起点と終焉の駅 ―生きるか死ぬか、あなたはどちらの駅を選びますか?―


 お嬢様、駅に着きました。行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
「はい。行ってきます」
 神崎さんが微笑みながら、そっと肩を叩いてくれる。
 私は電車から降りることが、段々憂鬱になっていた。
 

 電車を降りた瞬間、私は教室にいた。
 数人の女子生徒に囲まれて「キモイ!」「ウザい!」という言葉を投げかけられている。


(あぁ、この制服と教室は、中学時代だ)


 しかも、私を取り囲んでいるメンバーを見る限り、恐らく中学二年生だろう。
 この頃から、私のイジメはエスカレートしていった。


 母親に買ってもらった可愛いペンや消しゴムを盗られてしまったり、ノートに落書きされることもあったなぁ。
 でも、私はやっぱり誰にも相談できず、ただ黙って耐えることしかできなかった。


 食欲もなくて、夜も眠れない。
 母親から「紬、最近瘦せたんじゃない?」と聞かれたけど、本当のことは言えずに「ダイエットしてるの!」と笑ってごまかした。


 今私を取り囲んでいる集団は、私のことを「バイ菌」と呼んでいる。
 私が触ったものを「汚い!」と言い、仲間に向かって投げるの。そうすると、その仲間も「やめてよ! 気持ち悪い!」って楽しそうに笑っている。


(まるで子どもね……)
 そう冷めた目で見ていたけれど、本当はとても傷ついていた。
 だって、私はバイ菌なんかじゃない。
 みんなと同じ、普通の人間なんだから……。


 でも何も言えない私は、黙って投げ捨てられた物を拾いに行こうと席から立ち上がる。
 だって、今投げ捨てられたものは、私が母親に買ってもらった大切なハンカチなんだもの。
 その時――。


「はい、これ」
「あ、ありがとう」


 その人は、いじめっ子が投げたハンカチを静かに拾ってくれた。そして、埃を払ってからそっと私に手渡してくれたの。
 私は突然の出来事に、言葉を失ってしまう。
 だって、今まで私をこんな風に庇ってくれる人なんて、いなかったから。


 ハンカチを拾ってくれたのは倉木優斗(くらきゆうと)君。
 サッカー部に所属していて、友達も多い人気者だ。
 イケメンだって学校中の噂で、ファンクラブもあるっていう噂を聞いたこともある。
 彼の周りにはいつもたくさんの友達がいる。
 私とは正反対の世界を生きている人だった。
 

 そんな彼にハンカチを拾ってもらえるなんて、凄く嬉しい……。鼓動が少しずつ速くなり、頬に熱が籠っていく。
 実は私、ずっと前から倉木君のことが好きだったの。それは私の初恋だった。


 でも、私は倉木君のことを遠くから見ていることしかできない。
 だって、こんな『普通じゃない』私に好意を寄せられたら、倉木君だって迷惑でしょう?
 だから、遠くから見ているだけで十分だった。
 ハンカチを拾ってくれたハプニングは、きっと神様がくれたプレゼントに違いない。
 私は、そっとハンカチを抱き締めた。


 それを見ていたいじめっ子が、一斉に倉木君に向かって文句を言はじめる。
「ちょっと、倉木! あんたそのバイ菌を庇うわけ?」
「庇うも何も、これって完全にイジメじゃん? 椎名さんが可哀そうだろう?」
「可哀そうなんかじゃないよ! バイ菌はバイ菌なんだから!」
「だからって……」
「倉木、これ以上バイ菌を庇うなら、あんたも同じ目に遭うからね?」


 その言葉を聞いた瞬間、私の呼吸が止まる。
(このままだと、倉木君までイジメられちゃう……)
 そう感じた私は、ハンカチを握りしめたまま教室を飛び出した。


(倉木君を巻き添えにしたくない!)
 私のことを唯一庇ってくれた人。そんな優しい人が、悲しい思いをする姿なんて見たくなかったから。


「待って、椎名さん!」
「倉木、追いかけるんじゃないよ!」
「でも……」
「いいから!」
 そんなやり取りが、遠くの方から聞こえてきた。
 でも私はその声を振り払うかのように走り続ける。どこに行けばいいかわからなかったけど、とにかく夢中で走った。


(もう嫌だ、こんなの……!)


 瞳から、涙が溢れ出す。
 それを大切なハンカチで拭った。
 このハンカチは、涙を拭うために買ったわけじゃないのに……。そう思うと、心が張り裂けんばかりに痛む。


(もう嫌だ……)
 空き教室に逃げ込んだ私は、声を殺して泣いた。


(なんで私ばかりが、こんな目に遭うの?)
 悲しくて、苦しくて、心が砕け散りそうだ。


「椎名さん」
 その時名前を呼ばれた私は、ハッとして顔を上げる。
 イジメっ子が追いかけてきたのではないかと、瞬時に青ざめた。体が小さく震え出し、呼吸さえもままならない。
 でもそこに立っていたのは、倉木君だった。
(もしかして、私を追いかけてきてくれたの?)
 そう思うと、違う意味でドキドキしてしまう自分がいた。


「大丈夫? ハンカチ汚れてない?」
「だ、大丈夫。ありがとう」
「よかった」
 その後、怖いくらいの沈黙が訪れてしまう。


 ずっと好きだった倉木君がこんなにも傍にいる――。それだけで、心臓が爆発してしまいそうだ。
 このうるさい程高鳴る鼓動が、倉木君に知られてしまうのではないか? と不安になってきてしまった。


「実は、俺、椎名さんがいじめられているのをずっと知っていたけれど、何も言わずに見ているだけだったんだ。本当にごめん」
「倉木君……」
「でも、最後くらい君を庇ってあげたくて……。ようやく声をかけることができたんだ」
「最後、って……?」
「俺、もうすぐ転校しちゃうんだ」
「え?」
 寂しそうに笑う倉木君が、私の頬を伝う涙を拭ってくれる。私は咄嗟にその手を振り払ってしまった。


「駄目だよ、私に触ったら。バイ菌が移っちゃう……」
「椎名さんはバイ菌なんかじゃないよ。本当に汚れているのは、君をいじめていた連中だ。だから、君はバイ菌なんかじゃない」
「……ありがとう」


 こんな風に誰かに庇ってもらうことなんて、初めてだったから……。胸がいっぱいになってしまう。


(倉木君が好き……)


 それを言葉にすることはできなかったけれど、心の中がポカポカと温かくなっていくのを感じた。
 でも――。


「倉木君、やっぱり私から離れて。私の傍にいたら、倉木君までイジメのターゲットにされちゃう」
「で、でも……」
「私は大丈夫。チャイムが鳴るまでには教室に戻るから」
「わかった。じゃあ、教室で待ってるね」
「うん」


 そう言い残し、倉木君は空き教室を出て行ってしまう。
 その時私は嬉しくて、天にも昇る思いだった。
 ずっと好意を寄せていた倉木君に、こんな風に庇ってもらえるなんて思ってもいなかった。
「ありがとう、倉木君」
 ずっと心臓がドキドキしていて、「好き」っていう思いで全身が満たされていく。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。


 その数日後、倉木君は本当に転校してしまったの。
 最後にもう一度だけ「ありがとう」って伝えたかった。でも人気者の彼の周りには仲間がたくさんいて、声をかけることもできなかった。


(甘酸っぱい初恋の思い出か……)
 今思い出しても、恥ずかしくなってしまう。


 優しくて、勇気のある倉木君。
 また会いたいな……。そう思った。


「お嬢様。そろそろ電車が発車致します。電車にお戻りください」


 遠くから神崎さんの声が聞こえる。
「はい。わかりました」
 

 私は心の中で、倉木君に「ありがとう」ともう一度お礼を言ってから、電車へと戻ったのだった。


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