湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

昼の台所は、火を使わないだけで、こんなにも静かになるのだと、そのとき初めて気づいた。
朝の慌ただしさも、夕方の張りつめた空気もない。ただ、窓から差し込むやわらかな光と、遠くで鳴る時計の音だけがある。

おばあちゃんは、戸棚から大きめの白いボウルを取り出した。
金属でも、木でもなく、少し厚みのある陶器のボウルだ。台に置くと、鈍い音がした。

「今日は、和えるだけやから」

それは、料理を始める合図というより、心構えを整えるための一言のようだった。

台の上には、すでに下ごしらえされた材料が並んでいる。
水を切りすぎていない豆腐。
茹でてから冷ました青菜。
薄く切られた人参。

どれも、色は控えめで、主張しない。
それなのに、不思議と目が離せなかった。

私は、無意識のうちに箸を探していた。
料理=道具、という考えが、体に染みついている。

「箸でやる?」

そう聞くと、
おばあちゃんは、首を横に振った。

「今日は、手や」

迷いのない声だった。

私は一瞬、ためらった。
料理を素手で触ることに、理由の分からない緊張があった。
失敗が、直接、指先に伝わってきそうで。

おばあちゃんは何も言わず、流しへ向かい、手を洗い始めた。
石けんをつけ、指の間までゆっくりと。
その動きは、儀式のようにも見えた。

「和えるときはな、手ぇ洗うとこから始まっとる」

ぽつりと、そう言った。

ボウルに、豆腐が入れられる。
崩さないように、ではない。
ただ、置くように。

その上に、野菜を重ねる。

「混ぜる思うたら、失敗する」

おばあちゃんは、私の方を見ずに言った。

「和えるいうのは、混ぜるんやない。預ける」

その言葉の意味は、まだ分からなかった。

私は、そっと手を伸ばした。
指先が、豆腐に触れる。

冷たい。

思っていたよりも、はっきりとした冷たさだった。
一瞬、指を引っ込めたくなる。

「力、いらん」

背中越しに、おばあちゃんの声が届く。

私は、指を開いた。
つかむのではなく、包むように。

豆腐は、あっけなく崩れた。
その感触に、少し驚く。

「崩れてええ」

おばあちゃんが言う。

「崩れんようにするんやない。馴染ませるんや」

箸なら、ここまで崩すのが怖くて、途中で止めていただろう。
でも、手だと、崩れた感触そのものが、情報として伝わってくる。

指の腹に、豆腐の粒。
野菜の繊維。
水分の重さ。

最初は、全部がばらばらだった。

冷たさも、硬さも、湿り気も、統一されていない。

私は、動きをゆっくりにした。
急ぐ理由は、どこにもなかった。

「そうそう」

おばあちゃんが、ようやくこちらを見る。

調味料は、ほんの少しだけ加えられた。
量は教えてくれない。

「味はな、あとでついてくる」

再び、和える。

そのとき、私は気づいた。
さっきよりも、冷たさを感じない。

豆腐は、まだ冷たいはずなのに、
手の中では、それほど主張しなくなっていた。

私の手のひらが、少し温かくなっている。

料理が、
私の温度に近づいている。

「箸やと、これ分からん」

おばあちゃんが言う。

「触らな、伝わらんこともある」

その言葉は、
料理の話でありながら、
別の何かにも聞こえた。

私は、最近のことを思い出していた。

誰かと、距離を取っていたこと。
踏み込みすぎないように、言葉だけで済ませていたこと。
触れずに、分かったつもりでいた感情。

それは、
冷たいままだったのかもしれない。

和え終わった白和えは、
見た目は地味だった。

でも、全体が、やわらかくまとまっている。

一口食べる。

豆腐と野菜の境目が、分からない。
どちらかが勝つこともない。

ただ、体にすっと入ってくる。

「さっきと、違う」

思わず、そう言った。

おばあちゃんは、うなずいただけだった。

「冷たいまま出したら、味、立たん」

それだけ言って、
もう片づけを始めている。

手を洗いながら、
私は自分の手を見た。

ほんのり、温かい。

料理も、同じ温度だった。

触れたからこそ、
分かったことがある。

距離を取ることと、
離れることは、違う。

和えるとは、
近づきすぎず、
でも、触れ続けること。

おばあちゃんは、
今日も何かを教えた顔をせず、
ただ、台所に立っていた。

その背中を見ながら、
私は、もう一度、手の温度を確かめた。