「メリークリスマス! 悠楽く~ん!」
クリスマスパーティーに招かれた俺は、玄関に足を踏み入れた瞬間、村上一家からの熱烈な歓迎を受けた。
ドアを開けた先には、赤と白のサンタ帽をかぶった家族全員が並んでいて、その光景に一瞬、言葉を失う。
帽子をかぶっていないのは俺だけで、むしろその方が浮いているのが可笑しかった。
家の中はまるで映画で観た海外のクリスマスみたいに飾り付けられ、料理の匂いと、笑い声が満ちている。
「来てくれてサンキューな」
「いや、家族のイベントにお邪魔するの、申し訳ねーわ。なんかゴメン」
「そんなことねーよ。無理やり呼んだの、こっちだし」
そんなやり取りをしながら靴を揃え、リビングへ向かう。
怜央の両親とは久しぶりの再会で、軽く頭を下げて挨拶を交わし、持ってきた手土産を渡した。
テーブルの上には、クリスマス定番のご馳走が、次々と並べられていく。
大きなターキーレッグ、色とりどりのオードブル、ふんわりと甘い香りのクリスマスケーキ。
並ぶ皿の数だけ、村上家のクリスマスにかける気合いと、家族への深い愛情が伝わってきた。
「悠楽くん、遠慮しないで食べてね」
俺が好きだと言ったブコサラダも、ボウルに山盛り用意されていて、「全部食べなさいよ」と冗談まじりに言われ、思わず吹き出す。
怜央のお父さんとお母さん、力也くんも揃ったところで、俺は怜央の隣に座り、「いただきます」と手を合わせた。
「そういえば悠楽くん、進路はもう決まったのかい?」
地元の私大に合格し、国際教養学科で異文化や文学を学ぶ予定だと話すと、怜央のお母さんは、今度は来年から始まる怜央の一人暮らしについて、早口で心配を語り始める。
一瞬、親子喧嘩の気配が漂ったけれど、俺が怜央の歌声を思いきり褒めると、空気は少しずつ和らいだ。
さらに、力也くんのバンドの話や、俺の通っている松高が志望校だという話題に移り、高校生活のこと、今教わっている先生のこと、そんな他愛もない話をしているうちに、時間は驚くほど早く過ぎていった。
気がつけば夜も深くなり、怜央の部屋でベッドに入る頃には、時計の針はすでに二十四時を回っていた。
「ベッド、せまくてごめん」
「いや、大丈夫。一晩くらいなんとかなるっしょ」
お互い仰向けのまま、静かな部屋には時計の秒針の音だけが響く。
電気を消しても、月明かりと外の外灯が隙間から差し込み、その横顔は暗がりでもぼんやりと見えた。
「……悠楽、俺さ」
怜央は俺の方へ横向きになる。静かな口調で、だけど迷いのない声で告げた。
「高校の卒業式が終わったらすぐ、東京に行く。物件も来月、親と相談して内見に行くことにした」
「……そっか」
俺は仰向けのまま頷き、同じく横向きになった。
「渋谷の近く……初台あたりだと、アパートが安いみたいでさ」
「へぇ。独り暮らし、羨ましいな」
「でも、ワンルームだから激狭」
小声で笑う怜央を見て、俺の胸には少しだけ切ない気持ちが込み上げた。
「東京での生活に慣れたらさ、悠楽も遊びに来いよ」
「ん、じゃあ夜行バスで行く」
きっと、ここにはないものばかり。でも、遊びに行きたいというより、怜央に会いに行きたい気持ちの方が勝っていた。
ほんの少しの間が合って、怜央は俺の目をじっと見つめて言った。
「……俺の夢に付き合ってくれて、今までありがとな。
俺、絶対に歌手になるから。悠楽が大学の友だちに自慢できるくらい、スゲーやつになるよ」
そう力強く言い切られ、俺は静かに、でも目を細めて頷いた。
会話に少し間が空く。話しかけようともう一度向き直ると、怜央はすでに眠りに落ちていた。
規則正しい、穏やかな寝息。
さっきまでの笑い声が嘘みたいに、部屋は静まり返っている。
けれど、俺の頭の中だけは、なかなか静まってくれなかった。
どうにもならないことだと、分かっている。
怜央の夢を応援する気持ちは、今も変わっていない。
それでも、思考は勝手に先へ先へと進んでしまう。
東京のどこかで歌う怜央の姿を想像したり、
いつかテレビで見る未来がくるのかもしれない、なんて。
胸の奥で、わずかな焦燥と、淡い期待が、ゆっくりと混ざり合っていく。
――怜央が東京で頑張るなら。
俺は、大学で何を頑張ろう。
答えはまだ、見つからない。
俺はベッドの端でそっと身体を丸め、
月明かりに照らされた怜央の寝顔を眺めた。
残りの三か月。
怜央と、どんな時間を過ごしたいのか。
どんな思い出を、胸に残したいのか。
答えを急がず、
ただ静かに、夜の中で思い巡らせていた。
*
怜央とは、冬休みのあいだ何度も会った。
映画を観に行ったり、誰もいない公園で、冷たい息を白くしながらSNS用の動画を撮ったり。
街をぶらついて、服を買ったり、ゲーセンに行ったり。
怜央のお父さんや力也くんに混ざって、日帰り温泉に連れて行ってもらったこともあった。
「今日も楽しかったなー」
「うん、次はどこ行く? ほぼ行き尽くしたんじゃね?」
俺は、そういう何気ない時間の一つ一つを、こぼさないように抱きしめていた。
限られていると分かっている時間を、怜央との思い出で埋め尽くすように――
まるで、後から振り返る前提で生きているみたいな日々だった。
学校が始まると、放課後は決まってファミレスかカフェに寄った。
テーブルを挟んで、取り留めもない話をして、くだらないことで笑って。
時間を気にしながらも、なかなか席を立てないまま、夜まで駄弁っていた。
そして三月九日、俺たちは高校の卒業式を迎え、
怜央が上京する前に、最後に遊ぼうと約束をしたのは、その二日後だった。
その日の昼過ぎの待ち合わせに向けて、俺は少しだけ「大学生らしさ」を意識して、新調した私服に着替えた。
鏡の前で立ち止まり、怜央から誕生日に貰った香水を、ほんのひと吹きだけ手首につける。
部屋を出ようとした、その瞬間だった。
けたたましいスマホの警告アラートが鳴り響く。
次の瞬間、下から――ドカン、と家ごと突き上げられるような衝撃。
地震だ、と頭が理解するより早く、身体が浮いた。
下に居る祖母のもとへ行こうと反射的に階段へ向かう。
だけど、二階の窓越しに見えた光景に、足がすくんだ。
アスファルトが裂けるような、耳を引き裂く轟音。
電線が、風に叩かれるみたいに大きく撓り、暴れている。
まるで世界そのものが、音を立てて壊れていくようだった。
次の瞬間、俺は壁に両手をつき、しゃがみ込むしかなかった。
棚が倒れ、テレビが吹き飛ぶように転がり、
家が――本当に、崩れるんじゃないかと思うほど、揺れは長く続いた。
揺れが収まったあとも、俺の膝はガタガタと震えつづけていた。
恐るおそる階下に降りると、リビングは物が散乱し、足の踏み場もない状態だった。
祖母はその真ん中で、腰を抜かしたまま座り込んでいる。
テレビは映らず、スマホも繋がらない。
電気は消えたまま、時計も止まっていて、時間の感覚も失われていく。
俺は震える手で、手回しのラジオを探し出し、必死に回した。
流れてきたのは、
この地方一帯を、巨大な地震が襲った――という、緊迫したアナウンス。
ついさっきまで確かにあった日常が、
突然、別の世界に押し流されてしまったことを、
その時、ようやく理解した。
*
震災の発生から数日が過ぎても、電気も、ガスも、水道も戻らなかった。
避難所として開放された母校の中学校の体育館。その一角に、俺たち家族は身を寄せていた。
自宅は外壁に大きな亀裂が入り、余震が続く中では、とても戻れる状態じゃなかった。
まさか、こんな形でこの場所に帰ってくることになるなんて。
卒業してから何年も経って、もう関わることのない場所だと思っていたのに、今は、母校が俺たちを守る場所になっていた。
床に敷かれたマットの上で膝を抱えながら、俺の思考はどうしても同じところへ戻っていた。
――怜央は、大丈夫なのかな。
スマホは相変わらず繋がらず、充電も底をついていた。
直接家に行けば安否確認くらいできるかもしれない、そう思ったこともある。
けれど、一日中余震が続くような状況で、外出を親が許すはずもなかった。
体育館の入口近くに設置されたホワイトボードには、安否を伝える紙、探している人の名前が書かれた紙が、隙間なく貼られている。
俺はその前に立ち、怜央の名前を探しては、見つからないことに胸を締めつけられた。
体育館の中や、隣の武道館も目で追った。寝袋に包まった人の列、毛布にくるまってうずくまる背中。そのどこにも、怜央の姿はなかった。
きっと在宅で避難してるんじゃないか――なんて願いにも似た希望を、自分に言い聞かせ続けた。
自衛隊から配られる、おにぎりと支援物資を受け取り、ビニール袋を指に食い込ませながら、家族の待つ場所へ戻ろうとした、その時だった。
「……悠楽!」
一瞬、聞き間違いだと思った。
こんなに探していた相手の声で、俺の名前を呼ばれるはずがないと。
それでも、足が止まって、振り返る。
ジャージ姿の怜央が、人混みをかき分けるようにして、こちらへ走ってきていた。
少し乱れた髪、息を切らしながら、それでも真っ直ぐ俺を見ている。
堪えきれなくなって、俺は怜央がいるその場所へ走り――
気がついたら、全身でぶつかるように、抱き合っていた。
「良かった……連絡つかなかったから、俺……心配で」
声が震えているのを、自分でもはっきりと自覚した。
怜央の姿を目にした瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んで、足元が少しだけ頼りなくなる。
「さっき、親に黙って悠楽の家まで走った。でも居なかったから……もしかしてって思って」
短く息を切らしながら言う怜央の顔は、疲れているはずなのに、安堵の色がはっきりと浮かんでいた。
その表情を見ただけで、同じ不安を抱えていたことが伝わってくる。
俺たちは、グラウンドの端に並んで腰を下ろした。
フェンス越しに見える街は、いつもの景色とは似ても似つかない。
傾いた電柱、割れた道路。ここが、自分たちの暮らしてきた場所だということが、信じられなくなるほどだった。
「……どうなるんだろうね、これから」
ぽつりと零れた俺の言葉に、怜央は少しだけ間を置いてから、前を見たまま言った。
「時間はかかるかもしれねぇけどさ。前に進むしかねぇなって、俺は思ってる」
強がりでも、慰めでもない。
怜央が本気でそう信じていることが、その声から伝わってきた。
こいつの明るさに、前向きな言葉に、何度救われただろう。
胸の奥に溜まっていた不安や恐怖が、ゆっくりとほどけていく。
ふと、空を見上げると、淡雪が舞い始めていた。
瓦礫と街の傷跡の上に、そっと降り積もるような、静かな雪だった。
「怜央」
「ん?」
「あの日さ……ファミレスで怜央の歌声、聴けて。もう一回ちゃんと会えて……マジで良かった」
「なんだよ、急に」
いつも通りの軽い調子で、怜央は笑った。
俺も同じように笑った――つもりだった。
「お前と一緒に居るとさ……自分でも引くくらい、大声で笑えたし。
こんな考え方あるんだ、とか……こんなふうに、人のこと理解してくれるんだって……気づかされることばっかで」
そこで、視界が滲んだ。
雪のせいだと思いたかったけれど、そうじゃない。
「おい、やめろやめろ。急にしんみりさせんなって。そういうの苦手だから、俺は手紙で――」
「お前が居なくなるの、すげー不安だし」
言葉が、止まらなかった。
「正直、寂しいって思ってる」
怜央は何も言わなかった。
ただ、少しだけ息を吐いて、視線を落とした。
特別な約束なんて、最初から必要なかった。
同じ場所で、同じ景色を見て、隣に怜央がいる。
それだけで、十分だった。
季節が巡っても、二人で笑って、どうでもいい話をして、それがずっと続くものだと、信じていた。
「……俺もさ。大学で、自分のやりたいこと見つけて、ちゃんと頑張るから」
本当は、もっと一緒にいたかった。
もっと、何気ない時間を重ねていたかった。
「……うん。話、聞けるの楽しみにしてるわ」
怜央はそう言って、いつものように少し照れた笑い方をした。
雪は、ひび割れた道路や崩れかけた塀だけじゃなくて、俺の中にあった痛みも、不安も、言葉に出来なかった想いも、すべてを等しく包み込むみたいに降り続けた。
やがて、低く傾いた夕陽が雪面を淡く染め、白は橙へ、橙はゆっくりと透明に溶けていく。
跡形もなく消えていくその光景を、俺は怜央の隣で、黙って見つめていた。
何かを約束したわけでも、はっきりと別れを告げたわけでもないのに、それでも確かに、ここで一つの季節が終わったのだと分かっていた。
――これが、俺と怜央が、同じ町で過ごした最後の時間だった。
クリスマスパーティーに招かれた俺は、玄関に足を踏み入れた瞬間、村上一家からの熱烈な歓迎を受けた。
ドアを開けた先には、赤と白のサンタ帽をかぶった家族全員が並んでいて、その光景に一瞬、言葉を失う。
帽子をかぶっていないのは俺だけで、むしろその方が浮いているのが可笑しかった。
家の中はまるで映画で観た海外のクリスマスみたいに飾り付けられ、料理の匂いと、笑い声が満ちている。
「来てくれてサンキューな」
「いや、家族のイベントにお邪魔するの、申し訳ねーわ。なんかゴメン」
「そんなことねーよ。無理やり呼んだの、こっちだし」
そんなやり取りをしながら靴を揃え、リビングへ向かう。
怜央の両親とは久しぶりの再会で、軽く頭を下げて挨拶を交わし、持ってきた手土産を渡した。
テーブルの上には、クリスマス定番のご馳走が、次々と並べられていく。
大きなターキーレッグ、色とりどりのオードブル、ふんわりと甘い香りのクリスマスケーキ。
並ぶ皿の数だけ、村上家のクリスマスにかける気合いと、家族への深い愛情が伝わってきた。
「悠楽くん、遠慮しないで食べてね」
俺が好きだと言ったブコサラダも、ボウルに山盛り用意されていて、「全部食べなさいよ」と冗談まじりに言われ、思わず吹き出す。
怜央のお父さんとお母さん、力也くんも揃ったところで、俺は怜央の隣に座り、「いただきます」と手を合わせた。
「そういえば悠楽くん、進路はもう決まったのかい?」
地元の私大に合格し、国際教養学科で異文化や文学を学ぶ予定だと話すと、怜央のお母さんは、今度は来年から始まる怜央の一人暮らしについて、早口で心配を語り始める。
一瞬、親子喧嘩の気配が漂ったけれど、俺が怜央の歌声を思いきり褒めると、空気は少しずつ和らいだ。
さらに、力也くんのバンドの話や、俺の通っている松高が志望校だという話題に移り、高校生活のこと、今教わっている先生のこと、そんな他愛もない話をしているうちに、時間は驚くほど早く過ぎていった。
気がつけば夜も深くなり、怜央の部屋でベッドに入る頃には、時計の針はすでに二十四時を回っていた。
「ベッド、せまくてごめん」
「いや、大丈夫。一晩くらいなんとかなるっしょ」
お互い仰向けのまま、静かな部屋には時計の秒針の音だけが響く。
電気を消しても、月明かりと外の外灯が隙間から差し込み、その横顔は暗がりでもぼんやりと見えた。
「……悠楽、俺さ」
怜央は俺の方へ横向きになる。静かな口調で、だけど迷いのない声で告げた。
「高校の卒業式が終わったらすぐ、東京に行く。物件も来月、親と相談して内見に行くことにした」
「……そっか」
俺は仰向けのまま頷き、同じく横向きになった。
「渋谷の近く……初台あたりだと、アパートが安いみたいでさ」
「へぇ。独り暮らし、羨ましいな」
「でも、ワンルームだから激狭」
小声で笑う怜央を見て、俺の胸には少しだけ切ない気持ちが込み上げた。
「東京での生活に慣れたらさ、悠楽も遊びに来いよ」
「ん、じゃあ夜行バスで行く」
きっと、ここにはないものばかり。でも、遊びに行きたいというより、怜央に会いに行きたい気持ちの方が勝っていた。
ほんの少しの間が合って、怜央は俺の目をじっと見つめて言った。
「……俺の夢に付き合ってくれて、今までありがとな。
俺、絶対に歌手になるから。悠楽が大学の友だちに自慢できるくらい、スゲーやつになるよ」
そう力強く言い切られ、俺は静かに、でも目を細めて頷いた。
会話に少し間が空く。話しかけようともう一度向き直ると、怜央はすでに眠りに落ちていた。
規則正しい、穏やかな寝息。
さっきまでの笑い声が嘘みたいに、部屋は静まり返っている。
けれど、俺の頭の中だけは、なかなか静まってくれなかった。
どうにもならないことだと、分かっている。
怜央の夢を応援する気持ちは、今も変わっていない。
それでも、思考は勝手に先へ先へと進んでしまう。
東京のどこかで歌う怜央の姿を想像したり、
いつかテレビで見る未来がくるのかもしれない、なんて。
胸の奥で、わずかな焦燥と、淡い期待が、ゆっくりと混ざり合っていく。
――怜央が東京で頑張るなら。
俺は、大学で何を頑張ろう。
答えはまだ、見つからない。
俺はベッドの端でそっと身体を丸め、
月明かりに照らされた怜央の寝顔を眺めた。
残りの三か月。
怜央と、どんな時間を過ごしたいのか。
どんな思い出を、胸に残したいのか。
答えを急がず、
ただ静かに、夜の中で思い巡らせていた。
*
怜央とは、冬休みのあいだ何度も会った。
映画を観に行ったり、誰もいない公園で、冷たい息を白くしながらSNS用の動画を撮ったり。
街をぶらついて、服を買ったり、ゲーセンに行ったり。
怜央のお父さんや力也くんに混ざって、日帰り温泉に連れて行ってもらったこともあった。
「今日も楽しかったなー」
「うん、次はどこ行く? ほぼ行き尽くしたんじゃね?」
俺は、そういう何気ない時間の一つ一つを、こぼさないように抱きしめていた。
限られていると分かっている時間を、怜央との思い出で埋め尽くすように――
まるで、後から振り返る前提で生きているみたいな日々だった。
学校が始まると、放課後は決まってファミレスかカフェに寄った。
テーブルを挟んで、取り留めもない話をして、くだらないことで笑って。
時間を気にしながらも、なかなか席を立てないまま、夜まで駄弁っていた。
そして三月九日、俺たちは高校の卒業式を迎え、
怜央が上京する前に、最後に遊ぼうと約束をしたのは、その二日後だった。
その日の昼過ぎの待ち合わせに向けて、俺は少しだけ「大学生らしさ」を意識して、新調した私服に着替えた。
鏡の前で立ち止まり、怜央から誕生日に貰った香水を、ほんのひと吹きだけ手首につける。
部屋を出ようとした、その瞬間だった。
けたたましいスマホの警告アラートが鳴り響く。
次の瞬間、下から――ドカン、と家ごと突き上げられるような衝撃。
地震だ、と頭が理解するより早く、身体が浮いた。
下に居る祖母のもとへ行こうと反射的に階段へ向かう。
だけど、二階の窓越しに見えた光景に、足がすくんだ。
アスファルトが裂けるような、耳を引き裂く轟音。
電線が、風に叩かれるみたいに大きく撓り、暴れている。
まるで世界そのものが、音を立てて壊れていくようだった。
次の瞬間、俺は壁に両手をつき、しゃがみ込むしかなかった。
棚が倒れ、テレビが吹き飛ぶように転がり、
家が――本当に、崩れるんじゃないかと思うほど、揺れは長く続いた。
揺れが収まったあとも、俺の膝はガタガタと震えつづけていた。
恐るおそる階下に降りると、リビングは物が散乱し、足の踏み場もない状態だった。
祖母はその真ん中で、腰を抜かしたまま座り込んでいる。
テレビは映らず、スマホも繋がらない。
電気は消えたまま、時計も止まっていて、時間の感覚も失われていく。
俺は震える手で、手回しのラジオを探し出し、必死に回した。
流れてきたのは、
この地方一帯を、巨大な地震が襲った――という、緊迫したアナウンス。
ついさっきまで確かにあった日常が、
突然、別の世界に押し流されてしまったことを、
その時、ようやく理解した。
*
震災の発生から数日が過ぎても、電気も、ガスも、水道も戻らなかった。
避難所として開放された母校の中学校の体育館。その一角に、俺たち家族は身を寄せていた。
自宅は外壁に大きな亀裂が入り、余震が続く中では、とても戻れる状態じゃなかった。
まさか、こんな形でこの場所に帰ってくることになるなんて。
卒業してから何年も経って、もう関わることのない場所だと思っていたのに、今は、母校が俺たちを守る場所になっていた。
床に敷かれたマットの上で膝を抱えながら、俺の思考はどうしても同じところへ戻っていた。
――怜央は、大丈夫なのかな。
スマホは相変わらず繋がらず、充電も底をついていた。
直接家に行けば安否確認くらいできるかもしれない、そう思ったこともある。
けれど、一日中余震が続くような状況で、外出を親が許すはずもなかった。
体育館の入口近くに設置されたホワイトボードには、安否を伝える紙、探している人の名前が書かれた紙が、隙間なく貼られている。
俺はその前に立ち、怜央の名前を探しては、見つからないことに胸を締めつけられた。
体育館の中や、隣の武道館も目で追った。寝袋に包まった人の列、毛布にくるまってうずくまる背中。そのどこにも、怜央の姿はなかった。
きっと在宅で避難してるんじゃないか――なんて願いにも似た希望を、自分に言い聞かせ続けた。
自衛隊から配られる、おにぎりと支援物資を受け取り、ビニール袋を指に食い込ませながら、家族の待つ場所へ戻ろうとした、その時だった。
「……悠楽!」
一瞬、聞き間違いだと思った。
こんなに探していた相手の声で、俺の名前を呼ばれるはずがないと。
それでも、足が止まって、振り返る。
ジャージ姿の怜央が、人混みをかき分けるようにして、こちらへ走ってきていた。
少し乱れた髪、息を切らしながら、それでも真っ直ぐ俺を見ている。
堪えきれなくなって、俺は怜央がいるその場所へ走り――
気がついたら、全身でぶつかるように、抱き合っていた。
「良かった……連絡つかなかったから、俺……心配で」
声が震えているのを、自分でもはっきりと自覚した。
怜央の姿を目にした瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んで、足元が少しだけ頼りなくなる。
「さっき、親に黙って悠楽の家まで走った。でも居なかったから……もしかしてって思って」
短く息を切らしながら言う怜央の顔は、疲れているはずなのに、安堵の色がはっきりと浮かんでいた。
その表情を見ただけで、同じ不安を抱えていたことが伝わってくる。
俺たちは、グラウンドの端に並んで腰を下ろした。
フェンス越しに見える街は、いつもの景色とは似ても似つかない。
傾いた電柱、割れた道路。ここが、自分たちの暮らしてきた場所だということが、信じられなくなるほどだった。
「……どうなるんだろうね、これから」
ぽつりと零れた俺の言葉に、怜央は少しだけ間を置いてから、前を見たまま言った。
「時間はかかるかもしれねぇけどさ。前に進むしかねぇなって、俺は思ってる」
強がりでも、慰めでもない。
怜央が本気でそう信じていることが、その声から伝わってきた。
こいつの明るさに、前向きな言葉に、何度救われただろう。
胸の奥に溜まっていた不安や恐怖が、ゆっくりとほどけていく。
ふと、空を見上げると、淡雪が舞い始めていた。
瓦礫と街の傷跡の上に、そっと降り積もるような、静かな雪だった。
「怜央」
「ん?」
「あの日さ……ファミレスで怜央の歌声、聴けて。もう一回ちゃんと会えて……マジで良かった」
「なんだよ、急に」
いつも通りの軽い調子で、怜央は笑った。
俺も同じように笑った――つもりだった。
「お前と一緒に居るとさ……自分でも引くくらい、大声で笑えたし。
こんな考え方あるんだ、とか……こんなふうに、人のこと理解してくれるんだって……気づかされることばっかで」
そこで、視界が滲んだ。
雪のせいだと思いたかったけれど、そうじゃない。
「おい、やめろやめろ。急にしんみりさせんなって。そういうの苦手だから、俺は手紙で――」
「お前が居なくなるの、すげー不安だし」
言葉が、止まらなかった。
「正直、寂しいって思ってる」
怜央は何も言わなかった。
ただ、少しだけ息を吐いて、視線を落とした。
特別な約束なんて、最初から必要なかった。
同じ場所で、同じ景色を見て、隣に怜央がいる。
それだけで、十分だった。
季節が巡っても、二人で笑って、どうでもいい話をして、それがずっと続くものだと、信じていた。
「……俺もさ。大学で、自分のやりたいこと見つけて、ちゃんと頑張るから」
本当は、もっと一緒にいたかった。
もっと、何気ない時間を重ねていたかった。
「……うん。話、聞けるの楽しみにしてるわ」
怜央はそう言って、いつものように少し照れた笑い方をした。
雪は、ひび割れた道路や崩れかけた塀だけじゃなくて、俺の中にあった痛みも、不安も、言葉に出来なかった想いも、すべてを等しく包み込むみたいに降り続けた。
やがて、低く傾いた夕陽が雪面を淡く染め、白は橙へ、橙はゆっくりと透明に溶けていく。
跡形もなく消えていくその光景を、俺は怜央の隣で、黙って見つめていた。
何かを約束したわけでも、はっきりと別れを告げたわけでもないのに、それでも確かに、ここで一つの季節が終わったのだと分かっていた。
――これが、俺と怜央が、同じ町で過ごした最後の時間だった。



