湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

台所の外が、ゆっくりと暗くなっていく。
昼と夜の境目は、いつも曖昧だ。
いつからが夜で、いつまでが夕方なのか、はっきりとは分からない。

窓に映る室内の灯りが、少しずつ濃くなる。
その変化を、おばあちゃんは見ていない。
見ているのは、鍋だけだった。

「今日は、煮詰める」

そう言って、おばあちゃんは鍋に火を入れた。
中には、すでに煮えている料理がある。
鶏肉と大根。
もう、十分に「できている」ようにも見えた。

私は、少し不思議に思った。

「もう、味ついてるんちゃう?」

そう聞くと、
おばあちゃんは、すぐには答えなかった。

鍋の中から、かすかな音が立ち上がる。
ぐらぐらではない。
ぼこぼこともしない。
ただ、小さく、静かな音。

「ついてるかどうかはな」

おばあちゃんは、鍋を見たまま言った。

「まだ、決めん」

蓋は、完全には閉めない。
少しずらしてある。
湯気が、細く逃げていく。

「煮詰めるいうのは、足すことやない」

そう言ってから、少し間を置く。

「減らすことや」

私は、鍋を覗き込んだ。
煮汁は、まだ多い。
色も、薄い。

正直に言えば、
このままでは、物足りない気がした。

「もう少し、味足した方がええんちゃう?」

そう言うと、
おばあちゃんは、ようやくこちらを見た。

「そう思うやろ」

責めるでも、否定するでもない。
ただ、事実を確認するような言い方だった。

「でもな、今、決めたらあかん」

私は、少し落ち着かなくなった。
何かを決めないまま、待つ時間が、苦手だった。

煮物は、途中で味を決めるものだと、
どこかで思い込んでいた。

薄かったら足す。
濃かったら水を足す。
その繰り返し。

でも、おばあちゃんは、足さない。
ただ、待つ。

鍋の音は、変わらない。
ただ、湯気の量が、少しずつ減っていく。

私は、何度も味見をしたくなった。
舌で確認して、判断したくなった。

「まだ」

おばあちゃんが言う。

「味、逃げん」

その言葉に、少し救われる。
逃げないなら、急ぐ必要はない。

私は、鍋の横に立ち、
煮汁の量を目で追った。

さっきより、少し減っている。
色が、わずかに濃くなっている。

それだけの変化なのに、
なぜか、空気が違う。

私は、ふと、別のことを思い出していた。

話し合いの途中で、
早く結論を出したくなった場面。

沈黙が怖くて、
相手の言葉を待たずに、答えを決めてしまったこと。

「もういいか」と、
勝手に終わらせてしまった会話。

あのときも、
きっと、まだ途中だった。

おばあちゃんは、何も言わない。
鍋を見て、火を調整するだけ。

強くしすぎず、
弱めすぎず。

「急いだらな」

ぽつりと、言う。

「濃なる」

それは、料理の話なのに、
なぜか、胸に引っかかった。

濃くなりすぎた言葉。
強く言いすぎた意見。
決めすぎた結論。

一度濃くなったものは、
戻すのが難しい。

煮汁は、さらに減っていく。
音が、少しだけ変わった。

湯気が、細く、重くなる。

そのとき、
おばあちゃんが、初めて味を見た。

小さな匙で、ほんの少し。

眉も動かさない。
顔色も変えない。

そして、
ほんの、ほんの少しだけ、
調味料を足した。

私は、息を止めて見ていた。

「今や」

それだけだった。

火を止める。
蓋を閉める。

しばらく、そのまま置く。

「すぐ食べん」

そう言われて、
私は、少し驚いた。

「まだ?」

「まだ」

待つ、という工程が、
ここでも続く。

しばらくしてから、
ようやく、皿に盛られた。

見た目は、濃い。
しっかり味がついていそうだ。

でも、食べると、
しつこくない。

大根は、中まで染みている。
鶏肉は、硬くない。

味は、はっきりしているのに、
後に残らない。

「決めるのは、最後でええ」

おばあちゃんが言う。

「途中で決めたら、途中の味になる」

その言葉を、
私は、ゆっくり噛みしめた。

結論を急がない。
判断を保留にする。
それは、逃げではない。

必要なものだけが、
自然に残るまで、待つ。

煮詰めるというのは、
答えを出すことじゃない。

余分なものを、
時間に任せて、手放すこと。

台所は、すっかり夜になっていた。
窓には、灯りだけが映っている。

おばあちゃんは、
いつものように、何も教えた顔をせず、
鍋を洗い始めた。

私は、皿に残った煮汁を見ながら、
少しだけ、心が静かになっているのを感じていた。

結論は、
最後に決める。

それで、いい。