熱が下がった朝、
私はようやく台所に立った。
立てた、というより、
立っても大丈夫だと、自分で思えた朝だった。
まだ体の芯は少し重く、
長くは立っていられそうにない。
それでも、火の前に立てるというだけで、
世界に戻ってきた気がした。
おばあちゃんは、
何も言わなかった。
「もう大丈夫?」とも、
「無理せんとき」とも言わない。
ただ、
いつもの場所に鍋を置いた。
「今日は、煮るで」
鍋の中には、
鶏肉とごぼうが入っている。
ごぼうは、土の匂いを残したまま。
鶏肉も、下茹ではしていない。
「そのまま?」
思わず聞くと、
おばあちゃんは、うなずいた。
「そのまま」
火にかけると、
しばらくして、鍋の表面に変化が出る。
白く、
ふわふわしたもの。
灰汁だ。
私は反射的に、
おたまに手を伸ばした。
「灰汁、取る?」
おばあちゃんは、
おたまを取るけれど、
すぐには動かさない。
「全部は取らん」
その言葉に、
私は少し戸惑った。
灰汁は、
取るものだと思っていた。
雑味。
臭み。
不要なもの。
きれいにすれば、
味はよくなる。
そう、信じてきた。
「ほら、ここ」
おばあちゃんが、
鍋の表面を指す。
「これは取る」
強く浮いた、
少し灰色がかった部分。
それは、すっとすくわれる。
「でもな」
おばあちゃんは、
鍋全体を見渡す。
「これ、全部取ったら、
軽うなる」
軽い、という言葉が、
味に使われたことに、
私は少し驚いた。
「軽いの、あかんの?」
そう聞くと、
おばあちゃんは、少し考えてから言った。
「覚えられへん」
火は、弱められる。
煮立たせない。
でも、止めない。
鍋の中で、
鶏とごぼうが、
ゆっくり混ざっていく。
私は、灰汁を見ながら、
落ち着かない気持ちになった。
取らなくていいのか。
本当に、これでいいのか。
失敗しているんじゃないか。
そんな気持ちが、
胸の奥で、泡みたいに浮かんでくる。
——失敗。
その言葉に、
別の記憶が引っかかる。
直したかった癖。
消そうとした過去。
なかったことにした感情。
全部、
灰汁みたいなものだった。
取り除けば、
きれいになると思っていた。
でも、
本当にそうだっただろうか。
「不安になるやろ」
おばあちゃんが言う。
鍋から目を離さずに。
「残すいうのはな」
「勇気いる」
私は、
おたまを持ったまま、
動けずにいた。
全部取れば、
安心できる。
でも、
それは、
慣れた安心だ。
鍋の中は、
少し濁ったまま。
それでも、
香りは、悪くない。
むしろ、
奥に、何かがある。
「取らん、という選択も、
ちゃんと仕事や」
おばあちゃんの声は、
低くて、静かだった。
私は、
おたまを置いた。
取らない。
そのまま、煮る。
しばらくして、
火を止める。
鍋は、
すぐには触らない。
落ち着くまで、
待つ。
皿に盛られた鶏ごぼうは、
少し色が濃い。
透明感はない。
でも、
匂いは、しっかりしている。
一口、食べる。
最初に来るのは、
ごぼうの土っぽさ。
次に、
鶏の旨み。
最後に、
少しだけ、
ざらりとした後味。
「……変わった味」
思わず言うと、
おばあちゃんは、笑った。
「分かりやすないやろ」
もう一口、食べる。
さっきより、
少し分かる。
三口目で、
なんとなく、
この味の形が見えてくる。
派手じゃない。
でも、
忘れにくい。
「全部きれいにしたらな」
おばあちゃんが言う。
「味も、人も、
どこか嘘になる」
私は、
その言葉を、
ゆっくり噛みしめた。
雑味は、
消すものじゃなかった。
残すことで、
深くなるものだった。
鍋の底に残った、
わずかな濁りを見ながら、
私は思った。
自分の中にも、
きっと、
同じものがある。
取りきらなかった感情。
消せなかった記憶。
それらがあるから、
今の自分が、
立体でいられる。
煮るという工程は、
整えることじゃない。
残すものを、
選ぶことだった。
私はようやく台所に立った。
立てた、というより、
立っても大丈夫だと、自分で思えた朝だった。
まだ体の芯は少し重く、
長くは立っていられそうにない。
それでも、火の前に立てるというだけで、
世界に戻ってきた気がした。
おばあちゃんは、
何も言わなかった。
「もう大丈夫?」とも、
「無理せんとき」とも言わない。
ただ、
いつもの場所に鍋を置いた。
「今日は、煮るで」
鍋の中には、
鶏肉とごぼうが入っている。
ごぼうは、土の匂いを残したまま。
鶏肉も、下茹ではしていない。
「そのまま?」
思わず聞くと、
おばあちゃんは、うなずいた。
「そのまま」
火にかけると、
しばらくして、鍋の表面に変化が出る。
白く、
ふわふわしたもの。
灰汁だ。
私は反射的に、
おたまに手を伸ばした。
「灰汁、取る?」
おばあちゃんは、
おたまを取るけれど、
すぐには動かさない。
「全部は取らん」
その言葉に、
私は少し戸惑った。
灰汁は、
取るものだと思っていた。
雑味。
臭み。
不要なもの。
きれいにすれば、
味はよくなる。
そう、信じてきた。
「ほら、ここ」
おばあちゃんが、
鍋の表面を指す。
「これは取る」
強く浮いた、
少し灰色がかった部分。
それは、すっとすくわれる。
「でもな」
おばあちゃんは、
鍋全体を見渡す。
「これ、全部取ったら、
軽うなる」
軽い、という言葉が、
味に使われたことに、
私は少し驚いた。
「軽いの、あかんの?」
そう聞くと、
おばあちゃんは、少し考えてから言った。
「覚えられへん」
火は、弱められる。
煮立たせない。
でも、止めない。
鍋の中で、
鶏とごぼうが、
ゆっくり混ざっていく。
私は、灰汁を見ながら、
落ち着かない気持ちになった。
取らなくていいのか。
本当に、これでいいのか。
失敗しているんじゃないか。
そんな気持ちが、
胸の奥で、泡みたいに浮かんでくる。
——失敗。
その言葉に、
別の記憶が引っかかる。
直したかった癖。
消そうとした過去。
なかったことにした感情。
全部、
灰汁みたいなものだった。
取り除けば、
きれいになると思っていた。
でも、
本当にそうだっただろうか。
「不安になるやろ」
おばあちゃんが言う。
鍋から目を離さずに。
「残すいうのはな」
「勇気いる」
私は、
おたまを持ったまま、
動けずにいた。
全部取れば、
安心できる。
でも、
それは、
慣れた安心だ。
鍋の中は、
少し濁ったまま。
それでも、
香りは、悪くない。
むしろ、
奥に、何かがある。
「取らん、という選択も、
ちゃんと仕事や」
おばあちゃんの声は、
低くて、静かだった。
私は、
おたまを置いた。
取らない。
そのまま、煮る。
しばらくして、
火を止める。
鍋は、
すぐには触らない。
落ち着くまで、
待つ。
皿に盛られた鶏ごぼうは、
少し色が濃い。
透明感はない。
でも、
匂いは、しっかりしている。
一口、食べる。
最初に来るのは、
ごぼうの土っぽさ。
次に、
鶏の旨み。
最後に、
少しだけ、
ざらりとした後味。
「……変わった味」
思わず言うと、
おばあちゃんは、笑った。
「分かりやすないやろ」
もう一口、食べる。
さっきより、
少し分かる。
三口目で、
なんとなく、
この味の形が見えてくる。
派手じゃない。
でも、
忘れにくい。
「全部きれいにしたらな」
おばあちゃんが言う。
「味も、人も、
どこか嘘になる」
私は、
その言葉を、
ゆっくり噛みしめた。
雑味は、
消すものじゃなかった。
残すことで、
深くなるものだった。
鍋の底に残った、
わずかな濁りを見ながら、
私は思った。
自分の中にも、
きっと、
同じものがある。
取りきらなかった感情。
消せなかった記憶。
それらがあるから、
今の自分が、
立体でいられる。
煮るという工程は、
整えることじゃない。
残すものを、
選ぶことだった。


