夕方前の台所には、独特の空気がある。
昼の慌ただしさはもう引き、夜の支度にはまだ早い。
一日の中で、いちばん中途半端な時間だ。
窓から差し込む光は、白ではなく、少し赤い。
流し台の縁に影ができ、床には長い線が伸びている。
台所全体が、どこか疲れた顔をしているようにも見えた。
おばあちゃんは、何も言わずにまな板を出した。
包丁の音が、夕方の静けさに、はっきりと響く。
切られているのは、ありふれた具材だ。
特別なものじゃない。
でも、その切り方が、少しだけ雑だった。
厚いものと、薄いもの。
角が立っているものと、少し欠けたもの。
揃っていない。
私は、それが気になった。
「揃えなくていいの?」
聞くと、おばあちゃんは包丁を止めずに答えた。
「全部、同じにせんでええ」
言い切りだった。
「焼いたら、どうせ違う顔になる」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
料理は、揃えた方がきれいだと思っていたからだ。
具材を切り終えると、
おばあちゃんはフライパンを出した。
第3章で使ったものと同じ、
底の少し黒ずんだ、使い込まれたフライパン。
コンロに置き、火をつける。
中火。
しばらく、何も入れない。
ただ、温める。
夕方の台所に、
フライパンが温まる気配が、じわじわと広がっていく。
油を入れると、
軽い音がして、表面が揺れた。
具材を並べる。
じゅっ、という音が、
少し強めに鳴る。
油の匂いが立ち、
台所の空気が、はっきりと「料理中」に変わった。
私は、無意識に箸を持っていた。
焦げる前に動かした方がいい。
そう思ったからだ。
でも、その手を、おばあちゃんが止めた。
「まだ」
それだけだった。
音は続いている。
強すぎるわけじゃないけれど、
このままにしていて大丈夫なのか、不安になる音だ。
焦げるんじゃないか。
失敗するんじゃないか。
そんな考えが、頭をよぎる。
私は、フライパンから目を離せなくなった。
少し色が変わった気がする。
いや、気のせいかもしれない。
そのときだった。
一部の具材の端が、
少しだけ、色づいた。
ほんの少し、
他よりも、濃い色。
「あ……」
思わず声が出た。
次の瞬間、
香りが変わった。
それまでの、油と具材の匂いとは違う。
少しだけ、強い。
香ばしい。
「焦げた」
私が言うと、
おばあちゃんは、フライパンを覗き込み、
火を弱めた。
慌てる様子はない。
「それが、ええ」
え、と思った。
焦げは、失敗じゃないのか。
切り落とす部分じゃないのか。
私の顔を見て、
おばあちゃんは、少しだけ言葉を足した。
「全部、きれいに焼ける必要はない」
フライパンの中で、
具材はそれぞれ、違う音を立てている。
強く鳴るもの。
静かなもの。
同じ場所に置かれているのに、
同じようには焼けていない。
でも、それを直そうとはしない。
焼き上がった具材を、
おばあちゃんは、そのまま皿に移した。
焦げ目のついた部分も、
切らずに残す。
削らない。
隠さない。
むしろ、
焦げ目が見えるように盛り付ける。
「え、取らないの?」
そう聞くと、
おばあちゃんは、平然と言った。
「贈り物やけん」
その言葉は、
料理には似つかわしくない気がした。
贈り物。
焦げ目が?
箸を持ち、
私は、少し迷った。
焦げた部分を避けるか。
それとも、先に食べるか。
おばあちゃんは、何も言わない。
私は、思い切って、
焦げ目のある部分を口に入れた。
苦い、と思ったのは一瞬だけだった。
すぐに、別の味が広がる。
甘い。
それも、深い甘さ。
香りが、一番強く残っている。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
「ここ、おいしい」
その言葉を聞いて、
おばあちゃんは、小さくうなずいた。
「やろ」
それだけだった。
きれいに焼けた部分も食べてみる。
もちろん、おいしい。
でも、印象は薄い。
焦げ目のある一口の方が、
記憶に残る。
「うまくいかんとこがな」
おばあちゃんは、
皿を片づけながら言った。
「味になる時もある」
私は、その言葉を、
ゆっくりと噛みしめた。
失敗だと思っていたもの。
避けるべきだと思っていたもの。
それを、
切り落とさず、
そのまま皿に乗せる。
それだけで、
意味が変わる。
もし、焦げ目を全部取っていたら、
この味はなかった。
もし、揃えすぎていたら、
この一口は生まれなかった。
台所には、
焼いた後の匂いが、まだ残っている。
夕方の光が、
皿の上の焦げ目を、少しだけ照らしていた。
それは、
汚れでも、失敗でもなく、
ちゃんとここにある「結果」だった。
私は、
これまで、いくつの焦げ目を捨ててきただろう。
うまくできなかったこと。
少し失敗したこと。
思い通りにならなかった部分。
全部、切り落として、
なかったことにしてきた。
でも、
残してみてもよかったのかもしれない。
焦げ目は、
失敗の証じゃない。
ちゃんと火を入れた証だ。
夕方の台所で、
私は、そのことを、
一皿の料理から教わった。
昼の慌ただしさはもう引き、夜の支度にはまだ早い。
一日の中で、いちばん中途半端な時間だ。
窓から差し込む光は、白ではなく、少し赤い。
流し台の縁に影ができ、床には長い線が伸びている。
台所全体が、どこか疲れた顔をしているようにも見えた。
おばあちゃんは、何も言わずにまな板を出した。
包丁の音が、夕方の静けさに、はっきりと響く。
切られているのは、ありふれた具材だ。
特別なものじゃない。
でも、その切り方が、少しだけ雑だった。
厚いものと、薄いもの。
角が立っているものと、少し欠けたもの。
揃っていない。
私は、それが気になった。
「揃えなくていいの?」
聞くと、おばあちゃんは包丁を止めずに答えた。
「全部、同じにせんでええ」
言い切りだった。
「焼いたら、どうせ違う顔になる」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
料理は、揃えた方がきれいだと思っていたからだ。
具材を切り終えると、
おばあちゃんはフライパンを出した。
第3章で使ったものと同じ、
底の少し黒ずんだ、使い込まれたフライパン。
コンロに置き、火をつける。
中火。
しばらく、何も入れない。
ただ、温める。
夕方の台所に、
フライパンが温まる気配が、じわじわと広がっていく。
油を入れると、
軽い音がして、表面が揺れた。
具材を並べる。
じゅっ、という音が、
少し強めに鳴る。
油の匂いが立ち、
台所の空気が、はっきりと「料理中」に変わった。
私は、無意識に箸を持っていた。
焦げる前に動かした方がいい。
そう思ったからだ。
でも、その手を、おばあちゃんが止めた。
「まだ」
それだけだった。
音は続いている。
強すぎるわけじゃないけれど、
このままにしていて大丈夫なのか、不安になる音だ。
焦げるんじゃないか。
失敗するんじゃないか。
そんな考えが、頭をよぎる。
私は、フライパンから目を離せなくなった。
少し色が変わった気がする。
いや、気のせいかもしれない。
そのときだった。
一部の具材の端が、
少しだけ、色づいた。
ほんの少し、
他よりも、濃い色。
「あ……」
思わず声が出た。
次の瞬間、
香りが変わった。
それまでの、油と具材の匂いとは違う。
少しだけ、強い。
香ばしい。
「焦げた」
私が言うと、
おばあちゃんは、フライパンを覗き込み、
火を弱めた。
慌てる様子はない。
「それが、ええ」
え、と思った。
焦げは、失敗じゃないのか。
切り落とす部分じゃないのか。
私の顔を見て、
おばあちゃんは、少しだけ言葉を足した。
「全部、きれいに焼ける必要はない」
フライパンの中で、
具材はそれぞれ、違う音を立てている。
強く鳴るもの。
静かなもの。
同じ場所に置かれているのに、
同じようには焼けていない。
でも、それを直そうとはしない。
焼き上がった具材を、
おばあちゃんは、そのまま皿に移した。
焦げ目のついた部分も、
切らずに残す。
削らない。
隠さない。
むしろ、
焦げ目が見えるように盛り付ける。
「え、取らないの?」
そう聞くと、
おばあちゃんは、平然と言った。
「贈り物やけん」
その言葉は、
料理には似つかわしくない気がした。
贈り物。
焦げ目が?
箸を持ち、
私は、少し迷った。
焦げた部分を避けるか。
それとも、先に食べるか。
おばあちゃんは、何も言わない。
私は、思い切って、
焦げ目のある部分を口に入れた。
苦い、と思ったのは一瞬だけだった。
すぐに、別の味が広がる。
甘い。
それも、深い甘さ。
香りが、一番強く残っている。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
「ここ、おいしい」
その言葉を聞いて、
おばあちゃんは、小さくうなずいた。
「やろ」
それだけだった。
きれいに焼けた部分も食べてみる。
もちろん、おいしい。
でも、印象は薄い。
焦げ目のある一口の方が、
記憶に残る。
「うまくいかんとこがな」
おばあちゃんは、
皿を片づけながら言った。
「味になる時もある」
私は、その言葉を、
ゆっくりと噛みしめた。
失敗だと思っていたもの。
避けるべきだと思っていたもの。
それを、
切り落とさず、
そのまま皿に乗せる。
それだけで、
意味が変わる。
もし、焦げ目を全部取っていたら、
この味はなかった。
もし、揃えすぎていたら、
この一口は生まれなかった。
台所には、
焼いた後の匂いが、まだ残っている。
夕方の光が、
皿の上の焦げ目を、少しだけ照らしていた。
それは、
汚れでも、失敗でもなく、
ちゃんとここにある「結果」だった。
私は、
これまで、いくつの焦げ目を捨ててきただろう。
うまくできなかったこと。
少し失敗したこと。
思い通りにならなかった部分。
全部、切り落として、
なかったことにしてきた。
でも、
残してみてもよかったのかもしれない。
焦げ目は、
失敗の証じゃない。
ちゃんと火を入れた証だ。
夕方の台所で、
私は、そのことを、
一皿の料理から教わった。


