母を殺したひと夏の果てに


「おい、しっかりしろ――っ!」

 何度も呼ばれていた気がする。
 でも、耳鳴りがひどくて、何も聞こえなかった。

 呼吸が浅くて、胸がうまく動かない。
 視界もぼやけていて、頭の中がぐちゃぐちゃで。
 ただ、全身が痛くて――怖くて――

 どれくらいそうしていたんだろう。
 ふと、気づく。
 “音”が、消えている。

 怒鳴り声が、しない。
 「お前のせいだ」と私を責める声も、物が壊れる音も、床を踏み鳴らす足音も、どこにもない。

 最初に見えたのは、床に散らばったガラスの破片だった。
 小さな光が、ばらばらに反射してる。
 星みたいに綺麗だな、なんて思って――次の瞬間、息が止まった。

 そのすぐ隣に、“それ”は倒れていた。

 母だった。

 その目が、私を見ていた。

 見開いたまま、瞬きもせず、何も言わず、ただ、まっすぐに――私を、見ていた。

 死んだ目だけが、まだ生きているようだった。
 まるで、最後の最後まで、私を責めていたかのような。私を睨みつけるような目だった。

 息が止まった。
 心臓が変な音を立てた。

 気づけば、手首には紫色の痕が残っていた。
 さっきまで掴まれていたところ。
 指の形が、はっきり残っていた。

 あのとき、後ろから彼が飛び込んできて――
 揉み合いになって、何かが落ちた音がして、
 そして――こうなった。

 彼が私の肩を抱いていた。
 震えていた。
 きっと、私よりずっと怖かったはずなのに。

 学校の帰り道、ふたりで歩いたあの路地も、いつか一緒に食べたアイスの味も、母に見つかればすぐ壊されるものだった。

 鍵もかけられた部屋で、じっと息をひそめていた。
 また叩かれるかもしれない。
 でもそれより怖いのは、明日も生きてるっていうことだった。

「なんで生きてなきゃいけないんだろう」

 声に出したことはなかったけど、毎日、心の中で何度も唱えてた。

 だけど、彼だけは違った。
 いつも通りに話しかけてきて、私が目をそらしても、ちゃんと待ってくれた。

 そんな彼が、今、目の前で震えてる。
 床には倒れた母。
 それを見つめる彼の手は、赤く染まっていた。

 血が、少しずつ、床に広がっていく。

 鉄の匂い。
 子どもの頃、鉄棒に登ったあと、手についたあの匂いに、どこか似ていた。

「俺、やばいこと......」

「......大丈夫......大丈夫だから......」

 そう言った自分の声が、自分の耳にすら届かない。
 なにひとつ、大丈夫じゃないのに。
 ただ、どうしても彼を安心させたくて、そう言うしかなかった。

 胸の奥がきしむ。痛い。

 このままここにいれば、
 “世間”に、彼が奪われる。

 私たちが受けてきたことなんて、誰も知らない。
 誰も見ていなかったくせに、何も知らない誰かの正義で、踏みにじられる。

 私は立ち上がった。
 彼の手を握る。
 力はほとんど入ってなかったけど、それでも彼は私を見てくれた。

「ねえ、逃げよう」

 自分の声なのに、少し震えていた。
 彼が目を見開いた。

「え......でも、お前......」

「ここにいたら、全部終わっちゃう。捕まるとかじゃなくて、私たちが......壊れちゃう」

 彼の手をぎゅっと握った。
 怖いよ。未来も、不安も、全部。
 でも、それでも――ここにいるよりはマシだと思った。

「私たちが何をされたかなんて、誰も見てない。誰も、わかってくれないよ。助けてって、何回思っても、誰も来なかったじゃん......」

 ほんとうは、叫びたかった。
 怒鳴りたかった。
 でも誰も助けてくれないってわかってるからただ耐えることしか出来なかった。

「もう全部失ってもいい。だけど、朔だけはそばにいてよ」

 私は縋るように握る手に力を込めた。

 彼はしばらく黙っていた。
 だけど次の瞬間、ふっと息を吐いて、目を細めた。

「行こう。俺たちのことを誰も知らないどこかに」

 彼は、私の手をぎゅっと握り返してくれた。

 涙が止まらなかった。
 それでも、私たちは笑った。

 かばんに詰めたのは棚にあったお金と不安とかすかな希望。

 いらないものはすべて捨てた。

 そして泣きながら、笑って、手をつないだ。

 外に飛び出した瞬間、夕焼けが世界を包んでいた。
 嘘みたいに、きれいだった。
 現実が、夢みたいに揺れていた。

 彼の手の温もりだけが、この世界でたったひとつ、確かなものだった。

 私には、居場所なんてなかった。
 生まれてからずっと、世界のどこにもなかった。
 でも、彼と一緒なら、そこが“場所”になる気がした。

 だから、私はこの選択を後悔しない。
 たとえ、どんな未来が待っていようと。
 たとえ、破滅しかないとしても。

 この一瞬を、私はきっと、
 “青春”と呼ぶ。

◆◆◆


 母親の怒鳴り声が響いた。

 次の瞬間、視界がぐらりと傾く。

 壁に叩きつけられた背中に鈍い衝撃が走る。ずるずると床に滑り落ちると、頬に熱が広がった。頬だけじゃない。腕も、背中も、じんじんと痛む。

「お前なんか産むんじゃなかった」

 それが母の口癖だった。

 産まれたことが、私の罪。

 ここにいることが、私の間違い。

 殴られるのも、蹴られるのも、もう慣れた。驚きもしない。痛みは、ただそこにあるだけ。昨日も、今日も、きっと明日も。

「その目で私を見るなッ!!」

 髪をつかまれ、床を引きずられる。視界が揺れる。口の中に広がる血の味が、生きていることを思い出させる。

「......ごめんなさい」

 絞り出すように謝る。謝れば、少しは楽になれるかもしれない。だけど、母は一向に手を止める気配がない。

「チッ、気持ち悪い」

 乱暴に髪を放され、体が床に崩れ落ちる。母の手にはスマホ。もう私には興味がなくなったらしい。

 ふらつく足で立ち上がり、部屋へ向かう。鍵をかけ、ゆっくりと息を吐く。

 静寂。

 それが唯一の救いだった。

お母さんは私を1mmも愛していない。

私の両親は離婚していて、もう何年経ったかも覚えていない。浮気をしたお父さんは私たちを置いて家を出た。お母さんはお父さんにそっくりなこの私の目が嫌いだ。お父さんを思い出してしまうから。だからお母さんが私を見てくれたことは1度だってない。

 私は、この家に必要とされていない。私がここにいても、いなくても、母はきっと何も変わらない。

 だったら、いっそ──

 手首に触れる。皮膚の下で、血が静かに流れている。

 私がいなくなったら、楽になるだろうか。

 目を閉じる。

 それでも、涙は出なかった。

 ***

 学校に行けば、そこもまた地獄だった。

 靴箱の中に突っ込まれたゴミ。机に書かれた「死ね」の落書き。誰とも目を合わせないようにしながら、私は静かに席につく。

「ねえ、見た?  昨日、また母親に殴られてたんだって」

「え、マジ?  てか、普通に汚くない?」

 ひそひそとした声が聞こえる。クスクスと笑う音。気にしてはいけない。気にしたら、負ける。

 母の悪評は、近所でも有名だった。気に食わないことがあると、近所中に響くほどの怒鳴り声を上げる。壁を殴る音、物が割れる音。隣の家の人が警察を呼んだこともあるらしい。
 そんな話が学校にまで広がるのに、時間はかからなかった。

「アイツんち、やばいんでしょ?」
「関わらないほうがいいよ」

 誰かがそう言った瞬間、私は 「関わってはいけないやつ」 になった。

 教師はただ義務を果たすだけ。

 生徒の私のことなんて何も見ていないし、どうでもいい。

「何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」
「君たちは一人じゃないよ」
「先生たちはみんなの味方だから」

 ――嘘ばっかり。

 先生がいつも言う言葉は、綺麗事だらけだった。

 私がいじめられていることなんて、教師はとっくに知っている。アザだらけの腕を見ても、机の落書きを見ても、私の持ち物が捨てられていても。

 それでも朔らは、「問題が起きてほしくない」から目をそらす。

 見て見ぬふりをすることが、一番ラクだから。

 教師にとって、生徒なんて 「管理するもの」 でしかない。トラブルさえ起こらなければいい。ちゃんと授業を受けて、ちゃんと卒業してくれれば、それでいい。

 だから私は、どれだけ傷ついても、朔らにとっては何の問題にもならなかった。

「学校は楽しい場所です」
「みんな仲良くしましょう」
「人には優しくしようね」

 先生の言葉が、黒板の文字みたいに 無機質で、意味のないもの に思えた。

***

 耳の奥で、ガタンゴトンという音が鳴っていた。

 電車の揺れが心地いいなんて、今まで一度も思ったことはなかったのに、今はその微かな振動に、少しだけ現実感を取り戻していた。

 窓の外では、夜が街を飲み込んでいく。すれ違う光が、まるで誰かの人生みたいに、ひとつひとつ過ぎ去っていった。

 私は、座席に背を預けながら、小さく息を吐く。

 制服の袖口には、まだ乾ききらない赤い染み。手のひらは汗ばんで、冷たい指先を震わせていた。

 隣に座る朔も、無言だった。

 どこで誰が見てるか分からない。
 ずっと、誰かに見られている気がしていた。

 電車の窓に映る自分の顔も、何かに監視されているようで、直視できなかった。周りの乗客はスマホを見たり、眠っていたり、会話をしたりしていたけれど――誰も見ていないはずなのに、誰もが“見ているような気がした”。

 だから私たちは、最小限の会話しかしていなかった。

 ポケットに押し込んだ手を、そっと探る。朔の手は冷たくて、でも握り返してくれる力は確かだった。

 あの家を出たのは、ほんの数時間前のはずなのに、もう何日も経ったような気がする。何もかもが遠くて、夢みたいにぼやけていた。

 でも、これは夢じゃない。

 血の匂いも、床に倒れた母の目も、震える朔の肩も――全部、現実だ。

「次、〇〇駅です」

 車内アナウンスが流れる。思い出すのも嫌な日常の音が、今はまるで知らない国の言葉みたいに、どこか遠く感じられた。

「......ここ、降りる?」

 私が問いかけると、朔はほんの少しだけ首を横に振った。

「もうちょっと先がいい。人が多すぎる」

 そう言って、朔はフードを深くかぶった。表情は見えないけれど、目だけは、どこかを見つめていた。遠く、すごく遠くを。

 逃げても逃げても、現実は追いかけてくる。

 それはたぶん、わかってる。 

 でも、今だけは。

 この電車の揺れに包まれているあいだだけは、私たちの時間が許されているような気がしていた。

 ガラスに映る、私たちの姿。

 少しだけ、眠そうな朔の顔と、泣いた跡の残る私の目。

 どれだけ経っただろうか。

 電車の揺れに体を預けながら、時間の感覚がどんどん曖昧になっていく。まるで夢の中を走っているみたいだった。現実と幻の境界が溶けて、いま自分がどこにいるのかさえ、よくわからなかった。

「......そろそろ、降りよう」

 朔のその一言で、私はようやく意識を引き戻された。頷いて、立ち上がる。冷えた手を繋いだまま、私たちはドアが開くのを待った。

 電車を降りて、改札を出たとき、時計はすでに22時を回っていた。
 駅の構内は静かで、人はまばらだった。

 スーツ姿のサラリーマンが疲れた足取りで通り過ぎ、カップルが笑い合いながら階段を上っていく。誰も、私たちのことなんて気にしていないように見えた。でも――それでも、私はずっと胸がざわついていた。

「これからどうする?」

 駅前の自販機の明かりが、朔の顔をぼんやり照らしていた。

「補導される前に......どこか、泊まれる場所を探そう」

 朔の声は落ち着いていたけど、その指先はかすかに震えていた。

 駅前のマップを見ながら、ネットで検索して、安そうなビジネスホテルの名前をいくつか挙げる。でも、どこも18歳未満は泊まれないとか、保護者の同意が必要だとか、小さな文字が目に入ってくるたびに、心が沈んでいく。

「......漫画喫茶とかなら、入れるかも」

私がそう言うと、朔は頷いた。

 いくつかのホテルやネットカフェを回った。
 でも、どこも未成年だけでは泊まれないと言われた。

「ごめんね、ルールだから......」

 店員のその言葉は優しかったけど、まるでガラスのドア越しに言われているようで、遠く感じた。
 私たちの事情なんて、誰にも関係ない。

「......やっぱ、ダメかぁ」

 朔がぽつりとつぶやいた。

 深夜の街は、冷たくて、どこまでも他人行儀だった。
 街灯の下を通るたびに、自分たちが浮いているような気がした。でも、どうしてだろう。心は不思議と沈んでいなかった。

「これが“自由”ってやつかな」

 そう言ったら、朔が苦笑いして、「自由すぎるな」って返した。

 それが可笑しくて、二人で声を出して笑った。

 冷たい夜風も、今はただの風だった。
 親の目を気にしなくていい。
 誰かの顔色をうかがわなくていい。
 明日がどうなろうと、今は、私たちのものだ。

 結局、その日、私たちは公園で一夜を明かした。

 人気のない公園のすみっこ。ブランコの奥、木の陰に隠れるようにして置かれたベンチに腰を下ろす。

 そこが今夜の“秘密基地”。

 コンビニで買い込んだお菓子の袋を広げた瞬間、思わず笑いがこぼれた。

「なにこれ、子どもの夢みたいじゃん」

「絶対、買いすぎたよな」

 ポテチにチョコ、ラムネにグミ。駄菓子コーナーの謎のやつまで、スーパーのレジ袋が破れそうになるまで詰め込んだ。色とりどりの甘い誘惑が、ベンチの上に堂々と並ぶ。

「お菓子パーティー、開幕だな」

「夜の公園でお菓子パーティーって、背徳感やばいね」

「乾杯の代わりに、うまい棒でどう?」

「いいじゃん、贅沢!」

 笑いながら、ふたりでポリポリとスナックをかじる。夜風はまだ少し冷たいけど、こんなふうに笑える夜があるなんて、思ってなかった。

「ねえ、昔さ、こういうのしてみたくなかった?」

 誰にも文句を言われない。
 誰にも邪魔されない。
 この甘ったるいチョコレートの味さえ、まるで“自由”の味みたいだった。

「うん。でも、家じゃ絶対にできなかった」

 そう言った朔の視線は、どこか遠くを見ていた。きっと、朔も私と同じような傷を持っている。

「先のこと考えたら、こんなお金使うなんてバカだよな」

「大丈夫。お金なくなったら、万引きでもする?」

「......人殺しに万引きって。完全に犯罪者コースだな」

「別にいいよ。そうでもしないと、生きてけないし」

「......そうだな」

 朔はぽつりと呟いて、頷いた。

「それにしても暑いな」

 朔はTシャツの裾をパタパタとあおぎながら、風を呼び込もうとする。

「これからもっと暑くなるよね。......死体も、早く腐っちゃうかな」

「その前に、俺の親が行方不明で警察に行くだろうな」

 逃げ切れるなんて、最初から思ってない。
 でもそれでも、私たちは走ってる。

「これこそ、リアル鬼ごっこだな」

「じゃあ、捕まるまでが――私たちのタイムリミット」

 それでもいい。

 どうせ終わるなら、足掻いて足掻いて、最後まで運命に抗ってみせる。