俺と水城先輩の境界線


 あの練習試合以来、俺のバスケ熱はすっかり再燃してしまう。
 午後の授業が終われば、一番先に体育館に向かったし、誰よりも長い時間練習をした。

「俺も、水城先輩みたいになりたい」

 あの日の水城先輩のプレーを思い出すだけで、胸が熱くなる。

(俺も、もっとバスケが上手くなりたい。それで、水城先輩に認めてもらうんだ)

 いつからか俺は、家に帰りたいなんて思わなくなっていた。
 それから、水城先輩との関係も少しずつ変わっている。変わった――と言っても部屋にはまだ境界線が貼られているし、俺はその境界線を越えたことはない。
 それはまるで、バスケットコートにあるセンターラインみたいだ。
 俺がどんなに攻めたとしても、水城先輩のディフェンス力は目を見張るものがあり、なかなか水城先輩の陣地まで踏み込むことができない。
 これじゃあ、室内で1on1をしているみたいで。
 俺に勝ち目なんて、全然ないけれど……。
 ただ、相変わらず毎朝起きられない俺は、水城先輩がそっと投げてくれるバスケットボールで起きている。それでも、

「ほら、飯を食いにいくぞ」

 と、声をかけてくれるようになったのだ。
 はじめのうちは戸惑ってしまった。二人で食堂に行くと、糸瀬先輩と有馬も目を見開いてびっくりしていたくらいなのだから。
 少しだけ変わっていく関係が嬉しいし、擽ったい。
 きっと水城先輩は、俺の存在が空気から飼い犬に変わった――、くらいに思っているのかもしれないけれど、俺は嬉しくて堪らない。
 うっかり調子に乗って境界線を跨ぎそうになると、「おい、越えんな!」とお叱りを受けてしまう。
 それでも、二人の共同生活はなんやかんやで上手くいっている。
 ……多分、いや絶対うまくいっている。そう俺は思いたかった。

「水城先輩、勉強の息抜きにバスケしませんか?」
「はぁ?」
「駄目……、ですか?」

 水城先輩は、俺は忙しいんだけど?と言いたそうに眉を顰めるけれど「わかった。ちょっとだけな」と付き合ってくれる。
 そんな水城先輩の優しさを知ってしまった俺は、水城先輩が受験生だということを知りつつも、つい声をかけてしまうのだ。
 こんな風に接してくれるのは、同室の俺だけかもしれない。なんて、調子に乗りそうになってしまう。

「相変わらずシュートは微妙だな」
「えー! でも練習中にも、かなりシュートが決まるようになったんです」
「まぁ、八十点ってとこかな?」
「八十点か……」

 本当は百点が欲しいけれど、水城先輩からもらえた八十点ならすごく嬉しい。
 だって、百点になってしまったら、こうやって一緒に練習ができなくなってしまうかもしれないから。だから俺は、八十点でもいい、と思ってしまった。我ながら……なんて都合の良いことを、と思う。

「よし、じゃあ今日も1on1するか?」
「はい!」

 水城先輩とバスケをすることに夢中になっていた俺は、自分の体調なんて全く気にしていなかった。疲れも感じないし、体だって軽やかに動く。
 だから、練習中に倒れてしまうことになるなんて……。その時の俺は想像もしていなかった。


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 その日は日曜日で、朝から部活をしていた。
 はじめにする、準備体操と走り込みの時から「なんだかおかしい」と体の異変を感じていた。
 でも、ここで練習を休んだらみんなに置いて行かれてしまう――という不安から、体の異変に気付かないふりをしていた。
 しかし、体育館に戻り学年ごとで練習試合を始める、ということになりチーム分けをしている途中。突然俺の目の前が真っ暗になった。
 体がフラフラしてしまい、立っていることさえできなくなった俺は、その場に座り込む。

「星野君、大丈夫?」

 有馬の心配そうな声が聞こえてくる。「大丈夫。ただの立ち眩みだから」と答えようとしたけれど、俺はとうとう体を支えることさえできなくなり、その場に倒れこんだ。
 体が焼けるほど熱くて、起き上がろうとしても体が言うことを聞いてくれない。

(なんだよ、これ……)

 少しずつ意識が遠のいていくのを感じる。

「星野!」

 その時、水城先輩が俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。それから慌てた様子で俺の方へと走ってきてくれる。

「大丈夫か?」

 俺の近くに座り込み、心配そうに顔を覗き込んでくる。俺はそんな水城先輩を見て驚いてしまった。「先輩もそんな風に必死な顔をするんですね」と冗談を言って見せたかったけれど、そんな余裕なんてない。
 でも俺は嬉しかった。俺のことを心配して駆けつけてくれたことと、初めて「星野」と呼んでくれたことが……。
 体は怠くて仕方がないのに、涙が出そうなくらい嬉しい。

「水城、先輩……」

 俺はそっとその名を呼ぶ。
 心臓がドキドキして苦しい。呼吸も上手く出来なくて、俺は必死に肩で呼吸をする。
 これじゃあ、まるで恋をしているときみたいじゃないか……と、可笑しくなってしまった。

「星野、どうした? 大丈夫か?」

 体を抱き起してくれる水城先輩の手が冷たくて気持ちがいい。

「みずきせんぱい……」

 俺は薄れゆく意識の中で、もう一度その名前を呼ぶ。それから、水城先輩の逞しい腕に、そっと体を預けた。


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 ピピピピッ。
 脇に挟んである体温計が鳴り響く。

「何度ある?」
「三十八度六分です」
「はぁ!? お前そんなに熱があるのに部活に来てたのか? 馬鹿すぎるだろう」
「……す、すみません……」
「今日は日曜日で病院がやってないから、風邪薬を飲んで寝てろ」
「はい」

 体育館で倒れた俺を、水城先輩が背負って部屋まで連れてきてくれたらしい。
 「お前、チビのくせに重いんだよ」と意識がはっきりした瞬間、怒られてしまった。
 本当ならばベッドまで優しく運んでほしかったけれど、廊下でさっさと下ろされてしまう。
 それでも文句なんて言えるはずがない。水城先輩は俺を背負って、三階まで上がってきてくれたのだから。
 それに、俺をベッドまで運んでくれたら、境界線を越えてしまうことになる。
 少しずつ仲良くなれてきたとしても、この境界線は越えてはいけないんだ。そう思うと、いつも胸が苦しくなる。

「ほら、風邪薬とスポドリ。それ飲んでゆっくりしてろ」
「はい」
「食堂のおばちゃんに、お粥かなんか作ってもらってくる」
「何から何まですみません」

 俺はもう、水城先輩に謝ることしかできない。
 こんなにも高熱があるのに部活に行って、しかも倒れるなんて……。水城先輩の言う通り、馬鹿としか言いようがない。「自己管理ができていない」と怒られるのは、当然のことだろう。
 情けなくて涙が溢れてきたから、俺は布団に潜り込んだ。
 その時――。

「なぁ、今日だけ境界線を越えるからな」
「え?」

 水城先輩の言葉の意味が分からず、慌てて布団から顔を出す。
 すると、ギシッという音と共に、ベッドが深く沈んだ。
 顔を上げると、俺のベッドに腰を掛けた水城先輩が……。

(え? なんで?)

 突然のことに、俺は目を瞬かせる。
 一体何が起きたのだろうか? 水城先輩が境界線を越えるなんて……。そんなことありえない。
 俺は何も言えずに、呆然と水城先輩を見つめた。

「ほら、薬飲んで。水分もとれよ」
「あ、はい……」

 水城先輩は俺が飲みやすいようにと、ペットボトルのキャップを緩めて手渡してくれる。
 それから、俺の額に乱暴に冷えピタを貼ってくれた。

「早く元気になれ。そしたら、また一緒に練習しよう」
「水城先輩……」
「頑張りすぎたんだよ。練習も程々にな」
「はい……」
「でも、偉かった。誰よりも先に体育館に行って、誰よりも遅くまで練習をしてたんだから。本当に頑張ってたと思う」
「……はい……」

 水城先輩は、俺のことを見てくれていた。見てくれていたんだ……。
 涙で目の前の景色が揺れる。俺は慌てて手の甲で涙を拭った。
 それでも拭いきれなかった涙を「本当によく泣くやつだなぁ」と、水城先輩が拭ってくれる。
 水城先輩の手は、相変わらず冷たくて。火照った頬を冷やしてくれる。

(気持ちいい)

 俺は水城先輩の手に、そっと頬を寄せた。

「じゃあ、食堂に行って何か作ってもらってくるから。少し待ってろ」
「はい」
「よし、いい子だ」

 そう言いながら、水城先輩が俺の頭を撫でてくれる。
 水城先輩の表情は、見たことのないような柔らかなもので。その優しい笑みに、俺は言葉を詰まらせてしまう。
 胸がいっぱいになって、嬉しくて。また涙が溢れ出しそうになった。

(水城先輩が境界線を越えた。俺のために……)

 心の中がいっぱいになってしまって、思わず布団を強く掴む。
 初めてのことだらけで、心が追い付いてくれない。今、俺は嬉しいのだろうか? それともびっくりしているのだろうか? 心の中がグチャグチャだ。
 ただ、高鳴る鼓動の音だけがやけに鼓膜に響く。

(すっごいドキドキしてるなぁ……。熱のせいなのかな……。それに……)

 今、目の前で笑ってくれた水城先輩と、中学時代に会った人物の姿が重なって見える。

『お前ならできる。頑張れ』

 半ば諦めかけていた俺を励ましてくれた人。俺は、あの人にずっと会いたかった。
 その人が水城先輩に似ているような気がしてならない。
 これは偶然なのだろうか? 問いかけずにいられなくなった俺は、部屋から出て行こうとする水城先輩を咄嗟に呼び止めた。

「水城先輩!」
「ん?」

 水城先輩が少しだけ面倒くさそうに振り返る。
 俺は、水城先輩にずっと聞いてみたかった。でも、聞くことが怖かった。
 その答えが知りたいのに、それを口にする勇気もない。答えの出ない問いかけが、心臓の辺りで引っかかっているような気がして重たくて仕方がない。
 でも、今なら聞ける。中学時代の俺が、高校生の俺の背中をそっと押してくれた気がした。

「水城先輩、もしかして、俺たち一年前に会ったことがないですか?」
「一年前?」
「はい。俺がまだ中学生だった頃……。試合前に落ち込んでいた俺を励ましてくれた人がいたんです。もしかして、あの人は水城先輩だったんじゃないかって、俺はずっと思ってました。ねぇ、水城先輩、違いますか?」
「へぇ……」

 俺の言葉に、水城先輩が綺麗に整った眉を顰める。

「俺、その人にお礼が言いたくて、常盤学園高校のバスケ部に入部しました。だから俺は知りたいんです。あの時俺を励ましてくれたのは、水城先輩ですか?」
「…………」

 室内を流れる沈黙に耐え切れず、俺は唇を噛んで俯く。
 しかし、その沈黙を破ったのは水城先輩だった。

「一年前、お前に会ったことなんてねぇよ。人違いじゃね?」
「……そうですか。変なことを聞いてすみませんでした」

 あまりにも必死になってしまった自分が急に恥ずかしくなってしまう。そんな俺を見て、水城先輩が大きく息を吐いた。

「もういいから、病人は大人しく寝てろ」
「はい」

 そう言い残すと、水城先輩は境界線の外へと出て行ってしまう。
 別人だった……。
 俺の心の中に、じんわりと真っ黒な絵の具が広がっていくのを感じる。

(水城先輩だと思ったのになぁ……)

 俺は部屋を出ていく水城先輩の背中を見送ってから、もう一度布団に潜り込んだ。


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 水城先輩のおかげですっかり元気になった俺は、一日学校を欠席しただけで、火曜日からは登校することができるようになった。
 今回体調を崩したことで、俺は新たな発見をしてしまう。水城先輩は案外、他人の世話を焼くことが好き、ということだ。
 時間になれば食事を運んできてくれるし、薬も忘れずに飲むよう声をかけてくれる。
 病気でダウンしている間、俺には水城先輩がお母さんのように見えたくらいだ。
 あまりにも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるものだから、嬉しい反面、擽ったい気持ちになる。
 でも、あれ以来水城先輩が境界線を越えてくることはない。
 きっと、あの時は緊急事態だったから、仕方なく境界線を越えただけなのかもしれない。そう思うと、胸が締めつけられる。
 でも、毎朝バスケットボールをポンッと投げて起こしてくれることや、「飯に行くぞ」と声をかけてくれることは変わらない。

(これ以上何かを望むなんて、贅沢過ぎるぞ)

 そう自分に言い聞かせるけれど、やはり部屋に貼られた境界線を見ると、心が痛んだ。

(どうしたら境界線を剥がしてくれるのかな……)

 俺はそんなことをボンヤリと考える。
 本当はあの境界線を越えて、糸瀬先輩や有馬のようにもっと水城先輩と仲良くなりたい。
 今だって。糸瀬先輩と有馬は、少し離れたテーブルで楽しそうに話をしながら夕食を食べていた。

(いいなぁ)

 ついあの二人を見ていると、羨ましくなってしまう。

「……の、星野。聞いてんのか?」
「え? あ、はい。聞いてませんでした」
「ったく」

 余計なことを考えていた俺に、水城先輩が何か話しかけてくれていたらしい。
 名前を呼ばれた俺は、ハッと我に返る。すると目の前には、俺を睨みつける水城先輩がいた。
 でも最近は、俺のことを「お前」じゃなくて「星野」って呼んでくれる。俺はそれが嬉しいのだ。

「星野、ピーマン嫌いなのか?」
「え? ピーマンですか?」
「そう。皿の上に綺麗にピーマンだけよけてあるじゃん」
「あ、これは……」

 何を隠そう、俺は子どもの頃からピーマンが大の苦手なのだ。
 だって、あんなに苦いものが美味しいはずがない。今日のメニューである野菜炒めの中に入っていたピーマンを、さりげなく皿の隅にはじいておいたのだ。
 どうやらそれに水城先輩が気付いたらしい。

「そうやって好き嫌いするから、この前みたいに突然熱が出るんだよ」
「でも……」
「駄目だ、好き嫌いは許さない」

 水城先輩に睨まれてしまえば、もう俺に勝ち目はない。だって、水城先輩は蛇で、俺は蛙なのだから……。

(仕方ない。我慢して食べるか)

 諦めて箸を持とうとした時、俺の前にピーマンが差し出された。

「え? ちょっと、水城先輩なんですか?」
「ほら、ピーマン。残さず食え」
「で、でも……この箸……」

 この箸は水城先輩が先ほどまで使っていたものですよね? そう言いかけたけれど、それを言葉にすることはできなかった。

「ほら、食え」

 俺は目の前に差し出されたピーマンと、しばらくの間見つめ合う。
 ピーマンを食べることは百歩譲って仕方のないことだ。作ってもらったものを残すなんて、してはいけないことなのだから。
 でも……。

(俺はこの差し出されたピーマンを、「あーん」って食べればいいのか? しかも水城先輩が使っていた箸で? それじゃあ、間接キスじゃないか……)

 頭の中がゴチャゴチャになり、俺は動けなくなってしまう。
 そんな俺を見た水城先輩が痺れを切らしたのか、「いいから食え!」とピーマンを口に押し込んでくる。
 俺が口に押し込まれたピーマンを咀嚼すると、苦い味が口の中に広がっていく。
 でも、そんなことよりも――。

「ほら、まだ残ってるぞ。口開けろ」
「……はい。あーん」

 俺が恐る恐る口を開けると、もう一度ピーマンを口の中に放り込んでくれる。

(また間接キスしちゃった……)

 もうピーマンが苦いとか、そういう騒ぎではない。俺はその後も何回かピーマンを口に運んでもらい、全て完食することができた。

「よく頑張ったじゃん。偉いな」
「……はい。ありがとうございます」

 水城先輩が俺に向かって笑ってくれる。その笑顔に俺の胸がグッと締めつけられる。
 また、心臓がドキドキとうるさいくらいに高鳴り始めた。

(なんなんだよ、これ……)

 水城先輩の笑顔を見ると、心臓が痛いくらいに高鳴って、息苦しくなる。
 その正体がわからずに、俺は水城先輩を見つめることしかできない。


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 季節は梅雨を迎え、毎日雨が降っている。俺の心も梅雨空のように、どんよりとした日々が続いていた。
 ジメジメした梅雨は気分も憂鬱になるし、なんだか体も怠い。
 それでももうすぐ始まる夏の大会に向けて、バスケ部の練習への熱はどんどん高まっていく。
 朝練も始まり、水城先輩にボールを投げられる時間も一時間くらい早くなった。
 練習が終わる時間も、辺りが真っ暗になる頃で。俺の学校生活はバスケ一色になってしまう。
 バスケ部に入部した一年生の数人も、練習が厳しいから、という理由で退部してしまった。
 俺はというと、なんとか練習に食らいついてはいるものの、三軍から這い上がれずにいる。
 毎日疲れ果て、授業中は昼寝タイムになってしまっていた。これでは、成績の方が心配になってきてしまう。
 それでも、水城先輩とバスケができることが、俺は嬉しかった。
 夏の大会が終われば、水城先輩は引退してしまう。
 あのメンバーから水城先輩がいなくなる……。想像しただけで、胸が張り裂けそうに痛んだ。

「ただいま」

 俺は小声で呟いてから、寮の部屋の扉を開ける。
 俺が入寮した日、水城先輩はこともあろうことに部屋に男子生徒を連れ込んでいた。あの雰囲気からして、きっとよからぬことをしていたのだろう。
 あの時「水城先輩って男でも大丈夫なんだ」と思った記憶がある。
 あれ以来「誰かを部屋に連れ込んでいる気配があったら、入ってくるな」と言われていた俺は、扉を開けるときには細心の注意を払っていた。
 しかしあの時以来。水城先輩が部屋に誰かを連れ込んだ気配はない。
 ただ、時々水城先輩の傍に寄ると、女性が付けているような香水の香りがするときはある。
 もし、今、水城先輩が部屋に誰かを連れ込んでいたら、俺はどうしたらいいだろうか。きっと嫉妬してしまう。
 だから、今では違う意味で玄関の扉を開けることが怖かった。
 いつも通り玄関を開けた俺の呼吸が一瞬止まる。玄関には水城先輩の靴と、男性ものの靴が置かれていたのだ。

(え? なんで?)

 俺の鼓動が一気に速くなる。呼吸が浅くなり、体が小さく震え出す。

(まさか水城先輩、部屋に誰か連れ込んでいるんじゃ……)

 怒りとも恐怖とも言えない感情で、全身の血が沸騰しそうになる。奥歯を強く噛み締めて拳を握り締める。
 一体リビングで何が行われているんだろうか? そう考えただけで発狂しそうになってしまった。

(あ、でも……)

 残されていた冷静さが、なんとか俺を現実へと引き戻してくれる。

(水城先輩は俺のものじゃないんだから、怒ったって仕方がないんだ)

 そう思った瞬間、一気に全身から力が抜けていくのを感じた。
 邪魔をしてはいけないと、扉に背を向けて外に出ようとした時。突然「星野」と名前を呼ばれる。
 ハッとして俺が振り向くと、そこには少しだけ焦った顔をした水城先輩がいた。

「おかえり。大丈夫だから部屋に入ってきていいよ」
「でも……。誰かを部屋に連れ込んでいる時には、出てけって言ってたじゃないですか?」
「連れ込んだわけじゃない。こいつが勝手に乗り込んできたんだ。それで、今追い出そうとしたところ」
「え?」

 俺がリビングを覗き込むと、不機嫌そうな顔をした国分先輩がいた。
 彼は怒ったような顔をしていることが多いけれど、今は般若のような顔をしている。

「悪いけど、国分。もう帰ってくれないか?」
「あぁ、わかったよ! 帰ればいいんだろう!?」

 水城先輩と国分先輩が何を話していたかはわからないけれど、どうやら国分先輩は納得できていないようだ。
 すごい剣幕で国分先輩が部屋から出て行こうとする。
 その途中で俺のほうを振り返り、

「俺が男子寮(ここ)にいたことを先生にチクったら、承知しないからな」

 と言い放つ。そのあまりの勢いに、俺は黙って頷くことしかできなかった。
 国分先輩がいなくなった部屋は、急に静かになってしまう。
 俺は一体何が起きているのかがわからず、ただ茫然と国分先輩を見送った。
 そんな俺を見た水城先輩が、俺の方に近づいてくる。どうやら「申し訳ない」と思っているらしく、面倒くさそうに前髪を搔き上げた。

「なんか俺に言いたいことがあったらしくて、部屋まで押しかけてきたんだ。悪かったな」
「い、いえ。別に……」

 なんだか気まずさを感じた俺は、水城先輩を見ることができず目を泳がせる。
 本当は、またいかがわしいことをしていたのではないか? そんな疑問が頭を過る。もしそうだとしたら、やっぱり面白くない。
 だって、俺は水城先輩と同室なのだから、彼の特別なのだ。
 そんな根拠のない自信が、俺にはあった。でも、きっと水城先輩はそんなことなど、微塵も感じていないだろうけれど――。

「別に、この前みたいにエロイことなんかしてないし」
「さぁ、それはどうでしょうか?」
「はぁ? お前疑ってんのか?」
「疑ってます。だって、水城先輩はそういうことをするのが好きなんでしょう? それに、時々女の子がつけるような香水の香りがするし」
「あのなぁ」

 今、水城先輩に何を言われても信じることなんてできない。
 大体、男でもいいのならば、相手は俺だっていいじゃないか……。そう思った瞬間、俺の頬が一瞬でカァッと熱くなる。

(俺は今、何を考えたんだ……?)

 突然込み上げてきた感情に、自分自身が驚いてしまう。
 これじゃあ、まるで……。
 俺は奥歯を噛み締めて俯く。もう水城先輩の顔なんて見ることができない。

「ふーん。星野もしかして……」

 そんな俺を見た水城先輩がクスッと笑った後、一気に距離を詰めてくる。
 「なんだ?」と驚いた俺が体を離そうとすると、廊下の壁に体を押し付けられて身動きを封じられてしまう。
 それから、そっと耳打ちをされた。

「もしかして星野、ヤキモチ妬いてたの? 可愛いじゃん」
「なッ!?」

 俺は耳を抑えながら、水城先輩から体を離した。
 今の水城先輩は、普段の先輩と違って男の色気を感じてしまう。俺の心臓は、もう破裂寸前だ。

「星野がヤキモチ妬いてくれたなんて、嬉しいな」
「べ、別にヤキモチなんて……」
「本当に可愛いな」

 そう微笑む水城先輩の笑みに、俺は言葉を失ってしまう。
 ヤキモチなんて妬いていない! そう言い返すことができなかった自分が悔しくて仕方がない。

「星野は本当に可愛い」
「か、からかわないでください」
「あははは! ごめん、ごめん。悪かったな」

 楽しそうに笑いながら、水城先輩はリビングの方に行ってしまう。

「水城先輩の馬鹿!」

 俺は精一杯の思いを込めて、文句を言ってやる。でもその声は、蚊の鳴くような声で――。
 そんな俺の声なんて、水城先輩にはきっと届いていないだろう。