湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

朝、台所に入ったとき、
最初に目に入ったのは、
流し台の隅に置かれた鍋だった。

昨夜のカレー。

ふたは閉じたまま、
中身はもう、昨日の時間に属している。

一晩経った料理は、
新しくもなく、
かといって、終わってもいない。

どう扱えばいいのか、
少し迷う存在だった。

「それ、昼に食べよか」

おばあちゃんが、
何気なく言う。

私は、
「また作り直すん?」と聞いた。

おばあちゃんは、
首を振った。

「煮返すだけ」

その言葉が、
不思議と、胸に残った。

煮返す。
作り直すでも、
温め直すでもない。

昨日の続きを、
今日に持ってくる言葉。

昼近くになり、
鍋をコンロに乗せる。

ふたを開けると、
昨日より、香りが落ち着いている。

スパイスの角が、
どこか丸くなっている。

「強火は、使わんでええ」

おばあちゃんが言う。

私は、
つい、つまみを回しそうになる手を、
止めた。

弱火。

鍋の底から、
ゆっくりと、温度が上がっていく。

ぐつぐつ、ではない。
ふつ、ふつ、でもない。

ただ、
少しずつ、
昨日の冷たさがほどけていく。

「混ぜすぎんで」

そう言われて、
お玉を持つ手も、慎重になる。

具材は、
もう、形を変え始めている。

じゃがいもは、
角が取れ、
人参は、柔らかくなっている。

昨日のままではない。

でも、
壊れてもいない。

私は、
その状態が、
妙に、人の関係に似ている気がした。

一度、話し終えたと思ったこと。
距離を置いたままの人。
もう戻らないと、決めた関係。

でも、
時間が経つと、
形だけが、静かに変わる。

中身は、
ちゃんと、残ったまま。

鍋から、
ゆっくりと、香りが立ち始める。

昨日より、
まとまっている。

「味見は、まだ」

おばあちゃんが言う。

私は、
うなずいた。

急がない。

昨日の続きには、
昨日とは違う速度がある。

火にかけながら、
私は、ふと思い出す。

しばらく連絡を取っていない人。
途中で、会話が途切れたままの関係。

あのときは、
もう、終わったと思った。

でも、
本当にそうだったんだろうか。

鍋の中で、
小さな泡が、静かに浮かぶ。

「そろそろや」

おばあちゃんが言う。

火を、止める。

すぐには、食べない。

少し、
余熱に任せる。

その時間が、
今日の味を、決める。

器に盛り、
スプーンを持つ。

一口。

「あ……」

思わず、声が出た。

昨日より、
おいしい。

劇的に変わったわけじゃない。
でも、
味が、つながっている。

昨日の記憶が、
今日の中に、ちゃんとある。

「な?」

おばあちゃんが、
小さく笑う。

「時間はな」

「切るもんやない」

「つなぐもんや」

私は、
その言葉を、
ゆっくり噛みしめた。

終わったと思ったものも、
こうして、
別の形で、続くことがある。

無理に、
元に戻さなくてもいい。

今の状態で、
もう一度、温めればいい。

食べ終わったあと、
鍋を洗いながら、
私は思った。

関係も、
煮返せるのかもしれない。

時間を置いて、
距離を確かめて、
また、弱火で。

昨日の続きを、
今日に運ぶ。

それだけで、
十分な場合も、ある。

流し台の水音が、
静かに響く。

その音の中で、
私は、
まだ終わっていないものが、
いくつもあることに、
初めて気づいた。