夜の帳が降りた屋上で、突然どうして空気が震えた。ガタゴトと古びた車輪が軋むような独特の轟音が頭上から響き渡る。
私が空を見上げると、まさしく錆びついた古い電車の車両が、街の灯りを反射しながら、ゆっくり横切っていった。
(な、なにこれ……)
それは物理の法則を無視し、私の目の前、数メートルもない空中で制止した。
キィィィィ……とまるで、長い眠りから覚めるように、空気圧の抜ける音が微かに響く。そしてくすんだ緑色の扉が、音もなくすっと開いた。
「え? これって夢なの……」
驚きを隠せない私は自分の頬をつねる。するとつねった頬に鈍い痛みを感じた。
「夢じゃ……ないんだ……」
じゃあ、ここはもう天国で、この電車は私を迎えに来たのかしら? 色々思考を巡らせてみるけれど、私が求める答えなど見つかるはずもない。
ただ、今自分の目の前で起きていることは、現実だってこと――。それだけは理解することができた。
だって、まだ飛び降りていないから。
その車内を、目を凝らしてよく見てみると、かなり年季の入った電車だった。
扉が開いた瞬間――。
夜の冷たい空気の中に、少しだけ革の匂いが混じり込み、淡い光が私を包み込んだ。
古い扇風機が天井についていて、いつの時代かわからない広告が吊り下げられている。座席は元々綺麗な紅色をしていたのかもしれないけれど、今はくすんだ焦げ茶色にしか見えない。
それは子どもの頃、両親に乗せてもらった、祖父母が住んでいる田舎を走っている路面電車を彷彿とさせた。
「え? 待って。超イケメンなんだけど……」
開いた扉の向こうに立っていたのは、一分の隙もない燕尾服に身を包んだ、細身のイケメンだった。
彼の表情はとても穏やかで優しく、まるで主人の命令を待つかのように、その場に静かに佇んでいた。
夜空のように黒い髪に、切れ長の瞳。鼻筋も通っていて、やや中性的ではあるものの、端正な顔立ちをしている。年は、二十代半ばといったところだろうか?
身長は高く、スタイルもよくてまるでモデルのようだ。
私たち女子高生が彼を見たら、一瞬で虜になってしまうことだろう。
時を越えた古い電車と、完璧な姿の現代の執事。そのミスマッチな光景が、私の視線を釘付けにした。
そんな彼が、そっと私に話しかけてくる。
普段人との接触を最小限にしている私が、こんなにも眉目秀麗なイケメンと会話をするなんて……。それは『無理ゲーム』を最速でクリアしろ、と言われるくらい難易度が高い。
咄嗟に全身に力を込めたけれど、彼の優しい話し方と声色に、徐々に警戒心が溶けていく。全身の力が抜けていくような感覚がした。
「はじめまして、お嬢様」
「お、お嬢様……?」
「はい。私はこの電車を管理しております神崎と申します」
「はぁ……。かんざき、さん……?」
「ところで、お嬢様は、今ここで何をされていたのでしょうか?」
「え?」
神崎と名乗った青年の言葉に、思わず私は息を呑む。だって、『イジメにあって、今ここから飛び降りて死のうとしてたんですよ』なんて、話せるはずもない。
そんなことを告げるのは恥ずかしいし、勇気のいることのように感じられた。
だから私は、再び全身に力を込めて、黙ったまま俯いた。
大体、突然電車とイケメンが空から降りてくるなんて、現実ではありえないでしょう?
もうどうしたらいいかわからなくて、私は言葉を発することもできなくなってしまった。
そんな私にしてみたら、気まずい沈黙を破ったのは神崎さんだった。
「この電車は、自ら命を断とうとした方の元へ、自動的に向かう電車なのです。もしかしたらお嬢様は、今、その場所から飛び降りようとしていた……。違いますか?」
「あ、あの……」
彼の言葉に何も言い返すことができず、しどろもどろになってしまう。そんな私に優しい笑みを浮かべながら、神崎さんは言葉を続けた。
「この国では、年間で約二万人の方が自ら命を断っているという統計があります。それは減少傾向にあるのかもしれませんが、未だに高い水準です」
「一年間で二万もの人が、自殺をしてるの?」
「はい。そうです。そのうち、お嬢様と同じ高校生が自ら命をたった人数は、約二百五十人。私は、その何人かと、このようにお会いしたことがあるのです」
私は神崎さんの言葉に、驚愕してしまう。
この国で、そんなにも多くの人が自ら命を断っているなんて……。
私の知らない所で、私の知らない誰かが、苦しみ、そして自らの命を断つ――。なんて悲しい現状なのだろうか?
その人たちは、どんなに苦しかっただろうか?
どんなにも辛かっただろうか?
そう思うと、胸が張り裂けそうに痛みだす。
私の目に涙が溜まり、神崎さんが揺らいで見えた。
「私は、そういった方々を救うために、この古びた電車に乗り世界中を旅しているのです」
「すごい……。世界中を?」
「はい。そして聞こえたのです。お嬢様の悲痛な叫び声が」
「……私の?」
「そうでございます」
神崎さんの整った顔が苦痛に歪む。罪悪感からそんな彼を見ていることが心苦しくて、無意識に制服のスカートを強く掴んだ。
「お嬢様の声は、とても強く、はっきりとしたものでした」
神崎さんが空を見上げると、すっと星が一つ流れる。
校舎の前の道路を大勢の人が歩いているけれど、この電車も神崎さんも、その人たちには見えないのだろう。
きっと彼らは『死にたい』だなんて思うことなく生きている。私にはそれが羨ましかった。
「お嬢様の声は『死にたい!』という大きなものでした。でもそれと同時に『生きたい!』というものでもありました」
「…………」
「死にたいけど、生きたい――。その相反する心に呼び寄せられ、私はここに参りました」
神崎さんの言葉を聞いて、私の思考がフリーズする。
だって、私は死にたくて、屋上へ来たんだ。生きたいだなんて、これっぽっちも思っていない。
思っていない。
思っていないはずだ……。
私が恐々と神崎さんの顔を見上げると、その顔には優しい笑みが浮かんでいる。
その優しい笑みに、緊張の糸がプツンと音をたてて切れたような気がした。
一気に脱力し、立っていられなくなった私は、フェンスにしがみつく。それから、そっと呼吸を整えた。
「ある駅に電車が停車しているのですが、その電車は『未来を変えることができる電車』です。もしお嬢様に了承していただけましたら、その電車に乗っていただき、私と一緒に未来へ参りましょう」
「未来へ……」
「その通りです。二人で過去と未来へと向かい、終着駅でもう一度考えるのです」
「考えるって、何をですか?」
「やはり、このまま自ら命を断つのか? それとも、心を入れ替えて、もう一度人生をやり直すのか? この二択です」
「…………」
この人は、私の心の中の全てを見抜いている。
神崎さんと視線を合わせることが怖くて、私は彼から視線を逸らす。
この期に及んで、まだ「生」にしがみついている自分が恥ずかしい。
「大体、本当に死にたいと思っている方は、この電車と出会うことはできないのです」
「な、なんでですか?」
「本当に死にたいと思っている方は、躊躇うことなくそこから飛び降ります。でも、お嬢様はまだそこにいらっしゃる。それが何よりの証です」
「あぁ、そうですよね……」
この瞬間。私はようやく「自分はまだ生きていたい」という気持ちが残っていることを、認めることができた気がする。
だって、本当は友達と放課後どこかに遊びに行ってみたかったし、彼氏だって作ってみたかった。実は、美容師になりたいという夢もある。
でも、イジメという現実から逃げ出したくて、そういったもの全てから目を逸らして生きてきたのだ。
「自ら命を断とうと思っているのであれば、一度死んだつもりになって、電車に乗ってみませんか?」
「この電車に乗るんですか?」
「いいえ。もしお嬢様に了承していただけましたら、これとはまた違う電車に乗っていただきます。お嬢様の過去未来を変えるために……」
その神崎さんの言葉に、私は明らかに動揺を覚える。
でも、『未来を変える』という神崎さんの言葉は、凍り付いてしまった私の心に、温かな春風を吹かせてくれたような気がする。
心から信頼し合える友達に、優しい彼氏。
そして、美容師になるという夢――。
私の諦めていた夢が、今叶うかもしれない。
そう思うと、顔に熱が籠り、鼓動が少しずつ速くなっていく。
でも、差別やイジメはもう懲り懲りだ……。
相反する思いが、心の中で激しくぶつかり合う。
期待と不安で、私の心は掻き乱された。
でも、やっぱり、私は……。
「神崎さん。その電車に私を乗せてください」
「はい、かしこまりました。お手をどうぞ、お嬢様」
そう優しく囁いた後、大きな手を私に向かって差し伸べてくれる。
私はその手を、藁にもすがる思いで握ったのだった。
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