オールの先に、水平線

 水瀬理人は、自分の毎日が嫌いだとは思っていなかった。
 ただ、好きだとも言えなかった。

 朝は決まった時間に目が覚める。目覚ましが鳴る前に、なんとなく目を開けることも多い。白いシャツに腕を通し、紺色のズボンをはき、鏡の前で髪を整える。特別なこだわりはない。乱れていなければ、それでいい。

 家を出て、同じ道を歩き、同じ信号で足を止める。
 見慣れた街並みは、今日も昨日と変わらない。

 学校に着くと、授業が始まる。
 先生の声、チョークの音、ノートをめくる音。
 理人は板書を写しながら、頭のどこかで別のことを考えている。

 考えている、というより、考えないようにしている、に近かった。

 将来のこと。
 夢のこと。

 誰かに聞かれるたび、言葉に詰まる。
 答えがないわけではない。
 ただ、それを「夢」だと口にする勇気がない。

 昼休み、クラスは賑やかだ。
 部活の話、進路の話、誰かの噂話。
 理人は購買のパンを机の上に置き、黙ってそれをかじる。

「水瀬、まだ部活決めてないんだろ?」

 唐突に声をかけられ、理人は顔を上げた。
 クラスメイトの男子が、何気ない調子で聞いてくる。

「うん、まあ」

「そっか。まあ、水瀬っぽいよな」

 笑って言われたその一言が、胸の奥に残る。
 否定も肯定もできないまま、理人は曖昧に笑った。

 ――水瀬っぽい、って何だろう。

 自分でも分からない。
 分からないまま、問いを流す。

 放課後、チャイムが鳴ると、教室の空気が一気に変わる。
 椅子を引く音、笑い声、部活へ急ぐ足音。
 理人は鞄を肩にかけ、いつものように教室を出た。

 本当なら、駅へ向かう近道を通るはずだった。
 けれど、その日はなぜか、校門を出たところで足が止まる。

 海沿いの道が、視界の端に入った。

 遠回りになる。
 家に着くのも少し遅くなる。
 それでも、今日はそちらへ行ってみたい気がした。

 理由は分からない。
 ただ、胸の奥で何かが静かに動いた。

 海に近づくにつれて、潮の匂いが濃くなる。
 風が強く、シャツの裾がはためいた。
 空は夕暮れに差しかかり、淡い青と橙が混ざり合っている。

 理人はフェンス越しに海を見下ろし、そこで初めてそれに気づいた。

 小さな舟が、海の上に浮かんでいる。

 細長い舟に、何人もの人影。
 長いオールが一斉に動き、水面が大きく揺れる。

 ――カッター部だ。

 名前だけは知っていた。
 だが、こうして練習を目にするのは初めてだった。

 舟の中央から、低く乾いた音が響く。
 鼓の音だ。
 それに合わせて、漕ぎ手たちが同じ動作を繰り返す。

 ドン。
 ドン。

 水を切る音と、掛け声が重なり合う。
 決して完璧ではない。
 それでも、確かに前へ進んでいる。

 理人は、いつの間にか足を止めていた。

 一人では進めない。
 誰かと息を合わせなければ、前に出られない。

 その事実が、妙に胸に引っかかる。

 教室では、誰がどこを向いていようと構わなかった。
 自分が目立たず、失敗しなければ、それでよかった。

 けれど、あの舟の上では違う。
 一人のズレが、全体を止めてしまう。

 ――自分には、無理だ。

 そう思う。
 そう思うのに、視線を外せなかった。

 そのときだった。

「……海、好きなんだ?」

 不意に、背後から声がした。

 理人は驚いて振り返る。
 少し離れた位置に、同じ制服の男子が立っていた。

 見覚えはない。
 シャツを少しラフに着崩し、風に煽られて髪が乱れている。
 年齢は同じくらいだろう。

「あ、いえ……」

 戸惑いながら答えると、男子は理人の視線の先――海を見る。

「俺も、嫌いじゃない」

 それだけ言って、フェンスにもたれかかった。

「魚とか、見てるとさ。
 あいつら、何考えて泳いでんのかなって思わない?」

 思わず、理人は目を瞬いた。

「……考えたこと、あります」

「だろ?」

 男子は笑った。
 その笑顔が、妙に自然で、眩しかった。

 舟の上では、誰かが大きく声を上げている。
 距離があって、言葉は聞き取れない。
 けれど、必死に仲間を鼓舞しているのは分かった。

「ああいうのさ」

 男子が言う。

「一人じゃできないこと、やってる感じがする」

 理人は、言葉に詰まった。
 胸の奥を、静かに突かれた気がした。

「……楽しそうですね」

 気づけば、そう口にしていた。

 男子は一瞬驚いた顔をして、すぐに笑う。

「うん。
 たぶん、相当きついけどな」

 やがて舟は岸へ戻り、練習は終わったらしい。
 部員たちの笑い声が、風に乗って届く。

「じゃあ」

 男子はそれだけ言って、理人の横を通り過ぎた。

「またな」

 振り返る間もなく、その背中は人波に紛れていく。

 名前も聞かなかった。
 どこの誰かも知らない。

 なのに、胸の奥に、奇妙な余韻が残った。

 帰り道、理人の耳には、まだ鼓の音が残っている。
 海の匂いと、舟の影と、知らない男子の声。

 家に帰り、夕食を終え、部屋で横になっても、
 それらは簡単に消えてくれなかった。

 天井を見つめながら、理人は思う。

 ――水族館で、魚のことを話している自分。
 ――誰かと同じ舟に乗っている自分。

 どちらも、まだ現実感はない。
 けれど、完全な空想とも言い切れなかった。

 色のないはずだった放課後は、
 確かに、少しだけ色を帯びていた。

 その理由を、
 理人はまだ知らない。