体調が戻った朝、
台所の空気は、久しぶりに軽かった。
立っていても、目が回らない。
包丁の音が、遠くならない。
火の前に立つことが、怖くない。
「今日は、焼くで」
おばあちゃんが言った。
焼く、という言葉に、
私は少し背筋を伸ばした。
煮るより、炊くより、
焼くのは、触りたくなる。
目の前で変化が起きるから。
失敗が、すぐに見えるから。
網の上に、鮭が置かれる。
塩は、焼く直前。
「先に振ったら、水出る」
それだけ言って、
おばあちゃんは、火をつける。
じゅっ、という音。
脂が落ちる音。
匂いが、立ち上る。
私は、落ち着かなくなる。
焦げていないか。
くっついていないか。
もう裏返した方がいいんじゃないか。
箸を持つ手が、
無意識に浮く。
その手を、
おばあちゃんが止めた。
「まだ」
短い言葉。
「今は、魚の仕事中や」
魚の仕事。
その言い方が、
少し可笑しくて、
でも、妙に納得できた。
焼かれているのは、
私じゃない。
鮭だ。
それなのに、
私は、自分が焦っている。
音が変わる。
匂いが、少し甘くなる。
それでも、
触らない。
「何回も裏返す人ほどな」
おばあちゃんが、
網から目を離さずに言う。
「不安なんや」
私は、胸が少し痛くなった。
思い当たることが、
いくつも浮かぶ。
良かれと思って、
何度も声をかけたこと。
心配だからと、
確認しすぎたこと。
結果、
相手が疲れてしまったこと。
魚の身が、
箸で触られすぎて、
崩れてしまった光景と、
どこか重なった。
「触りすぎると、壊れる」
おばあちゃんの声は、
責めるでも、教えるでもない。
ただ、事実を言っているだけだった。
しばらくして、
おばあちゃんが言う。
「今や」
その一言で、
私は、裏返す。
一度だけ。
皮目は、
きれいな焼き色。
それだけで、
少し安心する。
「これで、もう触らん」
火は、少し弱められる。
あとは、
余熱と時間。
私は、
箸を置いた。
触らない時間は、
意外と長く感じる。
でも、
その間に、
魚はちゃんと進んでいる。
焼き上がった鮭は、
形が崩れていない。
中は、
ふっくらしている。
一口、食べる。
香ばしい。
でも、硬くない。
「ええやろ」
おばあちゃんが言う。
私は、うなずいた。
一度だけ、
ちゃんと関わる。
それで、
十分なこともある。
心配だからといって、
何度も裏返したら、
芯が崩れる。
焼くという工程は、
距離の取り方を教えていた。
私は、
網の上の魚を見ながら、
そっと思った。
——次は、触らなくても、大丈夫。
台所の空気は、久しぶりに軽かった。
立っていても、目が回らない。
包丁の音が、遠くならない。
火の前に立つことが、怖くない。
「今日は、焼くで」
おばあちゃんが言った。
焼く、という言葉に、
私は少し背筋を伸ばした。
煮るより、炊くより、
焼くのは、触りたくなる。
目の前で変化が起きるから。
失敗が、すぐに見えるから。
網の上に、鮭が置かれる。
塩は、焼く直前。
「先に振ったら、水出る」
それだけ言って、
おばあちゃんは、火をつける。
じゅっ、という音。
脂が落ちる音。
匂いが、立ち上る。
私は、落ち着かなくなる。
焦げていないか。
くっついていないか。
もう裏返した方がいいんじゃないか。
箸を持つ手が、
無意識に浮く。
その手を、
おばあちゃんが止めた。
「まだ」
短い言葉。
「今は、魚の仕事中や」
魚の仕事。
その言い方が、
少し可笑しくて、
でも、妙に納得できた。
焼かれているのは、
私じゃない。
鮭だ。
それなのに、
私は、自分が焦っている。
音が変わる。
匂いが、少し甘くなる。
それでも、
触らない。
「何回も裏返す人ほどな」
おばあちゃんが、
網から目を離さずに言う。
「不安なんや」
私は、胸が少し痛くなった。
思い当たることが、
いくつも浮かぶ。
良かれと思って、
何度も声をかけたこと。
心配だからと、
確認しすぎたこと。
結果、
相手が疲れてしまったこと。
魚の身が、
箸で触られすぎて、
崩れてしまった光景と、
どこか重なった。
「触りすぎると、壊れる」
おばあちゃんの声は、
責めるでも、教えるでもない。
ただ、事実を言っているだけだった。
しばらくして、
おばあちゃんが言う。
「今や」
その一言で、
私は、裏返す。
一度だけ。
皮目は、
きれいな焼き色。
それだけで、
少し安心する。
「これで、もう触らん」
火は、少し弱められる。
あとは、
余熱と時間。
私は、
箸を置いた。
触らない時間は、
意外と長く感じる。
でも、
その間に、
魚はちゃんと進んでいる。
焼き上がった鮭は、
形が崩れていない。
中は、
ふっくらしている。
一口、食べる。
香ばしい。
でも、硬くない。
「ええやろ」
おばあちゃんが言う。
私は、うなずいた。
一度だけ、
ちゃんと関わる。
それで、
十分なこともある。
心配だからといって、
何度も裏返したら、
芯が崩れる。
焼くという工程は、
距離の取り方を教えていた。
私は、
網の上の魚を見ながら、
そっと思った。
——次は、触らなくても、大丈夫。


