小舟を見た。小さすぎて、乗れるのは言葉だけだ。
 「……紗那に」
 声が思ったより小さかった。

 言った瞬間、水の音が少し大きく聞こえた。たぶん、自分の心臓がうるさい。

 紗那は驚いた顔をした。でも、すぐに息を吐いて、目を細めた。
 「私に?」
 「うん。……ずっと、言うのを後にしてた」
 「だから水に浮かべたの?」
 「……そう。机の上、もっとひどい。海」
 「机が海って、なにそれ。溺れるじゃん」
 「溺れてる」

 紗那は笑って、透明な防水シートを一枚、諒真の手のひらに置いた。
 「これに書けば、にじまない。浮かんでも沈んでも、残る」
 薄いのに、しっかりした感触があった。

 閉店の時間が来た。店長がシャッターを下ろしながら「二人とも、ありがとうね」と言った。諒真は「はい」と返事をし、紗那は「おじゃましました」と丁寧に頭を下げた。

 灯りを少し落とすと、水の音だけが残る。外の商店街の声も、ガラス一枚で遠くなった。

 「帰る?」
 諒真が聞くと、紗那は水盤を見た。
 「もうちょっとだけ。静かな時間、好きって言ったでしょ」

 二人は向かい合って座った。間にあるのは、水盤の丸い光。水が落ちる音が、時計みたいに一定だ。

 紗那は防水シートにペンを走らせた。書く速度が迷いのない速度で、諒真は見ないようにして、でも気になって視線が泳ぐ。

 「……見ないの?」
 「見たら、怒られそう」
 「誰に」
 「俺の心臓に」
 紗那がくすっと笑った。

 書き終えた紗那は、防水シートを小さく折って、紙の小舟の中に入れた。紙の小舟が、さっきより少しだけ強く見えた。

 「渡し方、どうする?」
 紗那が聞いた。

 諒真は思いついた。自分がいつも「後にする」ためにやってきたやり方を、今日は「後にしない」ために使う。
 「水に浮かべる」
 「え」
 「でも流さない。目の前で回って戻ってくる。戻ってきたら読む。逃げない」

 紗那はしばらく黙って、それから頷いた。
 「いいね。静かな時間が育てたって、言える」

 その言葉が胸の奥をくすぐった。からかっているのに、ちゃんと優しい。

 二人は水盤の縁に並び、紙の小舟をそっと浮かべた。水の流れに乗って、舟はゆっくり回り始める。中心でふらついて、やがて一定の円を描く。

 諒真はその軌道を見ながら、自分の毎日を思った。言うだけで満足して、後に回して、気づいたら期限が来る。拾えばいいのに、拾うのが怖くて見ないふりをする。

 でも今は見ている。目をそらさない。
 水に浮かんだままの言葉が、ちゃんと自分のところへ戻ってくるのを。

 一周して、舟が縁に寄った。紗那が指でそっと引き寄せる。
 「読む?」
 「読む」

 諒真は震える指で、防水シートを取り出した。にじんでいない。文字がはっきり残っている。

 『諒真へ。
  今日こそ、って言ったの、聞こえた。
  だから私も、今日こそ言う。
  放課後、またここで、ミルクティーを飲みたい。
  水路の色が変わる理由、まだわからないけど、
  静かな時間が好きなのは、たぶん同じ。
  あと、「たぶん」は、今度から要らない。
  紗那』

 読み終えた瞬間、諒真は息が止まりそうになって、慌てて笑った。笑うしかなかった。胸の中がいっぱいで、言葉がこぼれそうで、でもこぼしたら水盤に落ちそうで。

 「要らないって、厳しい」
 諒真が言うと、紗那は肩をすくめた。
 「厳しくない。助け舟」
 「舟だけに?」
 「そう。机の海、溺れる前にね」

 店の外に出ると、夜の空気が少し濃くなっていた。水路は街灯を映し、細い光の道になっている。

 紗那が透明なボトルを持ち上げて言った。
 「今日採った水、明日、顕微鏡で見る」
 「俺も見たい」
 「いいよ。……でも、遅刻はしないで」
 「するわけない。今日こそ、先に起きる」
 「それ、また『今日こそ』」
 「う……じゃあ、今日こそ、今決める。明日、放課後、理科室」
 諒真は言い切ってから、自分でも驚いた。言い切った自分が、少しだけ別人みたいだった。

 紗那は歩きながら、目だけで笑った。
 「うん。決まり。静かな時間、育てよう」

 水路の上を、小さな葉っぱが一枚流れていく。水に浮かんだまま、形を変えずに。
 諒真はその葉っぱを見て思った。浮かんだままでも、ただ流されるだけじゃない。光を映して、戻る場所を見つけることもある。

 隣で紗那が、歩幅をほんの少しだけ合わせた。触れそうで触れない距離が、水の音みたいに、ゆっくり育っていく。

 諒真はポケットの中の紙の小舟をそっと握った。湿った紙の感触が残っている。
 今夜、机の海を片付けよう。舟を減らそう。必要な舟は、ここに一つあればいい。

 水に浮かんだままの言葉を、ちゃんと拾って、明日へ持っていくために。