湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

その日は、
家に帰るまで、胸の奥がずっと熱かった。

たいしたことじゃない。
ほんの一言。
たった一場面。

けれど、
「どうしてああ言われなきゃいけなかったんだろう」
「言い返せばよかった」
そんな考えが、頭の中でぐつぐつと煮えていた。

玄関の戸を閉めた瞬間、
台所から、だしの匂いがした。

「おかえり」

おばあちゃんは、
鍋の前に立っている。

返事をしようとして、
私は、少しだけ言葉に詰まった。

このまま話したら、
きっと、声が強くなる。
語尾が尖る。

だから、
何も言わず、手を洗った。

「今日はな」

おばあちゃんが言う。

「味噌汁や」

鍋の中では、
だしが、静かに温まっている。

豆腐と、わかめ。
いつも通りの具。

「簡単やろ」

そう言われて、
私はうなずいた。

簡単なはずなのに、
なぜか、胸の熱は引かない。

だしが温まるにつれて、
鍋の底から、小さな泡が立ち始める。

その音が、
自分の心臓の音みたいに聞こえた。

「今、味噌入れたら?」

思わず、口に出る。

早く終わらせたかった。
早く、次に進みたかった。

おばあちゃんは、
ゆっくりと首を振った。

「まだ」

泡が増える。
音が大きくなる。

火を弱めるか、
止めるか。

迷っていると、
おばあちゃんが言った。

「火、止めて」

私は、一瞬、ためらった。

「え、でも……」

「止めて」

理由は、ない。
説明も、ない。

私は、
ガスの元栓をひねった。

鍋の音が、
すっと静まる。

急に、
台所が広くなった気がした。

「味噌はな」

おばあちゃんは、
お玉を手に取りながら言う。

「最後や」

味噌を溶く。
くるくると、静かに。

沸騰していない湯の中で、
味噌は、ゆっくり広がる。

香りが、立ちのぼる。

さっきまでの熱とは、
違う匂い。

尖っていない。
やわらかい。

私は、
その香りを吸い込みながら、
胸の中を見つめた。

さっきの言い合い。
言えなかった言葉。
言い返したかった気持ち。

もし、
あの場で言っていたら。

正しさは、あったかもしれない。
でも、
きっと、香りは飛んでいた。

「言葉もな」

おばあちゃんが言う。

「煮立てたら、
 ええとこ、飛ぶ」

私は、
その言葉を、
鍋の中に落とすように聞いた。

味噌汁が、完成する。

湯気は立っているけれど、
音はしない。

器によそうとき、
おばあちゃんは、
少しだけ、鍋を傾けた。

「今やったら、
 ちゃんと、届く」

私は、一口、飲んだ。

熱すぎない。
でも、温かい。

味が、丸い。

「……おいしい」

思わず言うと、
おばあちゃんは、
何も言わずに、うなずいた。

その沈黙が、
不思議と、心地よかった。

食べ終わるころ、
胸の熱は、
いつのまにか、引いていた。

さっきの出来事を、
もう一度、思い出す。

今なら、
違う言い方ができる気がする。

今なら、
言わなくてもいい気もする。

「火、止められたな」

おばあちゃんが、
ぽつりと言う。

「うん」

私は、
小さく答えた。

火を止めることは、
逃げじゃない。

伝えるために、
一度、静かになること。

味噌は最後。
言葉も、最後。

落ち着いてからで、
いい。

その日の味噌汁の香りは、
夜になっても、
どこか、残っていた。