湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

体がすっかり戻ったころ、
私は台所に立つことを、少しだけ軽く考えるようになっていた。

包丁を持つ手は迷わない。
火加減も、だいたい分かる。
おばあちゃんが何を言うかも、先回りして想像できる。

「これくらいなら、もう大丈夫やろ」

そんな油断が、
この日の始まりだった。

「今日は、混ぜるで」

おばあちゃんが言った。

混ぜる。
焼くより派手じゃない。
煮るほど時間もかからない。

簡単そうに聞こえる言葉だった。

材料が、台に並ぶ。
豆腐。
人参。
ほうれん草。
白ごま。

「白和えや」

私は、少し安心した。
手順も、だいたい知っている。

豆腐は崩して、
野菜を切って、
全部、混ぜればいい。

そう思って、
私は先に野菜に手を伸ばした。

「豆腐、先ちゃうん?」

そう言うと、
おばあちゃんは、首を振った。

「その前に、水」

豆腐は、布巾に包まれて、
静かに置かれる。

重しは、軽い皿だけ。

「こんなに?」

思わず言うと、
おばあちゃんは、笑った。

「急いだら、水、残る」

私は、時計を見る。
まだ、余裕はある。

でも、
早く終わらせたい気持ちが、
どこかにあった。

野菜をまとめて茹でたくなる。
豆腐の水切りを短くしたくなる。

「あとで混ぜたら、同じやろ」

そんな言葉が、
喉まで出かかった。

おばあちゃんは、
何も言わずに、
別の作業を始めている。

その背中を見て、
私は、少しだけ立ち止まった。

豆腐の布巾を、
そっと触る。

まだ、重い。

水が、抜けきっていない。

待つ。

その間に、
人参を細く切る。
ほうれん草を、別々に茹でる。

それぞれに、
少しだけ下味をつける。

手間は、増える。
時間も、かかる。

でも、
台の上は、
だんだん整っていく。

「混ぜるいうのはな」

おばあちゃんが言った。

「最後や」

「その前に、
 それぞれが、
 ちゃんと準備できとらなあかん」

豆腐の水が、
布巾に染みている。

ようやく、
崩せる状態になる。

指で触ると、
余分な水気がない。

味噌と砂糖を、
先に混ぜる。

そこに、
白ごまを加える。

それだけで、
小さな器の中に、
一つの味ができる。

「順番はな」

おばあちゃんは、
私の手元を見ながら言う。

「味の設計図や」

野菜は、最後。

一気に混ぜない。

少しずつ、
和える。

混ぜる、というより、
馴染ませる。

手を止めたとき、
器の中は、
落ち着いた色をしていた。

水っぽくない。
でも、固くもない。

一口、食べる。

派手さはない。
でも、
どこも、ぼやけていない。

「あ……」

思わず声が出る。

「下準備やろ」

おばあちゃんが言う。

「混ぜる前に、
 ちゃんと話、聞いたからや」

その言葉に、
胸の奥が、少しだけ痛んだ。

話を聞く前に、
結論を出したこと。
相手の準備を待たずに、
踏み込んだこと。

良かれと思って、
順序を壊した場面が、
いくつも浮かぶ。

混ぜる前に、
整える時間。

それを奪うことが、
どれだけ乱暴だったか。

「順番守ったらな」

おばあちゃんは、
器を片付けながら言う。

「混ぜるの、怖ない」

私は、
空になった器を見ながら、
静かにうなずいた。

焦りは、
順番を壊す。

順番を守ることは、
相手を尊重すること。

混ぜるという工程は、
それを、
一番最後に、教えてくれた。