台所の朝は、音よりも先に匂いが動く。
火をつける前、包丁を握る前、
おばあちゃんは必ず、台所の隅にある容器の前にしゃがむ。
それは、少し古びた蓋付きの入れ物だった。
木でも陶器でもない、
何度も洗われて、色の分からなくなった容器。
おばあちゃんは、何も言わずに蓋を取る。
ふわりと立ち上がる、ぬかの匂い。
酸味と、土と、少しの甘さが混じった匂い。
「今日も、おはよう」
誰に言うでもなく、
でも確かに、何かに向かって言っている声だった。
私は、その様子を横で見ていた。
「それ、毎日見るん?」
そう聞くと、
おばあちゃんは手を止めずに答えた。
「見なあかん」
手が、ぬかに入る。
指が沈み、表面がゆっくりと崩れる。
かき混ぜる、というより、
ならす、に近い動き。
「見ん日が続いたらな」
少し間を置いて、続ける。
「すぐ、拗ねる」
私は思わず笑った。
「拗ねるって」
おばあちゃんは、笑わない。
「ほんまやで」
ぬか床の中から、
きゅうりが一本、取り出される。
昨夜、漬けたものだ。
色は、少しだけ深くなっている。
触ると、ひんやりして、張りがある。
「一本でええ」
それが、この家のやり方だった。
たくさん漬けない。
足さない。
増やさない。
ぬか床も、食べる量も、
いつも同じくらい。
「いっぱい構うと、あかん」
「ほっときすぎても、あかん」
「難しそうやろ」
そう言いながら、
おばあちゃんは、またぬかに手を入れる。
その手つきは、
教えるための動きではなく、
確かめるための動きだった。
「今日は、ちょっと元気やな」
私は、思わず聞き返す。
「どこで分かるん?」
おばあちゃんは、
手についたぬかを見せる。
「匂いと、温度と、重さ」
「毎日触っとったら、分かる」
言葉にすると、それだけ。
でも、その「毎日」が、
どれほどの時間を含んでいるのか。
私は、恐る恐る、手を伸ばした。
「触ってみ」
そう言われて、
指先だけ、ぬかに触れる。
少し、温かい。
想像していたよりも、
ずっと、柔らかい。
「生きとる」
おばあちゃんが言う。
「止まっとるもんは、こんな温度せえへん」
その日、私は、ぬか床の世話を任された。
混ぜる。
ならす。
空気を入れる。
やりすぎないように。
でも、手を抜かないように。
翌朝も、その次の日も、
同じ時間に、同じ場所で。
最初は、違いが分からなかった。
匂いも、手触りも、
昨日と同じに思えた。
でも、三日目。
少しだけ、酸味が立つ。
五日目。
ぬかが、少し軽くなる。
「昨日、見てへんやろ」
ある朝、
おばあちゃんが言った。
私は、何も言えなかった。
前の日、
少しだけ、面倒だった。
一日くらい、いいだろうと、
思ってしまった。
蓋を開けると、
匂いが違う。
悪くはない。
でも、落ち着きがない。
「責めてへん」
おばあちゃんは言う。
「でも、正直やな」
ぬか床は、
言葉を持たない。
でも、
世話されたかどうかは、
ちゃんと返してくる。
塩を、ほんの少し足す。
丁寧に、混ぜる。
「急に戻そうとせん」
「また、毎日や」
私は、その言葉を、
料理のこと以上に、
自分のこととして聞いていた。
関係も、気持ちも、
一日で元には戻らない。
でも、
毎日続ければ、
ちゃんと応えてくれる。
一週間後、
ぬか床は、落ち着いた匂いを取り戻す。
朝の食卓に並ぶ、
きゅうりと大根のぬか漬け。
ぽり、と音がする。
派手じゃない。
でも、ちゃんと世話された味。
手に、ぬかの匂いが残る。
それを洗いながら、
私は思った。
生きているものは、
完成しない。
続けることでしか、
続かない。
おばあちゃんは、
何も言わずに、
また、蓋を閉める。
明日も、
同じように、開けるために。
火をつける前、包丁を握る前、
おばあちゃんは必ず、台所の隅にある容器の前にしゃがむ。
それは、少し古びた蓋付きの入れ物だった。
木でも陶器でもない、
何度も洗われて、色の分からなくなった容器。
おばあちゃんは、何も言わずに蓋を取る。
ふわりと立ち上がる、ぬかの匂い。
酸味と、土と、少しの甘さが混じった匂い。
「今日も、おはよう」
誰に言うでもなく、
でも確かに、何かに向かって言っている声だった。
私は、その様子を横で見ていた。
「それ、毎日見るん?」
そう聞くと、
おばあちゃんは手を止めずに答えた。
「見なあかん」
手が、ぬかに入る。
指が沈み、表面がゆっくりと崩れる。
かき混ぜる、というより、
ならす、に近い動き。
「見ん日が続いたらな」
少し間を置いて、続ける。
「すぐ、拗ねる」
私は思わず笑った。
「拗ねるって」
おばあちゃんは、笑わない。
「ほんまやで」
ぬか床の中から、
きゅうりが一本、取り出される。
昨夜、漬けたものだ。
色は、少しだけ深くなっている。
触ると、ひんやりして、張りがある。
「一本でええ」
それが、この家のやり方だった。
たくさん漬けない。
足さない。
増やさない。
ぬか床も、食べる量も、
いつも同じくらい。
「いっぱい構うと、あかん」
「ほっときすぎても、あかん」
「難しそうやろ」
そう言いながら、
おばあちゃんは、またぬかに手を入れる。
その手つきは、
教えるための動きではなく、
確かめるための動きだった。
「今日は、ちょっと元気やな」
私は、思わず聞き返す。
「どこで分かるん?」
おばあちゃんは、
手についたぬかを見せる。
「匂いと、温度と、重さ」
「毎日触っとったら、分かる」
言葉にすると、それだけ。
でも、その「毎日」が、
どれほどの時間を含んでいるのか。
私は、恐る恐る、手を伸ばした。
「触ってみ」
そう言われて、
指先だけ、ぬかに触れる。
少し、温かい。
想像していたよりも、
ずっと、柔らかい。
「生きとる」
おばあちゃんが言う。
「止まっとるもんは、こんな温度せえへん」
その日、私は、ぬか床の世話を任された。
混ぜる。
ならす。
空気を入れる。
やりすぎないように。
でも、手を抜かないように。
翌朝も、その次の日も、
同じ時間に、同じ場所で。
最初は、違いが分からなかった。
匂いも、手触りも、
昨日と同じに思えた。
でも、三日目。
少しだけ、酸味が立つ。
五日目。
ぬかが、少し軽くなる。
「昨日、見てへんやろ」
ある朝、
おばあちゃんが言った。
私は、何も言えなかった。
前の日、
少しだけ、面倒だった。
一日くらい、いいだろうと、
思ってしまった。
蓋を開けると、
匂いが違う。
悪くはない。
でも、落ち着きがない。
「責めてへん」
おばあちゃんは言う。
「でも、正直やな」
ぬか床は、
言葉を持たない。
でも、
世話されたかどうかは、
ちゃんと返してくる。
塩を、ほんの少し足す。
丁寧に、混ぜる。
「急に戻そうとせん」
「また、毎日や」
私は、その言葉を、
料理のこと以上に、
自分のこととして聞いていた。
関係も、気持ちも、
一日で元には戻らない。
でも、
毎日続ければ、
ちゃんと応えてくれる。
一週間後、
ぬか床は、落ち着いた匂いを取り戻す。
朝の食卓に並ぶ、
きゅうりと大根のぬか漬け。
ぽり、と音がする。
派手じゃない。
でも、ちゃんと世話された味。
手に、ぬかの匂いが残る。
それを洗いながら、
私は思った。
生きているものは、
完成しない。
続けることでしか、
続かない。
おばあちゃんは、
何も言わずに、
また、蓋を閉める。
明日も、
同じように、開けるために。


