冷酷な殺し屋は哀しき愛に囚われる

   ◇

 ――ありがとう、椿芽さん。

 あの日、月寧は私にそう言った。胡散臭い笑みではなく、柔らかく暖かかい瞳をして。
 それを見て、やっぱり彼は詩稀のことを救いたかったんじゃないかと思った。
 今思い返しても、詩稀に立ち向かってよかったと、後悔はない。

「ねえちょっと!」

 現実逃避をしていたら、祐奈の声が私を現実に引き戻した。
 祐奈は洗い物をしている私のもとにズカズカと近寄ってきた。見るからに不機嫌なときはろくなことがないから、ため息をつきたくなってしまうけど、それは火に油を注ぐことになるから、できるだけ無反応を貫く。

「祐奈の服、シワができてるんだけど!」

 突きつけられたのは、私が一生着ることがないであろう、オシャレな服。
 家事をすべて請け負うようになって以来、不備が見つかるとこうして責められるとわかっているから気をつけていたのに、たしかに袖に少しだけシワが見える。
 この程度、着ていたら気にならないだろうに。
 そう思ったけど、言えるわけがなかった。

「……ごめんなさい」
「もうサイアク! 明日デートで着ていこうと思ってたのに、これじゃ着れないんだけど!」

 祐奈は怒りのまま言い捨てると、踵を返してどこかに行った。
 独りになれば、自然とため息が出てしまう。
 あの日、帰りの時間が遅くなり、夕飯の支度ができなかっただけなのに。
 そう思わずにはいられなかった。
 しかしそんな私の暗い感情が、小さなあやかしたちを呼び集めてしまった。
 その子たちは私がしていることが気になるのか、周りに飛び散っている水をつついては遊んでいる。なんだか、人形が動き回っているようで癒される。
 そうして頬が緩んだときだった。
 あやかしが食器にぶつかり、床に落ちてしまった。
 耳をつんざくような音が家中に響き渡り、私のそばで遊んでいたあやかしたちは、瞬く間に姿を消した。
 残ったのは呆気にとられる私と、無惨に割れたお皿。そして、その音で飛んできたおばさん。

「あなた、なにをしているの!」

 お皿が割れたときと同じくらいの声の高さで、おばさんはそう叫んだ。
 これは誤魔化せない。

「ごめん、なさい……」
「もう、信じられない! ちゃんと片付けておきなさいよ! だから嫌なのよ……」

 おばさんはため息混じりに言うと、これ以上関わっていられないと言わんばかりに去っていった。
 最後の一言にはきっと、私を住まわせていることへの嫌悪感が込められていることだろう。
 そう。あの日から、おばさんは感情を一切隠さなくなった。
 いっそ清々しいかと思ったけれど、そんなことはなかった。
 その場にしゃがみ込み、割れたお皿に手を伸ばす。

 ――私、あの子苦手なのよ。いつも変なところで怯えて。私たちが悪いことしてるみたいに見られるじゃない。

 いつだったか、叔父さんにそう零していた。

 ――もう高校生なんだから、一人暮らしさせないの?

 それも言っていた。
 おばさんのそれを聞くたびに、私の居場所はここにはないのだと、強く実感させられた。

「あ……」

 静かに涙がこぼれ落ちて、私はまだ、悲しみを感じることができるのだと思った。
 泣いたってどうしようもないことがあることは知っている。だって、どれだけ泣いても、お母さんは戻ってこなかったから。
 それでも、泣かずにはいられなかった。
 もう、嫌だ。
 どうすれば、私はここから抜け出すことができるんだろう。
 この、小さな檻から。

「俺が奪ってやろうか」

 次に手を伸ばしたとき、頭上から声が降ってきた。
 顔を上げると、そこには詩稀がいる。
 しかし、見下ろされているというのに、不思議と恐怖心はなかった。
 初めて会ったときの凍るような視線がなくなっているからかもしれない。

「お前が望むのであれば、あの人間を殺してやるが」

 私は小さく首を横に振った。
 誰かを奪うことなんて、私は望まない。それは悲しみの連鎖を生むだけだから。
 貴方がなにかを奪ってくれるのなら。

「……私を奪って」
「承った」

 詩稀がニヤリと笑ったと思った刹那、私の身体がふわりと浮き、気付けば私は詩稀の腕の中にいた。

「え……」

 てっきり殺してもらえると思っていたから、この状況に戸惑いが隠せない。
 それどころか、視線が甘いような気がするのは、気のせいだろうか。

「望み通り、お前をもらおう」
「そんな……だって、文乃さんは……?」
「文乃は大切な存在だ。それは変わらない。だが俺は、暗闇の中から救い出してくれたお前のことをも、大切にしたいと思ったのだ」

 詩稀の言葉は真っ直ぐだった。
 私が文乃さんの存在を越えられるとは微塵も思っていないけど、それでも、こうして誰かに求められたことが久しぶりで、嬉しくなってしまった。

「おい、なにをしている!」

 このまま連れ去ってもらおうと思ったとき、叔父さんの声がした。
 キッチンにやってきた叔父さんは、目を丸くしている。

「……もしかして、叔父さんに詩稀が見えてるの?」
「俺は妖力が強いからな。多少なりとも力があれば、その目に映すことができるだろう」

 それは知らなかった。
 でも、叔父さんはきっと、これまでにあやかしを見たことはないだろう。その表情がそれを物語っているように見える。

「お前! 椿芽を返せ!」

 叔父さんは私を取り返そうとしてか、詩稀に飛びかかろうとした。だけど、簡単に詩稀に振り払われてしまった。
 私のときよりも、容赦ない力。それなのに、叔父さんは諦める気配を見せない。
 便利な私がいなくなることが、そんなに許せないの?

「椿芽は、お前たちみたいなあやかしに苦しめられてきたんだ! だから守ってほしいと、姉さんに頼まれて! ひとりにしないと決めているんだ!」

 その瞬間、私は勘違いしていたことに気付いた。
 叔父さんだけは、私を思ってくれていたんだ。
 佑奈たちがよく思っていないことをわかっていながら。

「……叔父さん、ありがとう。私、詩稀と行くよ。そのほうが、独りじゃないから」

 すると、叔父さんの動きが止まった。
 怒りがゆっくりと消え、安心したような、悲しそうな顔をしている。

「……そうか」

 叔父さんはもう一度、自分に言い聞かせるように「そうか」と呟いた。

    ◇

「詩稀は‎また腑抜けになってしまったね」

 数日後、月寧はそう言って私たちの前に現れた。
 だが、その表情は愉快そうに見える。

「でも、幸せそうだ」

 そんなからかいの言葉に、私たちは顔を見合せた。そして詩稀が優しく笑うから、私も自然と笑みがこぼれた。
 いつまでも、詩稀が穏やかでいられますように。
 そう願いながら。