~愛のエコ×エロシステム~ 不幸続きの崖っぷちOLですが、サキュバスと「夜の契約」を結んだら、なぜか冷徹な俺様魔王子にまで溺愛されて困ってます。

「お、ボディコピー、変えてくれたのか! 断然こっちの方が響くな」
「そうね、友崎さんのこういう機転があるから、クォリティがワンランク上がるのよ」

クライアントが満面の笑みで頷き、隣では普段、能面のような女性上司が、誇らしげに私の肩を叩く。

何もかもうまくいって、私も自然と笑みがこぼれる。

ああ、幸せだ。私がここにいていいんだって、世界中が肯定してくれているみたい。


……でも、これは夢の中の私。

そう。現実はその逆。

目が覚めた瞬間、あの温かな日差しは消え失せ、胃の底が冷たくなるような鉛色の感覚だけが残る。

「あれ、申込方法の説明がブロックごと無くなってるぞ」
「す、すみません! 修正して再度アップします……!」

現実のオフィスは、蛍光灯の青白い光に満ちている。乾燥した空気が、私のカサカサの肌をさらに痛めつける。

クライアントにミスを指摘され、上司には「またか」という顔で深い長いため息をつかれる私。

言い訳をさせてほしい。

良かれと思って加えた『最後のひと手間』が、レイアウトを崩壊させてしまった。

あるあるな凡ミスだが、これを何度も繰り返してしまう。


余計なことをする上に、詰めが甘い。

痛いほどわかっている、私の欠陥。

仕事だけではない。私生活でも顔を出す。

「もう、一人でやっていけるから! お金も口も出さなくていいってば!」

就職先を心配して電話をかけてきた母に、口ごたえし、ケンカ別れ状態で実家との連絡を絶った。本当は「心配してくれてありがとう、でも頑張るね」と言いたかったのに。

「あなたみたいに、社交的に人づきあいするのは無理。だから、放っておいて欲しいの」
つき合い始めたばかりの、明るくて外交的な彼に向かって、デートの帰りにぽろっと出た言葉。
せっかく彼の友だちを紹介してもらって『彼女デビュー』できるきっかけを作ってくれたのに。
私のリクエスト通り、彼は私を放っておいてくれた……永久に。

自分が不幸を呼び寄せて増幅させる、負のスパイラル。この澱んだドロドロの渦を、私はいつまで回し続けるのだろう。

ああ、誰か止めて。いっそ、イケメンの王子様が白馬に乗って……いや、軽トラでもいいから突っ込んできてくれないかなあ。

ただひとつ、私には特殊な才能がある。

それは、ベッドの中でしか発揮されない、発展性のない才能だ。

実際に起きたこととは真逆の夢を見ること。冒頭の夢がまさにそれだ。現実の私に代償を与えるかのように、夢の世界だけは幸せに満ちている。

けれど、わかっている。

目が醒めればまた地獄の一日が始まることを。

ずっと、夢の続きを見ていたい。もう布団から抜け出すことなく……永遠に、この温かい嘘の中にいたい。

「ごめんな……無理に俺のペースにつき合わせて。これからはコハルの気持ちを尊重するよ」

まどろみの中で、元彼の優しい声が聞こえる。

そう言って、元彼が私に手を差し伸べる。その手は大きくて、温かそう。

ふわりと、心なしかラベンダーのような香りがして、心の奥底をくすぐった。

でも、おかしい。彼はそんなお洒落な香りのフレグランスはつけていなかったはず。
……やっぱ夢ださん……涙が出る。


それでも、私は彼に向かって手を伸ばさずにはいられない。

指先が、何か柔らかいものに触れた。

人肌ではない。もっとモフッとした、ぬいぐるみのような感触。

でも、この部屋にはそんな可愛いものは置いていない。

もぞもぞ。

う、動いた!?

何かいる!

私が確かめるよりも早く、そいつは掛け布団の隙間から顔を突き出し、私をガン見してきた。

驚きで声が出ない。

カーテンの隙間から漏れる街灯が映し出したのは、白黒ツートンの奇妙な顔に、小さくてツヤツヤした黒い目。鼻が少し長くて、耳が丸い。

動いているからには生き物なのだろう。でもなぜ、私のベッドの中に!?
ここはペット禁止のアパートなのに……そういう問題じゃない。

ソイツはさらに顔を近づけてきた。冷たい鼻先が私の鼻に触れる。

ペロリ。

「ギャー!!!」

初めて声が出た。喉が引きつるような悲鳴。

その小動物はあろうことか、涙で濡れた私の頬を舐めたのだ。
「うんうん、バクの思った通り、なかなかいい味しておられる」

し、喋った……バク? ボクの効き間違い?……そうか、これもまだ夢の続きなのだ。だから、もう驚くのはよそう。早く覚めて、また憂鬱な朝を迎えればいい。

「ねえねえ、リリン、起きてこっちにおいで」

ソイツは私の頬から離れ、布団の奥の方へ顔を戻してモゴモゴと言った。誰に話しかけているの?


「もうウルサイなあ、ギャーとかワーとか……ボクはもっと寝ていたいんだよ……」

布団の中でもう一つ、何かがモゾモゾと出てきた……小動物の隣りに顔を出したのは、女の子だった。

とろんと半分だけ目を開け、眠そうに手でこする。透き通るような白い肌に、暗い部屋で輝く青銀色の長い髪。同色の長いまつ毛と、宝石のような瞳。

ふわりと、濃厚なラベンダーの香りが漂った。さっき夢の中で感じた香りだ。
「あれ、おねえさん、起きちゃったの?」

いや起きてない。断じて起きてない。だってこうやって今、美少女と謎の生物と一緒に寝ているという、ファンタスティックな夢を見ているんだもの。

……でも、妙にリアル。布団の暖かさや、女の子の吐息、小動物のモフモフ感。

意を決して上体を起こすと、掛け布団がめくれ、その子の服装が露わになった。髪と同系色のローブを着て、マントが体を覆っている。こんな格好で寝ていたの?

季節外れのハロウィンパーティーから抜け出してきたような格好だ。

彼女も私をまねて、上体を起こす。長い髪がサラサラと肩から滑り落ちる。
「ごめんごめん。君がぐっすり寝ているので、ボクも眠くなってつい布団の中に入って寝ちゃった」
「あ、あの。えーっと、あなたは?」

女の子は布団の中をごそごそと探って、ケモミミのような形をした帽子を取り出して被り、服装を整えた。そして、重力を無視してふわりと床に降りる。

私はベッドに腰かけ、向き合った。正装の魔女(?)に対する、ヨレヨレのスウェット姿の自分が、急に恥ずかしくなる。

「ボクはね、アルメリナ・ラベンダー・リリーネ。リリンって呼んでいいよ」

名前にラベンダーが入っている。名は体を表す、じゃなくて香りを表す。

「おねえさんの名前は?」
「え、あ、ごめん……私は、友崎コハル」
「コハルねえさんか……温かい季節の始まり。いい名前」

彼女はニコリと笑った。その笑顔があまりに無邪気で、胸の奥がキュンとした。なんだろう、この感覚は。
夢か現実かを測定するメーターの針が、少しずつ「現実であってほしい」の方に振れ始めていた。


「り、リリン……ところであなたは何でココにいるのかしら?」
「ああ、一緒に夢探しをしているコイツがね、コハルねえさんの夢に気づいてね」
「夢探し? コイツ?」

疑問を投げかけた瞬間、私の脚がペロンと舐められた。
「ぞわっ!」

慌てて下を向くと、さっきの白黒ツートンの生き物が、私の足元でくつろいでいた。
「ああ、わるい。そいつは、獏(バク)のバックンだ」

バックンと呼ばれた生き物がリリンの隣りに並び、彼女はその背中を愛おしそうに撫でた。
「この家の上空を飛んでると、コイツが急降下し始めてさ、食べごたえありそうな夢を見つけたんだって」

そうか。獏は夢を食べるんだっけ……でも。
「確か獏って、悪夢を食べるんじゃなかった?」
「そう、コイツは悪夢が大好物なんだ。でも最近、世の中は悪夢不足でね」
「悪夢不足?」
「うん。昔に比べるとだいぶ減ったんだ」
「それって、みんな幸せになったってこと?」
「いや、逆だと思うよ。みんな厳しい現実をいきるのに精一杯で、夢を見る余裕すらないんじゃないかな。君だってそうだろ?」

私の場合は日中が悪夢みたいなものだから、それを夢が必死にカバーしようとしいい夢を見させてもらっている。

リリンは私にぐっと顔を近づけると、大きな瞳でじっと私を見つめた。
そして次の瞬間、いきなり私の頬をペロリと舐めた!
「ひゃっ、何よ、いきなり!」

柔らかい舌の感触に、背筋がゾクリとする。
「あはは、ごめん……でもバックンが見立てた通り、お姉さんは美味しい」
「お、美味しい!?」

この子、人食い魔女?

「それでね、コハルねえさんに契約の提案があるんだ」
「契約? 提案?……いったいどんな……」

「うん。夢と現実を逆転しない?」
「……逆転!? どういうこと?」
「不幸な現実を、幸せな夢と取っ替えっこするんだよ」
「そ、そんなこと、できるわけが……」
「最初に言った通り、ボクは魔女だよ。そんなの、お茶の子サイサイさ」

古風な言い回しは置いておいて、すぐには信じられない。それに……。
「そうしたら、夜に眠るたび、悪夢ばかり見ることになるよね? そんなの耐えられない」
「そう! そこで、バックンが、君の見る悪夢を全部いただいちゃいます」

バックンが得意げに鼻を鳴らす。

なんだか訳がわからない。やっぱり、今この状況こそが悪夢なんじゃないか。見知らぬ美少女と珍獣に人生の取引を持ちかけられているなんて。

「どう、三日間お試しでやってみない? 気に入らなきゃ、返品可能です!」
「なんか、通販みたいね……」

でも、もし本当にそんなことができるなら。

みんなのあの冷たい視線に晒されなくて済むのなら。
「……いいわ。試してみる。で、どうすればいいの?」
「簡単さ。ボクが、ちょちょいと魔法をかけるだけ」

そう言うと魔女っ娘は懐から小さな杖を取り出し、私の頭から足元まで、指揮者がタクトを振るように優雅に振った。

銀色の小さな光の粒が、杖の軌道に沿って舞い、私の体に吸い込まれていく。

温かい。そしてラベンダーの香り。絶対的な安心感が私を包んだ。

◇ ◇ ◇

カーテンの隙間から光が漏れ、目が醒める。

小鳥のさえずりが聞こえる。

どうやら二度寝したようだ。時計を見ると、いつもより三十分も遅い。

でも、不思議と焦りはない。

夕べの出来事を思い出す。やっぱり夢だよね。あんな都合のいい話、あるわけがない。

ちょっとがっかりしながらベッドから抜け出そうとしたら――

隣で、規則正しい寝息が聞こえた。

魔女のリリンと名乗った女の子もスヤスヤと二度寝していた。ナイトキャップのようにケモミミ帽子を被ったまま。バックンも、テーブルの下で丸まっていた。

夢じゃないんだ。

私は、身支度を整え、トーストとハムエッグ、スープの簡単な朝食を用意した。いつもならパンを齧るだけの慌ただしい朝なのに、今日はなぜか手際よく動ける。念のためその子の分も作ってラップをかけ、「食べてね」とメモを残して仕事に出かけた。獏は夢を食べるそうだから、朝食は不要だろう。


こうして、女の子と一匹との奇妙なお試し同居生活が始まった。



お試し初日。
会社に着くと、昨日まで見つからなかったPC上のデータのエラー箇所が一目瞭然だった。修正して提出すると、上司に数ヶ月ぶりに褒められた。胸の奥がじんわりと温かくなる。

翌日。
いつも私を空気のように扱う同僚のミカさんに、手作りの小物入れを褒められ、ランチに誘われた。久しぶりに笑って、頬が筋肉痛になるほどだった。

そして、疎遠になっていた父からの電話にも、素直に「ありがとう」と言えた。

世界が変わった。いや、私が変わっただけなのかも知れないけれど。

お試し開始から三日目の夜。

リリンと一緒に作ったカレーライスを平らげ、食後の紅茶を飲んでいると、彼女が少しかしこまって話しかけてきた。部屋の中にずっといるのに、律儀にローブとマントを身に着け、帽子まで被っている。まるでこれから儀式でも始めるかのように。

「コハルねえさん、この三日間いかがでしたか?」

敬語なのが気味悪い。

「そうね、すごいわ。ちょっとずつだけど、いいことが起きていて、私、生きてて楽しいって思えたの」
「それは何よりです……で、お試し期間が過ぎましたけど、このあと、いかがいたしましょうか?」

私はティーカップをソーサーに戻し、思案する。
もう、元の灰色の日常には戻りたくない。でも、うまい話には裏があると言うし。

「二つ、気になることがあるんだけど」
「なんでしょうか?」
「ちょっと、その喋り方! 調子狂っちゃうから普通にして?」
「わかったわかった……で、なに?」

リリンがいつもの無邪気な笑顔に戻る。
「一つはね、夢を見なくなっちゃったの……ちょっと不安」
「ああそれね。ホントはコハル、悪い夢を見てるんだけど、コイツが食べちゃってるんだ」

魔女っ娘がバックンの背中をポンポンと叩く。
「そうなんだ。……でね、夜寝ているのに夢を見ないって、なんか味気ないなあって思ったの。贅沢かなあ」

その子は、なるほどと頷く。

「もう一つは?」

「リリンから提案された契約のお試しで、昼間の私は幸せになった。バックンも悪夢を食べられて得してる……でも、あなたにとってのメリットは何?」

ここが一番の謎だ……やっぱり私の魂でも狙っているの?

私はティーカップの縁を指でなぞりながら、うつむいた。
「それにね、私なんかがこんなに幸せでいいのかなって思うの。私、ドジだし、間が悪いし……良かれと思ってやったことが裏目に出ちゃうし」

「コハル」

リリンの真剣な声に、顔を上げる。

彼女はまっすぐに私を見ていた。その青い瞳には、呆れも同情の色もなかった。
「あのね、バックンが食べる前にコハルの悪夢……ボクも少し覗いたんだ」
「えっ、恥ずかしい……!」
「仕事の失敗も、彼氏との別れも見たよ。でもね、コハルは勘違いしてる」

リリンは身を乗り出し、テーブル越しに私の手を握った。
「コハルが仕事でミスをしたのは、誰よりも丁寧に仕事をしようとしたからでしょ? お母さんと喧嘩したのは、心配かけたくなくて自立しようと焦ったからだよね? 彼氏に冷たくしたのは、彼の重荷になりたくなかったからだ」
「……そうかも知れない」
「夢は嘘をつかない。コハルの『不幸』はね、コハルの『優しさ』の裏返し。だから、そんな自分を嫌わないで」

リリンの手のひらが温かい。
「ボクは、そんな不器用で優しいコハルだから、契約したいって思ったんだよ」

涙が出そうになった。でもやっぱり、彼女にとって、この契約のメリットは謎のまま。

魔女っ娘は顔を少し赤らめ、オホンと咳払いをした。

「ちょうど話そうと思ってたんだ……ボクのメリットになること。一つ目の疑問にも関係あるし」
「どういうこと?」
「ボク、魔女って自己紹介したけど、正確には『サキュバス』って種類の魔女なんだ……ねえ、サキュバスって知ってる?」
「え、うん……」
ゲームやアニメでは、確か……

「そう、それ。ボクはね、人と『愛し合う』ことによって、魔力をゲットしてる。これがないとボクは……」
「あ、あの、愛し合うって?」
「え……文字通り」
「文字通りって?」
「『エッチなこと』! ……もう、恥ずかしいなあ!」
リリンは両手で顔を覆って身悶えした。耳まで真っ赤だ。

まあ、予想はしていたけど。でも疑問もある。
「でもサキュバスって、男の人とするんじゃないの?」
「……そうなんだけど。サキュバスにだって色々いてね……人間だってそうでしょ? ボクたちの種族は女の子が好きな種族……そのうち詳しく聞かせるよ」

「そうなの……でも、それって私の二つの疑問とどう関係しているの?」

何となくわかってきた。でも、意外とウブな彼女の口から聞きたくて、少し意地悪して聞いてみる。

「コハルが夢を見なくなったかわりに、夜はボクと愛し合って過ごす。もっと正確に言うと、ボクは君から『愛の雫』をもらって命をつなぐ!」
リリンはそう叫ぶと、膝を抱えてソファの隅に顔をうずめた。ちょっと可愛い。

「あ、愛の雫って?」
「瞳から出る涙とか……」
「それでバックンもリリンも私の涙を舐めて味見したのか。それから『とか……』って他にもあるの?」
「それは、恥ずかしくて言えない。察して」

そんなこと急に言われても……。
え、ちょっと待って。愛し合うって、あれよね? 私が夜な夜なこっそり読んでるTL小説みたいなこと? いやいや、無理無理! でも……

彼女と触れ合うことへの嫌悪感は全くなかった。むしろ、さっき私を全肯定してくれた彼女の温もりが、どうしようもなく恋しいと思っている自分がいた。枯渇していた心が、潤いを求めている。
これは契約。そう、契約なのよ。

心の中で言い訳をして、私は頷いた。
「ねえ、『それ』もまずは三日間のお試しにしてもらえる?」

恥を忍んでの、私からの精一杯の提案。
「え……いいよ」

魔女っ娘は顔を上げ、恥ずかしそうに、でも花が咲いたように嬉しそうに微笑んだ。

その夜、彼女は初めてローブを脱いだ。

一緒にお風呂に入る。湯気の中で見る彼女の肌は、赤ん坊のように白くて滑らかだ。細いけれど、意外と柔らかそうな凹凸のある体のライン。

洗いっこをして、リリンが私の背中を流してくれる。小さな手が背骨をなぞる感触に、ゾクゾクする。

上がったら互いに髪を乾かす。彼女の青銀色に輝く髪に指を通すと、シルクのような手触りにうっとりした。ドライヤーの風に乗り、濃厚なラベンダーの香りがバスルームに充満し、私を包み込む。もう、この香りだけで酔ってしまいそうだ。

部屋の電気を消し、二人で布団に入った時、急に心臓が早鐘を打った。

私も彼女も生まれたままの姿。

獏のバックンは気を遣ってか、部屋にはいない。リビングの方で寝ているのだろう。

暗闇の中で、リリンの瞳だけが青く光っている。
「コハルねえさん……」

彼女はふわりと私を抱き、ゆっくりと唇を重ねてきた。

甘い。お菓子のように甘くて、とろけるようなキス。

気持ちよさとともに、絶対的な安らぎを感じる。誰かに必要とされること、誰かの体温を感じること。それがこんなにも満たされることだなんて。
「……いいの? 私なんかで」
唇が離れた瞬間、不安になって尋ねた。

「バカだなぁ」

リリンは私の言葉を遮るように、もう一度キスをした。今度は深く、長く。
「ボクには、コハルが世界で一番綺麗に見えるよ。その傷ついた心も、頑張りすぎな体も、全部全部、愛おしい」

唇と指が私の体を優しく撫でる。私も真似をして、彼女の華奢な肩や、小さな背中を撫でる。

途中で目が合い、お互いにふふっと微笑む。
「くすぐったい」
「コハルが動くからだよ」

そして、愛し合う。

涙とともに、私から溢れ出るもの。

リリンはまるで子猫がミルクを飲むように、それを舐め取る。

体中の力が抜けていくような、でも同時にエネルギーが満ちていくような不思議な感覚。

それは、彼女が魔力を得るために必要な儀式なんだ。
刹那的ではない、永遠に続くような幸福感に包まれ、リリンを抱いたまま朝まで眠った。

◇ ◇ ◇

『第二のお試し期間』の三日目。

本契約を結ぶかどうか、リリンに返事をしなくてはいけない期限の日。

迷いはない。私は彼女のことを、どうしようもなく好きになってしまっていたから。彼女がいない生活なんて、もう考えられない。いつものアパートへの帰り道。角を曲がって建物の明かりが見えると、急に不安になり、足が速まる。

階段を駆け上がり、急いで鍵を開けた。
「ただいま!」

返事はなかった。

部屋の中は暗く、ひんやりとしていて、人の気配がなかった。いつもなら玄関まで飛んでくるバックンの気配もない。

居間のソファにバッグを投げ、座り込む。

私の返事を聞くまで、待っていてくれてもいいじゃない。
なんで何も言わないでいなくなっちゃうの?

「やっぱり、私なんかじゃダメだったのかな……」

暗闇の中でじっと耐える。時計の針の音だけが響く。チクタク、チクタク。

彼女の残り香がするクッションを抱きしめ、顔を覆って泣く。
「リリン……会いたいよぉ……」

泣く。ひたすら泣く。子供のように声を上げて。

どれくらい時間が経っただろう。泣き疲れて、目が腫れぼったくなったころ。

ベランダの方でガタゴトと物音がして、窓がガラリと開いた。

ビックリして立ち上がる。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった。向かい風が強くてさあ」

能天気な声とともに、魔女っ娘リリンはバックンを引き連れ、部屋に入ってきた。夜風に乗って、ラベンダーの香りが漂う。
「ど、どこに行ってたの?」
「ちょっと魔界にショッピングに」
「ショッピング……バカ! バカバカ!」

堪らず彼女に駆け寄り、抱きしめた。勢い余って二人でソファに倒れ込む。
「出て行っちゃったかと思ったじゃない! 一人にしないで!」
「わわっ、コハル、苦しいよ……どこにも行かないよ……ちゃんと契約してくれればね」
「……そうよね、これは契約よね。あなたにとってはね。でも、私にとっては……」

言葉を続けようとしたが、リリンに人差し指で唇を塞がれた。
「バカだなあ」
「またバカって言った!」
私は涙目で口を尖らす。

「ボクがかけた魔法」
「え?」
「それで、どうなった?」
「夢と引き換えに……仕事がうまくいった」
「ほかに?」
「同僚と仲良くなれた」
「ほかに?」
「両親とヨリが戻せた」
「じゃあ、まだうまくいってないことってある?」

彼女は悪戯っぽく笑う。
「……そうね、彼氏に捨てられっぱなし。新しい恋人もいない」
「そうだね。それはね、ボクがわざとそうしたんだ」
「え、どうして?」
「決まってるじゃん。ボクはコハルが大好きだからさ!」

その言葉に、胸が熱くなる。

さらにギュッとリリンを抱きしめた。グエッ、苦しいとか言っているけど構うもんか。

抱きしめられながら、リリンは手に持つ包みを上げた。
「魔界に行ってね、パジャマを買ってきたんだ。特製の、お揃いのパジャマ」
「?」
「多分、本契約してくれると思ってさ。そのお祝いにね」
「え、ありがとう」

魔女っ娘が手にした紙袋からは、虹色の光がじんわりと漏れている。なんともファンタジックなプレゼント!
「これを着て、コハルと夢の続きが見たくてさ。現実でも夢でも、ずっと一緒にいよう?」
「……うん。ずっと一緒」

◇ ◇ ◇

一方その頃。

サキュバスのアルメリナ一族が暮らしている魔界には、その表裏の関係で男性型の夢魔、インキュバスが棲む地域がある。

インキュバスの魔王ノックスは、宮殿の王室に跡取り息子のフラゴル王子を呼んだ。
「なあフラゴル、我々夢魔の一族はどうやって子孫を遺しているか知っておるだろう?」
「ええお父様、家庭教師のサピア先生から耳にタコができるほど聞いております」

ソファに深く腰掛けた美貌の青年――フラゴルは、退屈そうにワイングラスを揺らした。漆黒の髪に、切れ長の瞳。その容姿は魔界の別種族の貴婦人たちを虜にしている。

「そうか。お主もそろそろ婚姻の儀を受けねばならない」
「そうですか。でも契りを結ぶ、アルメリナ一族の次期王女はまだ小さく、しかも人間世界にて修行中だとうかがっております」
「わが一族の事情を考えると、そう悠長なことは言っておれん。一定数の血統を確保するためにな……それに、リリーネ王女は、もう十分に子を授かれる時期には来ておる」
「……そうですか。でも父上、私はまだリリーネ姫に一度も会ったことがありません」
「そうだな。ではこうしたらどうか? お前も修行がてら人間世界に行って、彼女と会ってくるのだ」
「……人間界へ? 俺がですか?」

フラゴルは眉をひそめた。
「ああ。挨拶がてら見てこい」

黒髪の美男子は冷たい笑みを浮かべる。
「ふん。どうせ、脆弱でつまらない生き物たちが這い回る場所でしょう。リリーネも、あんな場所で修行とは、酔狂なことだ」

フラゴルはワイングラスを置いた。
「ま、いいでしょう。退屈しのぎに、その『人間界』とやらを覗いてやりますよ。俺の魅力で、その辺の女を気絶させないように気をつけないとな」
「……逆に、人間世界の誘惑には負けるなよ」
「どういうことでしょうか?」
「あやつらは、魔法も使えない無力な連中だが、侮ってはいかん」

父の忠告を軽く聞き流し、フラゴルは立ち上がった。

彼が向かう人間界で、まさか自分がその「脆弱な人間」に現(うつつ)を抜かすことになろうとは、この時の俺様王子は知る由もなかった。