留衣の涙の分析結果がわかってから三週間ほどが経った午前九時。
秋も終わりを迎えようとしていて、落ち葉の絨毯が林道を埋め尽くしていた。
三十分前に別荘を出発した車は、エンジン音を立てながら紅葉がはらりと舞い落ちる中を走る。もうすぐ帝都に入るという車内では、いまだに緊張した面持ちの留衣が膝の上でそわそわと手先を動かしている。
「留衣さん。面倒なことになってしまい申し訳ない」
隣に座る七都が申し訳なさそうに声をかけると、はっとした留衣は慌てて首を振った。
「謝らないでください。こうなることも覚悟の上で偽装婚約者を引き受けましたから」
心配かけまいと笑みを浮かべるも、その顔はやはり少し引き攣っていた。
華やかな菜の花色の着物に厚手の肩掛けを羽織り、長い髪は首の後ろで一つにまとめ髪飾りまで用意してもらった。なかなかに目立つ格好なうえ、久々の外出ということもあって留衣はずっと落ち着かなかった。
その心情が痛いほど伝わってきて、七都が不安を取り除くように話題を変える。
「新しい着物、とても似合っている」
「え! ほ、本当ですか? 私には派手すぎると思ったのですが……」
「その明るい色が、留衣さんの美しさを引き立てている」
微笑みながら放たれた七都の言葉は、まるで術をかけたかのように留衣の緊張を解していく。同時に胸の中がじんわりと温かくなり心地よい鼓動も発生させた。
(……二回目だけど、やっぱり慣れないわ)
七都に出会って二度目の「美しい」という褒め言葉だった。お世辞だと言い聞かせているのに、留衣の頬には熱が集まってきてしまう。
こんな感覚は初めてで、体調でも悪いのかと疑いつつ七都の姿にも言及する。
「な、七都様も本当によくお似合いです」
「ありがとう。留衣さんにそう言ってもらえると嬉しいな」
上質な着物の上から丈の長い黒の外套を羽織っていた七都は、照れくさそうに襟元を直す。互いに褒め合ってしまい恐縮する空気が流れるなか、七都は三週間前に佐喜子から渡された手紙の内容を思い出していた。
留衣が予想していた通り、あの手紙の送り主『雪平蓮二』は七都の父親の名前だった。
留衣との同居と研究への協力のため。そして七都の縁談回避のため、二人は偽装婚約者となることを決めた。その旨を帝都の本邸に住む両親に報告していたのだが、一ヶ月以上経っても返信がなかった。
普段はすぐに来る返信が遅れているのは、きっと本邸で揉めているに違いない。もしかすると跡継ぎである一人息子の突然の婚約報告に、両親そろって寝込んでしまったのかも。そんな冗談にも本気にもとれる予想をしていた七都は、反対されることを視野に留衣とも綿密な打ち合わせをしてきた。
そんな時にようやく届いた七都の父・蓮二の返答は意外なものだった。
【婚約者を連れて帰ってきなさい】
車に揺られながらその一文を脳裏に浮かべた七都は、父の真意が読み取れずため息をついた。
つまりこれは、留衣と両親の初顔合わせだ。まだ結婚までは認めていないはずの父だが、直接会って何をしようというのだろうか。
留衣は偽装婚約者だから、結婚を認められて式を急かされるも困る。かといって反対されて同居を認められなくなるのも困る。
七都は複雑な心境のまま膝の上の拳を握った。
その時、林道を抜けた車は石橋を渡って帝都入りを果たした。自然に溢れていた景色が密集した家屋と頑丈な建造物に変わる。
「わあ、さすが帝都ですね……!」
帝都の中心部に向かっていくなかで、窓に張り付く留衣が立派な街並みに感動していた。
「帝都に来たことは?」
「初めてです」
振り向いて答えた留衣だが、帝都に行く機会があったことを思い出してしまう。結局、帝都に向かう途中の橋から突き落とされた。従妹の菖と元婚約者の昇に。
今となってはあの出来事があったから七都と出会えたわけで、七都の獣化を解除する涙についても知ることができた。
死ななくて本当によかったと改めて思うと同時に、留衣にはある感情が込み上げてくる。
「今こうして、景色を見て感動したり帝都に来ることができて嬉しい気持ちを抱くのも、全て七都様が助けてくれたおかげですね」
「え……」
「人生はこんなにも楽しいものだと教えてくださり、本当にありがとうございます」
胸に手を当てる留衣が心の底から感謝の念を伝える。
「七都様のため、本日の顔合わせをしっかり務めさせていただきますね」
決意に満ちた留衣の瞳が七都を捉えた。そのまっすぐな視線と思いを全身に受け、胸の奥がかすかに音を立てる。
車は帝都中心部に差し掛かり、シンボルの時計台や街中を優雅に歩くお洒落な歩行者たちが確認できた。
留衣の横顔がどこか羨ましそうに眺めている気がして、七都がふと考え込む。
このまま本邸まで向かう予定だったが、急遽あることを提案する。
「せっかくなので街中を歩いてみようか」
その穏やかな声と視線が、留衣の好奇心を自然と引き出した。
「え! いいのですか?」
留衣は大きく開いた目を輝かせた。窓からではなく実際に帝都の街を歩くことを許されて、たまらず胸が躍り出した。
「もちろん。時間はたっぷりあるから色々見てまわろう」
「……ありがとうございます!」
留衣は今にも飛び跳ねたい気持ちを抑えて、とびきりの笑顔を七都に向けた。これまでにないほど弾けるように喜ぶ留衣の様子に、七都も自然と嬉しくなる。
七都は早速、専属の運転手に声をかけ車を路肩に停車させた。
自らの手で扉を開いて下車した七都は、すぐさま室内の留衣へ手を差し伸べた。
「行こうか」
その紳士的な振る舞いと手のひらに、留衣は控えめに自身の手の先を重ねた。
「はい!」
ゆっくりと車を降りて互いに微笑みを交わす。少しの間待機してもらうことになった運転手に一礼して、二人は街中を歩きはじめた。
国の中心となる帝都には最先端なものばかりで溢れている。路面電車や自動車が道路を行き交い、喫茶店やレストランといった飲食店のほかに、百貨店や高級な商店も多く建ち並ぶ。
長く暮らしていた町にはなかった珍しい物の数々に、留衣はあちらこちらと目移りしていた。特に高層の建物の存在感が強く、つい上ばかりに視線を向けてしまう。
突然、隣を歩く七都がその肩を抱き寄せた。
「っ⁉︎」
直後、通行人の中年男性とすれ違う。周囲の建物に夢中になっていた留衣と中年男性の衝突を七都が回避してくれた。
その懐にすっぽり収まった留衣が、慌てて顔をあげる。
「すみませんでした! よそ見ばかりして……」
バチっと目が合い、思いのほか互いの顔が間近にあったことで留衣の心臓が大きく跳ねた。同じく七都も動揺しながらぱっと手を離し、気恥ずかしそうに答える。
「……初めての帝都は誰でもそうなる」
「あ、ありがとうございました」
肩に置かれた手の余韻にドキドキしながら、留衣は小さな声で感謝を伝えた。
しばらく沈黙して歩く二人だが、留衣は胸の高鳴りを引きずったままだ。綺麗な顔とすらりとした体格を持つ七都だが、その力強い腕や広い胸は大人の男性を感じさせる。これまでもそういった場面はいくつかあったはずなのに、なぜか今日は特別に意識してしまい困惑していた。
(やっぱり私、調子が悪いのかしら……)
自身の体調に不安を覚えていると、ふと視線を感じて留衣が顔を上げる。
たった今すれ違ったワンピース姿の年頃の女性、そして行く先に佇む高級な着物を着た綺麗な女性。皆が七都に目を向けては惚れ惚れとした顔をしていることに気がついた。
(すごいわ、七都様は誰が見ても魅力的な男性なのね)
歩いているだけで魅力や色気がだだ漏れている七都が、大勢の女性の視線を集めている現状に驚いた。同時に、隣を歩いているのが釣り合わない凡人であることに引け目を感じてしまう。
(……だめよ留衣。ここまできたのだから引け目なんて感じている暇はないわ)
帝都にきた理由は、偽装婚約者として七都の両親に会うため。怪しまれないためにも、今から堂々としなくてはと留衣が気持ちを強く持つ。自分の立場と目的を再確認して、胸を張って七都の隣を歩くことに専念した。
「留衣さん。あれを」
七都がふと気配に気づいて立ち止まる。その視線の先に留衣が目を向けると、二人の目の前を横切ろうとしている一匹の猫がいた。ふさふさの被毛と長い四肢から気品を感じる不思議な白猫だった。
「わ〜、毛並みの綺麗な猫ですね」
「あれは獣化した人間だ」
「え……、え⁉︎」
七都は白猫の正体が人間だということを瞬時に察していた。留衣が声をあげて驚くと、白猫は尖った耳をぴくりと動かし透き通った緑色の瞳をこちらに向けた。
じっと見つめ合ったのち、白猫は再び歩きだして狭い路地へと姿を消した。あまりに堂々とした姿に思わず留衣が尋ねる。
「……獣力者の皆様の中には、獣化したお姿で街中を歩く方もいらっしゃるのですね」
以前住んでいた町では見たことがない光景に、留衣は新鮮な気持ちを抱いた。
獣力者が獣化した姿で街中を歩く行為に禁止令などはないが、ほとんどの獣力者はその姿を隠して生きていると聞いていた。しかし先ほどの白猫の獣力者は何食わぬ顔で街中を歩き、留衣たちに出くわしてもお構いなしだった。
留衣の素朴な疑問に七都は正直に答える。
「帝都には国家を守るため全国から集められた獣力者が生活している。彼らは特殊部隊に属し、獣化した姿で警護をしたり密偵したりすることもある。今の白猫も、もしかすると密偵中だったかもな」
帝都の現状を教えられた留衣は、自分がどれだけ狭い場所で生きてきたかを思い知らされた。
すると道路を挟んだ歩道で、今度は異様に大柄な熊がのしのしと四足歩行で歩いている。
「あの方も獣力者……⁉︎」
「ああ。隣に特殊部隊の制服の軍人が同行しているから、巡回中の獣力者だろうな」
獣力者に対する差別的な風習は何十年前に比べて格段に減ったことは話に聞いていた。それでも留衣が住んでいた町では獣化した獣力者を見かけていないことを考えると、獣力者側が“隠すべき”と配慮していたことが窺える。
けれど、ここ帝都では“隠さなくてもよい”という独特の空気があるのかもしれない。
「獣力者の方々にとって、帝都は住みやすいところなのかもしれませんね」
そう解釈した留衣だが、七都は少し後ろめたさを感じていた。
留衣にはここ帝都が獣力者にとって住みやすい街に映っている。しかし七都はそんな場所からわざわざ山奥の別荘へと移り住んでいる。それは父との不仲の他に、獣力者を受け入れる帝都の空気も自分には合わなかったことも理由のひとつだった。
七都は獣化からの解放を願っている。この異能から解放されたい一心で獣化の研究を続けている。
留衣の言葉はすべての獣力者の幸せを願っているからこそ出てくるものばかり。獣力者を肯定してくれる姿勢と思考は、七都の中の反抗心を軽くする代わりに、罪悪感を感じさせる。
沈黙する七都を心配して、留衣がそっと顔を覗き込んだ。
「七都様?」
「あ、すまない。少し考え事を……」
とは言っても、留衣は七都の目的達成を望んでくれている。
いらぬ心配をかけたと反省した七都は、気を取り直して留衣が興味を持ちそうな話を持ちかける。
「甘いものが好きな留衣さんのために、特別な場所を案内しよう」
「……はい!」
いつもの七都に戻ったようで安堵した留衣が、嬉しそうに返事をした。
七都の案内でしばらく歩くと、人で賑わう通りにやってきた。若者が集まる喫茶店や最先端の洋食レストラン。若い女性に人気の呉服店や品揃え豊富な百貨店などを紹介して歩き進む。
すると老舗の菓子屋前で呼び込みをする若い男性が、通りかかった二人に軽快に声をかける。
「デート中の若いお二人さん! お菓子を買っていかないかい?」
思わずどきっと胸を鳴らした留衣が気まずそうに顔を上げると、七都も同じく困惑の表情をしていた。
言われて初めて、はたから見た二人はデートをしているように見られることに気づく。互いに自覚して気恥ずかしそうにしていると、男性がひとつの商品を勧めてくる。
「ほら、大人気商品のキャラメルだよ!」
手のひらに収まる小さな箱を持って、男性が見せびらかすように売り込んできた。大人気と紹介されたキャラメルとやらを初めて見た留衣は、きょとんとした顔で箱を見つめる。
それがどんなお菓子でどんな味なのか想像もつかない。留衣が不思議そうに凝視していると、七都は袖口から財布を取り出し男性にお金を支払った。
「商売上手だな。ひとついただこう」
「毎度あり!」
男性からキャラメルの箱を受け取った七都は、その場で箱を開けはじめた。四角い形をした小さなキャラメルが箱いっぱいに幾つも敷き詰められていて、そのうちの一粒を取り出す。
「手を出して」
留衣は疑問に思いつつ、七都の指示通りに両手を差し出した。手のひらに小さくて四角いキャラメルがそっと乗せられる。
「留衣さんがあまりに興味津々だったから」
「え、私のため、ですか……?」
「味を説明するよりも一口食べてみるほうがいい」
七都の厚意と優しさに心が温かくなった留衣は、早速包装を取り除いていく。初めて見るキャラメルは琥珀色をしていて、口に入れようとした時に焦し砂糖の甘苦い香りが鼻を通った。
「……ん! とっても美味しいです!」
初めての味わいと風味に思わず声を上げた。舌の上でとろけるような甘みが広がり、しっとりとした食感がまた新鮮で感動を覚える。
留衣は頬に手を添えてうっとりとした表情をする。口に合ってよかったと安堵した七都は、キャラメルの箱ごと留衣に手渡した。
「良かった。留衣さんに差し上げよう」
「え! そんな、全部いただくなんて悪いですよ」
「留衣さんの喜ぶ顔を見るために買ったものだから」
言いながら七都が優しく微笑んだ。口の中の甘ったるいキャラメルの味と相まって、胸の奥からも甘味が溢れてくるような感覚がした。
これ以上の押し問答は悪いと思い、留衣は受け取ったキャラメルの箱を大事そうに両手で包み込む。
「……ありがとうございます。大切にいただきますね」
人生で初めての帝都、初めてのデートを体験した上に美味しいキャラメルの味まで知ることができた。それらはすべて七都が与えてくれた幸福感であることを噛み締めて、留衣も柔らかく微笑み返した。
*
二時間ほど帝都の街を堪能した二人は、車に戻り再び目的地へと急いだ。
住宅地に入った途端、立派な煉瓦塀に並行して車が走る。その塀が随分と長い時間続くので公民館か何かかと思っていると、車がゆっくりと減速し停車した。
門構えの前では着物姿の使用人の女性が車に向かって頭を下げている。七都が先に下車すると、使用人は静かに顔を上げて「おかえりなさいませ」と声をかけて門扉を開けた。
七都は今回も車内の留衣に手を差し伸べる。
「留衣さん、行こうか」
「は、はいっ」
上擦った声で返事をした留衣は、七都の手を借りて車から降りた。迫力のある立派な門構えに圧倒され、目を丸くしながらつい見上げてしまう。
いよいよ雪平本邸にやってきた。身体中に緊張が駆け巡るなか、敷地内へと入っていく七都の後ろをぎこちなくついて歩く。
手入れされている松の木や鯉が優雅に泳ぐ池などがある庭園を横切る。まるで別世界に飛び込んだような気分になる留衣は、石畳の先の大きな建物に気づいた。
「あれが本邸ですか?」
「ああ。ここでは両親と数人の使用人が生活している」
留衣たちが住む別荘の三倍はありそうな二階建ての洋館。頑丈な白壁に灰色の屋根、バルコニーや複数のガラス窓が確認できる。まるで異国の城のような建物に留衣は固唾を呑む。
頑丈そうな正面玄関の扉を開けた七都は、穏やかな表情で留衣を迎え入れる。
「どうぞ」
「し、失礼します……」
恐る恐るお邪魔すると、奥からバタバタと近づいてくる足音が聞こえてきた。ぱっと廊下に姿を現したのは、若葉色のワンピースを着た可愛らしい女性。帰ってきたばかりの七都を発見した途端、眉を寄せて頬を膨らませながら近づいてくる。
「七都、遅かったじゃない〜!」
「到着時刻の約束はしていません」
「楽しみすぎて昨夜は眠れなかったんだからね!」
寝不足には見えないほどくりっとした目で訴えられた七都は、ため息で応えただけで謝ることはしなかった。気を取り直して、隣に控える留衣に女性を紹介する。
「留衣さん。こちらが母の――」
「雪平鏡子です。よろしくね」
にこりと微笑む鏡子があまりに若々しくて無邪気だったため、七都の母親だとは思いもしなかった。留衣は婚約者としてしっかりとした挨拶をしなくてはと思い、姿勢を正して頭を下げる。
「初めまして、花山留衣と申します……! あの、この度はお招きいただき――」
「あらあら。そんな堅苦しい挨拶は無しよ」
挨拶の途中で、鏡子は留衣の腕を取り至近距離で話しはじめる。
「ちょうど昼食の時間よ。美味しいサンドイッチを食べながらゆっくりお話ししましょう。留衣ちゃん!」
(る、留衣ちゃん……⁉︎)
雪平製薬会社の代表、蓮二の妻であり七都の母でもある鏡子。もっと厳格で冷徹な人物かと思いきや、想像を遥かに超える天真爛漫な女性だったことに留衣は困惑する。
七都が止めに入ろうと手を伸ばしたが、鏡子はグイグイと留衣を広間へと連れていってしまった。
「やはり母さんの悪い癖が出たな」
初めて李九を紹介した時のことを思い出した七都は、大きなため息を吐いて二人を追う。
広間のテーブルにはハムや卵のサンドイッチとティーカップが用意されていた。鏡子は豪華な装飾が施されたソファへと二人を誘導する。留衣は程よい緊張のなか、そして七都は渋々とそこへ腰掛けた。
楽しげな雰囲気を纏う鏡子が正面に座ると、待機していた使用人がそれぞれのティーカップに紅茶を注いだ。
上品な香りが周囲に立ち込めた時、早速本題を話しはじめる。
「佐喜子さんの報告を見てびっくりしたわ。まさか七都が自ら結婚相手を見つけるなんて。しかもこ〜んな可愛らしいお嬢さんを!」
言いながら留衣に微笑みかける鏡子は、息子の婚約を心底喜んでいる様子だった。これまでの縁談をすべて失敗に終わらせてきた七都が婚約を決めたのだから無理もない。これが偽装とも知らず、出会ったばかりの留衣のことも気に入ってくれていた。
「留衣さん、七都との婚約を決めてくれてどうもありがとうね」
この瞬間の鏡子は紛れもなく母の顔をしていて、留衣はちくりと良心が痛んだ。すべては七都のためと言い聞かせて、丁重に頭を下げる。
「こ、こちらこそ温かく迎え入れていただき、感謝申し上げます……」
「突然帰ってこいなんて言われて驚いたでしょう? 手紙の返信が遅かったのは蓮二さんが『七都は架空の婚約者を用意した』って疑っていて無視していたのよ〜」
それには鏡子も困った顔をしていたが、七都はぎくりと肩を動かし留衣は苦笑いで応えるしかなかった。
今回の突然の顔合わせは、七都の婚約者の報告を信じていなかった蓮二の仕業だった。やはりこの婚約を認めたわけではなく、実在する人物を連れてくるか試されていたと感じて、七都が憤りを覚える。
「……で、その肝心の父さんは」
「それが急な仕事が入ってついさっき外出しちゃったのよ、残念ね〜」
蓮二の不在を知った七都は、あからさまに安堵の表情をした。そんななか、鏡子は蓮二の思いを代弁するように語りはじめる。
「祝言を無事に迎えることができたら、私たちもひと安心だわ。大切に育ててきた一人息子がやっと信頼できる女性に出会って結婚する覚悟を決めたんだもの、私は最初から応援していたわ」
「っ……」
切なる親心を感じて七都がふと視線を上げる。穏やかな表情で紅茶を飲む鏡子に心が揺れ動いた。
一方の留衣も、七都の両親を欺いていることへの小さな罪悪感がコツコツと蓄積されていく。
互いに利害が一致して偽装婚約者ということになったが、二人の間には両親のような夫婦愛は存在しない。それでも留衣は、彼を尊敬し獣力者としての苦悩にも寄り添いたいと思っている。本当の夫婦にはならなくても良き理解者でありたい、その気持ちに嘘偽りなどはなかった。
留衣がそんなふうに思っていると、隣の七都がそっと口を開く。
「……留衣さんは、心優しく清らかで。俺には勿体無いほどに素敵な女性です」
語った七都の横顔があまりに真実味を帯びていて、留衣の心臓がどきっと大きな音を立てて反応した。
それは事前に打ち合わせをしていた『出会った瞬間互いに惹かれ合い結婚したいと思うに至った』という関係性をもとに話しているだけ。そう理解しているはずなのに、留衣の頬には熱が集中していく。
「まあ、ベタ惚れなのね〜! 留衣ちゃんは七都のどんなところに?」
「えっ、と……」
期待を膨らませる鏡子の視線に気づき、留衣は気持ちを落ち着かせた。これまでの七都の優しい表情や頼もしい姿を思い出して、ゆっくり答えていく。
「思いやりと強い心でいつも守ってくださる七都様を、私が支えていきたいと思いました。こんな気持ちにさせてくれたのは、後にも先にも七都様だけです」
それを隣で聞いた七都は、恥じらいを隠すようにそっと顔を背けた。
二人の想いを確認してにんまりと微笑む鏡子は、顔の近くで指を組み体をくねらせた。
「や〜ん! ラブラブで初々しくて最高ね〜!」
「……そういう言い方、やめてもらっていいですか」
「いいじゃないの、私の目にはそう映るんだから!」
上機嫌な鏡子を窘めた七都は、同じく気まずい思いをしているはずの留衣を気遣う。
「すみません。母はこういう話が大好きで……」
「そ、そうなのですね。差し支えなければ、ぜひ奥様と旦那様の馴れ初めも聞いてみたいです」
何気ない留衣の言葉は、恋愛話が好きだという鏡子の心に火をつけた。以降、鏡子は夫の蓮二との出会いを語りはじめる。
経営難の商家の娘だった鏡子は、初めて参加した社交パーティーで獣力者の蓮二と出会った。彼が雪平製薬会社の跡継ぎで獣力者という話はすでに周知されていたが、身近に獣力者がいなかった鏡子はその異能に興味があった。
この頃から天真爛漫だった鏡子は、出会って間もない蓮二に直接「獣化して」と無礼を働いたのだ。
当然、蓮二は不快な顔をして「見せ物ではない」と断った。しかしその鋭い目つきを浴びた瞬間、鏡子の体に強い電気がびびっと走ったらしい。
なんとしても蓮二の獣化した姿を見たいと熱望した鏡子は、彼のと縁談を申し込んだ。意外にすんなりと受け入れられ、縁談の場で再会した二人はあれよあれよと結婚することになる。
しかし結婚した後も蓮二はなかなか獣化してくれず、不満が重なる生活を送るなかで待望の息子を授かったと話してくれた。
「つまり夫の獣化した姿を見たのは七都が誕生する少し前なのよ。七都も秘密主義なところがあるから、留衣さんも今からお願いしておいたほうがいいわ」
鏡子に忠告を受けた留衣は、少し気まずそうに真実を打ち明ける。
「実は、私が初めて出会ったのは七都様が獣化した姿なのです……」
「え? じゃあ留衣ちゃんは七都の虎の姿を知っていて婚約したの?」
「はい……」
七都は昔から人前で獣化することを拒んできた。やむを得ず獣化することがあっても、両親と世話役だった佐喜子の前だけで他の使用人には獣化の姿を晒したことがない。
故に留衣との初対面が獣化の姿だった事実に、鏡子は驚いた表情をする。
獣化からの解放を目的に研究をはじめ、それが原因で蓮二との仲を悪化させた。別荘へと移り住んでから二年が経った間に何か心変わりでもあったのだろうか。
考えようとしたところで、鏡子は目を閉じてそれを中断する。
何があったのかなんてどうでもよい。それよりも家族以外の異能を持たない人間に、獣化した姿を受け入れてもらった七都の心情を察して胸に熱いものが込み上げてきた。
同時に、一人でもがき苦しんでいた七都を受け入れてくれた留衣に感謝の念を抱く。
「獣化した七都もなかなか迫力があってよかったでしょう?」
あえて誘導する言い方を選んだ鏡子だが、留衣の返事は容易に想像できていた。
「はい! とてもかっこよかったです……!」
溺れていたところを助けてくれた七都の姿を思い出しながら、留衣が瞳を輝かせて即答する。それは鏡子が想像していた通りの言葉で、思わず笑みがこぼれた。
もちろん今の会話を聞いていた七都は、恥ずかしさと嬉しさで口元が緩みそうになる。
「本当に素直で可愛いお嬢さんだこと! 留衣ちゃんのご両親もきっと素敵なお人柄なのが伝わるわ」
何気なく鏡子が話したところで留衣は切なげに微笑んだ。そして留衣の両親がすでに他界していることを説明する。
ただ、心配かけないためにあえて話さなかったこともある。それは叔父宅に引き取られていた頃の扱いや、従妹と元婚約者に橋から突き落とされた件だ。
鏡子は娘を一人残して亡くなった両親に思いを馳せ、悲しい記憶を思い出させてしまった留衣を憂う。そして「私たちが留衣ちゃんの家族になるわ」と声をかけてくれた。
少々変わり者の鏡子は、留衣を大層気に入っているのが窺えた。それは七都が選んだ婚約者だから、というよりも留衣の人間性が鏡子を惹きつけたのだど確信している。
まるで母娘のように会話を楽しんでいるが、この二人が本当の嫁姑になることはない。なぜなら留衣は七都の偽装婚約者だからだ。
その様子を素直に喜べなかった七都は、表情に影を落とした。
「……母さん。折り入ってお願いがあるのですが」
留衣と鏡子の会話が止んだ瞬間を狙って七都が声をかけた。
本邸に帰ってきた目的は顔合わせのためだけではない。七都にはどうしても明らかにしておかなければならないことがあった。
李九が懸念していたひとつの可能性、獣化解除の涙を持つ留衣との血縁関係の有無を確かめるために帰ってきた。
*
鏡子から保管庫の鍵を受け取った七都は、広間を退出して一人廊下を歩いていた。
物心がついた五歳の頃、雪平家の最初の獣力者を知りたくて父に尋ねたことがあった。しかしその時は家系図どころか「お前に雪平家の過去を教えることは絶対にない」と断固拒否された。
以降、父に尋ねることはできなくなり、きっと母も口止めされていると思い込んでいて聞けなかった。
あれから十七年の年月が経つ。父の許可が下りたのか母がすっかり忘れているだけなのかはわからないが、初めて雪平家の家系図を目にする機会がやってきた。
七都は湧き上がる好奇心と恐怖心を抱え、手のひらに乗る古びた鍵を見つめた。果たして留衣との関係がわかる何かが見つかるのだろうか。
不安に思っていたその時、背後から駆け寄ってくる足音が聞こえた。振り返ると、鏡子と談笑していたはずの留衣が追いかけてきた。
「七都様、ご迷惑でなければ私も一緒に行きたいです」
言いながら、何か気掛かりでもあるような顔で留衣が隣に並ぶ。予想外のことに戸惑う七都が、留衣の気分を損ねるようなことを言い出す。
「……おそらく、保管庫は埃っぽく空気も悪い。せっかくの綺麗な着物が――」
「汚れないように気をつけます。奥様にも保管庫への立ち入り許可をいただきましたから」
抜かりない留衣の意思は固かった。そんな真剣な目を向けられてしまっては断ることなどできない。七都は複雑な思いのまま頷き、留衣を引き連れて保管庫へと向かった。
本邸の長い廊下を北に向かって歩き進むと、突き当たりに頑丈そうな扉が確認できた。緊張感が漂うなか、七都は意を決して鍵を差し込み解錠する。
扉を開けるも室内は薄暗くて視界が悪い。七都が頭上から垂れていた電球の紐を引っ張ると、ぱっと電気がついた。
六畳ほどの部屋の壁沿いに、背板のない棚がずらりと並ぶ。年季の入った大きな収納箱や色褪せた本、剥き出しの書類などが積み上げられていて埃をかぶっているものもあった。
日当たりの悪い北側の保管庫は、少しひんやりとした空気と古くなった紙の匂いが漂っている。
扉を閉め、物珍しそうに室内を眺める留衣に七都が声をかける。
「少しの間、そこで待っていてください」
「わかりました……」
扉の前で佇む留衣は、何かを探しはじめた七都を注意深く見つめる。そして先ほど、鏡子から保管庫の鍵を受け取った時の七都の表情を思い出していた。
(あの時、どうして七都様は沈痛な面持ちだったのかしら……)
留衣の中でどうしても気になってしまい、迷惑かもしれないと思いつつ七都のあとを追ってきた。
しかし保管庫までやってきても探し物が何かは教えてくれない、二人で探したほうが早いのに。留衣には話せないことなのか、それとも単に着物を汚さないための配慮なのか。
本当のところはわからないが、ただひとつ言えるのは七都が一人で何かを抱えているということ。
(……私のこと、どうして頼ってくださらないのだろう)
理解しようと思っていても心のどこかで寂しさを覚える。それはおそらく、今日の七都とはさらに心の距離が縮まったと実感していたからだろう。
留衣が足元を見つめて落ち込んでいた時、七都はあるものを見つけて物音を立てた。
「……あった」
平たい木箱を手にした七都は、表面に書かれた【雪平家家系図】の文字を見つめて沈黙する。ゆっくり蓋を開けると、中には和綴本が一冊納められていた。
緊張が走る手で中身を取り出し、空になった木箱は棚に置いた。
七都はふうとゆっくり息を吐き意を決して表紙を開く。丁寧に筆書きされた家系図には、七都の名前もしっかり刻まれていた。
父の蓮二、そして祖父と曽祖父まで遡って確認してみたが各夫婦間に誕生したのは一人息子のみ。兄弟姉妹や認知した隠し子などの疑わしい人物の記載はなかった――ただ一箇所を除いて。
「これは、どういうことだ」
呟いた七都の目線が一点に集中する。それは曽祖父の妻の名が不自然に黒く塗りつぶされている箇所だった。
まるで雪平家の歴史から消したいという意図が窺えて、一気に胸がざわついた。
七都が物心つく年齢の頃にはすでに曽祖父は他界していた。父の蓮二であれば何か知っているかもしれないが、曽祖父の妻の話を尋ねるのも唐突すぎて不自然だ。
「七都様?」
不意に呼ばれて七都がはっと顔を上げる。扉の前に立つ留衣が、七都の焦る様子を心配そうに見つめる。
「どうかしたのですか?」
「いや、大丈夫。少し考え事を……」
その時、七都が手にしていた家系図の別ページから何かが滑り落ち、留衣の足元まで飛んでしまった。
よく見てみると随分と傷んでいる茶封筒が裏返しに落ちていた。それを七都に返そうと思い、留衣は静かに屈んで丁寧に拾う。
「……ん?」
手に取ると少し厚みを感じた。これはもしや手紙ではないかと察し、宛名を確認しようと茶封筒を裏返した。
瞬間、留衣は頭を殴られたような衝撃を受けた。心臓はドクンと大きな音を立て、屈んでいた全身が震えはじめる。自分でも何が起こったのかわからないが、なぜだか涙が溢れてきて止まらない。
「……あ、……っ」
「留衣さん? 留衣さん⁉︎」
突然大粒の涙を流す留衣に驚いた七都は、すぐに駆け寄りその肩を抱きかかえた。しかし留衣の視界に七都は入っておらず、揺れる瞳は手紙から離れない。
「どうした⁉︎ 留衣さん!」
「……わ、私……、どう、して……」
頭が割れるように痛くて、胸が張り裂けそうなほど苦しく切ない感情が込み上げる。過呼吸になりながらも、留衣の涙は流れ続けている。ただただ名前を呼ぶことしかできない七都が、手のひらで涙を拭ってやりながら叫ぶ。
「留衣さん! しっかり! 留衣……!!」
「七、都……さ……」
意識が遠のくなかで、必死に名前を呼ぶ七都の顔がぼんやりと目に映る。最後に声を振り絞った留衣はそのまま瞼を閉じて気を失った。
突然の出来事に七都の血の気が引いた。脱力した細い体を抱きかかえながら、留衣が持っていた手紙が再び床に落ちる。
「っ……!」
留衣はこれを手にした途端に様子がおかしくなって倒れた。
元凶である手紙に七都が目を向けると、そこには震える字で【八重へ】と書かれていた。



