湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

目が覚めたとき、世界は少し遠かった。
天井は見えているのに、焦点が合わない。
体の輪郭が、自分のものじゃないみたいだった。

喉が、ひりつく。
声を出そうとしても、うまく息が続かない。

布団の中で身じろぎすると、
額の奥がずんと重くなった。

「……あ」

それだけ言って、動くのをやめた。

しばらくして、
戸の向こうで足音が止まる。

おばあちゃんだ、と分かる。

「起きんでええ」

声は、近くもなく、遠くもない。
ちょうどいい距離。

額に、手が当たる。
ひんやりして、少し硬い手。

熱を測るわけでも、
時計を見るわけでもない。

「今日は、寝とき」

理由は言わない。
説明もしない。

それで、終わりだった。

おばあちゃんは、部屋を出ていく。
私は、引き止めることもできず、
また、目を閉じた。

次に意識が浮かんだとき、
台所の音がしていた。

でも、いつもと違う。

包丁の乾いた音も、
水の跳ねる音もない。

代わりに聞こえるのは、
低く、重たい気配。

厚いものが、
ゆっくりと熱を受け取っている音。

コトコト、ではない。
ぐつぐつ、でもない。

ただ、
そこに在る、という感じ。

私は、その音を聞きながら、
ぼんやりと思った。

——何を作っているんだろう。

でも、考えるのがしんどくて、
また、意識が沈んだ。

次に目を開けたとき、
部屋には、ほのかな匂いが流れてきていた。

だしの匂いでも、
焼き物の匂いでもない。

米が、ほどけていく匂い。

「……おかゆ」

独り言みたいに言うと、
戸の向こうから声が返る。

「聞こえとるで」

少し、笑っている。

おばあちゃんは、
鍋を抱えるようにして、部屋に入ってきた。

厚手の鍋。
昔からある、重たい鍋。

蓋を取ると、
白い湯気が、静かに立ちのぼる。

「まだ、食べんでええ」

そう言って、
鍋は、すぐに蓋をされる。

私は、少しだけ不満だった。

お腹が空いているわけじゃない。
でも、何かを口に入れたら、
安心できる気がした。

「薬……」

そう言いかけると、
おばあちゃんは、首を振った。

「今は、要らん」

「体が、仕事しとる」

その言い方は、
第十章で聞いた「任せる」という言葉と、
どこか似ていた。

治すために、何かを足す。
そうじゃない。

体が働くのを、
邪魔しない。

それだけ。

鍋は、台所に戻される。
私は、布団の中で、
また音を聞く。

厚手の鍋は、
火を弱めても、
簡単には温度を落とさない。

でも、焦がさない。

守るための、器。

しばらくして、
おばあちゃんが、器を持って戻ってくる。

白いおかゆ。
何も足されていない。

塩の匂いもしない。

「少し、冷ました」

そう言って、
匙を差し出す。

一口。

味は、ほとんどない。
でも、喉を通る。

体の奥に、
すとん、と落ちる。

おいしい、とは思わなかった。

でも、
拒まれなかった。

「……もう一口」

そう言うと、
おばあちゃんは、何も言わずに、匙を差し出す。

全部、食べきれなかった。

それでも、
残していい、という空気があった。

「無理せんでええ」

「守るだけでええ」

その言葉が、
おかゆよりも、温かかった。

食べ終えると、
私は、また眠った。

夢も見なかった。

次に目が覚めたとき、
窓の外は、少し明るくなっていた。

体の重さは、まだある。
でも、最初よりは、ましだ。

台所を見ると、
鍋は伏せて置かれている。

もう、役目を終えたみたいに。

おばあちゃんは、
様子を見に来なかった。

それが、
信じられている、という感じがした。

炊くという行為は、
力を与えることじゃない。

弱っているものを、
守る場所を作ること。

厚手の鍋のおかゆは、
何も主張しないまま、
体の中で、静かに仕事をしていた。

私は、また目を閉じる。

今度は、
少しだけ、安心して。