朝の十分〜友達よりも大切な彼〜

 翌朝、電車の中に香山の姿はなかった。
 体調でも崩したのだろうかと心配した俺は、昼休憩に特進クラスまでわざわざ赴いたりもしたけれど、香山は普通に登校していた。電車に間に合わなかったから、一本後の電車に乗ったと言っていた――――。
「なに?」
 放課後の誰もいない図書室で、隣り合わせに座る香山をじっと見つめすぎていたようだ。怪訝な顔で見返される。
「いや、ほんま大丈夫なんやろかって思て」
「なにが?」
「いつもとちゃうやん」
「だから、なにが」
「メガネ、してへんし」
 そう、今日の香山はメガネをしていないのだ。
 ややきつめの印象を与えていたメガネ。これを外した香山の素顔は、とても柔らかいイメージだ。
「あれ、伊達(だて)だから」
「は? なんで、そんなんつけてるん?」
「あれつけてたら、真面目そうに見えるでしょ?」
「めっちゃ、がり勉に見える。けど、なんで外したん?」
「なんとなく。僕のことは良いから、さっさとやったら? 赤点取りたくないんでしょ」
 俺は言われるがまま、香山が作ってくれた問題集に目を移す。
 実は、香山が一晩で三教科分の山を張った問題集を作ってくれた。これをやって、必要なところは暗記していけば、どうにか六十点は取れるそう。分からないところは、分かりやすく香山が解説してくれる。
「けど、香山は余裕そうやな」
 香山は、図書室にある『初恋』という小説を読んでいる。香山の恋愛には興味ないけれど、友達は不用と言っている父親が、恋愛を許可するのか疑問でならない。
「特進クラスの赤点て、普通科より高いんやろ?」
「八十五点」
「は? ほんまに!?」
「ほんまに」
「エゲツな。けど、特進やし、夏休みの補習は免除されたりすんのやろ?」
「そんなわけないじゃん。普通にあるよ」
「まじか」
 それでも平然と本を読んでいる香山は、相当賢いのだろう。
「そんな余裕そうにして、香山が補習になったら鼻で笑ったるからな」
「良かったね。三回鼻で笑えるよ」
「は? なに言うてんねん」
「僕、三つほど赤点取る予定だから」
「は? アホちゃうん」
「君には負けるよ」
 それに関しては、返す言葉もない。
 けれど、赤点に関しては意味が分からない。
 『三つほど赤点を取る予定』
 この言い方では、まるでわざと香山が赤点を取りに行くみたいだ。
「香山って、ドMなん? わざわざ補習したいやなんて」
「したくはないよ」
「ほんなら、なんで?」
「反抗期」
 実の父親に友人を奪われてきた香山を知った今、その一言に妙に納得だ。
 友人を奪われていたこと自体は知らないにしても、きっと医者の息子だからと敷かれたレールの上を歩いて窮屈なのだろう。
「ええとこの坊っちゃんも、苦労してんのやな」
「君に分かってもらいたくないんだけど」
 俺はシャーペンをカタンと置いた。
「よし! 乗りかかった舟や。俺も付きおうたる」
「は? なにを?」
「補習。俺も補習するわ」
「バカなの?」
「少なくとも、香山よりはアホやろな」
 香山は呆れた顔で本をパタンと閉じた。
「別に好きにしたら良いけど、そのままだと君。全教科赤点だよ」
「せやった……全教科は嫌や」
 俺は再びシャーペンを手に持った。
 問題集に目をやれば、香山が隣でフッと笑った気がした。しかし、もう一度香山を見た時には、平然と澄ました顔に戻っていた。
 柔らかい太陽の光と共に涼しい風が図書室内に入り、カーテンが揺れる。その空間は、とても穏やかで、今までで一番と言っていいほどに居心地が良かった――。