四月の朝の教室は、いつもより少し音が多い。
椅子を引く音、机の脚が床に擦れる音、笑い声が跳ねる音。窓は半分だけ開いていて、外から入り込む風がカーテンを揺らしていた。
朝霧透は、自分の席に座りながら、それらをまとめて受け取っていた。
ひとつひとつに意味を持たせる気力は、まだない。
新学期。
黒板に書かれた白い文字を見ても、実感は薄かった。ただ、空気だけが少し違う。新しい匂いと、落ち着かないざわめきが混ざっている。
――目を閉じたほうが、分かることもある。
理由もなく、そんな考えが浮かぶ。
透はほんの一瞬、まぶたを下ろした。
音だけが残った。
後ろの席でシャーペンが転がる。
廊下を歩く足音が遠ざかる。
窓の外で、鳥の声がする。
目を閉じると、音の輪郭がはっきりする。
近い音と、遠い音。
それぞれが重ならず、ちゃんとそこにある。
「朝霧」
名前を呼ばれて、透は目を開けた。
担任が教壇に立っている。
「今日は転校生を紹介する」
その一言で、教室の空気が変わった。
ざわめきが、少しだけ高くなる。
前の扉が開く音がした。
透は、そちらを見るより先に、その音に意識を向けた。
きしみの少ない、静かな開閉音。
教室に入ってきたのは、一人の女子生徒だった。
担任の横に立つ。
「一ノ瀬紬です。よろしくお願いします」
はっきりした声だった。
高すぎず、低すぎず、無理のない音。
教室の後ろの方で、小さく拍手が起きる。
その音の中でも、彼女の声だけが、透の耳に残った。
担任が続ける。
「席は……そうだな。朝霧の隣が空いてるな」
一斉に視線が動くのが分かった。
透は反射的に背筋を伸ばす。
一ノ瀬紬が、軽くうなずく。
教壇を降り、こちらに向かって歩いてくる。
その足音が、だんだん近づく。
一定のリズムで、迷いがない。
椅子を引く音が、隣でする。
音は小さく、必要な分だけだった。
彼女が席に座る。
布が擦れる音。
ノートを机に置く、柔らかな音。
透は横を見る。
短く整えられた髪。
視線が合う前に、彼女は前を向いた。
授業が始まる。
チョークが黒板を走る音。
担任の声が教室に広がる。
透は、ノートを開きながら、隣の存在を意識していた。
見るというより、聞いている。
ページをめくる音が、一定の間隔で聞こえる。
呼吸が静かだ。
その音を追っているうちに、透はまた、目を閉じかけている自分に気づいた。
――目を閉じて、音を聞け。
誰かに言われたわけでもない。
でも、そのほうが分かる気がした。
休み時間。
消しゴムが床に落ちる音がする。
透の足元で止まった。
「あ……」
隣から、小さな声。
透は拾い上げ、差し出す。
指先が触れそうで、触れない。
「ありがとう」
声は、さっきより少しだけ近かった。
「……うん」
それだけで、会話は終わる。
でも、音は残る。
午後の授業。
風が強くなり、カーテンの揺れる音が大きくなる。
透は思う。
もし今、目を閉じたら。
椅子の軋み。
紙の擦れる音。
隣で息をする音。
音は、ちゃんとそこにある。
見なくても、分かる。
放課後。
教室は少し静かになっていた。
「ね」
隣から声がする。
「音、ちゃんと聞いてる?」
透は驚いて、彼女を見る。
一ノ瀬紬は、少しだけ笑っていた。
「……どうして」
「なんとなく」
それ以上、説明はない。
その日、透は何度か目を閉じた。
ほんの一瞬、ほんの数秒。
世界は、少しだけ、近づいた気がした。
椅子を引く音、机の脚が床に擦れる音、笑い声が跳ねる音。窓は半分だけ開いていて、外から入り込む風がカーテンを揺らしていた。
朝霧透は、自分の席に座りながら、それらをまとめて受け取っていた。
ひとつひとつに意味を持たせる気力は、まだない。
新学期。
黒板に書かれた白い文字を見ても、実感は薄かった。ただ、空気だけが少し違う。新しい匂いと、落ち着かないざわめきが混ざっている。
――目を閉じたほうが、分かることもある。
理由もなく、そんな考えが浮かぶ。
透はほんの一瞬、まぶたを下ろした。
音だけが残った。
後ろの席でシャーペンが転がる。
廊下を歩く足音が遠ざかる。
窓の外で、鳥の声がする。
目を閉じると、音の輪郭がはっきりする。
近い音と、遠い音。
それぞれが重ならず、ちゃんとそこにある。
「朝霧」
名前を呼ばれて、透は目を開けた。
担任が教壇に立っている。
「今日は転校生を紹介する」
その一言で、教室の空気が変わった。
ざわめきが、少しだけ高くなる。
前の扉が開く音がした。
透は、そちらを見るより先に、その音に意識を向けた。
きしみの少ない、静かな開閉音。
教室に入ってきたのは、一人の女子生徒だった。
担任の横に立つ。
「一ノ瀬紬です。よろしくお願いします」
はっきりした声だった。
高すぎず、低すぎず、無理のない音。
教室の後ろの方で、小さく拍手が起きる。
その音の中でも、彼女の声だけが、透の耳に残った。
担任が続ける。
「席は……そうだな。朝霧の隣が空いてるな」
一斉に視線が動くのが分かった。
透は反射的に背筋を伸ばす。
一ノ瀬紬が、軽くうなずく。
教壇を降り、こちらに向かって歩いてくる。
その足音が、だんだん近づく。
一定のリズムで、迷いがない。
椅子を引く音が、隣でする。
音は小さく、必要な分だけだった。
彼女が席に座る。
布が擦れる音。
ノートを机に置く、柔らかな音。
透は横を見る。
短く整えられた髪。
視線が合う前に、彼女は前を向いた。
授業が始まる。
チョークが黒板を走る音。
担任の声が教室に広がる。
透は、ノートを開きながら、隣の存在を意識していた。
見るというより、聞いている。
ページをめくる音が、一定の間隔で聞こえる。
呼吸が静かだ。
その音を追っているうちに、透はまた、目を閉じかけている自分に気づいた。
――目を閉じて、音を聞け。
誰かに言われたわけでもない。
でも、そのほうが分かる気がした。
休み時間。
消しゴムが床に落ちる音がする。
透の足元で止まった。
「あ……」
隣から、小さな声。
透は拾い上げ、差し出す。
指先が触れそうで、触れない。
「ありがとう」
声は、さっきより少しだけ近かった。
「……うん」
それだけで、会話は終わる。
でも、音は残る。
午後の授業。
風が強くなり、カーテンの揺れる音が大きくなる。
透は思う。
もし今、目を閉じたら。
椅子の軋み。
紙の擦れる音。
隣で息をする音。
音は、ちゃんとそこにある。
見なくても、分かる。
放課後。
教室は少し静かになっていた。
「ね」
隣から声がする。
「音、ちゃんと聞いてる?」
透は驚いて、彼女を見る。
一ノ瀬紬は、少しだけ笑っていた。
「……どうして」
「なんとなく」
それ以上、説明はない。
その日、透は何度か目を閉じた。
ほんの一瞬、ほんの数秒。
世界は、少しだけ、近づいた気がした。



