湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

夕方の台所は、昼よりも正直だ。
光が弱まり、隠しごとができなくなる。
白い明かりの下で、油の表面だけが、つやつやと光っていた。

おばあちゃんは、揚げ鍋を棚から出した。
持ち上げたとき、金属が低く鳴る。
その音だけで、空気が少し張りつめた。

「揚げもんはな」

おばあちゃんは、鍋を置きながら言った。

「見すぎたら、迷う」

私は、鍋から目を離せなくなりそうだった。
油というものは、どうしても怖い。
静かなのに、何かを待っている感じがして。

今日の具材は、さつまいもだった。
皮付きのまま、一口大に切られている。
形は、やっぱり揃っていない。

「揚げるの、難しい?」

そう聞くと、おばあちゃんは少し考えてから答えた。

「難しいんやない。決めるのが怖いだけ」

油は、まだ静かだった。
何の音もしない。
それが、かえって落ち着かない。

おばあちゃんは、火を入れた。
しばらくしても、何も変わらない。

私は、時計を見たくなった。
どれくらい経ったのか、知りたくなった。

けれど、おばあちゃんは、時計を見ない。
ただ、鍋の前に立っている。

「揚げもんは、耳や」

その言葉の意味が、
このときは、まだぼんやりしていた。

やがて、さつまいもを入れる。
鍋に落とすようではなく、そっと。

その瞬間、音がした。

パチ。

小さく、控えめな音。

「これは、まだ」

おばあちゃんが言う。

音は、すぐに消える。
また、静かになる。

失敗したんじゃないか。
油が足りないんじゃないか。
火が弱いんじゃないか。

そんな考えが、次々に浮かぶ。

けれど、おばあちゃんは動かない。
箸も入れない。
見もしない。

少しして、音が戻ってきた。

今度は、さっきよりはっきりしている。
細かく、連続した音。

パチ、パチ、パチ。

泡が増え、
油の中が、にぎやかになる。

私は、思わず身を乗り出した。
色を見たくなった。

でも、おばあちゃんは言う。

「聞きい」

私は、耳を澄ませた。

音は、ずっと同じじゃない。
強くなったり、弱くなったりしながら、
少しずつ、まとまっていく。

そして、ある瞬間。
音が、変わった。

勢いが、落ち着く。
消えはしないが、整う。

そのときだった。

「今」

おばあちゃんが、迷いなく言った。

さつまいもを引き上げると、
油の音が、すっと止んだ。

鍋の中が、静かになる。

揚がったさつまいもは、
強い色ではない。
でも、表面が、ちゃんと乾いている。

触ると、
外は軽く、
中はやわらかい。

「見とらんのに」

そう言うと、
おばあちゃんは、少しだけ笑った。

「音が変わる時はな、
 もう、決まっとる」

皿に盛られた、さつまいも。
余計なものは、何もない。

私は、ひとつ口に入れた。

外は、さくっとして、
中は、ほくっと甘い。

ちょうどいい。

そのとき、
私は気づいた。

おばあちゃんは、
一度も「いつまで」とは言わなかった。
「どれくらい」とも言わなかった。

判断は、
時間でも、見た目でもなく、
音だった。

揚げ物は、
ずっと見ていると、怖くなる。

まだかもしれない。
もう少しかもしれない。
失敗するかもしれない。

そうやって、
決める瞬間を、延ばしてしまう。

でも、耳を澄ませていると、
その瞬間は、向こうからやってくる。

迷っていい時間が、終わる合図。

それは、
考える前に、
身体が知っている。

台所には、
揚げ終わった後の静けさが残っていた。

音が消えたあと、
私はようやく、肩の力が抜けた。

決める、というのは、
勢いじゃない。

聞き続けた末に、
一歩、踏み出すことだ。

おばあちゃんは、
その一歩を、
いつも、音に任せていた。