湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりとした空気と一緒に、いくつもの「使いかけ」が目に入った。
半分残った人参。
一袋の底に沈んだしめじ。
いつ買ったのか思い出せない油揚げ。

「全部、入れてしまえばいいのに」

思わず、独り言が漏れる。

炊き込みご飯は、懐が深い料理だ。
多少の具材を放り込んでも、だいたい受け止めてくれる。
だからこそ、冷蔵庫の整理にもなるし、無駄も出ない。
そう思って、今まで何度も「全部入り」を作ってきた。

――でも、今日は違う。

背後で、米を研ぐ音がする。
一定のリズムで、水が白く濁り、流され、また注がれる。

「今日は、炊き込みにするよ」

そう言ったのは、おばあちゃんだった。

「え、具、何入れるの?」

冷蔵庫を指さしながら聞くと、おばあちゃんはちらりとこちらを見て、にやりと笑った。

「鶏と、ごぼうと、揚げ」

それだけ?
思わず眉が上がる。

「人参は? きのこもあるし、舞茸入れたら香り出るよ」

そう言うと、おばあちゃんは米を研ぐ手を止めずに、静かに首を振った。

「今日は、いらん」

その言い方は、頑なでも、冷たくもない。
ただ、決めている人の声だった。

***

炊き込みご飯の準備は、いつもより少し静かだった。

ごぼうは、ささがきにして水にさらす。
さらしすぎないのが、おばあちゃん流だ。

「香りまで抜けたら、意味ないからね」

鶏肉は小さめに切る。
油揚げは、熱湯をかけて油抜き。

その間、主人公は何度も冷蔵庫の方を見てしまう。
使われないままの野菜たちが、少しだけ寂しそうに見えた。

「もったいなくない?」

ぽつりと聞くと、おばあちゃんは、包丁を置いてこちらを見た。

「もったいない、ってな」

少し考えるように、間を置く。

「入れすぎて、全部の味が分からんようになるほうが、よっぽどや」

***

米を炊飯器ではなく、鍋に移す。
出汁、醤油、みりん。
分量は量らない。

「薄いくらいで、ちょうどええ」

そう言って、味見もしない。

具材は、米の上にそっとのせる。
混ぜない。
沈めない。

「炊き込みはな」

おばあちゃんが言う。

「全部まとめようとしたら、あかん」

***

火にかけている間、台所は静かだった。
聞こえるのは、鍋の中で水が温まっていく気配と、外を通る風の音だけ。

主人公は、ふと自分の生活を思い返す。

予定を詰め込みすぎて、どれも中途半端になった日。
人付き合いを広げすぎて、誰とも深く話せなかった時期。
「せっかくだから」と全部引き受けて、疲れ切った自分。

足したはずなのに、満たされなかった。

「欲張るとさ」

独り言のように言うと、おばあちゃんが小さく笑った。

「味も、人も、散るね」

***

火を弱め、しばらく待つ。

焦げる匂いはしない。
派手な香りも立たない。

ただ、じんわりと、米の甘さが空気に混じってくる。

「もうええかな」

そう言って火を止め、蒸らす。

蓋を開けるまでの時間が、少しだけ長く感じられた。

***

蓋を取った瞬間、湯気が立ち上る。

香りは控えめ。
でも、はっきりしている。

しゃもじを入れると、米がふっくらと立ち上がる。
具材は、主張しすぎず、ちゃんとそこにある。
茶碗によそって、一口。

……米が、甘い。

鶏の旨みは後から追いかけてきて、ごぼうの香りが静かに残る。
油揚げは、全体をまとめる役に徹している。

「足りてる」

思わず、そう口に出た。

おばあちゃんは、何も言わず、同じように一口食べる。

***

「幸せってな」

おばあちゃんが、ぽつりと言う。

「増やすことやと思われがちやけど」

少し間を置いて。

「減らしても、ちゃんと残るもんがあるかどうかや」

主人公は、茶碗を両手で持ちながら、ゆっくり噛みしめる。

確かに、このご飯は派手じゃない。
でも、物足りなさはなかった。

むしろ、余白がある分、味がよく分かる。

***

食べ終わったあと、主人公はノートを開いた。

“今日、入れなかったもの”

・人参
・きのこ
・こんにゃく

“理由”
・今日は、米の甘さを感じたかった
・全部入れる必要はなかった

書きながら、不思議と心が軽くなる。

持たなかったものを、悔やむ気持ちはない。
むしろ、選んだことに、納得している。

***

洗い物をしながら、おばあちゃんが言った。

「欲張らんかったらな」

水の音に紛れるように。

「ちゃんと、続く」

主人公は、濡れた手を拭きながら頷いた。

幸せは、集めるものじゃない。
今、目の前にあるものを、ちゃんと味わえる量で持つこと。

炊き込みご飯の湯気の向こうで、
そのことが、静かに、腹に落ちた。