いらっしゃいませ、お姫様 ―Kitty Catへようこそ―


 私は、夜の新宿をトボトボと歩く。
(自分は、なんて惨めなんだろう……) 
 そう思うと涙が出てくる。
 つい先ほどの出来事を思い出すだけで、胸が張り裂けそうに痛んだ。


 私は通い慣れたホストクラブに出向き、内勤に担当を出すよう詰め寄った。
 今思えば、あの時の私は、きっと般若のような顔をしていたでしょうね? 思い出すだけで恥ずかしくなってくる。
「あ、おはよう。来てくれたんだ?」
 嬉しそうに奥から出てきた担当を目の前にした瞬間――。私は担当の胸ぐらを勢いよく掴んで叫んだの。
「あの写真はなに!? あんた枕営業はしないって言ってたよね!?」
 あまりの剣幕に担当は呆気にとられたような顔をしていた。


 私が望んでいたことは「あれは勘違いだよ」という言い訳だった。もうこの際言い訳でもいいから、私を宥めて落ち着かせてほしい。
 優しい担当だから、きっと私を大切にしてくれるだろう。そう期待していたのに……。予想と現実は全く違っていたの。
 いつも柔和な笑みを浮かべるその顔に、笑顔なんて全くない。まるで私を見下すように睨み付けた後、私の手を勢いよく振り払った。その反動で、私はフロントの床に無様にも倒れ込んでしまったの。
 そんな私の頭の上から、予想もしていなかった言葉が降ってきて……。私の心臓が一瞬止まった。


「あー、うぜぇな、いちいち。別にいいじゃん? 他の姫とホテルに行ったって」
「で、でも、枕営業はしないって言ってたじゃん!?」
 震える声で何とか言い返す。情けないことに体がカタカタと震えた。
「枕営業はしないよ」
「う、嘘よ! じゃあ、あの写真はなんなの?」
「だから何度も言ってるじゃん? 枕営業はしないって。ブスとはね? あと細客の相手も面倒くさい」
「え?」
「わかったなら帰って。もう来なくていいし。お前みたいに細客のくせにギャーギャー喚く女、マジで勘弁」
 迷惑そうな顔をしながら、店の中へと消えていってしまう。
 私は、そんな彼を追いかけることができなかった。
 あまりにも、自分が情けなくて……。


『ブスとは枕営業しない』
 その言葉で、私はようやく我に返ることができた。
 彼が言った「可愛い」なんて言葉は、私からお金を引き出すための呪文だったんだ――。
「気付くのが遅すぎ……」
 頬を伝った涙が絨毯に音もなく吸い込まれていった。
 仲の良かったヘルプのホストが私を見て飛んできてくれたけど、私は逃げるようにその場から立ち去った。


 情けなくて、恥ずかしい。
 私は、なんて勘違い女だったんだろう……。


 道に出た瞬間、今まで張り詰めていた心が音をたてて崩れた。自分への情けなさで、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
 堪えきれなかった涙が、熱い粒となって次々と溢れ出し、頬を伝って止まらない。


 彼のあの笑顔も、「可愛い」って言葉も、優しく頭を撫でてくれたことも、全部が嘘だったんだ。
 私は、一体彼にいくらのお金を使っただろう?
 風俗に勤め始める前だった、ということが唯一の救いかもしれない。
 この涙は、抑え込んできた痛みの全てを物語っているようだった。


 情けなさと、込み上げてくる嗚咽を必死に押し殺しながら、私はひたすら走り続けた。 
 目の前が涙で歪み、一歩一歩が重い。
 パンプスは脱げそうになるし、ロングスカートが足に絡みついてきて、もう何度も転びそうになった。
(あの角を曲がれば細い路地がある。あそこまで行ったら休もう)
 こんな泣き腫らした顔で電車になんて乗れないし、生憎タクシーに乗れるほどお金を持ってこなかった。だから少し路地で休んで、落ち着いたら電車で帰ろう――。私はそう考えたのだ。


(あそこだ!)
 曲がり角を勢いよく曲がった瞬間、視界が一変した。
 暗い路地の中に、眩いばかりの光を放つ店が突然現れたのだ。
 その光は、ただ明るいだけではなく、まるで自分を招き入れるかのように、優しく輝いていた。
「こんな路地裏に、お店なんてあったっけ……」
 私は驚きのあまり、しばしその店を呆然と見つめてしまった。


 その瞬間、店の扉が開いた――。温かな空気に私は包み込まれる。
 そこには一人の男性が立っていた。
 眩しい照明の中、茶髪が風に揺れる。その髪色は秋の葉のように温かく、焼き立てのパンのように美味しそうな色だ。その綺麗な髪がサラサラと揺れている光景を、私はただ見つめていることしかできない。
 瞳は青空のように澄んでいて、その中には世界中の優しさが詰まっているようだ。
 唇は穏やかな微笑みを浮かべ、その笑顔は人の心を癒すような力がある。


「王子様みたい……」
 私は小声で呟く。
 身長だって高いし、モデルのように長い手足。
 彼の顔立ちは少し幼さを残しながらも、驚くほど整っていた。大きな瞳には無垢な光が宿り、柔らかな輪郭が優しい印象を与える。その奥に潜む凛とした美しさが、思わず息を呑ませるものだった。


 可愛い? かっこいい? 綺麗?
 なんと表現したらいいのかがわからない。
 男性は、しなやかな体にぴったりとフィットした高級そうなスーツを着こなし、洗練された雰囲気を漂わせている。
 その姿は、周りの空気をもほどけるような魅力を持っていた。


「え? あの人、猫みたいな耳と尻尾がある……」
 私は驚愕のあまり言葉を失ってしまう。
 彼の頭の上には猫のように三角形の耳がピンと立っており、お尻からは長い尻尾が生えている。
(え? 見間違いかな?)
 私は目をこすってから、もう一度彼を見つめる。
 でもやっぱり、見間違いなんかじゃない。
彼には猫の耳と尻尾がついているのだ。時々優雅に揺れる尻尾には、茶トラの毛が生えている。


(これって、漫画とかに出てくる獣人ってやつ?)
 私はショックのあまり言葉を失ってしまう。夢かと思って自分の頬を思わず抓ってみたけれど、鈍い痛みを頬に感じた。
(夢じゃない。だとしたら、いよいよ私の頭がおかしくなってしまったのね)
 さっきの担当とのやり取りのせいで強いショックを受けた私は、頭がおかしくなってしまったらしい。
 だって、ここには店なんてあるはずなんてないし、この世界に獣人なんて存在しない。
 私が言葉を失っていると、その青年が私に向かって声をかけてくる。


「いらっしゃいませ、お姫様」
 彼の声は、春風のように柔らかく、耳に優しく触れる。
 言葉の一つ一つが、ゆっくりと心に染み込んでくるようで、どんな不安も溶かしてくれそうだ。
 穏やかな微笑みと共に語られる話し方は、まるで子守唄のように私の心を穏やかな世界へと導いてくれる。私は思わず、全身の力を抜いた。


「いらっしゃいませ、お姫様。ホストクラブKitty Catへようこそ」
 まるで優しくエスコートされるかのように、一歩、また一歩と店へと歩み寄っていく。
 それはまるで、王子様にエスコートされているようだった。
「あ、あの、ちょっと待ってください。こんな所にホストクラブなんてなかったですよね? しかもその耳と尻尾……。あなたは人間? それとも猫?」
「あぁ、これですか」
 私が恐怖のあまり青年から体を離すと、彼は先程のような柔和な笑みを浮かべた。


「このホストクラブは、あなたのように心に深い傷を負った方にしか見ることのできない、『猫』のホストクラブなのです」
「心に傷……? 猫のホストクラブ……?」
 私はその言葉を噛み締めるようにもう一度呟いてみたけれど、やっぱり全然理解なんてできない。私は恐る恐る整った彼の顔を見上げた。
「ふふっ。そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。僕に身を委ねてください」
「で、でも……」
「このホストクラブは、姫のように、ホストに心無い言葉を投げかけられて心に傷を負った方、または辛い失恋をした方、仕事でハラスメントを受けて心が壊れてしまった方……。そんな方にしか見えない、秘密のホストクラブです」


 秘密――?
 その言葉を聞いた瞬間、心臓の奥が小さく跳ねる。
 この胸のザワつきは、私が触れてはいけない領域に足を踏み入れた証拠なのだろうか?


「だけど、失礼ですが、あなた人間じゃないですよね?」
「はい。僕たちは猫の獣人です。ここは猫の獣人が在籍する、ホストクラブなんですよ」
 青年の優しい笑顔を見ていると、猫の耳だとか、尻尾だとか……。そんなことが気にならなくなってくるから不思議だ。
 逆に、時折ピクピクッと動く三角の耳や、ユラユラと揺れる尻尾が可愛らしく見えてくる。
「可愛い」
 私は、青年の柔らかそうな耳に触れようとしたものの、即座にその手を引っ込めた。
 いきなり見ず知らずの男性に許可なく触れるなんて、失礼にも程があるだろう。


「このホストクラブは内勤の僕を含め、七人の猫の獣人が在籍しています。勿論イケメン揃いですよ」
「え? 七人もいらっしゃるんですか?」
「はい。全員が日本にいる代表的な柄をした猫の獣人です」
「皆さん、猫の獣人なんですね?」
「はい。更に一日にお客様はお一人だけ。店内にはVIPルームが一部屋しかありません。ですから、ホストを一人選んで、そこでゆったりと、素敵な時間を過ごすことができますよ」
「へぇ。凄いサービスですね」
「はい」
 青年が再びにっこりと笑う。その笑顔は本当に王子様そのもので、私の心臓はドキドキしっぱなしだ。


「では、姫。どうなさいますか?」


1.入店せずこのまま電車に乗って家へ帰る。
「そうですか。残念ですが、本を閉じてお気をつけてお帰りくださいませ。またのお越しをお待ちしております」


2.少しだけ怖いけれど、入店してみる。
「ようこそ、『Kitty Cat』へ。ご入店をご希望される姫は、どうぞ1ページへとお進みください」


私は、本当はまだ疑心暗鬼だった。
だって、こんな所にホストクラブがあるなんておかしいし、猫の獣人なんて……。
でも、私は先ほど担当から受けた心の傷を誰かに癒して欲しかった。
所詮『ホス狂い』なんて、誰かに依存できないと生きていけない女なんだから。これから初回巡りをして、新しい担当を探すのだって骨が折れる。
 ならば、この現実離れした空間に身を預けてみたい。そう思った。


「では、姫。こちらへどうぞ」
「はい」
 私は震える手で、差し出された青年の手を握る。
 青年はもう一度優しく微笑んでから、私を店内へと案内してくれたのだった。

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