「……ここは?」
先ほどまで七都と保管庫にいたはずの留衣は、暗闇だけが広がる無の世界に佇んでいた。今は頭痛もなく呼吸も正常だが、その異様な空間には不気味さを覚える。
これが夢なのか、はたまた死後の世界なのかもわからず、周囲を見渡そうと振り返った。
「……!」
すると留衣の背後に一人の見知らぬ女性が立っていた。後ろ髪を三つ編みにして肩から垂らし、素朴な目元が物悲しげに下を向く。左耳には見覚えのある耳飾りが揺れており、七都や李九と同じ獣力者であることが窺えた。
無表情の女性を不思議に思いながらも、留衣はここはどこなのか尋ねようとした。その時、突然女性は俯いたままゆっくりと歩き出す。
「え……?」
同時に留衣の体は金縛りのように動かなくなり、目の前まで迫ってきている女性を避けることができなくなる。
瞬きも声を出すこともできず心の中で「ぶつかる!」と叫ぶと、女性は留衣の体をすり抜けた。瞬間、留衣の脳内に自分のものではない別の記憶が流れてきて、大きな衝撃とともに心臓がドクンと音を立てた。
*
それは初夏を迎えたばかりの、雨雲が迫る夕暮れ時だった。
一輪の手押し車を押しながら自宅に戻る途中だった八重は、少し疲れた顔で畦道を歩く。
嵐が近づく匂いを察し、自宅から少し離れた畑で育てたきゅうりや茄子を急ぎ収穫してきた帰りだった。頬に土がついていることも気に留めず自宅へ急ぐ。
もうすぐ二十歳を迎える八重は、数年前に両親を立て続けに亡くすも遺してくれた家と畑のおかげでなんとか一人で暮らせていた。人里離れた土地で一人で生きていくと決めたからには、誰の力も借りてはいけない。そう思い込んでいた。
「ごめんください」
その時、自分以外の人の声を久々に聞いた。八重がはっと顔をあげると、ポツンと存在する自宅前に旅支度をした人物が立っていた。
高級品の革製バッグを足元に置き、角笠を深々と被っていて顔はよく見えない。袴姿と芯の通った若々しい声から察するに、おそらく歳の近い青年だと見受けられた。
再度玄関先から家の中に向けて青年が声をかけるが、八重以外に住人がいないためもちろん応答はない。
人との関わりを避けて生きてきた八重は、自分の存在が気づかれないように草陰に隠れようかと考えた。
すると青年は、角笠を外してずるずるとその場に座り込んでしまったのだ。
「え……! だ、大丈夫ですか⁉︎」
つい声が出てしまった八重は、手押し車をその場に置いて不調そうな青年に駆け寄る。
翡翠色の髪の青年が、八重の呼びかけに顔を上げた。異様に整った目鼻立ちと、形の良い唇。今までの人生で見たことのないほどの綺麗な顔に八重は思わず息を呑む。
同じく八重の存在に気づき、目を丸くして驚いたような表情をしていた青年だが、すぐに柔らかく微笑み温かい声で言う。
「……ああ、お帰りなさい」
「え?」
「ここの住人の方ですよね? 玄関に生活感があったのでいずれ帰宅するだろうと思っていました」
なんだかふわふわとした緩い雰囲気を纏いながらも、根は賢そうな青年だというのが八重の第一印象だった。そして『お帰りなさい』と言われることについ懐かしさを覚えて、関わりを避けるはずだった八重が青年に尋ねる。
「こんな人里離れたボロい民家に何のご用でしょうか?」
皮肉まじりなのは自分が傷つかないために編み出した予防法だった。青年の視線は八重の左耳に垂れる耳飾りに向き、察した八重は少し嫌な気持ちを抱く。
国で定められた獣力者の証の耳飾りは国民の誰もが知っているものだ。そして八重の周囲から人々が離れていく元凶でもある。
それに慣れてしまっている八重にはその後の未来が見えた。この青年も何か理由をつけて逃げるようにこの場から立ち去るという未来が。今までの人間が八重の耳飾りを見た瞬間に離れていったから。
しかし青年は不意に微笑み、八重の頬についていた土を自身の袖口で拭き取った。
「……っ⁉︎ な、なにするんですか……!」
「土がついていました。用というのは、少し水を分けていただきたくて」
「……水?」
八重を獣力者と知りながらその頬に触れ、質問にもきっちり答える。どうやら青年は獣力者への偏見や恐怖心を持っていないらしい。少し安心した八重だが、距離を詰めてくるのが上手な点には動揺の連続だった。
初めて会った女性の頬に簡単に触れてくる男性は、きっと手練れに違いない。動揺を警戒心に変えて、スッと立ち上がった八重が冷たい表情で青年を見下ろす。
「水をお譲りしたらすぐに立ち去ってくださいね」
「うーん、僕もそうしたいと思っているんですけど……」
言いながら片足をまっすぐ伸ばした青年は、袴を捲って八重に見せてくる。
「できれば傷の手当てをする間だけ家にお邪魔させていただいてもいいですか?」
冷たい表情をしていた八重が、ギョッと驚いた目をする。青年のふくらはぎに、引っ掻かれたような切り傷があった。幸い傷口は深くはなさそうだが、じわりと血が滲んでいて見ているだけでも痛々しい。
よく見ると袴の裾や高価そうな駒下駄も、泥がついて汚れている。
八重の自宅が無人であることがわかっていたのなら、勝手に上がって台所の水を使うこともできた。怪我をしていて、細菌感染の心配があるのなら一刻を争うから尚更だ。周囲に他の民家はなく、目撃されたり告げ口されるようなこともない。
それでも青年は住人である八重の帰りを待ち、勝手に侵入するなんてことはしなかった。さらにはこんな怪我を負いながらも、平然と会話を交わし、最初に求めたのは“水”だった。
青年の事情が色々見えてきた八重は、一度草陰に隠れて様子を窺おうとした自分を恥じた。
「……け、怪我しているなら早く言ってくださいよ!」
八重は疲れも忘れて青年の腕を引っ張り立ち上がらせる。思ったよりも背の高い青年に肩を貸し、そのまま家の中へと移動した。土間の式台に座らせると、隣接する台所に向かって急ぎ桶に水を溜める。
「化膿したらどうしよう、お湯も用意したほうがいいわね。あ、外に野菜を置きっぱなしだった!」
水が入った桶を青年の目の前に置いた八重は、あたふたしながら今度は外へと飛び出す。その姿につい小さな笑い声を漏らした青年が汚れた足袋を脱いで裸足になる。ふと雨の匂いが強まったのを感じ、開けたままの玄関に目を向けた。
「……降ってきた」
湿った空気が立ち込めて、ぽつぽつと降ってきた雨が地面を濡らしていく。遠い空には真っ黒な雲が居座っていて、ごろごろと音を立てて接近してくる。
手押し車を片してきた八重は、野菜を抱えて家の中に戻ってくる。すでに雨が降っていたから、髪も着物も少し濡れてしまっていた。
初夏にはよくある急な天候変化。八重が濡れた髪を手拭いを使って乾かしているうちに、降りはじめた雨は徐々に激しさを増して地面と屋根を強く打ち付ける。
こんな嵐の中、怪我人を家から追い出すなんてできない。八重は患部を洗い流す青年に近づき、そっと声をかける。
「け、獣臭い家が嫌でなければ、夜が明けるまでは滞在して構いませんから」
青年の視線が患部から八重の顔へと移る。目が合い、思わずどきっと胸を鳴らした八重は咄嗟に顔を逸らして理由を付け加える。
「雨が降っていては全身ずぶ濡れになりますし、真っ暗な夜道で更なる怪我に繋がる可能性もあります」
「……助かります。ではお言葉に甘えてそうさせていただきますね」
心遣いが嬉しかった青年は、先ほどから獣力者であることを気にしている八重を安心させようとした。
「それに獣臭くなんてないです。貴女は出会った時から、花のようないい匂いがしていましたよ」
「え……!」
一度も言われたことがない言葉に、八重は思わず青年に目を向けた。
揶揄っているわけでもお世辞を言っているわけでもない。ただただ感謝と真実を口にしたような青年は、柔らかい笑みを浮かべていた。八重の心臓の鼓動が、また少し速くなった。
彼の名前は雪平真太郎。旅行の途中だと話してくれたが、自宅周辺は山に囲まれただけの田舎で、近くに旅行でくるような場所もなければ通り道でもない。
それに不可解な怪我まで負っていて、何か訳ありなのか?と八重はつい勘繰ってしまう。それを察したのか、真太郎は怪我に至った経緯を語りはじめる。
「一人で畦道を歩いていたら、突然草陰から野うさぎが出てきて」
「野うさ、ぎ……?」
「それに驚いて転倒した時、折れていた木枝で足を切ってしまいました」
自分でも情けないと思っているのだろう。苦笑いしながら話す真太郎を見ていると、それは紛れもない真実なのだと理解した。
「それだけでこんな痛々しい怪我を……」
「八重さん。今、僕のことを小心者と思いましたね?」
「…………はい」
絶妙な沈黙のあとに八重が答えると、真太郎は「ひどいなぁ」と言いながら眉を下げて笑った。長らく人と会話することがなかった八重は、楽しげに話す真太郎を見ていると、こちらまで楽しい気分にさせられることに気づく。
真太郎は大きな革製バッグの中から塗り薬を取り出すと、少し痛そうな顔をしながら傷口に塗布していく。
「え、それだけですか?」
「今は塗り薬しかなくて。この先の町に着いたらガーゼと包帯を買います」
「……水は求めるのに、ガーゼと包帯は求めないなんて」
ため息をついた八重が座敷にある箪笥へ向かうと、ガーゼと包帯を手にして戻ってきた。式台に座る真太郎の前に屈み、薬を塗り終えた患部にガーゼを当てて包帯を巻いていく。
「あ、ありがとうございます」
「治療道具を持っていても使うことはあまりないんです。獣力者は傷の治りも早いから」
言いながら黙々と包帯を巻いていく。そんな八重の優しさに触れた真太郎は、つい知りたくなってしまった。
「ずっと一人で暮らしているんですか?」
「数年前に両親が亡くなってからは、そうですね」
八重は手を動かしながら淡々と答えた。真太郎がさらに踏み込んだ質問をする。
「寂しくないですか?」
「逆です。ただでさえ獣力者は嫌われているから、一人のほうが全然気楽」
随分と当たり前の回答をしてしまったと思い八重が自嘲する。そもそも、そんな質問をする真太郎はもしかするとただの獣力者の実情を知らないだけなのかもしれないとさえ思った。
手当てを終えた八重がさっと立ち上がる。その時、くらりと頭が回ってしまい足元がふらついた。壁に手をつこうとした八重は、気づけば即座に立ち上がった真太郎に肩を支えられていた。
「大丈夫ですか?」
「……すみません。少し疲れが……」
言いかけた八重がはっとした顔をして、咄嗟に真太郎の体を突き飛ばす。突然のことで呆気に取られる真太郎に、八重は青ざめながら説明する。
「た、体力を消耗しすぎると意思に関係なく獣化してしまうんです! このままだと真太郎さんに恐ろしい姿を晒すことに」
それだけは避けたくて、八重は深呼吸を繰り返して体力の温存をはかる。
できれば真太郎には今すぐ立ち去って欲しいところだが、今夜のみの宿泊を許した以上は無理に追い出せない。外はまだ強い雨が降り続け一向に止む気配もない。
このままでは本当に彼の前で獣化してしまう。あの姿を実際に見てしまったら、野うさぎで転倒する彼に更なる恐怖を与えてしまう。
そんな気がしてならない八重は、獣化して話せなくなる前に早口で真太郎に告げる。
「私は奥の部屋で休みますが絶対に近づかないでください。真太郎さんは座敷で適当に過ごして、朝になったら勝手に出て行って」
「でも、助けていただいた八重さんにまだお礼……」
「いらない、それより貴方に獣化した姿を見られたくないのっ」
最後は強い口調で言い放ってしまった。どうして今日に限って体調管理ができなかったのかと自分を悔いたがもう遅い。八重が泣きたい気持ちを抑えて家に上がった時、突然体が宙に浮かんだ。
「わっ⁉︎」
「八重さんを部屋まで運びます。このほうが体力消耗しませんよね」
浮いた理由は、真太郎に抱きかかえられていたからだ。なんの躊躇いもなく獣力者の体に触れただけでなく、足に怪我をしているというのに何食わぬ顔で廊下を歩き進んでいく。
自分を犠牲にした彼の行動に驚きすぎて、八重は声も出せずにいた。すると真太郎が優しく胸の内を語りはじめる。
「八重さんの気持ちも理解できますが、僕はいろんな貴女を知りたいと思っています。初めは冷たい表情をしていたのに、少しずつ表情が和らいで時折笑ってくれると僕も嬉しくなりました。だから獣化した姿を見ても、きっと僕は受け入れられます」
「……ど、どうしてそんなこと、言い切れるんですか」
「さあ、どうしてでしょう。僕もよくわかりませんがそう思うんです」
今はまだはっきりとした理由が不明で、真太郎は困ったように微笑みかけた。その表情を目に映すと、八重の焦る気持ちが不思議と落ち着いてくる。
誰にも知られたくなかったはずの獣化の姿。けれど彼ならきっと、今のように微笑み返してくれる気がした。
奥の部屋の前に到着し、真太郎は丁寧に八重の体を下ろした。
「ゆっくり休んでいてください。僕は座敷にいますから。怪我の手当てをしてくれて本当にありがとうございました」
感謝の言葉をかけた真太郎は、その場を立ち去ろうと踵を返した。
くいっと背後を引っ張られる感覚がして足が止まる。真太郎がそっと振り向くと、八重は俯いたまま真太郎の衣服を指先で摘んでいた。
「八重さん?」
「……私も、よくわからないです。長らく人と関わっていないせいかもしれませんが、真太郎さんはとても話しやすくて、心が安らぎます」
どこか危なかしくて緊張感も警戒心もなく、それでいて朗らかで柔らかい雰囲気を纏う。そんな彼の人柄が八重の凍てついた心を解かしてくれたのか。それとも他に要因があるのかは見当もつかなかった。
ただ、このまま真太郎とお別れかと思うと、八重の心に寂しさが押し寄せてきた。
「……恐怖を感じたら、すぐに逃げてくださいね……」
悲しげに微笑んだ八重が儚げで綺麗だった。真太郎は瞬きを忘れ、それ以上の説明がないままでいると突然八重の体が黒い霧に包まれていった。
やがて黒い霧は消え去る。呆然とする真太郎の前に現れたのは、美しい銀白色に黒の縞模様を全身に纏った一頭の虎。
ついに獣化した姿を真太郎に晒してしまった。覚悟を決めた八重にじっと見つめられ、ようやく腑に落ちた真太郎はそっと彼女に手を伸ばす。
「そうか。どうりで……」
言いながら獣毛に覆われた頬に触れ、息がかかりそうなほどに顔を近づける。八重の瞳を見つめ返しながら、ずっと感じていたことを口にする。
「吸い込まれそうなほどに美しいと思っていたんです。八重さんの、藍玉のようなその瞳……」
真太郎は躊躇うことなく獣化した彼女と額を合わせた。美しいと言われただけでなく、顔を間近に寄せられた八重は思わず息を止める。
獣化の姿で人の温もりを感じたのは、生きていた両親に触れられたとき以来だ。
獣の姿が恐ろしくないのか、気持ち悪くないのか。そう尋ねてみたかった八重だが、残念ながら獣化している間は話すことができない。
それでも獣化の姿を晒したことに後悔がないのは、真太郎が変わらず微笑みかけてくれたからだろう。
八重の心が、体が、心地よい熱に包まれた。
*
「はっ……!」
意識を戻した留衣は崩れるようにその場に座り込む。呼吸を乱して困惑するなか、これまでの情報を整理しようと必死になる。
頭の中に流れてきた記憶は、留衣が幼い頃に聞いたお伽話に似ていた。
村のはずれで一人孤独な生活を送っていた獣力者の八重が、一人の青年と出会って怪我を手当てした。その部分をより忠実に見せられた感覚だった。
振り返ると、先ほどすり抜けた女性がこちらを見て佇んでいた。それは紛れもなく、留衣が記憶の中で見た八重の姿だった。目が合いようやく気づいたのは、八重の瞳が七都と同じ青色をしていたということ。
「……貴女は、八重さん。そして八重さんは、私……?」
感じたままを言葉にすると、八重は淡々と語りはじめる。
「貴女の前世が私……。つまり、私の魂を受け継いで生まれたのが貴女なのよ」
「私が、八重さんの生まれ変わり?」
最後に切なげな瞳をした八重は背を向けて歩き出した。徐々に遠ざかるその背中に向かって、留衣が左腕を伸ばし呼びかける。
「ま、待ってください! まだ聞きたいことが……!」
留衣の頭の中ではたくさんの質問が浮かんでくるも、何から問えばいいのかわからない。
青年は“雪平真太郎”と名乗っていた。そして八重の獣化した姿は、七都と同じ白い虎。その答えは、雪平家の獣力者のはじまりは八重ということなのだろうか。
その後の八重と真太郎は一体どうなったのか。そして八重の生まれ変わりの自分の涙が、なぜ七都の獣化を解くのか。
しかし留衣の声は届かないまま、八重の姿は小さくなっていく。
「八重さん……、八重さん!」
必死に呼び止めても八重は振り返ることなく、やがて暗闇に消えていった。八重に向けて伸ばしていた留衣の左手が、虚しく下ろされようとしていた。
その時、頭の中に八重の声が直接流れ込んでくる。
「――目覚めたら、すべてを理解するわ」
留衣の手のひらにふわりと優しい温かさが伝った。同時に自分のことを必死に呼ぶ声が聞こえた気がして、留衣が顔を上げる。
聞き心地の良いその声は徐々に大きくなり、それが誰のものかわかってくる。瞬間、留衣は深い海の底から引き上げられる感覚に襲われた。
「留衣さん!」
ベッドで眠っていた留衣は、呼びかけに反応してゆっくりと目を開いた。まだぼんやりとした意識の中で見えてきたのは、不安げな表情をする七都だった。
「……七、都様?」
「留衣さん、よかった……」
腹の底から安堵のため息を漏らした七都が、両手で包み込んでいた留衣の左手をさらに強く握った。
椅子に腰掛ける彼の背後には、留衣の知らない部屋の内装が広がっている。窓から差し込む光は赤く、壁時計は夕刻を指す。本邸を訪問して四時間も経過していた。
夢の感覚から抜け出せないでいた留衣が体を起こしながら問う。
「……ここは」
「今晩休むために用意した留衣さんの部屋だ」
七都がその肩を支えながら、さらに説明する。
「保管庫で突然意識を失った留衣さんを急いでこちらに運んだのだ。先ほど医師にも診てもらい、脈や呼吸に異常はないと」
七都の優しい声もその不安げな表情も鮮明に感じる。ようやく夢ではないことが実感できた留衣は、なぜか涙が溢れてきた。
「留衣さん? ど、どこか痛むのか?」
その問いに小さく首を振る留衣だが、涙を抑えることができず何度も目元を拭う。
「……私の涙がなぜ、七都様の獣化を解くのかわかったんです」
その言葉は七都に衝撃を与えた。同時に思い出すのは、留衣が意識を失う直前の行動だ。
しばし沈黙した七都は、自身の懐にしまい込んでいる手紙の存在を強く感じていた。
その時、部屋の外からノック音が聞こえてくる。
「七都様、旦那様がご帰宅されました」
「わかった。俺が行って事情を説明する」
答えた七都が袖から手巾を取り出し、留衣の涙を慈しむように拭う。
「父が帰ってきたが留衣さんは気にするな。顔合わせはもう少し落ち着いてからにしよう」
「で、ですがお待たせするのは悪いです」
涙を綺麗に拭いてもらった留衣が、申し訳なさそうに眉を下げる。
自分が倒れた後だというのに周囲を気遣う。その姿勢に七都の心はここへきて何度も揺れ動く。もう見ないふり、気のせいにはできないところまで来ていると自覚して、七都の長い指先が留衣の頬にそっと触れた。
「っ七都、様?」
「俺が今一番大切にしたいのは、留衣さんの笑顔だ」
言いながら指を滑らせて手のひらを頬に添えると、留衣の瞼がぴくりと動いた。その反応さえも愛らしくて七都の心を駆り立てる。
「貴女が周囲の人々を思うように、俺は留衣さんを……。だから、俺の前では無理をしないでくれ」
熱い眼差しが注がれ、添えられた手のひらから温もりが伝う。
留衣はいつもと様子が違う七都に戸惑いつつも、体の中では大きな太鼓が何度も何度も叩かれるように音を鳴らしていた。
「あ、あの……」
言いかけた時、ノックもなく部屋の扉が突然開いた。
反射的に留衣の頬から手を離し、七都が扉のほうに目を向ける。同じ動作をした留衣はその人物を見るや否や衝撃を受けて息を止めた。
すらりと背が高く上品なスーツを身に纏う男性。整った目鼻立ちと形の良い唇、翡翠色の髪は前世の記憶の中の彼そのものだった。
「真太郎さん……!」
留衣が思わず名前を呼んだ。なぜその名を知っているのかと驚いた七都は、困惑しつつも小声で説明する。
「……る、留衣さん。あれは父の雪平蓮二です」
「えっ……⁉︎」
留衣がもう一度じっくり男性を見つめると、真太郎にはなかったものを発見する。年齢と経験を重ねてきたような威厳や貫禄、そして左耳には獣力者を示す耳飾りが揺れていた。
留衣の前に現れたのは真太郎ではなく、雪平製薬会社の代表で七都の父の蓮二だったのだ。
初対面となる蓮二を見間違えただけでなく、誤った名前を口にしてしまった留衣は青ざめながら謝罪する。
「……私、なんという間違いを。大変申し訳ございませんでした……!」
ベッドの上で深々と頭を下げるも、留衣は強い危機感を覚えていた。今の失態は蓮二に不快感を与えたはず。最悪、七都の婚約者として認めてもらえないとまで考えた。
そこへバタバタと足音を立て、蓮二を追いかけてきた鏡子が部屋に入ってくる。
「もう蓮二さんったら、いきなり女の子の部屋を訪ねてはダメよ。留衣さん眠っているんだから……って、あら?」
鏡子が室内に目をやると、意識を失っていたはずの留衣が蓮二に向かって頭を下げ、七都は困惑した表情でそれを見つめていた。
これは一体どういう状況なのか。尋ねようとした時、蓮二が留衣に声をかける。
「川瀬留衣さん、だったな」
「は、はい……」
「どうして知っているのだ。私が、雪平真太郎によく似ていたことを……」
問われた留衣が頭を上げると、驚きに満ちた蓮二の顔があった。
真太郎は蓮二の祖父、つまり七都にとっては曽祖父にあたる。名前は知っていたが写真などは一切残っておらず、七都は真太郎の顔も、蓮二と似ているという事実も知らなかった。
しかし留衣は蓮二を『真太郎』と呼んだ。蓮二と真太郎が似ていることを知っていたというより、本気で見間違えていた様子だった。その原因がわかるかもしれないと思い、七都は懐に隠した手紙をそっと取り出した。
「すみません。父さんが不在の間に保管庫を調べさせてもらいました」
「⁉︎ 七都、それは……」
見つからないように保管していたはずの手紙が七都の手にあり、蓮二が言葉を詰まらせる。
徐々に点と点が線で繋がっているような気がして、七都がさらに核心へと迫る。
「手紙の中身を読んで誰が書いたものか理解しました。これは曽祖父の真太郎が、妻の八重さんに宛てた恋文だった」
家系図では真太郎の妻は黒く塗りつぶされていた。あの時には名前がわからなかった真太郎の妻の名は、この手紙を読むことで初めて“八重”だったと判明した。
「そして留衣さんは、この手紙を手にした時に意識を失い倒れた」
言いながら、七都は先ほどの留衣の言葉を思い出していた。
『私の涙がなぜ、七都様の獣化を解くのかわかったんです』
全ては留衣の話を聞いてみないと始まらない。それが真実に沿った内容か否かは、曽祖父を知っている蓮二しか理解し得ないこと。
ただし、それらを語るには留衣の涙が七都の獣化を解く現象も説明しなくてはならない。
二人の婚約を疑われる可能性は充分にあるなか、七都は苦渋の決断を下した。
「父さん、母さん。俺と留衣さんの関係について、大事な話があります」
*
鏡子と雑談していた広間に集まり、今度は蓮二を加え四人で話すことになった。
留衣の隣に座る七都は、その体調を心配してこまめに尋ねる。
「具合が悪くなったらすぐに言ってくれ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
過保護すぎる七都を安心させようとして、留衣がふふっと朗らかに笑う。
七都はテーブルを挟んで正面に座る両親に、留衣との関係を正直に話しはじめる。
「俺が留衣さんと婚約した本当の理由は、彼女の涙に隠された力の研究をしたかったからです」
「どういうことだ。涙に隠された力とは一体……?」
聞いたことのない話に獣力者の蓮二が怪訝な顔をする。隣に座っていた鏡子も、可愛らしい目を丸くして耳を傾けた。
「留衣さんの涙には獣化を解除する力があります。それも、俺の獣化だけを解除する力です」
「なんだと……⁉︎」
「なぜ俺限定なのか。李九の協力のもといろいろ調べて予想したのは、俺と留衣さんの遺伝的な繋がりでした」
その説明の中には、留衣も初耳の情報も含まれていた。遺伝的な繋がり――つまり七都との血縁関係の可能性を知った留衣は胸の奥にずしりと重たいものを感じる。しかし七都がすぐにかき消してくれた。
「俺はそれを否定したくて家系図を調べることにしました。あとは父さんが知っている情報と、留衣さんの話の整合性をとりたい」
七都は留衣に視線を向け、優しく問う。
「先ほどの話の続きを聞かせてほしい」
七都の青い瞳が留衣をとらえる。しかし留衣には少し不安があった。
本日顔を見知ったばかりの自分の言葉は、七都の両親にどこまで信じてもらえるかわからなかったから。膝の上で拳を握った時、不意に七都の手のひらが重なった。
はっとして顔を上げると、その緊張を解きほぐすように七都が軽く頷いた。言葉に出さずとも「大丈夫」と言っているのが伝わってくる。
彼の手のひらが離れた後も温もりはずっと残っていて、勇気をもらった留衣は意識を失った後のことを思い出しながら語る。
「眠っている間に八重という女性の記憶を見ました。雪平真太郎さんとの出会い、仲睦まじく過ごした日々、男児を産んだ時の記憶まで、彼女の視点から見た世界を鮮明に見ました。私の前世の魂が、八重さんなのだとわかったんです」
留衣は感情的にならないよう気をつけながら話をする。目を見開いて驚いていた蓮二は何かを考え込むように沈黙してしまい、鏡子は口元に手を添えて控えめに声をあげる。
「まあ。留衣さんは八重さんの生まれ変わりってことなの? 七都、知っていた?」
「いえ……俺も、今初めて聞きました」
答えた七都は、留衣と自分との繋がりがこんな夢物語なものとは考えてもみなかった。ただ、そんな信じ難い話を両親は信じてくれていることに感謝の念が込み上げてくる。
そんな中で、まだ解けない謎があった。
「八重さんの生まれ変わりの留衣さんの涙が、なぜ俺の獣化を……?」
限定的な効果のわけについて、留衣の口から伝えられる。
「八重さんは雪平家に生まれる獣力者をずっと案じていたのです」
その瞬間、静かに話を聞いていた蓮二が声を荒げる。
「嘘だっ!」
「と、父さん……?」
否定的な言葉に留衣と七都が困惑する。蓮二は留衣が八重の生まれ変わりと信じた上で、ずっと心にしまっていた思いを話しはじめる。
「八重さんは雪平家を恨んでいたはず。産んだ子と夫の真太郎を取り上げられ、幸せだった生活が一瞬で奪われたのだから!」
ここまで感情を露わにする蓮二の姿は珍しく、妻の鏡子さえも呆然とさせた。
明らかに何かを知っている父の変貌に、七都が静かに頭を下げた。
「お願いいたします。父さんが知っていること、全て話してください」



