湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

朝の台所は、まだ眠っているようだった。
窓から入る光は薄く、夜の名残を引きずったまま、流し台の端に溜まっている。
コンロの上には、昨夜使ったままの鍋がひとつ、静かに置かれていた。

中には、少し残った肉じゃが。
表面には白く固まった脂が浮かび、じゃがいもは形を保ったまま、冷えきっている。

主人公は、その鍋を見つめながら、棚に手を伸ばしかけた。
軽くて、小さくて、洗ったばかりの小鍋。
そこに移して温めた方が、早くて楽だ。

そう思った、そのとき。

「替えんでええよ」

背後から、低くて柔らかい声がした。

振り返ると、おばあちゃんが立っていた。
まだ朝の格好のまま、割烹着の紐を結びながら、鍋を見ている。

「そのままで、火にかけなさい」

理由は言わない。
いつものことだ。

主人公は、黙って鍋を持ち上げ、コンロの同じ位置に置いた。
昨日と同じ、少し左寄りの火口。

***

火をつける。
弱め。

鍋底から、じわじわと温度が上がっていく気配が伝わってくる。
まだ音はしない。
ただ、冷えた鍋が、少しずつ息を取り戻すような、そんな感覚。

「水、足さなくていいの?」

思わず聞くと、おばあちゃんは首を振る。

「足さん」

きっぱりと。

「昨日の分で、足りとる」

***

しばらくすると、鍋の中から、かすかな匂いが立ち上り始めた。
昨日と同じはずなのに、少し違う。

玉ねぎの甘さが、丸くなっている。
肉の脂は、主張をやめて、全体に溶け込んでいる。
醤油の角が、どこかへ行ってしまったみたいだ。

「ええ匂いやろ」

おばあちゃんが言う。

「昨日より、落ち着いとる」

主人公は、鼻を近づけて、ゆっくり息を吸う。

新しい料理の匂いではない。
でも、古くもない。

昨日と今日が、重なっている匂い。

***

「鍋はな」

おばあちゃんが、鍋の取っ手に手を置いた。 

「覚えとるんよ」

「何を?」

「火の当たり方も、置いとった場所も」

主人公は、半信半疑で鍋を見る。
ただの金属の塊にしか見えない。

「替えたらな」

おばあちゃんは続ける。

「そこで、一回、話が切れる」

***

主人公は、ふと、自分の過去を思い出す。

環境を変えたくて、引っ越した部屋。
人間関係を一度全部リセットしたくなった夜。
「ここじゃないどこか」に行けば、楽になると思った瞬間。

でも、場所を変えても、
朝は同じように来て、
夜は同じように終わった。

変わったのは、景色だけだった。

***

鍋の中で、肉じゃがが静かに揺れ始める。
ぐつぐつ、という音はしない。
ただ、ふつ、ふつ、と、控えめな気配。

おばあちゃんは、箸を入れて、そっと一度だけ混ぜる。

「温め直しはな」

箸を止めて、言う。

「直すんやない」

少し間を置いて。

「続けるんや」

***

味見は、しない。

そのまま、火を止める。

「十分や」

おばあちゃんはそう言って、鍋を下ろす。

***

食卓に並んだ肉じゃがは、見た目は昨日と変わらない。
でも、一口食べると、違いがはっきり分かる。

味が、まとまっている。
尖っていたところが、全部、丸くなっている。

「昨日より、美味しい」

思わず言うと、おばあちゃんは、ふふ、と笑った。

「時間が、仕事したんや」

***

主人公は、箸を動かしながら思う。

この鍋があったから、
昨日の続きが、ちゃんと今日に来た。

もし、小鍋に移していたら。
もし、味を足していたら。

これは、別の料理になっていただろう。

***

食後、鍋を洗おうとすると、おばあちゃんが止めた。

「すぐは、洗わんでええ」

「え?」

「少し、置いとく」

理由は、聞かなかった。

***

台所に残った鍋を見ながら、主人公は気づく。

場所には、記憶がある。
器には、時間が染みる。

人も、同じだ。

替えずに、続けたものだけが、
積み重なっていく。

***

夜、もう一度、鍋を見る。
中は空になっている。

それでも、
昨日と今日の匂いが、
ほんの少し、残っている気がした。

主人公は、その前で立ち止まり、深く息を吸った。

終わらせないこと。
続けること。

それは、
派手じゃないけれど、
確かな選択なのだと、
その鍋が、静かに教えてくれていた。