桜の花が咲き乱れる四月。
入学式を控えた今日、俺、星野千尋は念願の常盤学園高校、体育コースに入学を果たす。
俺は、中学時代の恩人と一緒にバスケがしたくて、この高校を選んだ。
真新しいブレザーはまだ大きくて、硬くて着心地が悪かった。
それでも、高校でもバスケ部で頑張りたい――。そんな思いで、俺の心は満ち溢れていた。
それに、俺の背中を押してくれた『あの人』に、もしかしたら会えるかもしれない。
(もしかしたら、『あの人』と一緒にバスケができるかもしれないしな)
そう考えるだけで俺の心は踊った。
常盤学園高校は、部活動に力を入れていることで有名な高校だ。有名なのは何もバスケ部だけではなく、野球に柔道、サッカーにテニスと、実に様々だ。
そのため、遠方から部活動を目当てに入学してきた生徒は、親元から離れて寮で生活をする。
俺は三人兄弟の末っ子で、家族から甘やかされて育ってきた。そんな俺が家を出て寮生活をすることに、家族みんなから猛反対されたけれど、俺の意思は固かった。
「全国制覇を目指して……頑張るぞ」
そう呟く俺の前には、古いアパートが三棟建っている。これが男子の学生寮なのだが、女子の寮よりも校舎からかなり離れている。そこには寮母さんがいて、三食手作りの食事を提供してくれることになっている。
学校の説明会の時に一、二年生は二人で一室を使い、三年生になったら受験勉強に集中できるよう、一人部屋に移るとのことだった。
ところが今年は少し事情が異なるようで……。
「……あれ? あぁ、あの寮が工事中なんだ……」
三棟並んでいる一番左側の棟だけ、周囲の視線を遮るようにビニールの幕が張り巡らされている。その周囲には、「危険! 立ち入り禁止!」の看板がいくつも設置されていた。
俺が暮らす予定の寮は一番右側に建っている寮だ。その建物は三階建てで、小高い丘の上に建っているから見晴らしがいいかもしれない。
「三〇五号室かぁ……。エレベーターがついてないから、いい運動になりそうだ」
ポツリと呟いてから「よし」と気合を入れてアパートの階段を上り始める。これから始まる新生活が待ち遠しくて、俺は長い階段を軽い足取りで駆け上っていった。
「あ、あった。三〇五号室」
ここが自分の部屋だ。
この部屋から全てが始まる。
「同室の先輩、いい人だといいなぁ」
楽しい高校生活に、厳しいけれど信頼した仲間たちとの部活動。
そして優しい同室の先輩。
想像しただけで心が躍る。
そっとドアノブを掴んで、少し動かすと、カチャリと無機質な音をたててノブが回った。
(あれ? ドアに鍵がかかってない)
俺は遠慮しながらも「失礼します」と小さな声で挨拶をしながら玄関の中を覗き込む。
玄関には男物の靴が二足あるから、きっと誰かがいるのだろうけど、室内は静まり返っている。
(なんだろう……)
違和感を覚えた俺は、「入ります」と声をかけてから玄関で靴を脱いだ。
短い廊下の脇には、トイレと浴室だと思われる扉がある。
あまりにも静か過ぎる室内は、疑問から恐怖へと姿を変えた。違和感を覚えた俺は、もう一度「失礼します」と声をかけてから、部屋の中に誰かいることを意識しながら廊下を進む。
それから、恐々と一部屋しかない室内の中を覗き込んだ。
「お邪魔します。……え!?」
室内を覗いた俺は、あまりにも衝撃的な光景に、思わず手に持っていた鞄を落としてしまう。
そこには、ベッドの上で絡み合うように抱き合いながら口づけを交わす、二人の男子の姿があった。
(な、なんだ……これ……)
俺は想像もしていなかった状況に、言葉を失ったまま立ち尽くしてしまう。
(なんで、男同士でキスをしてるんだ? しかも、学校の寮で……)
頭の中が真っ白になってしまい、その場から動くことができない。そんな俺に気付いたのか、二人の視線が一斉に俺に向けられた。
「なんだよ、いいところだったのに」
男子生徒に覆いかぶさっていた生徒が、俺のほうを煩わしそうに睨みつけてくる。それから乱れた前髪を搔き上げた。
今までキスをしていたせいだろうか? 唇が唾液で湿っていて、その光景がとても艶めかしい。
キスどころか、恋愛も経験せずにバスケに夢中になってきた俺にしてみたら、それは見てはいけない大人の世界のように感じられて――。ドクン、と鼓動が大きく跳ね上がる。
どうしたらいいかわからずに、俺のことを睨みつけてくる人物を、震えながら見つめることしかできなかった。
「……水城。人が来たことだし、俺、帰るよ」
「あー、うん。悪い。多分、同室になる新入生だと思う」
「へぇ。別にいいよ。じゃあな」
そう言いながら、俺の横を男子生徒がすり抜けていく。そのまま動じる様子もなく、部屋を出て行ってしまった。
俺はそれを、ただ茫然と見送ることしかできない。
水城と呼ばれる人と抱き合っていた男子生徒は、長身だけれど、女の子みたいに可愛らしい人だった。
(でも、でも……。寮で一体何をしているんだ? しかも男同士で……)
俺の頭の中は真っ白になってしまい、今目の前で起こったことを理解できずにいる。
そんな俺に向かい、水城という人が面倒臭そうに声をかけてきた。
「で、お前は誰?」
「——あ、えっと、俺は星野千尋です。今日からこの寮でお世話になります……よろしくお願いします!」
水城先輩の威圧感に挫けそうになりながらも、俺は必死に自己紹介をした後、深々と頭を下げた。
「うん。よろしくね」という返答を期待していたのに、その後に待ち構えていたのは恐ろしい程の沈黙で……。俺は泣きそうになりながら、静かに顔を上げた。
その視線の先には、仏頂面をしながら腕組みをしている水城先輩がいる。明らかに「不服だ」という思いが、それだけで痛いほど伝わってきた。
「本当なら、三年生は受験勉強のために一人部屋になるはずなんだけど?」
「え、でも、一つの寮が古くなったから修繕工事をするらしくて。だから、三年生と同室になるって説明されました」
「なんだよ、それ。ようやく一人で悠々と部屋を使えると思ったのに」
「す、すみません」
大きく息を吐く水城先輩を前に、俺はただ謝ることしかできない。
本当なら「学校の都合で俺には責任なんてないです!」と言い返したいところだけれど、水城先輩の剣幕に押されて、そんなことを言い返すことさえできない。
「すみません」
俺は肩を落としながら、もう一度呟く。
「お前がいたら、部屋に誰も連れ込めねぇじゃん」
「え? そこですか?」
「当たり前だろう?」
「で、でも、寮の部屋には違う部屋の生徒を入れてはいけないって、入学説明会のときに言われました」
「はぁ? お前そんなルールを律義に守るつもりだったの? 面倒くせぇ」
苦虫を嚙み潰したような顔をしながら俺を見つめる水城先輩。
水城先輩は背が高い。俺なんて、見下ろされてしまえば、まさに蛇に睨まれた蛙だ。
「す、すみません」
俺は消え入りそうな声で、もう一度謝罪の言葉を呟く。
(あぁ、完全に寮ガチャ失敗だ……)
楽しい寮生活を夢見ていた俺の目の前が、真っ暗になるのを感じる。
夜遅くまでゲームをしたり、こっそり恋バナだってしてみたかった。
そんな楽しい寮生活は、今目の前でガラガラと音を立てて崩れ去ったのだ。
「俺の楽しい寮生活が……」
肩を落とし、項垂れてしまう。足に力が入らなくて、その場に崩れ落ちてしまいそうになった。
そんな俺に、水城先輩は無情にも更なる試練を突き付けてきた。
「行く場所がないみたいだから『仕方なく』部屋においてやるけど、絶対にルールは守れよな」
『仕方なく』という言葉がいやに強調されたような気がして、俺の鼓動がどんどん速くなっていく。強い恐怖に襲われた。
この人はついさっき、寮のルールを破っていたじゃないか……こんなの理不尽すぎる。
「ルール、ですか?」
「そう。そのルールを守れなかったら、この部屋から追い出すからな」
「そんなぁ……」
「じゃあ、今から説明するから」
俺が縋るような視線を水城先輩に向けると、彼の手にはいつの間にかガムテープが――。
(嫌な予感しかしない……)
今にも溢れ出しそうな涙を、唇を噛み締めて必死に堪えた。
水城先輩が手に持っているのは、赤い色をしたガムテープ。よく、教室の床に貼ってあるあれだ。
「本当は一人がよかったのに……」
未だにぶつぶつと文句を言っているあたり、余程俺との同室が嫌なのだろう。
水城先輩はビッという音をたてながらガムテープを伸ばし、「この辺がちょうど真ん中か?」と言いながらガムテープを部屋全体に敷かれているベージュの絨毯に貼っていく。
俺が気付いた時には、赤いガムテープで部屋は二等分されてしまっていた。
「え……?」
突然のことに俺が立ち尽くしていると、頭の上から水城先輩の声が聞こえてくる。そして俺は、その言葉に耳を疑ってしまった。
「これが俺たちの境界線。部屋の入り口から見て左側が俺の陣地、で、右側がお前の陣地。絶対にこの境界線を越えるなよ?」
「…………」
「部屋の外に風呂とトイレがあるから、廊下と玄関は仕方がないから共有スペースだ。わかったか?」
「あ、あの、でも……」
「わかったかって聞いてるんだけど?」
俺が言葉を詰まらせていると、水城先輩が俺の顔を覗き込んでくる。
間近で見た水城先輩を見た俺は、目を見開く。
(水城先輩って……顔は、カッコいい人なんだな)
今の今まで水城先輩の顔をよく見てなかった俺は、驚いてしまった。
制服のブレザーをラフに着崩した彼は、高校三年生という実年齢より大人びえて見えた。切れ長の瞳は苛立ちを滲ませていたが、その整った目鼻立ちに俺は思わず見とれてしまう。
瞳と同じ黒髪が、彼の動きに合わせてサラサラと揺れる光景が、更に彼の美貌を際立たせている。
それと同時に、その冷たい視線と雰囲気が誰にも近づけない壁のように感じられて、俺は何と言葉を発したらいいのかわからなくなってしまった。
「この境界線から、絶対はみ出すなよ」
「あ、はい」
俺は何とか言葉を振り絞る。
――境界線なんて、あんまりじゃないですか?
そう言いたかったけれど、生憎俺はそんな度胸を持ち合わせてはいない。
「それから、俺が部屋に誰か連れ込んでる気配を感じたら、絶対に部屋に入ってくるなよ?」
「……はい」
「じゃあ、よろしくな」
「……はい。よろしくお願いします」
俺が力なく返事をすると、水城先輩は俺に背を向けてベッドに横になってしまった。
そんな水城先輩を見ていると悲しくなってきてしまい、俺は唇を噛み締める。早くも、ホームシックになってしまいそうだ。
でも、俺はどうしても常盤学園高校に入学したい理由があった。
俺には、忘れられない出会いがある。
その出会いは、中学三年生の夏――。幼い頃からずっと続けていたバスケの試合での出来事。
(あと一回負ければ、県大会に行けなくなる)
当時の俺は、バスケ部の部長としての責任と、背番号『4』の重みに苦しんでいた。
誰もいない階段で頭を抱えて蹲り、声を押し殺して泣いていた。
家族からもらったお守りをギュッと握りしめる。
(なんとか県大会に行きたい。でもこれで、俺は引退か……)
次の対戦相手は、去年準決勝でボロクソに負けたバスケの強豪校。勝てるはずがない――。半分諦めた俺は、髪をかきむしり、大きく息をついた。
(いっそこのまま、逃げ出してしまおうか)
そんなことまで考え始めていた時、すぐ近くに人の気配を感じ俺はハッと顔を上げる。顔は逆光でよく見えなかったけれど、その人は、バスケが強いと有名な高校の制服を身に纏っていた。
一体なんなんだ、と咄嗟に俺は身構える。
でもその人は、特に何をするわけではなく、ただ黙って俺の前に立っている。居たたまれなくなった俺は、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……。俺に何か用ですか?」
「あぁ、うん」
その人の顔を見たくて目を細めてみるけれど、眩しくて目を開けていることさえやっとだ。
立ち尽くすその人物は、逆光のベールに覆われていた。光の粒が輪郭を焼き付け、その表情を覗き込もうとしても、そこにあるのはただ深渕な影だけだった。
(スタイルがよくてモデルさんみたいだな)
そんなことを頭の片隅で思う。
こんな俺に声をかけてくれるくらいだから、もしかしたら彼もバスケをしているのかもしれない。
「諦めずに頑張れよ」
「え?」
「だから、最後まで諦めずに頑張れって言ってんの!」
言葉遣いは悪いけれど、その力強い言葉に俺の目頭は熱くなる。
「お前ならやれるよ。だから頑張れ」
「でも……」
「でも、じゃない。俺は、お前に頑張ってほしい。お前には、俺みたいになってほしくないんだよ……」
どこの誰かも知らない人の言葉に俺の胸が熱くなる。堪えきれずに涙が頬を伝う。俺は慌てて手首に着けていたリストバンドで涙を拭った。
「そ、そんなことないです! あの、ありがとうございます! お、お兄さんもその、大丈夫です! 俺みたいなのに声をかけてくれるような優しい人なら、大丈夫ですよ! だから、お兄さんも諦めないでください」
「そっか。なんか逆に励まされちゃったわ。かっこ悪ぃ。でも、サンキュー!」
「あなたは誰ですか?」——そう問いかけようと立ち上がった瞬間、「星野! 試合が始まるぞ」と監督が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
「じゃあ、頑張ってな」
「あ、ちょっと待って! もしかして、あなたもバスケ部の人ですか?」
「うん」
「今、何年ですか?」
「二年だけど……」
そう手短に答えて、その人が背を向けた。俺は追いかけようと咄嗟に立ち上がった。けれど「星野! 何をしてるんだ!?」と今度は怒鳴り声が聞こえてきたから、俺はその人を追いかけることができなかった。
見ず知らずの人の言葉で、俺は勇気をもらうことができた。「俺ならできる」なんて、意味の分からない自信とやる気に満ち溢れた俺には、怖いものなんてないような気さえしたのだから。
結果、俺たちはその試合で勝利を掴むことができて、県大会への出場が決まった。
俺はお礼が言いたくて、試合が終わった後にその人を探して回ったけれど、彼を見つけることはできなかった。
「常盤学園高校……」
彼が身に纏っていた学園の名前を小さな声で呟く。
『頑張れ』
彼のたった一言で、俺の凍り付いた心に太陽の日差しが差し込んだような気がした。
あの一言で、俺の中の残された希望がキラキラと輝きだして、心の奥底から「勝ちたい」という思いが湧き上がってくるのを感じた。
こんな風に俺の心を奮い立たせてくれたことに、感謝の思いを伝えたい。
そして、彼の名前が知りたかった。
「ありがとうございました」
会うことができなかったけれど、俺は小さな声で感謝の思いを呟く。できることなら、あの人に届いてほしい――。そう願いながら。
俺はまた、彼に会うことができるだろうか? 湧き上がる感謝の思いが、もう一度彼に会ってみたい――という思いへと姿を変えていく。
彼に出会えたことで、俺は新たな夢と希望を見つけることができた。
(いつか、あの人にお礼を言いたい)
俺は準優勝の盾を胸に抱き、彼との再会を誓った。
そんな思いを抱き、いざ常盤学園高校に入学してみたら、なぜか俺の目の前には境界線が……。
(こんなはずじゃ、なかったのに……)
今度はイライラしてきてしまい、髪を掻きむしる。
俺が使っていいといわれた右半分の部屋には、勉強机とベッド、それに小さな箪笥が置かれている。
十二畳くらいの部屋に、これだけの家具が置かれていると、確かに狭いと感じざるを得ない。
更に、部屋の真ん中に貼られた境界線。
それを見ているだけで、俺は泣きたくなってしまう。
楽しい日々を思い描いていた俺の高校生活は、寮ガチャ失敗……という、最悪のスタートを切ったのだった。



