俺と水城先輩の境界線


 俺は朝から落ち着かなかった。いや、朝からではない。昨日は緊張のあまり一睡もできなくて、「いいから、少し落ち着け!」と楓先輩に怒られるくらいだ。
 でも、緊張するなという方が無理だろう? だって、今日は医大の合格発表日なんだから。
 最終的に楓先輩は、私立の医大を三校受験している。
 実はそのうちの二校は既に結果が出ていて、合格には至らなかった。

「大丈夫。まだ残り一校の結果が出てないんだから。最後まで諦めずにいよう」

 ひどく落ち込む俺を、逆に楓先輩が励ましてくれる。
 でも、俺は別に自分が傷ついたわけではない。
 正直なところ、俺はそこまで強く楓先輩に医者になってほしいわけではない。俺はただ、楓先輩がどんな職業に就こうが、彼が幸せだったらそれで十分なんだ。
 だけど――。「医者になりたい」という楓先輩に夢を叶えてほしい。そう強く望んでいる。
 それに、楓先輩が落ち込む姿を見たくはない。
 受験に三度も失敗した楓先輩に、俺は一体なんて声をかけたらいいのだろうか? そんなことをいくら考えたところで、答えなど出ないのだけれど……。
 もう、 傷つく楓先輩を見たくない。

「千尋、俺は大丈夫だからさ」

 俺ばかり焦っているのに、楓先輩はいつも平然としていた。
 でもきっと、楓先輩は、俺よりももっと不安だったに違いない。それでも、俺に心配をかけないために、いつも通り接してくれていたのだろう。
 その楓先輩の優しさが痛かった。

(まだ結果がわからないのかな……)

 今日、合格発表がある大学は、常盤学園高校から遠い所にあるらしい。
 楓先輩は朝早くに寮を出たのに、未だに連絡はない。
 先程から授業中だというのに、教壇に立つ数学教師の声が全く耳に入ってこない。
 俺はもう何度も、楓先輩からメールが届いていないかスマホの画面を確認していた。
 その時――。俺の手の中にあるスマホが震える。

(…………!?)

 楓先輩から、メールが届いたのだ。しかし、いざメールが届いてしまうと、あれほど待ち焦がれていたはずなのに、怖くて内容を確認することができない。
 三校受験して、二校不合格。楓先輩にはもう後がない……。
 いや、浪人して、来年また再挑戦すればいいだけじゃないか?

 でも、楓先輩が悲しむ姿なんて見たくない。
 だから、絶対合格していてほしい!!
 俺は最後にギュッと目を閉じて祈る。

(どうか、合格してますように……!!)

 数学教師の退屈な声が、遠くのざわめきのように感じる中、俺は教科書で手元を隠しながらスマホを操作した。
 楓先輩からのメールの件名が見えた瞬間、体中の血が一気に沸騰していく。
 息を殺し、指先が触れるか触れないかの繊細さで画面をタップする。指先がブルブルと震え、画面の光が、俺の緊張した顔を青白く照らした。
 教室の誰も、この一大事に気付いていない。
 この静寂さと、俺の中の嵐のギャップに、窒息してしまいそうだった。

『千尋、合格してた!! マジで嬉しい!!』

 『合格』という文字が目に飛び込んできた瞬間、俺は思わず飛び上がった。
 教科書が床に落ちる音など聞こえないほど、俺の心の中に喜びの大波が押し寄せる。

「やったー!! 合格だ!!!」

 俺の叫び声は、教室の壁にぶち当たり、まるで何かを破壊できるような力さえ持っていた。
 突然立ち上がり、大声を上げた俺を数学教師とクラスメイトたちが呆然と見つめている。有馬なんて、開いた口が塞がっていない。
 でも、そんなことは関係ない。だって、そんな光景すら、今の俺の目には映っていないのだから。
 俺の瞳から、ビー玉のような涙が溢れ出す。でもそれは、喜びの涙だ。
 長く苦しかった楓先輩の人生に、眩しいほどの光が差し込んだ瞬間。
 楓先輩の努力は全て報われたし、悲しかった過去も、これからはきっと笑顔に変わっていくだろう。
 そんな新しい世界が、俺たちの目の前に広がっているように感じられた。

「おい、星野、突然どうした?」
「え?」

 不思議そうな顔をしながら、数学教師が俺に問いかけてくる。冷静になって教室を見渡すと、クラスメイトが唖然とした表情で俺のことを見つめていた。

(ヤバい。めっちゃ恥ずかしい……)

 喜びは束の間で、一気に現実へと引き戻される。
 あまりの恥ずかしさに、顔から火が出そうだ。

「何かあったのか?」

 心配そうにもう一度問いかけられたから、俺は思わず俯いてしまう。

「あの……寮で同室の先輩が医大に合格したって、メールがきたんです……。だから、つい嬉しくて……」
「おぉ、そうか! それは凄いじゃないか! 同室の先輩って、もしかして特進コースの水城楓か?」
「はい、そうです……」
「そうか、それはよかったな! おめでとう!」
「あ、ありがとうございます!」

 突然の奇行を叱られると思っていただけに、数学教師からの祝福に肩透かしを食らってしまう。
 そればかりか、教室に拍手の渦が湧き上がった。

「水城先輩、すごぉい!」
「医大に合格でしょ!? 凄すぎない!?」

 クラス全体が祝福ムードで、これではまるで俺が医大に合格したかのようだ。
 急に恥ずかしくなった俺は「ありがとうございます。お騒がせしました」と蚊の鳴くような声でお礼を言った後、席に着いたのだった。

 四時限目の授業が終わったと同時に俺は教室を飛び出し、楓先輩に電話をする。
 やっぱり、どうしても文字ではなく声で「おめでとうございます」って伝えたかったから。「もしもし」と電話に出てくれた楓先輩の声は、とても嬉しそうで……。俺まで多幸感で満たされていく。
 廊下の窓から見あげる空は澄み渡り、北風が冷たくて気持ちがいい。

「楓先輩、おめでとうございます!! よかったですね!!」
『うん。ありがとう』

 そう言葉で伝えると、少しだけ照れくさそうな返事が返ってくる。
 でも楓先輩は本当に凄い。医大に合格するなんて、並大抵のことじゃない。
 そんな夢を本当に実現させてしまった楓先輩が、とても誇らしい。それと同時に、改めて強い尊敬の思いを抱いた。

「楓先輩が帰ってきたらお祝いをしましょう! あ、そうだ。有馬や糸瀬先輩たちも誘って!」
『うーん……』
「え? お祝いしたくないですか?」
『じゃなくて……』

 歯切れの悪い楓先輩の声に、俺は首を傾げる。
 医大合格という快挙を成し遂げたことを、みんなで盛大に祝いたかったのに……。それが何か引っかかるんだろうか?

『みんなと、じゃなくて、千尋と二人がいい』
「え?」
『千尋と二人だけでお祝いしたい』
「楓先輩……」
『それじゃ嫌か?』

 照れくさいのか、少しだけいじけたような声が、スマホを通して鼓膜に響く。
 楓先輩の方が、俺よりも二つ年上なのに、時々「可愛い」と感じてしまう。
 そんなことを知られたら、きっと怒られてしまうだろう。だから、これは俺だけの秘密だ。

「いいえ。俺も楓先輩と二人でお祝いしたいです」

 電話だから顔を見ることはできないけれど、きっと今、楓先輩は真っ赤な顔をしているだろう。そんな光景を想像しただけで可笑しくなってくる。
 それと同時に、やっぱり自分は楓先輩にとって特別な存在なんだ――と嬉しくなってしまう。
 つい頬が上がってしまい、ニヤニヤが止まらない。
 こんな顔を誰かに見られたら、本当に恥ずかしい。

「俺、お祝いのケーキ買ってきます。ショートケーキでいいですか?」
『千尋の好きなケーキでいいよ。じゃあ俺は、帰りにスーパーに寄って、唐揚げとピザを買って帰ろうかな?』
「いいですね! ケーキは奮発してホールで買っちゃおうかなぁ? あ、あとお菓子とジュースも必要ですよね!」
『わかった。それも俺が準備するから』
「わぁ! なんかめちゃくちゃ楽しみですね!」

 俺は嬉しくて、また大きな声で叫び出しそうになってしまう。
 だけど、次に聞こえてきた楓先輩の言葉に、俺の心臓が止まりそうになった。

『これでお前を、俺のものにできるな』

 その一言が、鼓膜を震わせた瞬間、俺の心臓だけでなく呼吸も止まる。
 合格したことを知ったばかりの楓先輩の声は、いつもより落ち着きを欠き、どこか切羽詰まったような熱い熱を帯びていた。
 俺はその言葉を消化する間もなく、楓先輩は言葉を続ける。

『この前も言ったけど、帰ったら話があるから』
「話……?」
『そう。大事な話だから』

 その『話』が何を意味するのかがわからずに、俺の鼓動がどんどん速くなっていく。
 受験が終わったから、ようやく伝えられる何かがあるのだろうか? 期待と恐怖が、俺の心臓を鷲掴みにした。

「え、あ、あの…」

 俺の返事を待たずに、楓先輩はふっと息を吐き出すような音をたてて、最後に一言だけ言った。

『じゃあ、また後で』

 ぷつりと切れた電話。
 耳元に残ったのは、楓先輩の低い声の残響だけだ。スマホを握る手に汗が滲む。俺は静かに、スマホを耳から離した。

 これでお前を俺のものにできる。
 後で話がある。

 その二つのキーワードが、俺の頭の中をグルッと回った。
 楓先輩の言う『話』とは、きっとただの『話』ではない。そう直感させる、先輩のあの決意に満ちた声。
 その時、午後の授業の開始を知らせるチャイムが鳴り響く。
 俺には午後の授業と、部活が終わるまでの時間が、永遠のように長く感じられた。


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 その日俺は部活が終わると、部活で使った道具の片付けや掃除を仲間に頼み、手早く制服に着替えて体育館を後にする。
 一度寮に戻って着替えようか悩んだけれど、そんな時間さえ惜しくて……。俺は制服のまま、学校から一番近い洋菓子店へと向かって走ったのだった。
 その帰り道、俺はワクワクと、ドキドキ。そしてキラキラと輝くときめきで、胸がいっぱいだった。
 楓先輩との約束通り、ショートケーキのワンホールを一つ買った。二人でワンホールなんて贅沢だけれど、今日くらいいいだろう。だって、今日は楓先輩の合格を祝うパーティーなのだから。

「あ、雪だ……」

 ふと顔を上げて空を見上げると、まるで白い喋々のような雪が、空からヒラヒラと舞い降りてきた。

「早く帰ろう」

 俺はケーキを胸に抱えて、寮への帰り道を急いだのだった。

「ただいま!」

 俺が勢いよく玄関のドアを開けると、ちょうど楓先輩も寮に着いたところだったらしい。制服姿のまま「おかえり」と笑顔で俺を出迎えてくれた。

「楓先輩、合格おめでとうございます!!」
「わ、馬鹿! ちょっと待てって! ケーキ、ケーキ!」
「あ、そうだった!」

 俺は楓先輩の顔を見た瞬間、嬉しさが爆発してしまい、勢いよく飛びつこうとしてしまった。
 もし、楓先輩が止めてくれていなかったら、ケーキは今頃見るも無残な姿になっていたことだろう。

「あぁ、よかった……」

 ほっと胸を撫でおろしながら床にそっとケーキを置く。
 床には楓先輩が買ってきてくれたおいしそうな唐揚げに、大きなピザ。お菓子にジュースまで置いてある。
 それを見た瞬間、俺の胸は宝物を見つけたときのように嬉しくなってしまった。

(きっと凄いパーティーになる)

 もう胸がいっぱいだ。
 この幸せや喜びを、どんな言葉で表現したらいいのだろうか。
 でも、俺が今一番伝えたいことは……。

「楓先輩、合格おめでとうございます」
「ありがとう。千尋が応援してくれたおかげだよ」
「そんなことないです。楓先輩が頑張ったから……」

 今までの先輩の努力を思い出すだけで、涙が溢れ出しそうになる。楓先輩は、寝る間も惜しんで勉強していた。俺は、ただそれを見ていることしかできなかった。
 でももし、俺が何か力になることができていたならば……とても嬉しい。
 楓先輩、本当におめでとうございます。

「じゃあ、ご馳走がこんなにたくさんあるから、祝賀会を始めるか?」
「はい。あ、でも、この部屋テーブルがないですね?」
「床に直置きでいいんじゃね?」
「でも、それじゃあ……」

 俺が床を見つめると、そこには境界線が――。
 結局、今日の今日まで、このガムテープが剥がされることはなかった。

「あぁ、境界線(これ)かぁ」
「はい。境界線(これ)があると邪魔ですね」
「じゃあ、剥がすか」
「……え?」

 そう言うと、楓先輩は躊躇うことなくガムテープを剥がし、それを丸めてゴミ箱に捨ててしまう。俺はそれを呆然と眺めた。

「あははは! ガムテープが貼ってあった跡が、超くっきり残ってんな? 後で先生に怒られそう」
「で、でも、これを貼ったのは楓先輩ですからね!」
「だってさ、三年にもなって他人と同室なんて、受験勉強の邪魔じゃん。本当に勘弁してくれ、って感じだったもん」
「お、俺だって、いきなり境界線なんか貼られて気分悪かったです。でも、約束通り越えないように気を付けてました!」
「境界線を越えてこなくても、お前の寝言といびきがうるさくて、勉強の邪魔だったけどな」
「ひ、ひどい!!」
「あははは! 嘘だよ、嘘。いつも可愛い顔して寝てた。あの境界線がなければ、とっくに千尋に手を出してたよ」
「…………!?」
「でも春になったら、この部屋に違う奴が来て、お前と共同生活をするんだろうな。そう思うと、ちょっと妬ける」

 楓先輩が、照れくさそうに、でも寂しそうにはにかむ。
 きっと、その日はもうすぐやって来るだろう。でも俺は、この部屋で楓先輩と過ごした日々を忘れることなんて、絶対にない。
 新しくこの部屋に来た子に、この跡を見せながら「前一緒にいた先輩に境界線を貼られたんだよ! ひどくない?」って一緒に笑うんだ。
 でも、そんな日が来ることが、俺は寂しい。
 俺がそんな想いで境界線の跡を見つめていると、「千尋」と名前を呼ばれた。顔を上げると、優しく微笑む楓先輩がいる。
 そんな楓先輩を見て、思わず俺も笑みが零れた。
 あぁ、俺はこの人が大好きだって思う、

「これでようやく千尋を抱きしめられるな」
「え……?」
「おいで、千尋」

 もう一度優しく名前を呼ばれた俺は、境界線があった場所を通り越して、彼に歩み寄る。
 楓先輩の腕が、俺の体を優しく包み込んだ。それは今までどれほど、この瞬間に飢えていたかを物語るかのように、強く、優しさに満ち溢れていた。

「ごめん、待たせて」

 耳元で響く、掠れた声。
 その一言に、これまでの我慢と、抱えていた全ての不安が溶けていくのを感じた。
 俺は、楓先輩の胸に顔を埋めた。固い制服のブレザーの生地の感触と、楓先輩の優しい鼓動が伝わってくる。
 外部の全てのノイズから切り離された、俺たちだけの静寂の世界。なんて心地がいいんだろう……。
 ようやく、境界線を越えて、ここに辿り着くことができたんだ。

『ずっと待ってたんです』

 そう言おうとしたのに、声は嗚咽になって喉の奥に詰まった。涙が、楓先輩の制服を濡らしていく。それは喜びだけじゃない。
 境界線を越えることができた安心感。そして、ここに来るまでの苦しさ全てを洗い流すような、安堵の涙だった。

「千尋」

 俺は楓先輩に名前を呼ばれるのが好きだ。
 楓先輩が優しく髪を撫でてくれる。その指が頬を伝い。首筋へと滑り落ちて――。それからギュッと手を握られる。その感覚に、俺の全身を甘い電流が走り抜けた。

「これからは千尋を離さない」

 その時俺は思う。もう、この感情を隠さなくていいんだって。
 俺たちを縛っていた全ての鎖が、カシャリと音をたてて外れたようだった。

「俺さ、こうやって誰かに合格祝いをしてもらったことがないんだ」
「え? そうなんですか?」
「だって、いつも受験に失敗してきたから」
「あ、そっか……。じゃあ、早く……」
「でもその前に、千尋に話があるって言っただろう? それを聞いてほしいんだ」

 パーティーの準備を始めようと楓先輩から離れた俺は、再びその逞しい腕の中に捕らわれてしまう。

「聞いて、千尋」

 真剣な瞳に見つめられると、思わずその瞳に吸い込まれそうになってしまう。
 頬に熱が籠っていくのを感じながら、俺は小さく頷いた。

「俺は、千尋のことが好きだ」
「楓先輩……」
「ずっと前から、好きだった。俺と付き合ってくれるか?」

 楓先輩の抱擁に包み込まれ、その温もりが心の奥底に染み込んでいく。

「千尋、大好きだ」

 楓先輩が口にした言葉は、まるで魔法のように俺の心を輝かせる。『好きだ』という言葉が耳に届いた瞬間、世界は静まり返り、俺たち二人だけがいるような気がした。
 それと同時に、俺の心が幸せで震え出す。
 嬉しさが溢れ出し、どうしても笑顔が止まらない。
 心臓がドキドキと大きく打つのを感じながら、俺は楓先輩に向かって、そっと呟いた。

「俺も、楓先輩が大好きです」

 それから、ついっと背伸びをして楓先輩の頬に唇を寄せた。

「……え?」

 その柔らかくて温かい感触に、俺は思わず自分の口を両手で抑える。それを見た楓先輩も、目を見開いていた。

(お、俺はなんてことを……)

 恥ずかしくなってしまい、楓先輩から離れようとした瞬間、そっと手を握られる。それはまるで「行かないで」と言われているようで……。
 はっとした俺は、楓先輩の顔を見上げた。

「まさか、千尋からキスしてくれるなんて思わなかったから……。超嬉しい。だから、離れてかないで」
「で、でも……。恥ずかしいです」
「大丈夫。恥ずかしくなんてない。キスは、気持ちのいいものだよ」
「気持ちがいいんですか?」
「うん。千尋は、キスがしてみたい?」
「……はい」

 楓先輩の瞳に映る自分の姿を見て、心臓が再び高鳴りだす。その愛しい笑顔に、どうしてももっと近づきたくて――。自分から瞳を閉じた。
 瞼を期待で震わせて、その瞬間を待つ。
 キスってどんな感じだろう。

「……あ……」

 次の瞬間――。
 楓先輩の唇が、俺の唇に重なる。
 それは柔らかくて、優しくて、そしてショートケーキのように甘かった。
 周りの音が消え、だた楓先輩の呼吸と、俺の鼓動の音だけが聞こえてきた。

(俺は楓先輩が好き。大好きだ)

 一気に思いが溢れ出してくる。
 このまま二人で蕩けてしまいたい……。そう思いながら、俺はそっと息を吐いた。

「嫌だった?」
「全然嫌じゃないです。むしろ気持ちいい……」
「じゃあ、もう一回する?」
「はい」

 そしてもう一度重なる唇と唇。
 それは、やっぱり柔らかくて甘くて……。全身から力が抜けて、蕩けてしまいそうだ。
 離れていってしまった唇が寂しくて、俺は無意識に楓先輩の唇を視線で追いかける。それに気づいた楓先輩が、口角を釣り上げて笑う。
 その姿が艶っぽくて、俺の体がどんどん熱を帯びていった。

「まだ足りない?」
「全然、足りない……」

 俺が体を寄せると、もう何度目だろう? 楓先輩が優しいキスをくれる。
 心臓が胸の中で激しく鼓動し、その音が耳に響く。俺を抱きしめてくれる楓先輩の姿が、少しボンヤリと見えた。
 彼は何度も飽きることなく俺の唇を奪い、離れていく。優しく唇を啄まれたり、甘く嚙まれたり――。

 キスっていつ、どうやって呼吸をするの? 呼吸ができなくて、苦しい……。
 酸欠からか、頭の芯がボーッとしてきてしまう。

「あ、ふッ、楓先輩……苦しい……あッ」

 唇が重なる度に俺の息は途切れ、必死に息を呑む。
 息を吐き出そうとしても吐き出せない。呼吸もままならなくて、苦しくて……。楓先輩の肩を叩いても、キスをやめてくれない。
 涙が頬を伝い、膝がガクガクと震えてくる。
 でも、楓先輩とのキスは気持ちよくて……。
 その場に崩れ落ちそうになった俺の体を、「おっと」と言いながら楓先輩が支えてくれる。
 俺はキスだけで蕩けてしまい、骨抜きにされてしまった。

「ヤベェ。キスで蕩けてる千尋を見てたらムラムラしてきた」
「へ? ムラムラ……ですか?」
「そう。千尋にはムラムラっていう意味がわかるか?」
「…………」

 俺は荒い呼吸を整えながら、楓先輩を見上げる。

(ムラムラするって、どういうことだ?)

 酸欠でボーッとする頭で考える。駄目だ、全然考えがまとまらない。
 そんな俺を見て、楓先輩が意地の悪い顔をする。
 なんだ? きっとまた俺をからかうつもりだろう。嫌な予感しかしない。

「ごめん、我慢できない。シても……いい?」
「するって、何をですか?」
「エロいこと」
「エ、エロいこと!?」
「そう、俺と千尋でエロいことすんの」

 嬉しそうに目を細めながら、俺の腰に手を回す楓先輩。

「か、楓先輩は、お、俺なんかを相手に、そんな気持ちになるんですか?」
「なるよ。って言うか、ずっとムラムラを我慢してきた。だから、今日ちゃんと準備もしてあるし」
「え? 準備……?」

 楓先輩の買ってきたスーパーの袋の中をもう一度覗いてみると、ゴムとローションがチラッと顔を出している。
 それを見た俺の全身から、一瞬で血の気が引いた。

(俺、まだ心の準備が……。大体、やり方もわからないし……)

 俺の頭の中はパニックになってしまう。だって、今初めてキスしたばかりなのに。もう、その先なんて……。
 想像しただけで、頭が爆発してしまいそうだ。

「で、でも楓先輩。せっかくの料理が冷めちゃいます! それに俺、超お腹空いてるし!」
「はぁ? 料理なんて、また温めればいいじゃん」
「でも……」
「でも、じゃない。俺は千尋とエロいことがしたいの!」
「でも!! パーティーが先です!!」

 こんなのもう、子どもの喧嘩だ。
 一瞬冷静になった俺たちは、顔を見合わせて笑いだす。
 境界線が貼られたあの日からは、想像もできない光景だ。 
 あの頃この部屋には、緊張感と静寂が漂っていた。でも今は違う。
 こんなにも笑顔で溢れている。
 俺は、それがとても嬉しい。

「じゃ、じゃあ、パーティーが終わったら……、エ、エロいことしますか……?」

 恐る恐る楓先輩のほうに視線を移すと、その顔が一瞬でパアッと明るくなる。

「え? マジ? 超嬉しいんだけど!」
「そ、そんなに嬉しいんですか?」
「うん! 超嬉しい!」

 楓先輩が俺に飛びついてきたから、俺はその体を夢中で受け止める。
 この人の、温かな腕に抱きしめられることが好きだ。大好きだ。
 大好きで、大好きで、好きが溢れて、胸がいっぱいで息もできない。

「よし、じゃあパーティー始めるか?」
「はい!」

 俺と楓先輩は、お互いが買ってきてた物を袋から取り出し並べ始める。
 それなのに――。ふと、楓先輩の手が止まった。

「駄目だ、やっぱり我慢できない。ご馳走よりも千尋が食べたい!」
「えぇ!?」
「だって、俺、千尋が大好きなんだもん」

 珍しく甘えたような顔をしながら、体を寄せてくる楓先輩。俺の手を握って、そっと指を絡めてくる。
 そんな仕草がなんだかエロくて、俺の鼓動が速くなる。
 いつも冷たい楓先輩の手が、今日は熱い。
 もう、心と体の境界線さえも越えてしまいたい。ドロドロになるまで抱き合って、一つになりたい。
 俺は、楓先輩の唇に、そっと自分の唇を寄せた。

「……いいですよ。エロいこと、しましょう?」
「マジで? 本当にいいのか?」
「はい。でも俺、初めてだから優しくしてくださいね」
「大丈夫。優しく抱くから」
「お、俺、初めてだけど頑張ります!」
「ふふっ、超可愛いじゃん。千尋、大好き」

 そっと瞳を閉じた楓先輩の顔が、少しずつ近づいてきて、俺もそっと瞳を閉じた。
 期待と不安で、心臓が爆発してしまいそうだ。
 ふわりというキスと共に、俺は床に押し倒される。

(あぁ、せっかくの唐揚げとピザが冷めちゃう……)

 頭の片隅で、そんなことを考えた。

「千尋、大好き」

 目の前で、楓先輩が笑う。その笑顔で俺まで幸せになってしまう。

「俺も、楓先輩が大好きです」

 なんだかお互い照れくさくて、もう一度顔を見合わせてから、クスッと笑う。
 それからキスを交わした。

「ゴム、一箱しか買ってこなかったけど、足りるかな?」
「え!? 一つで十分なんじゃないんですか?」
「はぁ? 全然足りるわけないだろう? だって、これから俺が退寮するまで、やりたい放題じゃん」
「そんなぁ……」

 元バスケ部部長の体力を想像すると、少しだけ不安になってしまう。
 俺は明日、起き上がることができるだろうか?
 そう思うと可笑しくなってしまう。でも、こんなことを言ってられるのは、今だけだろう。
 俺は、まるでバスケの試合前のように、静かに気合を入れた。

 今日、俺たちの境界線はなくなった。
 そしてこれから、心と体の境界線もなくなる。

「楓先輩、だぁい好き」
「俺も大好き」

 俺たちは境界線を越えて、結ばれた――。


【END】