春休みを目前に控えた、高校二年の三月。
年度の終わり特有の、どこか浮き足立った空気が街に漂っていた。
ロッカーに置きっぱなしにしていた分厚い国語便覧、電子辞書、上靴。それに体育館シューズとジャージまで無理やり詰め込んだせいで、ぱんぱんに膨らんだリュックと、それでも入りきらなかった荷物を入れたナイロンバッグの頼りない紐が、肩にずしりと重く食い込んでいた。バスは終点の駅に到着し、乗客たちは一斉に立ち上がる。俺もその流れに押されるように降り、地下鉄に乗り換えるため、改札へと向かって歩き出した。
その時だった。
――とん。
背後から、軽く肩を叩かれる。
一瞬、心臓が跳ねた。驚いて振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。
「悠楽、久しぶりじゃん! 元気してた?」
変わらない、よく通る大きな声。少し癖のある笑い方。
人懐っこさのある、垂れた目元と八重歯。
中学三年の頃、選択授業で隣の席になったことがある男――村上怜央だった。
卒業間近、些細な喧嘩がきっかけで友達グループからハブられた俺を、最後まで気に掛けてくれた、数少ない存在。
「む、村上……」
思わず言葉に詰まり、間の抜けた声で名前を呼んだ。
記憶の中では同じくらいだった身長は、いつの間にか大きく伸びていて、今では俺よりずっと高い。
「びっくりした。久しぶり」
ぎこちなくそう答えると、村上は俺の腕いっぱいの荷物に目をやり、くすっと笑った。
「なに、その大荷物。ヤバくね?」
「春休み前だから、ロッカー空にしなきゃいけなくて」
「なるほどね。てかさ、このあと暇?
せっかくだし、ちょっとどっか座って話そうぜ」
屈託のない笑顔は、あの頃とまるで変わっていなかった。
俺が陰なら、村上はどう考えても陽。圧倒的な陽キャだ。
「じゃー、こっち行く?適当に座れそうなとこあるし」
流れに任せるようにエスカレーターに乗り、商業ビルが立ち並ぶ駅前広場へ出る。人通りの少ない一角にあるベンチに、二人で並んで腰を下ろした。
中学時代の学ランではなく、それぞれ別の高校の制服を着て向かい合っていることに、違和感しかなかった。
「悠楽は、松高だったっけ?」
村上は俺の制服に目を向けて言った。
グレーのブレザーに白黒のギンガムチェック。県内でも有名な、少し変わったデザインの制服だ。
「うん。今は私立文系のクラス。村上は……泉高の、英語科だっけ?」
「えっ、俺の高校、覚えててくれてたん? すげーなお前」
嬉しそうな笑顔と共に目を丸くして言われて、少しだけ胸の奥が温かくなる。
最後にまともに話したのは、中学の卒業式だった。
卒業生代表として校歌斉唱の指揮を執る村上の姿を、後ろから眺めていたのを覚えている。
その後、校庭で写真撮影をしている最中、彼はわざわざ俺のところへ来て、こう言った。
『悠楽。俺、泉高の英語科受かった!
……高校離れても、たまには遊ぼうな』
けれど、その言葉通りに顔を合わせることはなかった。
高校に入ってから一度だけ送ったメッセージも、既読すらつかなかった。
言いづらかったが、俺は意を決して口を開く。
「……あのさ。実は、高校入ってから一回だけ……お前にメッセ送ったんだ。でも、既読つかなかったから……」
嫌われたというより、社交辞令だったのだと自分に言い聞かせていた。
家を知っているわけでもない。共通の友人もいない。だから、自然とそれきりになった。
しかし俺の言葉を聞いた瞬間、村上は信じられないものを見るように目を見開いた。
「えっ、マジで? ……うわ、ごめん! それ、無視したとかじゃないからな!」
慌てたように言葉を重ねる。
「高一の夏くらいに、スマホ壊れてさ。機種変したんだけど、パスワード忘れて引き継ぎできなくて……。
完全に音信不通だと思わせたよな? ほんとにごめん」
あまりに必死に謝られて、逆に俺の方が戸惑った。
「いや、怒ってるわけじゃないよ。ただ……」
少し言葉を探してから、正直な気持ちを口にする。
「俺、もっと村上と仲良くしたいって思ってたから。正直、ちょっと凹んだだけ」
苦笑いすると、村上は大げさなくらいに両手を合わせ、何度も頭を下げた。
「マジで申し訳ない……!ちょ、待って」
そう言ってから、紺色のブレザーのポケットからスマホを取り出し、俺に画面を向ける。そこには、見慣れたアプリのQRコードが表示されていた。
「これ、俺のアカウント。今すぐ追加して!」
その勢いに押されるまま、俺はメッセージアプリを開く。
そこには、家族と数人のクラスメイトしかいない、静かなトーク一覧。
カメラでQRコードを読み取り、「追加」をタップした。
「はー……今日会えて、マジで良かったわ。声かけて正解だった」
そう言って向けられた笑顔は、中学の頃と少しも変わらず、相変わらず眩しかった。
春先の柔らかな陽射しを、そのまま閉じ込めたみたいな笑顔だ。
俺はその光を正面から受け止めるのが少しだけ気恥ずかしくて、けれど視線を逸らすことはしなかった。ただ静かに、ひとつ頷く。
「俺さ、春休みは結構予定詰まってて、あんまり会えないんだけど。学校始まったら、放課後とか話さね?」
「ああ、うん……今日は荷物多いからバスだけど、普段はチャリ通だし。駅の近くなら、だいたいどこでも行けるよ」
「マジか。じゃあ今度、ファミレスとか行こうぜ。ゆっくり語りてーし」
軽い調子でそう言って、村上はベンチから立ち上がる。
「あとでスタ爆するわ」
「やめろし」
そのまま手を振られ、俺も少し遅れて、同じように一度だけ手を上げた。
村上が振り返ることはなかったけれど、不思議と寂しさはなかった。
後ろ姿が見えなくなって、その「あとで」はすぐにやって来た。
スタンプの連打が送られて来て、俺が時々「ウザすぎ」と返すと、「すみません」「テンション上がりすぎた」という、まともな返事が来て笑ってしまった。
思いがけない再会によって、過去と今がもう一度つながった。
その事実が、ただ素直に嬉しかった。
*
高校三年の始業式を終え、新しいクラスにもようやく馴染み始めた頃だった。
不意に、村上の方から急に連絡が来た。
『急でごめん! 今日って暇?』
相変わらず忙しない奴だな、と思いながら、俺は「空いてる」とだけ短く返信した。
あの後も短いやりとりは続いていたけれど、日が空くことも多くて、そんな頻繁ではなかった。実際に会うのは、二週間ぶりに近かった。
放課後、互いの高校のちょうど中間あたりにあるファミレスで待ち合わせをした。
先に着いたのは俺の方で、イヤホンで音楽を聞きながらスマホを片手に外で時間を潰していると、数十分後、村上が自転車を滑り込ませるようにして現れた。
「待たせてごめん! 生徒会の引き継ぎで捕まっててさ! もう腹ペコ、早く入ろ!」
息を切らしながらも、声は底抜けに明るい。
生徒会とかやってんだ、とちらりと村上を見て、そういえば中学の時も吹奏楽部で部長だったのを思い出した。
窓際のボックス席に向かい合って腰を下ろすと、村上はブレザーを脱ぎ、慣れた手つきで黒いネクタイを緩めた。
俺も同じようにブレザーを鞄の横に置き、二人でタブレットのメニューを覗き込む。
「俺、ドリンクバーつけて、ハンバーグセットにしようかな。スープとサラダも欲しい」
「あー、じゃあ俺もつける。リゾットにするわ」
互いに注文を決めて確定ボタンをタップする。
「先に飲み物取ってきたら?」と声をかけると、村上は「おう」と短く返して席を立った。
その背中を眺めながら、改めて思う。
背が伸びたのはもちろんだけど、全体的に垢抜けた印象があった。髪型もお洒落だし、中学の頃より、ずっと“大人”に近づいている。
「ほい、悠楽の分。コーラでよかった?」
「うん、サンキュー」
ストローの袋を破る俺を見ながら、村上は自分のジンジャエールを一口飲んで、何気ない調子で言った。
「新しいクラス、どう?」
「……別に。私文は二クラスしかないし、顔ぶれもほとんど変わってないから、どうもこうも無いって感じ」
そう答えると、村上は片手で頬杖をつき、じっと俺の顔を覗き込んできた。
「……なあ。この前会った時も思ったんだけどさ」
少しだけ声を落とし、
「悠楽、めちゃくちゃつまんなさそうな顔してる」
「え?」
「なんていうかさ。この世の何もかも、別にどうでもいい〜って顔。自覚ない?」
冗談めいた口調だったが、その言葉は思いがけず核心を突いてきた。
胸の奥を不意に触れられたように、心臓が一拍遅れて跳ねる。そんなふうに見抜かれているとは思ってもいなかったし、それを村上に指摘されるなんて、まったくの予想外だった。
「……まあ、つまんないのは事実だわ」
少し間を置いて、俺は続けた。
「高校入った頃から、自分の居場所じゃない感じがずっとある。
一応、仲良くしてる奴らはいるけど……いわゆるオタクグループっていうか。ぼっち回避のために一緒にいる、みたいな感じで。
本はよく読むけど、正直、アニメとか俺よく分かんないし」
口にしてみて、気づいた。
それは一年の頃からずっと、心の奥に溜め込んできた本音だった。
高校受験直前の模試は、思ったほど伸びなかった。
それでも公立合格だけは外せなくて、志望校を一段階下げた。
その結果、「本当はこんな学校、来たくなかった」と思いながら制服に腕を通し、
陽キャに目をつけられないよう、居心地の悪い集団に身を置くことになった。
部活も、やりたいことも見つからないまま帰宅部を選び、
理系科目が苦手だという理由だけで、流されるように文系を選択した。
要するに俺は――
中学時代、ハブられて独りになったあの感覚を、
高三になった今も引きずったまま生きている。
無難な会話ができる奴らの輪に混ざりながら、そこが自分の居場所だとは思えないまま、ただ一日一日をやり過ごしていた。
「なるほどね……」
少し考えるように間を置いてから、村上はぽつりと言った。
「やっぱ、もっと早く会ってればよかったな」
「……何で?」
「相談とか、乗れただろうし。話、聞いてやれたじゃん」
あまりにも自然にそう言われて、胸の奥がきゅっと縮む。
そういうところは、本当に中学の頃から変わっていない。
「学校の帰りさ、タダの水だけで二時間くらい粘って話したこと、あったよな」
クラスが同じになったことは、一度もなかった。
あの頃、教室にいる時間は正直しんどくて、息苦しかったけれど、選択授業の一時間だけは、なぜか心が軽かった。
村上はよく教科書を忘れてきて、そのたびに俺が隣でページを開いてやった。
ペアワークも、いつも向こうから声をかけてくれた。
連絡先を聞いてきたのも、最初は村上のほうだった。
そして――
俺が、友達からハブられていることにも、村上は気づいていた。
謝っても関係が元に戻らなかったこと。
どう振る舞えばいいのか分からなくなっていたこと。
村上は、そこに無理に踏み込まず、ただ隣にいて俺の気持ちを聴いてくれた。
放課後、村上の部活がない日だけ、地元のスーパーのイートインコーナーに座って。
気づけば六時を過ぎるまで話し込んでいたこともあった。
だからこそ、今こうして目の前に村上が座っているのが、少し不思議で。
それ以上に、懐かしかった。
「……まあ、もう高三だし」
俺はグラスの中の氷を見つめながら言った。
「推薦で大学に受かれたら、環境も変わるかなって思ってる」
「え、悠楽って指定校推薦狙い?」
「うん。そのために勉強は結構頑張ってきたし」
「評定、どんくらい?」
「四・八」
「マジかよ!」
村上は思わず吹き出すように笑い、ジンジャエールを一気に流し込んだ。
自分でも成績にはそれなりの自信があった。
放課後に誰かと遊ぶこともなく、帰れば机に向かうだけの毎日だったのだから、当然といえば当然だ。
「じゃあさ」
今度は俺の方から訊ねる。
「村上は? 志望校とか、もう決めてるの?」
「ああ、俺? ……いや、それがさ」
県内でも指折りの進学校に通っているのだから、当然、国公立を目指しているのだと思っていた。
けれど村上は視線を泳がせ、言葉を選ぶように歯切れの悪い沈黙をつくる。
首を傾げて待っていると、少しだけ身を乗り出し、真剣な顔で言った。
「笑わないで聞いてほしいんだけど」
「……うん」
「俺さ」
一瞬の間。
「将来、歌手になりたいんだよね」
その言葉は、ファミレスのざわめきの中で、不思議なほどはっきりと俺の耳に届いた。
村上の瞳は冗談を挟む余地のないほど真剣で、思わずこちらが身構えてしまう。
俺の人生の中で、「歌手になりたい」なんて言葉を口にしていたのは、小学生の頃の同級生くらいしか思い当たらない。
それがどれほど難しい世界かも、ぼんやりとは分かっている。
高校生が将来の夢として語るには、あまりにも現実味がなくて――だから俺は、どんな言葉を返せばいいのか分からず、黙り込んだ。
「……今、無理だって思っただろ?」
見透かしたような苦笑いを向けられて、胸がちくりと痛んだ。
傷つけてしまったかもしれない、と思う。
けれど村上はそれ以上何も言わず、俺の前で唇を引き結んだまま、鞄に手を伸ばした。
取り出したのは、黒いワイヤレスイヤホン。その二つを、そっとテーブル越しに差し出してくる。
「……え? 何?」
「いいから。付けてみて」
言われるがまま、左右を確かめて耳に差し込んだ瞬間、世界の音が一気に遠のいた。
ノイズキャンセリングが効いて、食器の音も、人の話し声も、すべてが消える。
代わりに流れてきたのは、アコースティックギターの音だった。
余計な装飾のない前奏。
弦が爪弾かれるたびに、乾いた音が鳴る。アンプ越しではなく、ギターの音ひとつで直接空気を震わせているような、生々しい響きだった。
やがて、低く落ち着いた男性の声が重なる。
洋楽だった。英語の発音は柔らかく、無理に張り上げることもない。ただ、一定の距離で、淡々と語るように続いていく。
感情を誇張しないのに、声そのものに温度があって、フレーズが進むたびに胸の奥が静かに揺れた。
「……村上、これって――」
思わず顔を上げると、向かいに座る村上は、俺の反応を確かめるように微笑んで、軽く首を傾げる。
“――俺。”
声は聞こえないはずなのに、口元の動きだけでそう言われたと分かった瞬間、全身を電流が走ったみたいに痺れた。
確かに。
言われてみれば、その歌声は、話しているときより少しだけトーンが低くて、でも間違いなく村上の声だった。
俺はそのまま言葉を失い、イヤホンから流れてくる歌に聞き入った。
最後、ギターが静かな余韻を残して消えると、再び沈黙が戻ってくる。
イヤホンを外した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に溢れた。
「……やばくない!? めちゃくちゃ上手いじゃん! ……ほら、見て。鳥肌立ってる」
勢いのまま手首を差し出すと、村上は少し照れたように笑い、イヤホンをケースにしまう。
「そんなデカいリアクション来ると思わなかったわ。感動した?」
「した! っていうか、もう一回聞きたい! データとかないの!?」
自分でも驚くくらい早口になっていた。
村上は「興奮しすぎ」と楽しそうに笑いながらスマホを取り出し、トーク画面を開く。
数秒後、さっきの曲の動画が送られてきた。
「……これは、レコード会社に送るためのデモテープ。
自分で撮ってみたんだけど、意外と、ちゃんと形になってさ」
照れ隠しみたいに言ってから、少し間を置いて続ける。
「でも、自分以外の人に聴かせたのは、悠楽が初めて」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を持った。
「……動画サイトに上げたりとか、しないの?」
音楽業界のことなんて、正直よく分からない。
それでも、俺から見れば、村上の歌はもう十分すぎるほどだった。
努力とか才能とか、そういう言葉の前に、「人の心に届いてしまう声」だと思ったし、純粋にもっと聴いていたくなる歌声だった。
村上は少しだけ視線を落とし、考えるように唇を噛む。
さっきまでの明るさとは違う、迷いを含んだ表情で口を開いた。
「この間、アカウントは開設してみた。でも、まだ全然」
そう言って、スマホの画面を見せてくれた。
YouTubeに、二つの動画が載せられていたけれど、反応はまだ少ないようだった。
一拍置いてから、静かに言う。
「あと、今度の休み、やってみようかなって思ってることがあって」
続きを促すように見つめると、村上は気まずそうに目を逸らした。
「……悠楽さえよければ、手伝ってほしいかも」
「な、何を?」
短く問い返した俺に、村上は小さく息を吸い込み、観念したように言った。
「路上ライブ」
その一言で、頭の中に光景が浮かんだ。
街角を行き交う人の流れ。ギターを抱えて立つ村上。
そして、その歌声が雑踏の中に放たれる瞬間。
世界がひっくり返るとか、そんな大げさなことではない。
ただ、村上が自分の夢に向かって一歩を踏み出すのを、見届けたい――そう思った。
それでも、これまでの自分の心が、いつもと違う場所に向かっている予感があった。
名前のつかない期待のようなものが、静かに芽を出しているみたいに。
年度の終わり特有の、どこか浮き足立った空気が街に漂っていた。
ロッカーに置きっぱなしにしていた分厚い国語便覧、電子辞書、上靴。それに体育館シューズとジャージまで無理やり詰め込んだせいで、ぱんぱんに膨らんだリュックと、それでも入りきらなかった荷物を入れたナイロンバッグの頼りない紐が、肩にずしりと重く食い込んでいた。バスは終点の駅に到着し、乗客たちは一斉に立ち上がる。俺もその流れに押されるように降り、地下鉄に乗り換えるため、改札へと向かって歩き出した。
その時だった。
――とん。
背後から、軽く肩を叩かれる。
一瞬、心臓が跳ねた。驚いて振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。
「悠楽、久しぶりじゃん! 元気してた?」
変わらない、よく通る大きな声。少し癖のある笑い方。
人懐っこさのある、垂れた目元と八重歯。
中学三年の頃、選択授業で隣の席になったことがある男――村上怜央だった。
卒業間近、些細な喧嘩がきっかけで友達グループからハブられた俺を、最後まで気に掛けてくれた、数少ない存在。
「む、村上……」
思わず言葉に詰まり、間の抜けた声で名前を呼んだ。
記憶の中では同じくらいだった身長は、いつの間にか大きく伸びていて、今では俺よりずっと高い。
「びっくりした。久しぶり」
ぎこちなくそう答えると、村上は俺の腕いっぱいの荷物に目をやり、くすっと笑った。
「なに、その大荷物。ヤバくね?」
「春休み前だから、ロッカー空にしなきゃいけなくて」
「なるほどね。てかさ、このあと暇?
せっかくだし、ちょっとどっか座って話そうぜ」
屈託のない笑顔は、あの頃とまるで変わっていなかった。
俺が陰なら、村上はどう考えても陽。圧倒的な陽キャだ。
「じゃー、こっち行く?適当に座れそうなとこあるし」
流れに任せるようにエスカレーターに乗り、商業ビルが立ち並ぶ駅前広場へ出る。人通りの少ない一角にあるベンチに、二人で並んで腰を下ろした。
中学時代の学ランではなく、それぞれ別の高校の制服を着て向かい合っていることに、違和感しかなかった。
「悠楽は、松高だったっけ?」
村上は俺の制服に目を向けて言った。
グレーのブレザーに白黒のギンガムチェック。県内でも有名な、少し変わったデザインの制服だ。
「うん。今は私立文系のクラス。村上は……泉高の、英語科だっけ?」
「えっ、俺の高校、覚えててくれてたん? すげーなお前」
嬉しそうな笑顔と共に目を丸くして言われて、少しだけ胸の奥が温かくなる。
最後にまともに話したのは、中学の卒業式だった。
卒業生代表として校歌斉唱の指揮を執る村上の姿を、後ろから眺めていたのを覚えている。
その後、校庭で写真撮影をしている最中、彼はわざわざ俺のところへ来て、こう言った。
『悠楽。俺、泉高の英語科受かった!
……高校離れても、たまには遊ぼうな』
けれど、その言葉通りに顔を合わせることはなかった。
高校に入ってから一度だけ送ったメッセージも、既読すらつかなかった。
言いづらかったが、俺は意を決して口を開く。
「……あのさ。実は、高校入ってから一回だけ……お前にメッセ送ったんだ。でも、既読つかなかったから……」
嫌われたというより、社交辞令だったのだと自分に言い聞かせていた。
家を知っているわけでもない。共通の友人もいない。だから、自然とそれきりになった。
しかし俺の言葉を聞いた瞬間、村上は信じられないものを見るように目を見開いた。
「えっ、マジで? ……うわ、ごめん! それ、無視したとかじゃないからな!」
慌てたように言葉を重ねる。
「高一の夏くらいに、スマホ壊れてさ。機種変したんだけど、パスワード忘れて引き継ぎできなくて……。
完全に音信不通だと思わせたよな? ほんとにごめん」
あまりに必死に謝られて、逆に俺の方が戸惑った。
「いや、怒ってるわけじゃないよ。ただ……」
少し言葉を探してから、正直な気持ちを口にする。
「俺、もっと村上と仲良くしたいって思ってたから。正直、ちょっと凹んだだけ」
苦笑いすると、村上は大げさなくらいに両手を合わせ、何度も頭を下げた。
「マジで申し訳ない……!ちょ、待って」
そう言ってから、紺色のブレザーのポケットからスマホを取り出し、俺に画面を向ける。そこには、見慣れたアプリのQRコードが表示されていた。
「これ、俺のアカウント。今すぐ追加して!」
その勢いに押されるまま、俺はメッセージアプリを開く。
そこには、家族と数人のクラスメイトしかいない、静かなトーク一覧。
カメラでQRコードを読み取り、「追加」をタップした。
「はー……今日会えて、マジで良かったわ。声かけて正解だった」
そう言って向けられた笑顔は、中学の頃と少しも変わらず、相変わらず眩しかった。
春先の柔らかな陽射しを、そのまま閉じ込めたみたいな笑顔だ。
俺はその光を正面から受け止めるのが少しだけ気恥ずかしくて、けれど視線を逸らすことはしなかった。ただ静かに、ひとつ頷く。
「俺さ、春休みは結構予定詰まってて、あんまり会えないんだけど。学校始まったら、放課後とか話さね?」
「ああ、うん……今日は荷物多いからバスだけど、普段はチャリ通だし。駅の近くなら、だいたいどこでも行けるよ」
「マジか。じゃあ今度、ファミレスとか行こうぜ。ゆっくり語りてーし」
軽い調子でそう言って、村上はベンチから立ち上がる。
「あとでスタ爆するわ」
「やめろし」
そのまま手を振られ、俺も少し遅れて、同じように一度だけ手を上げた。
村上が振り返ることはなかったけれど、不思議と寂しさはなかった。
後ろ姿が見えなくなって、その「あとで」はすぐにやって来た。
スタンプの連打が送られて来て、俺が時々「ウザすぎ」と返すと、「すみません」「テンション上がりすぎた」という、まともな返事が来て笑ってしまった。
思いがけない再会によって、過去と今がもう一度つながった。
その事実が、ただ素直に嬉しかった。
*
高校三年の始業式を終え、新しいクラスにもようやく馴染み始めた頃だった。
不意に、村上の方から急に連絡が来た。
『急でごめん! 今日って暇?』
相変わらず忙しない奴だな、と思いながら、俺は「空いてる」とだけ短く返信した。
あの後も短いやりとりは続いていたけれど、日が空くことも多くて、そんな頻繁ではなかった。実際に会うのは、二週間ぶりに近かった。
放課後、互いの高校のちょうど中間あたりにあるファミレスで待ち合わせをした。
先に着いたのは俺の方で、イヤホンで音楽を聞きながらスマホを片手に外で時間を潰していると、数十分後、村上が自転車を滑り込ませるようにして現れた。
「待たせてごめん! 生徒会の引き継ぎで捕まっててさ! もう腹ペコ、早く入ろ!」
息を切らしながらも、声は底抜けに明るい。
生徒会とかやってんだ、とちらりと村上を見て、そういえば中学の時も吹奏楽部で部長だったのを思い出した。
窓際のボックス席に向かい合って腰を下ろすと、村上はブレザーを脱ぎ、慣れた手つきで黒いネクタイを緩めた。
俺も同じようにブレザーを鞄の横に置き、二人でタブレットのメニューを覗き込む。
「俺、ドリンクバーつけて、ハンバーグセットにしようかな。スープとサラダも欲しい」
「あー、じゃあ俺もつける。リゾットにするわ」
互いに注文を決めて確定ボタンをタップする。
「先に飲み物取ってきたら?」と声をかけると、村上は「おう」と短く返して席を立った。
その背中を眺めながら、改めて思う。
背が伸びたのはもちろんだけど、全体的に垢抜けた印象があった。髪型もお洒落だし、中学の頃より、ずっと“大人”に近づいている。
「ほい、悠楽の分。コーラでよかった?」
「うん、サンキュー」
ストローの袋を破る俺を見ながら、村上は自分のジンジャエールを一口飲んで、何気ない調子で言った。
「新しいクラス、どう?」
「……別に。私文は二クラスしかないし、顔ぶれもほとんど変わってないから、どうもこうも無いって感じ」
そう答えると、村上は片手で頬杖をつき、じっと俺の顔を覗き込んできた。
「……なあ。この前会った時も思ったんだけどさ」
少しだけ声を落とし、
「悠楽、めちゃくちゃつまんなさそうな顔してる」
「え?」
「なんていうかさ。この世の何もかも、別にどうでもいい〜って顔。自覚ない?」
冗談めいた口調だったが、その言葉は思いがけず核心を突いてきた。
胸の奥を不意に触れられたように、心臓が一拍遅れて跳ねる。そんなふうに見抜かれているとは思ってもいなかったし、それを村上に指摘されるなんて、まったくの予想外だった。
「……まあ、つまんないのは事実だわ」
少し間を置いて、俺は続けた。
「高校入った頃から、自分の居場所じゃない感じがずっとある。
一応、仲良くしてる奴らはいるけど……いわゆるオタクグループっていうか。ぼっち回避のために一緒にいる、みたいな感じで。
本はよく読むけど、正直、アニメとか俺よく分かんないし」
口にしてみて、気づいた。
それは一年の頃からずっと、心の奥に溜め込んできた本音だった。
高校受験直前の模試は、思ったほど伸びなかった。
それでも公立合格だけは外せなくて、志望校を一段階下げた。
その結果、「本当はこんな学校、来たくなかった」と思いながら制服に腕を通し、
陽キャに目をつけられないよう、居心地の悪い集団に身を置くことになった。
部活も、やりたいことも見つからないまま帰宅部を選び、
理系科目が苦手だという理由だけで、流されるように文系を選択した。
要するに俺は――
中学時代、ハブられて独りになったあの感覚を、
高三になった今も引きずったまま生きている。
無難な会話ができる奴らの輪に混ざりながら、そこが自分の居場所だとは思えないまま、ただ一日一日をやり過ごしていた。
「なるほどね……」
少し考えるように間を置いてから、村上はぽつりと言った。
「やっぱ、もっと早く会ってればよかったな」
「……何で?」
「相談とか、乗れただろうし。話、聞いてやれたじゃん」
あまりにも自然にそう言われて、胸の奥がきゅっと縮む。
そういうところは、本当に中学の頃から変わっていない。
「学校の帰りさ、タダの水だけで二時間くらい粘って話したこと、あったよな」
クラスが同じになったことは、一度もなかった。
あの頃、教室にいる時間は正直しんどくて、息苦しかったけれど、選択授業の一時間だけは、なぜか心が軽かった。
村上はよく教科書を忘れてきて、そのたびに俺が隣でページを開いてやった。
ペアワークも、いつも向こうから声をかけてくれた。
連絡先を聞いてきたのも、最初は村上のほうだった。
そして――
俺が、友達からハブられていることにも、村上は気づいていた。
謝っても関係が元に戻らなかったこと。
どう振る舞えばいいのか分からなくなっていたこと。
村上は、そこに無理に踏み込まず、ただ隣にいて俺の気持ちを聴いてくれた。
放課後、村上の部活がない日だけ、地元のスーパーのイートインコーナーに座って。
気づけば六時を過ぎるまで話し込んでいたこともあった。
だからこそ、今こうして目の前に村上が座っているのが、少し不思議で。
それ以上に、懐かしかった。
「……まあ、もう高三だし」
俺はグラスの中の氷を見つめながら言った。
「推薦で大学に受かれたら、環境も変わるかなって思ってる」
「え、悠楽って指定校推薦狙い?」
「うん。そのために勉強は結構頑張ってきたし」
「評定、どんくらい?」
「四・八」
「マジかよ!」
村上は思わず吹き出すように笑い、ジンジャエールを一気に流し込んだ。
自分でも成績にはそれなりの自信があった。
放課後に誰かと遊ぶこともなく、帰れば机に向かうだけの毎日だったのだから、当然といえば当然だ。
「じゃあさ」
今度は俺の方から訊ねる。
「村上は? 志望校とか、もう決めてるの?」
「ああ、俺? ……いや、それがさ」
県内でも指折りの進学校に通っているのだから、当然、国公立を目指しているのだと思っていた。
けれど村上は視線を泳がせ、言葉を選ぶように歯切れの悪い沈黙をつくる。
首を傾げて待っていると、少しだけ身を乗り出し、真剣な顔で言った。
「笑わないで聞いてほしいんだけど」
「……うん」
「俺さ」
一瞬の間。
「将来、歌手になりたいんだよね」
その言葉は、ファミレスのざわめきの中で、不思議なほどはっきりと俺の耳に届いた。
村上の瞳は冗談を挟む余地のないほど真剣で、思わずこちらが身構えてしまう。
俺の人生の中で、「歌手になりたい」なんて言葉を口にしていたのは、小学生の頃の同級生くらいしか思い当たらない。
それがどれほど難しい世界かも、ぼんやりとは分かっている。
高校生が将来の夢として語るには、あまりにも現実味がなくて――だから俺は、どんな言葉を返せばいいのか分からず、黙り込んだ。
「……今、無理だって思っただろ?」
見透かしたような苦笑いを向けられて、胸がちくりと痛んだ。
傷つけてしまったかもしれない、と思う。
けれど村上はそれ以上何も言わず、俺の前で唇を引き結んだまま、鞄に手を伸ばした。
取り出したのは、黒いワイヤレスイヤホン。その二つを、そっとテーブル越しに差し出してくる。
「……え? 何?」
「いいから。付けてみて」
言われるがまま、左右を確かめて耳に差し込んだ瞬間、世界の音が一気に遠のいた。
ノイズキャンセリングが効いて、食器の音も、人の話し声も、すべてが消える。
代わりに流れてきたのは、アコースティックギターの音だった。
余計な装飾のない前奏。
弦が爪弾かれるたびに、乾いた音が鳴る。アンプ越しではなく、ギターの音ひとつで直接空気を震わせているような、生々しい響きだった。
やがて、低く落ち着いた男性の声が重なる。
洋楽だった。英語の発音は柔らかく、無理に張り上げることもない。ただ、一定の距離で、淡々と語るように続いていく。
感情を誇張しないのに、声そのものに温度があって、フレーズが進むたびに胸の奥が静かに揺れた。
「……村上、これって――」
思わず顔を上げると、向かいに座る村上は、俺の反応を確かめるように微笑んで、軽く首を傾げる。
“――俺。”
声は聞こえないはずなのに、口元の動きだけでそう言われたと分かった瞬間、全身を電流が走ったみたいに痺れた。
確かに。
言われてみれば、その歌声は、話しているときより少しだけトーンが低くて、でも間違いなく村上の声だった。
俺はそのまま言葉を失い、イヤホンから流れてくる歌に聞き入った。
最後、ギターが静かな余韻を残して消えると、再び沈黙が戻ってくる。
イヤホンを外した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に溢れた。
「……やばくない!? めちゃくちゃ上手いじゃん! ……ほら、見て。鳥肌立ってる」
勢いのまま手首を差し出すと、村上は少し照れたように笑い、イヤホンをケースにしまう。
「そんなデカいリアクション来ると思わなかったわ。感動した?」
「した! っていうか、もう一回聞きたい! データとかないの!?」
自分でも驚くくらい早口になっていた。
村上は「興奮しすぎ」と楽しそうに笑いながらスマホを取り出し、トーク画面を開く。
数秒後、さっきの曲の動画が送られてきた。
「……これは、レコード会社に送るためのデモテープ。
自分で撮ってみたんだけど、意外と、ちゃんと形になってさ」
照れ隠しみたいに言ってから、少し間を置いて続ける。
「でも、自分以外の人に聴かせたのは、悠楽が初めて」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を持った。
「……動画サイトに上げたりとか、しないの?」
音楽業界のことなんて、正直よく分からない。
それでも、俺から見れば、村上の歌はもう十分すぎるほどだった。
努力とか才能とか、そういう言葉の前に、「人の心に届いてしまう声」だと思ったし、純粋にもっと聴いていたくなる歌声だった。
村上は少しだけ視線を落とし、考えるように唇を噛む。
さっきまでの明るさとは違う、迷いを含んだ表情で口を開いた。
「この間、アカウントは開設してみた。でも、まだ全然」
そう言って、スマホの画面を見せてくれた。
YouTubeに、二つの動画が載せられていたけれど、反応はまだ少ないようだった。
一拍置いてから、静かに言う。
「あと、今度の休み、やってみようかなって思ってることがあって」
続きを促すように見つめると、村上は気まずそうに目を逸らした。
「……悠楽さえよければ、手伝ってほしいかも」
「な、何を?」
短く問い返した俺に、村上は小さく息を吸い込み、観念したように言った。
「路上ライブ」
その一言で、頭の中に光景が浮かんだ。
街角を行き交う人の流れ。ギターを抱えて立つ村上。
そして、その歌声が雑踏の中に放たれる瞬間。
世界がひっくり返るとか、そんな大げさなことではない。
ただ、村上が自分の夢に向かって一歩を踏み出すのを、見届けたい――そう思った。
それでも、これまでの自分の心が、いつもと違う場所に向かっている予感があった。
名前のつかない期待のようなものが、静かに芽を出しているみたいに。



