猛虎の若旦那と期限つきの婚約者



 今から約七十年前。
 獣力者・八重の獣化の姿を受け入れた真太郎は、二十四時間降り続けた雨が止んだ頃にひとつだけ八重に謝罪した。
 旅行中というのは真っ赤な嘘で、実はただの家出人だったことを打ち明ける。
 人間の姿に戻っていた八重はそれを笑って許し、真太郎の目的地が見つかるまでの滞在も許可した。
 両親の支配力が強く窮屈な思いをしながら育った真太郎は、心が壊れる寸前で家出を決行。行くあてもなく、ただひたすらに帝都から離れることだけを考え北上していた時、八重と出会ったのだ。
 互いに惹かれ合っていた二人が恋仲になるまで、そう時間はかからなかった。以降、今までに味わったことのない穏やかで安らぐ日々を送っていた真太郎は、愛する八重を二度と孤独にさせないと誓う。
 やがて二人の間に可愛い男児が生まれた。晴れた日に誕生したことに因んで、晴一(はるいち)と名付けることに決めた。八重の異能を受け継ぎ、同じ白い虎の姿をした獣力者の誕生だった。
 真太郎は腕の中で眠る我が子を眺めるだけで自然と涙が溢れてくるほどの子煩悩となる。こんなに可愛らしい宝物に会わせてくれた八重には、感謝してもしきれなかった。
 しかし、事が動いたのはその半年後だった。
 家出した息子を捜索していた真太郎の両親に、居場所を突きとめられたのだ。
 両親は真太郎と八重を無理やり引き離し、晴一さえも奪って帝都へと連れ帰ってしまった。最後に真太郎の父が八重に言い放つ。
『この泥棒猫め。二人を取り返そうと思うなよ。忌々しいお前が帝都の土を踏んだとわかれば子供の命はないからな』
 脅された挙句、愛する二人を奪われた八重は再び孤独となってしまった。
 帝都に連れ戻された真一郎は、本邸の鍵付きの部屋に監禁された。それでも三回の食事や茶菓子などは決められた時間に部屋へと運ばれ、清掃などもしっかり行われる。
 真太郎は両親にとって雪平製薬会社の大事な跡継ぎだ。失踪はもちろん、死なれるのも非常に困る存在。だから真太郎の父は、八重だけでなく真太郎にも圧をかける。
『お前が死ねば息子の晴一が全てを背負うことになる。雪平の血を持つ獣力者を生み出したあの女は憎いが、会社存続のためには仕方がない』
 つまり真太郎は、自ら命を断つことも愛しい人に会いに行くことも叶わない。そんな中で、以前八重と交わした約束を就寝前に思い出すことだけが真太郎の心の支えとなった。
『――真太郎。親である私たちが、命をかけて晴一を守っていこうね』
 記憶の中の八重は、赤子の晴一を寝かしつけながら微笑んでいた。それが八重の望みであり、真太郎の望みでもある。
 逆らえば何をするかわからない両親の理不尽な言動は目に余るものがあった。しかし八重と晴一に危害が及ばないようにするために、真太郎は操り人形になることを決意した。

 *

 約七十年前の出来事とはいえ、雪平家の極悪非道な過去が語られたことで広間は重苦しい空気に包まれていた。
 それでも蓮二は、真太郎が歩んできた人生を語り続ける。
「そこから十五年が経ち、真太郎は会社の跡を継いだ。するとどういうわけか、真太郎の両親は立て続けにこの世を去っていった」
「え……?」
 七都が色々と勘繰ってしまい青ざめる。それを察した蓮二は鋭い息子に感心しながらも否定した。
「病死だ。贅沢三昧で偏った食生活が原因だが、多方面からの恨みを買った故の因果応報もあるだろうな」
 てっきり真太郎が薬などを盛って両親を殺害したのではと考えていた七都は、それが間違いであったことに胸を撫で下ろす。
 しかし八重の生まれ変わりの留衣はぐっと唇をかみしめて、今にも泣きそうな顔をしていた。そのわけは蓮二の口から明かされる。
「真太郎と八重を引き離す者はもういない。この時を待っていた真太郎はすぐに八重を迎えに行った」
 命をかけて晴一を守ろうと約束した八重も、真太郎が迎えにきてくれるのをひたすら待ち続けていたはず。
 また家族三人で暮らせる日々を待ち望んでいたはず――。
「だが、間に合わなかった」
 嫌な予感がした七都は、胸のざわつきを抑えられずにいた。
 結末を知る蓮二も息が詰まりそうな圧迫感を覚えながら、低い声で呟く。
「八重は亡くなっていた。迎えに行く三年も前に」
「っ、そんな……」
「家は取り壊され、遺品や遺骨も持ち帰ることが出来なかった」
 悲しみが押し寄せてきた蓮二は切り替えのため息を吐き、雪平家のその後を語る。
 真太郎は信用を失いかけた会社を立て直し誠実な経営を心掛けた。母を知らずに育った晴一は多感な時期を迎え、獣力者ということもあり悩みは尽きなかった。幼少期に味わった孤独は根強く残り、祖父母から受けた精神的苦痛も相まって全ての人間に心を閉ざすようになる。
 それでも真太郎は、八重が遺してくれた晴一に全力の愛を注いだ。だがそれも遅かった。
 晴一は祖父母の歪んだ教育の影響で、獣力者として自分を産んだ母を憎んでいたのだ。
 時は経ち、やがて政略結婚した晴一に男児が誕生した。獣力者の息子には“蓮二”と名付けた。
 雪平の血を継ぐ子が誕生したことで跡継ぎ問題から解放された晴一は、会社経営を真太郎に任せたまま外部との関わりを断つように家に閉じこもる。政略結婚だったため夫婦愛が存在しない晴一の妻は自分勝手な生活を送り、蓮二の育児と教育は乳母に任せて外に男を作ると帰ってこなくなった。
 幼い頃の記憶を思い出しながら、蓮二がゆっくりと気持ちを吐露する。
「実父の晴一は、獣力者としての生きづらさを強く感じていたのだろう。だから自身のことも息子の私のことも、最期まで愛せなかった。八重さんが自らの手で晴一を育ててあげられていたら、獣力者としての生き方を得られたかもしれないが……」
 言いながら悲しげに視線を落とした蓮二の肩を、隣に座る鏡子がそっと支える。
 結局、親の愛情を受けられなかった蓮二もまた、一連の出来事の犠牲者と言ってもいいだろう。そんな彼の心の支えだったのは、年老いた祖父の真太郎と、やがて妻となる鏡子の存在だった。
「祖父は幼少の私に獣力者であることに誇りを持つよう教育した。何も恥じることはない、私の全てが私だと。そのおかげで鏡子と出会い結婚することができた」
 肩に添えられていた鏡子の手に蓮二の手が重なり、互いに見つめ合う。親の愛情を受けられなかった蓮二だが、誰かを愛することはできるし愛されるのだと実感した。それを教えてくれた鏡子には改めて感謝の念を抱く。
 ただし蓮二が結婚した後の真実も、今の七都に伝えなければならなかった。
「七都が生まれる三ヶ月前、晴一は真太郎の両親と同じ病で亡くなった。息子の心を最期まで救ってやれなかったと自分を責め続けた真太郎も、七都が生まれた二年後にその生涯を閉じる……」
 八重の魂を継いでいる留衣には、蓮二の話がずしりと重くのしかかった。それは八重の死後に起こった出来事で、八重が知らなかった愛する夫と子の最期だったから。
 それらを知った今、八重の魂と共鳴するように留衣自身が辛く悲しい感情に陥り目頭を熱くさせる。
 これまでの話を聞いていた七都も同じく、鼻奥につんとした痛みを覚えた。
 真太郎とその息子の晴一の人生を語った蓮二は、神妙な面持ちで留衣に声をかける。
「以上が祖父、真太郎から聞かされていた真実だ。それでも八重さんは雪平家の獣力者を案じていたと言えるのか」
 問われた留衣に緊張が走るも、八重の生まれ変わりであることを信じてくれているからこその質問に真正面から向き合った。
「私の涙が七都様の獣化を解除することこそが、案じていた証拠です」
 膝に乗せた拳を握りしめ、生前の八重の気持ちをそのまま伝える。
「雪平家に夫と子を奪われた八重さんですが、二人が元気に生きていることを願って孤独に耐えていた。誰かを恨む暇があるなら、大切な人達を想っていたかった。それは身体が老いても魂となっても変わりませんでした」
 お伽話では語られなかった内容だが、留衣は八重の気持ちが理解できた。雪平家に異能を受け継ぐ子が生まれれば、その連鎖こそがこの世に八重が生きていた証となる。ここで留衣は、七都を隣にして言いにくいことを口にする。
「八重が死んだ後の未来では、獣力者であることを望まない子も出てくる。それを憂いていた八重さんの思いが、生まれ変わりの私の涙に表れたのだと思います」
 説明を聞いた七都は、ハッと気づかされたような顔をした。
 獣化を解除する涙の効果が、李九には表れなくて七都には表れた。その理由は雪平家の生まれだったから。
「俺が雪平家の獣力者だから、効果があったのか……」
「雪平家の獣力者であり、なおかつ獣化からの解放を望んでいる七都様だから効果があったのです」
 それが留衣の涙に隠された力の本当の理由だと留衣は語った。
 つまり雪平家の獣力者である蓮二が留衣の涙を摂取したとしてても、その効果は表れない。なぜなら蓮二は獣力者であることを誇りに思い、その運命を受け入れているから。
 すべては獣化からの解放を望む七都の願いを叶えようとする、留衣と八重が起こした奇跡だった。
 留衣を通して、生前の八重の思いを知った蓮二は困惑する七都に唐突な話をはじめる。
「……七都。お前は生まれた時、祖父に抱っこされている」
「え?」
「覚えていないのか」
「お、覚えているわけないです。生まれたばかりなのに……」
 冗談なのか本気なのかわからない父の言葉に、七都が慌てて反応する。鏡子はふふっと微笑み、当時のことを思い出した。
「お祖父様は生まれたばかりの七都を抱いて涙を流していたわ。涙の理由はお話にならなかったけれど、七都が誕生したことと獣力者だったことが嬉しかったのかもしれないわね」
「獣力者だったことが……?」
 いまいち想像ができない七都が首を傾げると、鏡子はさらに鮮明にその光景を脳裏に浮かべる。
 目元を濡らしながらも、ひ孫に優しく微笑みかける真太郎の姿を。
「愛する八重さんと晴一(息子)はもうこの世にいない。けれど七都がその命の欠片を受け継いで生まれてきてくれたから」
「っ……!」
「七都はたくさんの人が繋いできた命の先に存在しているのよ」
 鏡子は母として温かい声で七都を諭した。さらに蓮二は、これまで息子に抱いていた思いを打ち明ける。
「お前は自分の異能を消したくて研究に没頭していた。その意欲は製薬会社の跡継ぎとしては買っていたし思想は自由だと理解している。だが一方で、獣力者の私や父を否定されているような気がしてならなかったんだ……」
 父の心の内を知り七都は言葉を詰まらせた。蓮二とは元々の性格や考え方が真逆で、親子であっても合わないものは合わないと諦めていた。やることなすこと否定され続け嫌気がさした七都は、家を出て別荘に住むようになる。
 だがその原因が、獣化からの解放を望んでいる七都の意思にあった。
「今でもその思いは変わらないのだろう。だからお前の身勝手な願望のために留衣さんを利用し、嘘の婚約話を我々に報告した」
「っ⁉︎」
 “利用”という言葉に強く嫌悪感を抱いた七都だが、否定することができなかった。はたから見れば、利用していると思われていても仕方がないからだ。
 しかし今の七都には、それだけではない感情が芽吹きはじめていた。
「まったく。あれだけ縁談を破綻にしてきたお前がいきなり婚約なんておかしいと思っていたんだ」
「でも留衣ちゃんはとっても良い子だから、こうして七都が連れてきてくれて私は嬉しいわ」
 腕を組み呆れたため息を吐いた蓮二の隣で、鏡子は真逆の受け取り方をしていた。
 いずれにしても二人の期待を裏切ったことに変わりない。
 それに七都が獣化の異能を憎めば憎むほど、解放を望めば望むほど。それを受け継いでいる蓮二、その父である晴一と母の八重。命を繋いできたそれらすべてを否定してきた罪に、七都は深い反省と後悔の波が押し寄せていた。
 獣力者である自分の好き嫌いだけの問題ではない。七都にはこれまで生きてきた人間の命の欠片が宿っているのだと、本当の意味で理解した。
 すると蓮二は真太郎の遺言についても話しはじめる。
「祖父が死ぬ間際、これまでの雪平家の歴史を隠せと言われた。八重のことも晴一のことも、七都には伏せるようにと」
「なぜですか?」
「お前を不安にさせないためだ。雪平家の歪んだ代を終わらせ、両親の愛情のもとで素直に育って欲しかったのだろう。そして最期に、祖父は私にこう言った――」
 蓮二は目を閉じ、瞼の裏に当時の真太郎の姿を映した。
 ベッドに仰向けになる老いた真太郎には、誰が見てもわかるほどに死期が迫っていた。顔や手足は痩せほそり、呼吸は浅く深くを繰り返す。
 真太郎はそんな状況の中で、会社を継いだばかりの蓮二に忠告ともとれる言葉を残した。
『蓮二は若い頃の私の顔によく似ている。だが、人生までは似るなよ』

 *

 時刻は夜の十一時を回っていた。冬の匂いを含んだ夜空には綺麗な三日月が浮いていた。
 浴衣を着て就寝の準備が整っている七都だが、ベッドには入らず自室の窓からそれをなんとなく眺めていた。
 今日一日で様々なことが動き、様々なことを知った。
 帝都の街を留衣とともに歩き回り、鏡子と昼食を摂りながら楽しい会話をする。保管庫では家系図を手に入れたものの、突然留衣が意識を失って不安と恐怖に苛まれた。
 曽祖父である雪平真太郎の妻、八重の生まれ変わりが留衣だったという真実。七都限定で獣化をが解除される涙の理由はそこにあった。
「俺が獣化からの解放を望む限り、涙の効果は続くのか……」
 独り言を漏らした七都は、父に指摘された言葉を思い出す。
『お前の身勝手な願望のために留衣さんを利用し、嘘の婚約話を我々に報告した』
 七都の苦悩に満ちた横顔が月明かりに照らされる。
 獣力者というだけで好奇な目で見られ、国からはその異能を国家のために使えと圧力をかけられ続ける。
 両親の顔を立てようと渋々縁談に行けば、財産目当ての女性ばかりで嫌気がさした。
 自分が獣力者である限り他人を信用できないし、信用もされない。七都はそう思っていた――留衣に出会うまでは。
 ふと留衣の朗らかな笑みが七都の脳裏に浮かんだ。その時、夜分にもかかわらず部屋の扉がノックされた。
「……誰だ」
「留衣です」
 声を聞き緊張が走った七都は、きゅっと肩を強張らせた。眠れないのは自分だけと思っていたら、別室で休んでいたはずの留衣も同じ状況だった。扉の向こうに彼女がいると思うと七都の鼓動が速くなる。
 ゆっくり扉を開けると、浴衣の上から半纏を羽織る留衣が立っていた。
「夜分遅くに申し訳ございません」
「いや、起きていたから問題ない。どうした?」
「どうしても、七都様にお願いしたいことがあって……」
 言いながら頭を下げた留衣の声が、少し震えているように聞こえた。気遣いのできる留衣が夜遅くに訪ねてくるということは、それだけ重要なお願いなのだろう。そう考えた七都は、留衣を快く部屋に招き入れた。
 肘掛け椅子を向かい合うように配置して、そこに留衣を座らせる。遅れて腰を下ろした七都が、まずは簡単な会話からはじめる。
「今日は本当にありがとう。俺の両親を前にして緊張しただけでなく重い話まで聞かされ疲れただろう」
「いえ。おかげで涙の謎も解けましたし、雪平家との繋がりもわかって安堵しています」
 微笑む留衣だが、その目元が若干赤らんでいるように見えた。もしかすると部屋で一人泣いていたのでは。
 気になった七都だが、指摘すれば留衣にいらぬ心配をかけると思い見て見ぬふりをするしかなかった。
「それで、どんなお願いだ」
 すると留衣はお願いを述べる前に、なぜそう思ったのかを話しはじめる。
「一人で部屋にいると、八重さんのことばかり考えてしまうんです。私の前世は八重さんですが、それとは別に私自身の感情が込み上げてきて……」
 言葉を詰まらせた留衣は、真剣な眼差しを七都に向ける。
「なので七都様、今ここで獣化していただけませんか」
 思いもよらないお願いに七都が目を見開いた。その反応は想定内だった留衣は袖口に手を入れ、一つのガラス管を取り出した。留衣が涙を保管するためにいつも持ち歩いているガラス管には、充分な量の涙が収められていた。
 それを近くの円卓にそっと置く。
「獣化を解くための涙は準備していますので、私の気が済みましたらすぐに元のお姿に戻っていただけます」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体何をしようと……」
 話が見えず七都が困惑していると、ようやく留衣がお願いの目的を口にする。
「七都様の獣化のお姿は八重さんと同じです。なので、八重さんに会えたという錯覚を起こしたいのです」
 きゅっと唇を結んで留衣が懇願する。
 錯覚を起こして何になるのかは教えてもらえず、七都が困ったように首根をかく。八重のことばかり考えてしまうと言っていた留衣だから、それを昇華させる何かを思いついたのだろう。
 心中を察してしばし悩んだ末に、七都は獣化することを決めた。
「わかった」
「っ!」
 早速立ち上がった七都は、少し距離をとって留衣の正面に立つ。窓を背にしながら深呼吸すると、心臓のあたりに拳を添える。
 黒い霧が発生し七都の全身を包み込む。留衣も息を呑んで待機していると、やがて黒い霧が消え去り白い虎が現れた。
 腰を下ろし前足は体の前でぴんと伸ばした姿勢で留衣を見つめる。背後から月明かりを浴び、大きな獣身の影がくっきりと浮かび上がっていた。
 七都の獣化した姿はいつ見ても美しく気品があり、留衣の心が奪われそうになる。
「ありがとうございます、七都様……!」
 お願いを聞き入れてくれた彼にお礼を伝え、留衣がそっと距離を詰めた。
「あの、触れても大丈夫ですか?」
「っ!」
 さらに要望が増えて七都が動揺する。留衣の目的はいまだに不明だが、断る理由もない七都は言葉を話せないかわりにこくりと頷く。
 許しをもらいほっとした留衣が、早速ふわふわの頬に手を伸ばし包み込むように触れた。優しい手つきで毛並みを撫でられた七都は、藍玉のような瞳を揺らしながらじっと耐える。
 くすぐったい感覚が徐々に心地よさへと変化していく。これが獣の本能なのかと戸惑いながら、撫でられることにすっかりを心を許していた。
 その時、七都の目の前をひとつの雫が落ちていった。ぽたりと小さな音を立てて床を濡らしたのを確認して、七都が視線を上げる。
 優しく頬を撫でる留衣の目には、いっぱいの涙が溢れていた。それが目頭と目尻の両方から流れはじめ、次々と床に落ちていく。
「……っごめんなさい。どうしても八重さんを重ねてしまって……」
 唇を震わせながら涙の理由を語るも、一向に落ち着く気配がない。八重の魂を受け継いでいる留衣が、八重と同じ姿の七都を前にしている。八重の思いと自分の感情が重なり合い、感極まった留衣は獣毛に覆われた七都の体を抱きしめた。
(っ……⁉︎)
 あまりに唐突で体を硬直させた七都は、首元に顔を埋める留衣の泣き声を耳にする。
「うぅっ、八重さん……、辛かったですね、頑張りましたね……」
 七都を抱きしめながら、留衣は八重に思いを馳せて涙する。
 おそらく留衣は、物理的に八重を労わってあげたかった。前世で味わった悔しさや悲しみ、孤独感を癒してあげたかった。獣化した七都を抱きしめることで、その思いを昇華させたいと考えたのだろう。
(……確かに、俺は八重さんの異能を受け継ぎ、その血も流れている)
 そして涙の効果が表れるのも、獣化からの解放を望む七都を案ずる八重の思いがそうさせていた。
 しかし七都のなかで、すでに何かが変わりはじめていた。
 話し合いの際に父と母に言われた言葉を思い出す。
『獣力者の私や父を否定されているような気がしてならなかった』
『七都はね、たくさんの人が繋いできた命の先に存在しているのよ』
 両親の思いを聞いてもなお、“獣化からの解放”を心から望んでいるのかと自問自答する。
 獣力者である自分を不自由なく育ててくれた両親。同じ志を持つ仲間の李九。そして――。
『私は七都様が獣化したお姿も好きですよ』
 そう言って微笑んでくれた留衣も、獣力者である七都そのものを受け入れてくれている。それでも獣化からの解放を望むのは、そうした人達の思いを拒絶していることになる。
(俺が望んでいるのは、本当に獣化からの解放なのか……?)
 縋るように抱きしめてくる留衣の体温を感じながら、啜り泣く声を耳元で聞きながら、七都の本心はどこにあるのかと七都自身が探していた。

 *

 もふもふした温もりを感じて留衣が瞼を開いた。窓から入る黎明の光を浴びながら、ここはどこかと考える。
(……確か、七都様のお部屋を訪問して、それから……)
 いつの間にか床に座ったまま眠っていた留衣は、何かに寄りかかっていることに気づく。ふと視線を向けると、白に黒の縞模様が入る獣毛があった。
「っ⁉︎」
 留衣は飛び起きて仰天する。獣化した七都が留衣を包み込むように伏せており、寝床になってくれていたのだ。
 肝心の七都は今もまだ眠っていて、静かな寝息を立てている。
 円卓には事前に用意していた涙入りのガラス管がそのまま置かれていた。寝落ちしてしまった留衣を放置して人間に戻ることもできたはずなのに、七都がそれをしなかった理由を探る。
(きっと私が重すぎて身動きが取れなかったのだわ……!)
 人間の姿に戻れていたら、ベッドでゆっくり休めたはずの七都を床で寝かせてしまった。大迷惑をかけたと留衣が青ざめていく。
 すると丸みを帯びた耳がぴくりと動き、七都が眠りから覚めた。
「っ……お、おはようございます。七都様」
 慌てて正座した留衣は、膝の前に指先を揃えて頭を下げた。獣化中の七都は話せないため、もちろん挨拶は返ってこない。静寂のなかで留衣は申し訳ない気持ちをそのまま伝えはじめる。
「いつの間にか眠ってしまい、ご迷惑をおかけして申し訳――」
 言葉を遮るように、留衣の頭に七都の額がこつんと当てられた。視線を上げると至近距離にある青い瞳に見つめられ、胸の奥でどきっと音を立てる。そのまま七都の鼻先が留衣の首元をかすめると突然頬ずりをしてきたのだ。
「え、な、七都様……⁉︎」
 突然の行動に驚いた留衣は目を丸くして体を強張らせる。ただ彼の様子から怒ってはいないことが伝わってきた。
 白いひげが首元に当たる度にくすぐったさを覚える。
「……あの、昨日は私のわがままにお付き合いいただき、本当にありがとうございました」
 おかげで八重への思いが昇華され留衣の心も魂も軽くなった。その言葉を聞いて安堵したのか、七都はさらに頬ずりを繰り返す。
 まるで巨大な猫に甘えられているような感覚になり、つい応えたくなって七都の首裏を撫でていく。
 それが心地良かったのか、もっと欲しがるように七都が迫ってきた。
「わ……っ!」
 積極的な行動に圧倒された留衣は、後ろに体重がかかり背中から床に倒れ込んでしまう。ごろんと仰向けになると、虎の姿の七都が覆い被さってきて戯れるように留衣の頬を何度も舐めてくる。
 目の前にいるのは大きな白い虎だが、中身はあの七都だ。そう思うとたまらなく恥ずかしさが込み上げて、留衣の頬が真っ赤に染まる。
 その困惑する顔に気づいた七都は、ようやく我に返ったように留衣から離れてその場に伏せる。
 ようやく留衣が体を起こすと、申し訳なさそうに反省する七都が上目遣いで様子を窺ってきた。なんだか初めて出会った時のことを思い出し、留衣はドキドキしながらも微笑みかける。
「大丈夫です。少し驚いただけですから」
 答えた留衣は、円卓上に置かれたガラス管に手を伸ばす。自分のお願いを聞いてくれた七都の獣化を早く解除してあげなくては。そう思った留衣はガラス管の蓋を開ける。
「七都様、獣化を解除いたしますので口を開けていただけますか?」
 早く元の姿に戻してあげようと思って留衣が声をかけた。七都はしばし沈黙したのち、控えめに口を開く。その口端から少量の涙を流し入れ、これで獣化は解除されると安心した。
 もうすぐ黒い霧が発生して虎の体を覆うはず。それを待っていた留衣だったが、虎の体には何の変化も起こらない。
 不思議に思い、留衣はもう一度ガラス管を口元に近づける。
「すみませんでした。量が足りなかったのかも……」
 今度はガラス管のなかにある涙をすべて七都に摂取してもらった。それでもなぜだか獣化は解除されない。
「……え、どうして?」
 今までできていたことが、できなくなってしまった。
 涙を摂取しても獣化が解除されない現実を目の当たりにして、留衣は一人困惑の表情をする。そんな彼女を青い瞳で見つめる七都は、今の自分に何が起きているのかを冷静に考えていた。