俺と水城先輩の境界線


 それはもうすぐ夏休みが終わりを迎える、そんな日の夕方だった。
 夏休みが終わると言っても、今年も残暑が厳しそうだ。蝉は「ミーンミーン」と大合唱をしているし、いつまでたっても涼しくはならない。

「暑ぃ! マジで溶けそう」

 そう泣き言を言うと、隣で有馬は笑っている。
 部活ばかりでこれといって夏休みっぽいことなんてなかったけれど、なんやかんやで、水城先輩と過ごす時間は多かった。
 それに水城先輩のおかげで、夏休みの宿題を全て終わらせることができたのだ。
 本当はプールや、近所のお祭りには行ってみたかったけれど……。水城先輩は受験生なのだから仕方がない。
 有馬は糸瀬先輩と遊園地に遊びに行ってきた、と教えてくれた。別にそれを自慢しようだなんて、有馬は微塵も思っていなかっただろう。
 でも俺からしてみたら、喉から手が出るほど羨ましかった。

(俺だって、水城先輩と遊びに行きたかったな)

 俺が下唇を尖らせて拗ねているのに、水城先輩はそんな俺になんて全く気付いていない。
 それに、こんなにも仲良くなってきたというのに、部屋には境界線が貼られたままだ。
 でも、今更そんなことを嘆いても仕方がない。
 本当に、水城先輩のディフェンス力は半端ない。

 今日これから、『インターハイ出場の祝賀会』と、『三年生を送る会』が行われることになっている。『祝賀会』、なんて言っても、体育館にお菓子やジュースを持ち寄ってワイワイと騒ぐだけのイベントだ。
 それでも、宅配のピザが届いたり、近所のちょっとリッチなレストランからお弁当が届くらしい。俺はそれが楽しみで仕方がなかった。
 俺と有馬は、近くのスーパーからジュースを運ぶ当番だ。
 五十人近い人数の飲み物を確保するのは骨が折れる。先ほどから二人で汗だくになりながら、段ボールに詰められたペットボトルを運んでいる。
 少しでも休憩しようものならば「こら、そこ! 手が止まってる!」と国分先輩に叱られてしまう。でも久しぶりに会った彼はとても元気そうだ。
 国分先輩だけじゃなくて、引退していった三年生全員が元気そうだったことが、俺は嬉しかった。

「いいな、こういう雰囲気」

 俺はワクワクしてきてしまう。それはまるで、お祭りの縁日を目の前にした時のような高揚感だ。
 つい先ほど、体育館の隅で穏やかな笑顔の水城先輩を見つけた瞬間。胸の中に懐かしい風が吹き抜けた。
 引退した水城先輩の姿が、こんなに輝いて見えるなんて。少し前の記憶が、優しく蘇ってきた。

「ふふっ」

 堪えていても、つい顔が緩んできてしまう。そんな俺を見て、有馬が悪戯っ子のように笑った。

「星野君、水城先輩が部活に来てるの嬉しい?」
「え?」
「だって、さっきから水城先輩の方を見てニヤニヤしてるから……。嬉しいのかなぁって」
「そ、そんなわけないじゃん!? ただ昨日呼んだ漫画を見て思い出して笑ってただけだよ!」
「あははは! そっか。俺の気のせいだったね? ごめん。じゃあもうすぐ学校に着くから、頑張ろう!」
「うん」

 俺の頬はどんどん熱くなっていく。
 力も抜けてしまい、持っていた段ボール箱を落としそうになってしまった。

(有馬はおっとりしてるけど、案外、観察力が凄いんだ……)

 俺はこれ以上ニヤニヤしてしまわないよう「よし!」と心の中で気合を入れる。
 それでも、水城先輩を見た瞬間、頬が少しずつ上がっていくのを感じた。


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 夕方になると、祝賀会と三送会が始まる。体育館には段ボールいっぱいのお菓子にジュース。それに宅配のピザに、届けられたばかりのお弁当。
「いい匂い~!」
 俺が鼻を犬のようにクンクンさせると、有馬が隣で笑っている。
 盛大な祝賀会と三送会の始まりだ。
 その会は、まず部長だった水城先輩と、副部長だった糸瀬先輩の挨拶から始まる。

「これからも、このバスケ部を更に盛り上げるために頑張ってください」

 水城先輩の言葉に、俺の目頭が熱くなる。
 何度「ありがとうございました」「お疲れ様でした」と言ったところで、この思いはきっと水城先輩へは伝えきれないだろう。
 糸瀬先輩に至っては「みんな頑張れ」と言うと同時に、泣き出してしまった。
 その涙はきっと三年間の努力の結晶なのだろう。それを見た有馬も、声を出さずに泣いていた。

(きっとこの二人は、俺たちが知っている以上に熱い絆で結ばれているんだろうな)

 俺は静かに泣き続ける有馬を見て思う。
 でも、俺と水城先輩だって――。きっと、出会った頃よりも固い絆で結ばれているはずだ。
 それに、俺はいつの間にか、水城先輩に恋をしていた……。
 本当に予想外のことだったけれど、今になればこの想いは揺るぎないものになっている。まるでキラキラと輝く宝石のように。

「じゃあ、乾杯!」

 新部長である田之上先輩の掛け声と共に、祝賀会と三送会が始まった。
 もうすぐ夏休みが終わる。日が暮れ始めて、風も少しだけ冷たくなってきた外からは鈴虫の優しい鳴き声が聞こえてくる。
 俺と水城先輩の夏は、終わりを迎えた。
 でも、二軍へと昇格を果たした俺の心は熱く燃えている。

(俺は、水城先輩が果たせなかった全国制覇を果たしてみせる!)

 その思いは、楽しそうに笑いながらお菓子を摘まんでいる水城先輩を見ているうちに、確固たるものに変わっていった。


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「なんなんだよ、あれは……」

 祝賀会と三送会が始まって一時間が経過した頃、俺の心は楽しむどころか、どんどん重くなっていく。
それはまるで心の中に、大きな岩があるようだ。
 その原因はあれだ――。

「なぁ、楓。今度一緒に映画に行こうぜ?」
「はぁ? ヤダよ。俺は受験勉強で忙しいんだよ」
「いいじゃん、一日くらい。一泊で旅行もいいなぁ」
「嫌だって言ってんだろ!? それより、ベタベタ触ってくんな!」

 祝賀会と三送会が始まってから、国分先輩が水城先輩の隣に居座っているのだ。
 水城先輩に抱き着いてみたり、甘えた声を出したり……。
 それを見ているとイライラしてきてしまい、頭の血管が切れそうになってしまう。
 元々「水城先輩と国分先輩は付き合っている」という噂を聞いていたし、俺はそれらしき現場も目撃している。
 そのせいで、心の中はずっとザワザワしているのだ。

「国分と水城、やっぱり付き合ってんの? 超お似合いじゃん?」
「え? もうエッチしたの?」
「超聞きたい! 教えてよ! 男同士って気持ちいいらしいじゃん!?」

 そんな俺の気持ちなどつゆ知らず、周りの生徒たちが二人を冷かしている。
 水城先輩は明らかに嫌そうな顔をしているのに、国分先輩は「え~、楓。俺たち付き合っちゃう?」と上機嫌だ。
 彼はかなり積極的なタイプなのだろう。

(今、俺たちが飲んでいるのはジュースだよな?)

 俺は紙コップに入っている水分を一気に口に流し込むと、シュワシュワッと喉に痛みが走る。間違いない。これはコーラだ。
 そんなのは当たり前だ。俺たち高校生がアルコールを飲んでいいはずがない。
 それにもかかわらず、水城先輩と国分先輩の周りにいる三年生たちの盛り上がりはなんなのだろう? これじゃあまるで、大学生の飲み会みたいなテンションだ。
 俺たち一年生は、三年生から少し離れた場所にいる。でも、運の悪いことに俺のいる場所から水城先輩はよく見えるのだ。
 最初は「水城先輩が見える、ラッキー!」なんて思っていたけれど、今となっては不快でしかない。吐き気まで催してきそうだ。

「なぁ、楓。うちら付き合っちゃおうよぉ?」
「だから、嫌だって。しつけぇんだよ」
「いいじゃん。照れてんの? 可愛い~!」

 国分先輩が嬉しそうに水城先輩の腕に絡みつく。
 それと同時に、二人を冷かす声援が体育館中に響き渡った。

(楓……。水城先輩を名前で呼ぶなよな)

 俺が持っていた紙コップをグシャッと握りつぶすと、隣にいた有馬が「急にどうしたの?」と俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
 でも、いくら仲のいい有馬にも「国分先輩にヤキモチを妬いたんだ」なんて言えるはずがない。
 男が男を好きになるなんておかしい。
 もしかしたら、俺のこの想いは間違っているのかもしれない――。そう思うと、急に胸が痛いくらいに締めつけられた。
 それでも、国分先輩みたいに素直に好意を示すことができたら、この罪悪感は消えるのかもしれない。

「ごめん、有馬、ちょっと体調が悪いから外に行ってくる」
「え? 大丈夫? ついて行こうか?」
「大丈夫だよ。ちょっと風に当たったら戻ってくるから」
「わかった。気を付けてね」
「うん。ありがとう」

 俺のことを気遣ってくれる有馬にお礼を言ってから、体育館を出て中庭に向かう。
 体育館を出た瞬間、涼しい夜風が俺の頬をそっと撫でていく。体育館の中は、凄い熱気だったから、冷たい風が気持ちよかった。
 まるで、水城先輩の手に撫でられてるみたいだ……。
 俺は中庭の隅でうずくまる。本当は体調が悪いわけじゃない。あの場にいることが、辛かったんだ。
 中庭まで聞こえてくる、水城先輩と国分先輩を冷かす楽しそうな声。
 あの騒ぎの渦中にいることが耐えられずに、こんなところで、ひとりで膝を抱えた。

『楓』

 国分先輩は水城先輩のことを名前で呼んでいた。
 俺はいつまでたっても「水城先輩」としか呼ぶことができない。その違いが、俺と国分先輩の差に感じられて、寂しくなってしまった。
 国分先輩は、俺より水城先輩と一緒にいる時間も長いし、同級生だからか距離も近い。

「やっぱり、あの二人は付き合ってるのかなぁ」

 ポツリと呟いてから、空を見上げる。いつの間にか日は沈み、空には硝子細工のように綺麗な星が瞬いている。
 思えば、俺が入寮してから水城先輩があの部屋に連れ込んだのは、国分先輩だけだ。
 国分先輩は、やっぱり水城先輩にとって特別な存在なのだろう。
 彼は少しだけ気が強いけれど、とても可愛い人だ。美男同士でお似合いなのかもしれない。
 少なくとも、俺よりとは釣り合っているだろう。

「あー、好きだったのになぁ」

 こんなところで呟いたところで、水城先輩に届くはずなんてない。
 でも、俺には国分先輩のように「付き合っちゃおうか?」なんて、軽く言える度胸なんて持ち合わせていない。
 水城先輩に想いを伝えて、フラれることが怖かった。
 夜空に散らばる星々が、今は冷たく瞬いているように感じる。さっきまで楽しそうにしていた、水城先輩と国分先輩の姿が、まだ網膜に焼き付いて離れない。胸の奥がじんわりと疼く。

(俺はこんなにも水城先輩が好きだったんだ)

 そう思った瞬間、星の一つが、まるで俺の涙のように流れ落ちた。


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「おい、こら」
「ん?」
「お前は、俺に探してほしくてわざとこういうことするわけ?」
「み、水城先輩!?」

 ハッとした俺が顔を上げると、そこには明らかに不機嫌そうな水城先輩が……。
 その鬼のような形相に俺の全身から、一瞬で血の気が引いていった。

「お前が不機嫌そうにチラチラと俺の方を見てたから、気にしてはいたんだけど。急にいなくなったから探しにきた」
「す、すみません」
「何? どっか調子が悪いの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
「有馬が、千尋が『調子が悪い』って言ってたって、教えてくれたから」
「もう、大丈夫です」
「ふーん……」

 水城先輩が「ふーん」という時は、機嫌が悪い時――。
 それを知っていた俺は、居たたまれなくなって水城先輩から視線を逸らした。

「じゃあ、なんでこんな所にいるんだよ? お前は、俺に探しに来てほしいわけ? カマちょかよ」
「そ、そんなんじゃなくて……」
「じゃあ、何?」

 水城先輩の切れ長の瞳で睨み付けられてしまうと、言葉が出なくなってしまう。
 怖くて、体が小さく震えた。

「そんなに怖がるなよ。ビビらせたいわけじゃないんだから」
「水城先輩……」
「いいから話して? また、くだらないことで悩んでるんだろう?」
「ひどい……」
「いいから言えって」

 水城先輩が俺の隣にしゃがみ込んで、俺の様子を窺うように覗き込んでくる。
 先ほどまでとは違った柔らかな表情に、俺の力が全身から抜けていく。思わず、地面に座り込んでしまった。

(やっぱり、イケメンのドアップは慣れない)

 俺が呆然としていると、水城先輩がそっと髪を撫でてくれる。
 いつものように冷たいその手が、俺は大好きだった。

「話してみ?」
「……はい」

 優しい声で促された俺は、重たい口を開く。「そんなこと気にしてんの!? キモイ!」って言われたらどうしよう。そう考えだすと急に怖くなってしまった。
 それに「別に俺が誰と付き合っててもよくね?」と言われたら、そこで終わりだ。
 だって俺は、水城先輩の恋人ではない。
 「あの人と仲良くしないでください!」などと言える立場ではないんだ。
 でも――。
 俺は言葉を紡ぎ始める。そんな俺の言葉を、水城先輩は茶化すことなんてなく聞いてくれた。

「水城先輩と国分先輩が仲良くしていることが、面白くなかったんです」
「は? 俺と国分が仲良くしてた? いつ、どこでだよ?」
「いつって。今ですよ、今! ずっと体育館で、仲良さそうにくっついてたじゃないですか?」
「はぁ? 別に俺は国分と仲良くなんかしてねぇし」
「そ、そんなことないですよ! だって周りの先輩たちも、二人が付き合ってるって言ってたし……」
「それは、あいつらが勝手にそう騒いでただけだろう?」
「それだけじゃありません! 俺たちの部屋に、国分先輩がいたことだってあったじゃないですか?」
「なるほどね……。だからヘソを曲げて、体育館から抜け出したのか?」
「そうです。だって、水城先輩と国分先輩、距離が近すぎます。見ていてイライラしました」
「へぇ……」

 俺の話を聞いた水城先輩が、まるで悪戯っ子のようにニヤリと口の端を釣り上げた。

「また千尋はヤキモチ妬いてたんだ?」
「そ、そんなこと……」
「だって、俺と国分が仲良くしてるのを見ると、面白くないんだろう?」
「そりゃあ、まぁ……」
「それをヤキモチって言うんだよ」
(いた)ッ!」

 水城先輩が、突然俺の額にデコピンをしてくる。
 額がジンジンしてきて、両手でそこを覆った。

「千尋は案外ヤキモチ妬きなんだな?」
「別に、ヤキモチなんか……、妬いてないですし……」
「でも、俺は嬉しいよ。千尋がヤキモチ妬いてくれるのは」
「え?」
「だって、なんか可愛いじゃん」

 水城先輩は照れくさそうに笑いながら、もう一度俺の頭を撫でてくれる。
 その撫で方がまるで犬を撫でるかのような手付きで……。「やめてください!」と、その手を払いのけようとしたが、俺は黙ってその手を下ろした。
 だって、悔しいけれど水城先輩に触ってもらうことが、俺は好きだから。

「それから、俺と国分は付き合ってない。まぁ、そういうことをする関係ではあったけど……」
「そういうこと……?」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中でどす黒い何かがうごめき始めるのを感じる。
 それは憎悪に近い感情。
 醜い、嫉妬心だ……。

「それに、俺たちの部屋に国分がいたのは、俺が連れ込んだんじゃなくて、あいつが勝手に乗り込んできたんだからな」
「え? そうなんですか?」
「そうだよ。言っておくけど、お前があの部屋に来てからは、誰もあの部屋に連れ込んだことなんかねぇし」
「本当ですか……? まさか、そんなことを言って、俺がいない時に連れ込んでたんじゃ……」
「はぁ!?」

 水城先輩の言葉が信じられずに、俺が横目で睨み付けると、水城先輩が素っ頓狂な声をあげる。
 それから、まるで「なんて失礼な奴だ」と言いたそうに、俺に冷たい視線を向けてきた。

「連れ込んでねぇよ。だって俺と誰かがヤッてるところを目撃したら、お前、倒れちまいそうじゃん?」
「なんでそんな言い方をするんですか! 倒れることなんてありませんよ!?」
「だって、お前純粋そうだから、そういう知識全然ないだろう? だから、ショックを受けて失神しちまいそうだもん」
「ひ、ひどい! 俺だって、そういう動画くらい見たことあります!」
「へぇ……。じゃあ、お前キスとか、エロイことしたことあんの?」
「それは……ないですけど……」
「あははは! だから俺だって気を使ってたんだよ」

 そう言いながら水城先輩はケラケラと声を出して笑っている。
 悔しいけれど何も言い返せない俺は、唇を尖らせて俯いた。

「それに……」
「はぁ? まだあんの?」
「あります! 国分先輩は、水城先輩のことを『楓』って名前で呼んでました。俺は名前で呼んでるのに……。ズルいじゃないですか!?」

 水城先輩が俺の顔をじっと見ながら「うーん」と顎に手を当てて少し考え込んだ。
 悪戯っぽい光が瞳の奥で揺らめき、ふと何かを思いついたように目が輝いた。

「じゃあさぁ……」

 そう小さく呟くと、唇の端が意地悪く、でも愛おしそうに弧を描く。
 その瞬間、俺は「もう逃げられない」という予感に胸がざわつく。
 緊張のあまり、その場から立ち去りたい衝動に駆られた。

「千尋も、俺のことを楓って呼べばいいじゃん?」
「え?」
「千尋になら、楓って呼ばれてもいいし」
「でも……」
「でも、じゃない。ほら、言ってみ?」

 水城先輩の冷たい指先が俺の頬をなぞって、そっと唇に触れてくる。
 その感触に、俺の体がピクンと跳ね上がった。

「ほら、千尋」

 水城先輩が「言ってごらん」と言わんばかりに、俺の唇をゆっくりとなぞる。
 その卑猥な手付きに、体が熱を帯びていくのを感じた。

「千尋……」

 何も言えない俺を促すように、水城先輩がもう一度俺の名を呼ぶ。

(あぁ、もう逃げられない)

 余計なことを言ってしまった、と後悔しながら、俺は心の中で白旗を振る。

「か、かえで、せんぱい……」
「なに? そんな小さな声じゃ聞こえない。もっと大きな声で言えって」

 俺の顔を覗き込む水城先輩は、悪戯を思い付いた子どものようにキラキラと輝いている。

(この人、また俺をからかって楽しんでる……)

 それが悔しくて、ギュッと唇を噛み締める。
 名前を呼ぶだけで、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。
 俺の鼓動がどんどん速くなっていく。無意識にジャージの裾をギュッと掴んだ。

「聞きたい、千尋の声で」
「…………!?」
「俺の名前を呼んでほしい。楓って……」

 水城先輩の指がそっと俺の顎に触れ、ゆっくりと顔を持ち上げられた。
 その瞬間、視線が絡み合い、心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。呼吸が苦しくなり、ただ水城先輩の瞳に吸い込まれそうなドキドキが全身を駆け巡った。

「楓先輩……」
「うん。いい子だ」

 目の前で、楓先輩が満足そうに微笑む。
 その時、まるで一国の王に自分の手柄を誉められたかのような――。そんな満足感に包まれた。

「あの日、国分があの部屋にいたのは、あいつが『付き合ってほしい』って乗り込んできたんだ。もうなんども断ってるのに、国分は本当に懲りなくて……。だから、俺があいつを部屋に連れ込んだわけじゃない」

 楓先輩は困ったように肩をすくめて見せる。

「それで、か、楓先輩は国分先輩に『付き合ってほしい』って告白されて、なんて答えたんですか?」
「『今、気になってる子がいるから付き合えない』って断ったよ」
「……気になってる子……」
「そう、気になってる子。誰だと思う?」
「そ、そんなことを言われてもわからないですよ!」
「ふふっ。でも、千尋もよく知ってる子だよ」
「俺が、知ってる子……?」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが砕け散る音がした。
 好きな楓先輩の唇から零れた「気になる子がいる」という告白は、甘く、苦い棘のように俺の心に刺さり、息苦しい疼きを残す。
 でも、なぜかその痛みの中に、抑えきれない想いが、熱く渦巻いていた。
 心の中がグチャグチャで、苦しい。

「なぁ、千尋ってもしかして俺のことが好きか?」
「は? え? あ、あの……」
「俺のこと好きっかって聞いてんの? 友情とか、尊敬とかじゃなくて、恋愛の意味で」

 突然の問いかけに俺が言葉を発せずにいると、楓先輩が俺の顔を覗き込んできた。

「なぁ、聞いてんだけど?」
(駄目だ、心臓が爆発しちゃう……!)

 一気に頬が熱くなり、全身の血液が沸騰していく感覚に襲われる。息が上手に吸えなくて呼吸が段々浅くなる。ヤバイ、過呼吸になりそうだ……。
 こんなにも心臓がドキドキして、荒い呼吸をしていたら、楓先輩に聞こえてしまうのではないか……と怖くなってしまいギュッと体に力を込めた。

「千尋、それは駄目だ。ファールだよ」
「……え?」
「そんなに緊張すんなよ。俺にまで千尋の緊張が伝染してくる。それに……」
「な、なんですか……?」

 突然俯いてしまった楓先輩を見た俺は、不安になってしまう。
 でも、そんな気まずい沈黙を破ったのは楓先輩だった。

「千尋を意識しちゃって、なんかエロい気持ちになる」
「エ、エロい……」
「千尋と、エロいことがしたくなるって言ってんだよ。わかれよ、鈍感が……」

 口元を抑えながら話す楓先輩の顔も林檎みたいに真っ赤だった。
 そんな楓先輩を見てしまえば、心臓も脳も心も……全部が爆発しそうになってしまう。

(俺は、一体どうしたらいいんだろう……)

 恋愛経験なんてほとんどない俺は、試行錯誤を繰り返す。
 あの時読んだ漫画ではどうしてた?
 あの時見た映画では……!?
 色々な知識の引き出しを引っ張り出してみたけれど、残念ながら役に立ちそうな知識は持ち合わせてはいなかった。
 そんな俺に、更なる試練が訪れた。

「なぁ、キス、していいか?」
「はい?」
「俺、千尋とキスしたい」
「…………」

 この言葉で、俺の思考回路は完全にフリーズしてしまう。
 固まってしまったのは頭だけじゃなくて、まるで金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。

「キスしていい?」

 まるで確認するかのような問いかけに、俺の心臓がバスケットボールを強く床に叩きつけた時のように跳ね上がる。

(キスってどんな感じなんだろう)

 俺の中で湧き上がる好奇心。それと同時に、恐怖も感じてしまう。

(でも、楓先輩とキスしてみたいな……)

 楓先輩の問いかけに、俺の心臓は体の中から抜け出してしまうのではないか、というほど激しく脈打った。

(……楓先輩と、キス、したい)

 返事をする代わりに、俺は楓先輩に全てを預けるように、ギュッと瞼の奥に力を込めて目を閉じた。
 情けないことに、体が小さく震え出す。
 視界は一瞬で暗闇に閉ざされたけど、聴覚と触覚だけが研ぎ澄まされる。

「千尋、可愛い」

 耳元で囁かれる楓先輩の声。
 近付く息遣いの熱。
 そして、耳元で響く自分の心臓の、警鐘のような激しい音。
 指先に汗が滲み、全身の毛穴が開くような緊張が、最高潮に達した。
 俺は、唇に触れるはずの熱を待つ。
 ほんの数秒の永遠――。

「ん?」

 だけど、楓先輩が柔らかく触れたのは唇ではなく、熱を帯びて汗ばんだ額だった。

「か、楓先輩、な、なんで……?」
「ふふっ。千尋の汗、超しょっぺぇ」

 楓先輩が笑った瞬間、顔の熱さが全身に広がった。
 これは俺への意地悪なのか?
 それとも、怯える俺への優しさなのか――?
 俺が呆然と先輩を見つめると、頬を赤らめた楓先輩が照れくさそうに笑う。

「ごめん。これで本当にキスしちゃったら、もっと千尋のことが欲しくなっちゃうから」
「楓先輩、それって……」

 それってどういうことですか?と聞きたくて口を開いた瞬間。

「水城! 何してんだよ! 早く戻って来いよー!」

 体育館の方から、楓先輩を呼ぶ声が聞こえてくる。

(みんなに見られちゃう)

 そう思った俺は、とっさに楓先輩から体を離した。

「ごめん! すぐ戻る!」

 楓先輩は体育館に向かって声をかけてから「そろそろ戻るか」と小さく呟きながら立ち上がる。
 それから、俺の腕を掴んで立たせてくれた。

「なんか、ごめん」
「へ? 何がですか?」
「キスしたいなんて言って。お前を困らせた」
「そ、そんな別に……」
「それから、国分にはもう一度ちゃんと『お前とは付き合えない』って言っておくから」
「お前、『とは』? じゃあ、誰となら付き合えるんですか?」
「それは……。秘密だよ」
「えー! 楓先輩は本当に意地が悪いですよね!」

 少しの沈黙の後、二人で顔を見あわせて「プッ」と噴き出してしまった。
 楓先輩と過ごす時間は、こんなにも心地がいい。
 収まらない胸の高鳴りを感じながら、二人で体育館へと戻った。