優しい温かさに包み込まれて眠ったのは何年ぶりだろう。
早朝の冷えではなく、瞼の裏に感じる朝の光で留衣は目を覚ました。
以前までは狭い納戸に薄い布団一枚を敷いて寝ていた。それが一変して、今の留衣はふかふかの寝台と上質な手触りの布団で朝を迎える。
しばし呆然としながら天井を見つめ、昨夜の記憶を思い出す。
(……とても、楽しい時間だった)
夕食を終えた後に、留衣の歓迎会と誕生日まで祝ってもらった。留衣は甘いお菓子や果物をいただき、七都は上品にお酒を嗜んでいた。李九は途中で酔い潰れて床で寝はじめたのを、佐喜子が叩き起こしていた。
その時の光景を思い出して、留衣は一人微笑んだ。
ゆっくりと上体を起こし、与えられた一人用の室内を見渡す。広々とした室内は、優雅な肘掛け付きの椅子や異国風の立派な机が設置されていた。
これほど立派な部屋で寝起きする生活をしたことがない留衣は、つい背筋を伸ばして緊張してしまう。
そうなるもう一つの理由が、留衣の部屋の隣にあった。
お祝い後、この部屋を案内してくれた佐喜子が『七都様のお部屋は隣になります』と教えてくれた。
偽装婚約者を疑われないため、留衣と七都の部屋は隣同士が良いということになったらしい。
もちろん留衣と七都は偽装婚約者のため、部屋の行き来はない。これはあくまでも、本当の婚約者のように見せるための演出だ。
(壁を一枚挟んだ向こう側に、七都様が眠っている……)
彼の存在を考えると何だかソワソワしてしまう。
留衣はそっと胸に手を当てて深呼吸すると、少し気持ちが落ち着いた。
早くこの環境に慣れていかなくては。そう言い聞かせながらも、期限つきであることは忘れていない。
(研究の協力が終わる頃までに、自立する準備をしないと……)
いつまでも偽装婚約者をしているわけにはいかない。七都は雪平製薬会社の若旦那様。いつか彼に心の底から結婚したいと思える女性が現れるはず。そうなった時に、いつでも婚約者の席を空けられるようにと考えていた。
留衣はきゅっと唇を結び、寝台から両足を降ろして身支度をはじめる。
朝食を終えた留衣は、七都とともに廊下を歩いていた。窓から差し込む日の光が、二人の足元をより眩しく照らす。
「昨夜はよく眠れたか?」
「はい。あんな立派なお部屋で眠るのは初めてなので、少し緊張しましたが……」
留衣が恐縮しながら正直に話すと、柔らかな笑みが降ってきた。
「不便があれば何でも言ってくれ」
「ありがとうございます。私も研究への協力とお手伝い、頑張らせていただきます」
両手に作った握り拳を肩まで上げて微笑み返した。その反応に安堵しつつも、七都はずっと心配していた。
殺されかけた留衣は、体に大きな負傷はみられないものの、心の傷までは計り知れない。
今まで不遇な人生を送ってきた留衣が心穏やかに生活することと、見えない心の傷を癒すことが七都の狙いでもある。
(それがまさか、偽装婚約者となるとは考えもしなかったが……)
翌日を迎えてもその件に関してはまだ不安が残っていた。七都が難しい顔をしていると、隣を歩いていた留衣が不意に尋ねる。
「これから向かう研究室は、別荘の離れにあると聞きました」
「元々は書庫だった建物を、今は獣化専用の研究室として使用している」
「獣化専用……!」
留衣の表情がぱっと明るくなり興味深そうな瞳に変わる。その反応を見て心が揺れた七都は、外に出る扉の前で立ち止まり、ふと疑問を口にする。
「昨日から思っていたのだが、留衣さんはなぜそんなに獣化に抵抗がないのだ」
「……抵抗?」
よく意味がわからなくて留衣が首を傾けた。
「昔から獣力者は忌み嫌われる存在。現在はその異能を重宝する考えもあるが、普通の人間はいつ獣化して襲ってくるかもわからない獣力者を恐れるものだ」
しかし留衣と初めて出会った時、獣力者相手に向けられる特有の嫌悪感が伝わってこなかった。
獣毛に覆われた大きな体、鋭い牙と爪を持つ姿にも怯えるような仕草は見せなかったことを七都は問う。すると留衣は深刻な顔で答える。
「身近な人間に殺され、見知らぬ七都様に命を救われた私にとっては、獣力者というだけで恐れる理由にはなりません」
人間であろうと獣力者であろうと、真の恐ろしさはその者の心に宿る本性だ。実際に経験したことで確信している留衣は、七都に視線を向けて悲しげに微笑んだ。
ああ、また思い出させるようなことを。留衣の悲しむ顔は見たくないのに、自分がさせてしまった。そう反省した七都だが、突然留衣は人差し指を立ててにこりとする。
「それと、子供の頃に母から聞いたお伽話のおかげでもあります」
それは八重という獣力者の悲恋の物語。母の膝に座り色々な物語を聞くのが好きだった当時を思い出して、留衣がどこか遠くを見つめる。その横顔があまりに儚く繊細で、思わず七都は息を呑んだ。
「獣力者も一人の人間です。母は私に、命の欠片は受け継がれていくと教えられました。父と母が私という存在をこの世に残し、私自身が父と母の生きた証だと……」
留衣は目を閉じて、胸に添えていた手をゆっくりと握る。
この命は自分だけのものではない。だからこそ、救ってくれた七都への感謝の念は止むことがない。
しかし、留衣の話を聞いていた七都の胸は、ちくりとした痛みを覚えていた。
命の連鎖を重んじる彼女は、七都と李九が獣化の研究をする“本当の目的”をまだ知らない。それを伝えないまま協力してもらうことに引け目を感じて、扉の取手を握った。
「……留衣さんに、伝えておかなければならないことがある」
「なんでしょうか」
七都の纏う空気が変わった。ゆっくりと振り返り、その青い瞳が不安そうに留衣を見つめた。
「俺が獣化の研究をする本当の目的――それは俺自身の、獣化からの解放だ」
自分が生まれ持った獣化という異能を完全に放棄し、普通の人間として生きていくため。七都自身がそれを強く望んでいるという告白だった。
「獣化は遺伝性の異能。獣力者の中にはこの異能を必要とする者と不要とする者がいて、俺は“不要”な人間だ。獣化のメカニズムや遺伝子の研究を進めているのは、一刻も早く獣化から解放されたいから。留衣さんには、その研究に協力いただくことになる」
言い終えた七都は、留衣の表情を確認することなく背を向けて扉を開け放った。
別荘裏から外に出ると、秋の匂いを含んだ外気が優しく髪を揺らす。
七都は無言のまま歩き出す。綺麗に舗装された石畳が雑木林の奥まで続いていて、きっとこの先に離れの研究室があるのだと予想した留衣は、静かに七都の後ろをついて歩いた。
しかし頭の中で色々な思考が渦巻き、徐々に足が重くなる。ついに立ち止まり、研究室に到着する前に確認しておきたいことを問いかけた。
「……いずれ、七都様の虎のお姿には会えなくなるということでしょうか」
それを背中で受けた七都が申し訳なさそうに振り返る。留衣はどこか不安を帯びた瞳をしていて、予想通りの表情に胸が痛んだ。
獣化した虎の姿も好きだと言ってくれた彼女に対して、失礼な話だと思っている。せっかく好いてくれたものを自分自身で排除しようとしているのだから。
罪悪感に苛まれるが、七都の長年の決意が揺れ動くことはない。
「……そうなるための研究だ」
力強い返事を聞いた留衣は、静かに視線を落とし頭の中を整理させる。
思い出すのは、溺れていた自分を引き上げてくれた時の水が滴る白い虎。筋肉質で逞しい巨体でありながら、その表情は温かさが滲み出ていたのが印象的だった。
夕食前の二度目の獣化では、綺麗な毛並みが手のひらを滑るようにしなやかだった。永遠に触れていたいと思わせるほど、暖かくて自然と心が癒された。
獣化からの解放。それがいつ叶うのかはわからないが、獣化した七都に会えなくなると思うと寂しい気持ちが芽生える。
(けれど、七都様にとって獣化は“不要”なのだから仕方ないわ……)
これまで獣力者として生きてきた七都にしかわからない苦悩と葛藤があるはず。だから今の留衣にできることは、彼の考えを尊重し目標達成を願うだけ。
洗練された凛々しい虎の姿を惜しみつつ、留衣は七都の考えに納得を示した。
「私も七都様の願いが叶うことを願っています」
留衣は隣に並んで宣言すると、周囲の景色に視線を移して優しい表情をしていた。その横顔を見つめる七都は、留衣の気遣いに感謝すると同時に後ろめたさも感じた。
短い雑木林を抜けると、拓けた敷地にひとつの建物が見えてきた。
「あれが研究室だ」
「わあ、素敵な建物ですね」
物珍しい八角形の二階建て建造物を見て、留衣は瞳を輝かせていた。灰白色の壁と瑠璃色の屋根がよく映え、各面の窓ガラスが日の光を反射させていた。
七都が正面の扉を開けると、ギィと古びた音を立てた。短い廊下には嗅ぎ慣れない化学薬品の匂いが漂っている。
突き当たりには扉のない広い部屋。留衣が中を覗くと、室内の真ん中に大きなテーブルが設置され、様々な実験器具や資料のような書類の山が築かれていた。
壁沿いに本棚が並んでいるのを見ると、七都の説明にあった書庫の名残も感じられた。
「李九、留衣さんを連れてきた」
七都が誰もいない窓際に声をかけた。すると酒の影響を受けた掠れ声が返ってくる。
「……え、もうそんな時間?」
窓際に置かれた後ろ向きのソファから、李九が気怠けな顔をひょっこりと出した。手にしていた古い紙束をひらひらさせて、ため息を吐いた。
「夜通しで獣化の文献を読み返したけど、涙に関することは一切書かれてない」
「そうか。俺も聞いたことがないから、やはり留衣さん特有の異能か、それとも……」
二人が重要な会話をはじめた。割り込んではいけない気がして静かにしていると、李九が留衣の存在に気づいた。
「あ、留衣だ。おはよ」
「おはようございます。今日からよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げた留衣の熱量に違和感を持った李九が、ゆっくりと首を傾げた。
「よろしくと言われても留衣は研究材料だろ? 涙を提供してくれるだけでいいんだけど」
「涙の提供、資料整理、お片付け、器具洗浄などなど何なりとお申し付けください」
「は? どういうこと?」
初耳の李九は唖然とした顔を七都に向ける。
本日より獣化の研究に留衣の協力が加わる。その内容は涙の提供だけと思われていたのだが、留衣の希望で研究室内の雑用もすることになった。
「朝食中にそういう話になった」
言いにくそうな七都の代わりに、留衣がずいっと前進して説明する。
「涙の提供というだけの協力内容では割りに合いません。同居をさせていただく以上、私も“研究員”として働きたいのです」
「留衣さんが李九の助手になってくれたら、俺も助かるのだ」
これまで李九と共に研究に携わってきた七都が悩ましい顔をした。そして今朝早くに届いた父からの手紙の内容を思い出す。
「実は今後、父の仕事を少しずつ任されるようになった。帝都に通うほどでもないが事務作業になるため部屋に篭ることも多くなる」
「まじか」
「もちろん毎日ここへは顔を出すが、以前のように研究に時間は使えない。俺の私情を挟んだ研究にも関わらず、このようなことになって申し訳ない」
七都が二人に向かって頭を下げた。働きたいという留衣の意思を尊重したのは、突然父の仕事を任されることになった七都にとっても都合が良かったのだ。
そう決まったのなら仕方ない。李九は腕を組んで腹の底からため息をついた。
「何言ってんだよ。俺は獣化という異能自体に興味があるだけだけど、お前は自分のように悩める獣力者を救うための研究だろ?」
「李九……」
「こっちのことは任せろ。俺が……留衣を一人前の研究員に育ててやる」
言いながら留衣の肩に手を置き、悪い笑みを浮かべて宣言する。何か嫌な予感がした七都はすぐに指摘する。
「いや、そこまでしなくても――」
「李九さん、何とぞよろしくお願いいたします!」
留衣はやる気いっぱいの返事をして、李九と視線を合わしていた。二人の距離が近いことに胸がざわついた七都は、思わず李九の手を留衣の肩から乱暴に追い払う。
「いったいなぁ!」
「気安く触れるな」
「え、何その“留衣の婚約者”みたいなセリフ」
揶揄うように李九が言うと、カッと顔を赤くした七都が慌てて反論する。
「そういうつもりは……! 大体、偽装婚約者の提案を最初にしたのはお前だろっ」
「事情を知る俺の前でそんなラブラブ出さなくていいのに」
「っ……!」
冷静さを見失いそうになった七都は、言い返さない代わりに悪ふざけが過ぎる李九を睨んだ。
二人の言い争いを見ながら呆気に取られていた留衣が、ふふっと笑い声を漏らす。
「本当に仲が良いのですね」
留衣の楽しそうな声が空気を変えていく。少しムキになりすぎたと反省した七都は、李九に背中を向けて留衣にこっそりと告げ口する。
「李九は頭はいいが、片付けや整頓が苦手ですぐに研究室を散らかす。その度に注意してやってくれ」
「わ、わかりました……!」
聞こえないように小声で話しているつもりのようだが、李九の耳にはしっかり届いている。
それと、もうひとつわかったことがある。普段冷静な七都だが、留衣のことになると過保護なほどに気にかける。
期限つきの偽装婚約者。そう提案したのは李九だが、なんだか面白い展開を期待せずにはいられなかった。
七都と李九がまず知りたいのは、留衣の涙に秘められた獣化解除の謎。
獣力者が一度獣化すると、次に人間の姿に戻れるのは二十四時間後と決まっていた。その長年の常識が覆されたのはつい昨日の出来事であり、前代未聞の現象が二度も証明される。
それは獣化という異能を“不要”とし普通の人間として生きることを望む七都にとっても、獣化への興味と理解を深めるため研究を続ける李九にとっても大きな発見だった。
「では留衣さん、こちらに座ってください」
七都は近くにあった丸椅子を引き寄せ、留衣の手前にそっと置いた。指示通りに腰を下ろし、何が始まるのかと少しの不安と緊張を抱く留衣は胸をドキドキとさせていた。
そんな中、一気に仕事中の顔つきとなった李九が七都と段取りの確認をはじめる。
「まずは成分分析のため涙液を採取する。結果が出るのに一ヶ月かかるがサンプルは多ければ多いほうがいい」
「留衣さんの体調や感情によって成分に変化があるかもしれない。採取は毎日行い調子も記録しよう」
獣化解除の謎が涙の成分にあれば、次にその成分を重点的に研究する。もしも成分に異常がなければ、他の要因を考えて留衣の瞳や涙腺、血液などを調べる必要があることを共有した。
二人が難しい会話をしている中、留衣は少し緊張しながら姿勢を正す。すると早速、李九が近づきじっと顔と寄せてきた。
「一定の量は欲しい。あとはどうやって催涙させようかな……」
まじまじと観察された留衣が、思わず呼吸を止める。李九の真剣な顔と琥珀色の瞳が迫り、自分の息がかかってしまうことを懸念したのだ。
二人の様子を見守っていた七都が、徐々に縮まる距離に焦りを覚える。
「李九、もう少し――」
離れるよう注意しかけたその時、まるでボールを掴むように李九の両手が留衣の顔をがしっと包み込んだ。
突然顔を固定されたことに驚いて、留衣がぎゅっと瞼を閉じる。その周囲を李九の指の腹にぐいぐい押される。
「うっ」
「おい! 李九……!」
留衣が思わず声を上げた瞬間、見るに耐えられなくなった七都が李九の腕を掴む。それを反射的に振りはらった李九が「うるさいなぁ」と言わんばかりの目つきで睨みをきかせ、行動の意図を説明する。
「この辺に涙の分泌を促すツボがあんだよ」
「……ツボ?」
「こうやって優しく、和らげるように……」
言いながら、目の周りにあるツボを押していく。李九の丁寧な施術を受けていた留衣は、徐々に目の周りがじんわりと温かくなっていくのを感じた。
感情を掻き立てて涙を出すのは難しい。ならば自然と涙が出てくる状況を作ろうという考えに至り、李九が一通りのマッサージを施した。一時は何をされるのかと不安を覚えた留衣だが、今は施術後の効果に感動してゆっくりと目を開ける。
すると、じわりと瞳が潤ってくるのがわかった。
「七都、あれちょうだい」
李九は何かを要求するように手のひらを見せてきた。ハッとした七都が、テーブルの上にあらかじめ用意していた細いガラス管を手渡す。それを受け取ると、留衣の目頭に優しく当て微量の涙を採取した。
ガラス管の底に流れた涙を見て、李九が悩ましい顔をする。
「うーん。分析するには量が全っ然足りないな」
「す、すみません……」
申し訳なく思った留衣がしゅんと俯いた。すると思いもよらない言葉が降ってくる。
「でも、ある意味充分だな」
「え?」
顔を上げると、李九が何かを企んでいるようにニヤリと微笑んだ。すると突然、まだ栓をしていないガラス管の開き口を咥え、心臓のあたりに拳を添えた。瞬間、周囲の空気がピリッとした緊張に包まれ、李九の体に黒い霧がまとわりついた。
「⁉︎」
それは昨日、七都が獣化する直前に行った動作と同じ。黒い霧に覆われた様子を見ていた留衣は、“李九の獣化”がはじまったのだと察して息を呑む。
李九が獣力者だということは出会ってすぐに説明されていたが、獣化後の姿についてはいまだに明かされていない。
(一体、どんなお姿なのかしら……)
緊張感が漂う中で、留衣は初の対面によるわくわく感も湧いていた。一方、事前に聞かされていない李九の行動に呆気に取られた七都も、彼の獣化を静かに見守っていた。
黒い霧が消え去り、二人の目の前に現れたのは一頭の大型の狼。
漆黒の獣毛と琥珀色の瞳から李九の名残を感じるが、気怠けな雰囲気から一転して厳格さと美しさが窺えた。
「李九さん! 狼の獣力者だったのですね……!」
その正体が李九だとわかっているせいか、留衣は人生で初めて見る狼に興味津々だった。それは七都の獣化後の虎と並んだらとても神々しくて映えるに違いないと妄想するほどだった。
「李九、どうして獣化したんだ?」
話せないとわかっていても、理由が分からなくて七都がつい質問を投げかけた。李九が琥珀色の目で受け取ったその時、ガラス管を咥えたままぐいっと天井を向いた。
ガラス管に入っていた微量の涙が、彼の口の中へと流れ込んでいく。
「!!」
空になったガラス管を床に置き、舌で口元を舐める李九は静かに待った。
せっかく摂取した留衣の涙液だが、成分分析するには量が足りないし確かめたいこともあった。
留衣の涙の効果は、果たして全ての獣力者に通用するのかという疑問。
それを確かめるため、李九は自分の体を実験台として涙を摂取することにした。
空気が止まった研究室で、留衣と七都は静かに李九を見守った。――が、いつまで経っても李九が人の姿に戻る気配がない。
「ど、どういうことだ……?」
獣化が解除されない李九をじっと見つめ、七都はひどく驚いていた。
留衣の涙を摂取した七都は二度も獣化が解除された。つまり同じ涙を摂取した李九の獣化もまた、すぐに解除されるはずだと思っていた。
しかしその考えは間違いだったようで、留衣の涙を摂取しても李九の獣化は解除されないことが証明されてしまった。
「……涙の量が足りなかったのかもしれません! 私、もう一度涙を出してみます」
留衣は狼狽えながら、先ほど教えてもらったツボを押してみる。そこへ静かに歩み寄る李九が、結果を受け入れているような様子で首を横に振った。
「……っ、李九さん」
留衣が手を止めたのを確認した李九は、背を向けてテーブル上に飛び乗った。置かれていた一冊のノートを咥えると、再び二人の元に戻り七都へとそれを差し出した。
獣化している間は人間の言葉を話せない。それを見越していた李九は、あらかじめノートに書き記していた。
七都は神妙な面持ちで受け取り、そっとノートを開く。座っていた留衣も中身が気になり立ち上がると、七都が持つノートを覗き込んだ。
そこには留衣の涙を調べる上で必要な手順や、李九がたった今試した実験のことが書かれていた。
留衣の涙液成分を調べるのはもちろんだが、もう一つの大事なこととして記されていたこと。
それは獣化の解除が全ての獣力者を対象に発生するのかどうか。結果によっては、今後の研究の方向性が大きく変わることを李九は考えていたのだ。
夜通しで獣化の文献を読み返していたと言っていたが、同時に研究内容もじっくり考えていた李九。研究熱心と聞いていた彼が本物であることがわかった留衣は、感心しながらノートに書かれた情報を読んでいく。
すると、最後の一文に留衣と七都が目を疑った。
【獣化の解除が七都のみに表れる効果の場合、七都と留衣の過去を調べる必要がある】
「……これは、どういうことだ?」
七都が視線を向けるも、今は言葉を交わせない李九はつんとした表情で顔を背けた。
留衣の涙で獣化が解除されなかったことを拗ねているのか。七都のみ優遇された結果にがっかりしているのか。
どちらにしても、李九が人間の姿に戻れるのは今から二十四時間後だ。それまでは話すことも作業を進めることもできない。
それらをわかっていながら、体を張って新事実を証明してくれた李九に七都は心底感謝した。
「李九。夜通しで色々考察してくれたのだな。今日はもう休んで明日から本格的に始動しよう」
七都はまるで飼い犬をあやすかのように、狼の頭を撫でる。告げられた李九は、ふと留衣に近づいて何か言いたげな瞳を向けた。
「え、と……。涙の採取は引き続き頑張りますね」
彼にとって今一番重要なことを予想して留衣が返答した。どうやら正解だったようで、李九は静かに頷き犬よりも太く長い尻尾をふりふりと揺らし窓際に向かう。お気に入りのソファへひょいと乗り、体を丸めて寝る姿勢をとった。
午前中の日差しが研究室を照らすなか、ゆっくりと目を閉じた李九はやがて寝息を立てはじめる。
速すぎる入眠に留衣が驚いていると、肌触りの良い手巾が目の前に現れた。
「っ……な、七都様」
「お疲れ様。留衣さんのおかげで、また一つ真実に近づくことができた」
自前の手巾を手にする七都が、留衣の目元を優しく拭いながら感謝の念を口にした。
七都が求める“獣化からの解放”という目的に、また一歩近づいたのなら本望だ。留衣は照れながらも喜びを言葉にする。
「よかったです。これからもっともっとわかることが増えるといいですね」
しかし、同時に不可解なことも増えた。留衣は神妙な面持ちで考えこむ。
「ですが、どうして私の涙は七都様のみに獣化解除の効果があるのでしょうか?」
「本当に不思議だ。俺と留衣さんは昨日出会ったばかりで、これまで繋がりなどなかったのに」
年齢や性別、生まれた地域や住んでいた町も違う二人。それでも留衣の涙には獣化を解除する力があり、それが許されるのは七都だけ。
その限定的な涙の効果に留衣も七都も首を傾げる。研究室には李九の微かな寝息が聞こえてくるほど静寂に包まれた。
「引き続き獣化解除の謎は追う。俺と留衣さんの過去については、明日獣化が解けた李九に詳しく聞こう」
「はい!」
七都の指示を聞いて、留衣が潔い返事をした。
その謎が解明されれば、七都だけでなく大勢の獣力者を救う鍵が見つかるかもしれない。これから調べる涙液成分に何か発見があれば、さらなる可能性がひらける。
七都にも他の悩める獣力者にも幸せになってほしいと願う留衣は、さらにやる気に満ち溢れる。
今回の結果に少し困惑した七都も、留衣の前向きな表情を見て自然と頬を緩ませた。
*
留衣の涙に秘められた獣化解除の効果が、七都だけに働くことが証明された。
以降、毎朝仕事を始める前の留衣に、数本の涙液保存用のガラス管が渡された。それを常に持ち歩き、研究室で仕事をしている時や食事中、自室で就寝準備をしている時も涙の採取を優先することを李九に強く言い付けられている。
採取した涙液は日毎に保管しておく必要があり、同時にその日の調子や体温の記録管理も怠ってはいけない。
そこで、留衣は効率的な涙の採取方法を編み出した。
まずは研究室での仕事中。器具の洗浄や書類の整頓で勤しむなか、ふと思い出す両親との思い出に目頭が熱くなると迷わず採取する。李九に教えてもらったツボを刺激して、さらに涙の分泌量を増やせるように試みる。
次に食事準備中の佐喜子のもとにお邪魔して、玉ねぎを扱う調理とわかると積極的にそれを担った。包丁を手にして玉ねぎを微塵切りにしていくと、自然と目が刺激され涙が溢れてくる。佐喜子の手を借りながら、ここでも涙を採取する。
就寝前の自由時間には、自室でくつろぎながら本を読むことにした。元書庫という研究室の本棚から涙を誘うような本を借りてきて、読書に没頭する。特に親子愛について深く描かれた物語は、留衣の心に響くものがあり自然と感動の涙が溢れてくる。
そうして涙の採取中心の生活を送りながら、七都との時間を作り話し合いも行われた。
内容はもちろん二人の過去について。
初日の実験から二十四時間経った李九が語ったのは、留衣の涙が七都の獣化だけに効果があらわれるという“限定的な効果”の謎が、二人の過去に関係しているのではと。
昔にどこかで出会っていたり、親同士が繋がっていたり。そんな可能性を考えて互いに歩んできた人生を擦り合わせたが、共通点などはみられなかった。
そもそも、北地方の田舎町に生まれごく普通の両親に育てられた留衣と、由緒ある会社の跡継ぎとして帝都で生まれ育った七都に、繋がりなどあるはずがない。
もちろん互いの家系や血筋を遡っていても、疑わしい部分はひとつも出てこなかった。
留衣が同居をはじめて、一ヶ月が経とうとしていた。
早朝の食堂にて、隣の席同士で朝食を摂っていた留衣と七都は、仲良く会話を交わしていた。
「留衣さん。ここの生活と研究室での仕事にはもう慣れてきたか?」
七都に問われ、隣の留衣は箸を休め柔らかな笑みを浮かべる。
「はい。毎日やりがいを感じながら楽しく過ごしています。あとは涙の採取量をもっと増やしていけたらいいのですが」
採取した涙液が多ければ多いほど、様々な検査に充てられる。しかし今はまだ研究に必要な涙液が充分に採取できていないことを、留衣は申し訳なく思っていた。
李九に言われた通り毎日涙液を採取している。ただ、期待に応えたい留衣が無理に涙を出そうとしているせいで、その目元は日に日に浮腫んできた。気づいていた七都が心配しながら忠告する。
「以前も言いましたが、無理だけはしないでくれ。心身ともに健やかに過ごしてほしい」
「はい。お心遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ」
留衣は健気に微笑んで応えたが、それでも七都は安心できなかった。これまでの彼女の境遇を知っているからこそ、留衣自体が気付かぬうちに無理をしてしまうことに慣れているのだと感じていたからだ。
もっと具体的に伝えるべきだったと七都が反省していると、足音が近づいてきて視線を向ける。
「うふふ。留衣様がやってきてから食事の時間も賑やかになりましたね」
「っ……佐喜子さん」
にこにこする佐喜子が、食後のコーヒーをトレーに乗せてやってきた。苦味のある香りが漂うなか、七都は困惑した様子で微かに頬を赤らめた。
李九は朝が苦手な上に食事よりも研究を優先してしまうので、朝の食堂はいつも七都一人だった。
それがここ最近は留衣が加わり、微笑ましい会話が厨房まで聞こえてくる。
ただ広いだけの食堂で一人食事をする七都の背中が、どこか寂しげに見えていた佐喜子にとっては嬉しい変化だった。
「お二人の楽しそうな会話を聞いていると、佐喜子も楽しい気分になります」
「七都様がとても聞き上手なので、私がつい喋り過ぎてしまうのです……」
「あら、とてもいいことじゃないですか! 七都様は普段から口数が少ないですから、たくさん話しかけてあげてくださいね」
微笑み合って会話を交わす留衣と佐喜子。その間に挟まれている七都が佐喜子に対して「一言余計ですよ」と照れくさそうに不満を漏らす。
留衣が同居をはじめてから、別荘内の雰囲気が確実に明るくなっている。研究の目的以外のことにはあまり興味を抱かない七都も、その変化は感じ取っていた。何より、留衣の笑顔を見られる回数が増えてきたことが嬉しくて、七都自身も安らぎを覚えていた。
すると佐喜子が本来の用事を思い出して七都に声をかける。
「そうそう。実はですね――」
佐喜子が袖口に手を入れて何かを取り出そうとした時、バンという大きな音を立てて食堂の扉が開かれた。驚いて振り返ると、そこには肩で息をする李九が血相を変えて立っていた。
「涙液の検査結果が出た」
ついに留衣の涙の成分がわかった。待ち望んでいた報告に七都が勢いよく立ち上がると、ガタンと椅子が大きく揺れた。
「すぐに行く……!」
留衣に背を向けた七都は、李九とともに颯爽と食堂を出て行ってしまった。
突然の出来事に呆気に取られる。しかし分析結果は留衣も気になるため、急いで朝食を食べ終えようと箸を動かした。そんななか、佐喜子が残念そうに小さなため息を漏らした。
「七都様に大事なお話があったのに……」
言いながら袖からひとつの封筒を取り出し、それを複雑な表情で見つめる。
佐喜子に視線を向けた留衣は、その封筒の裏に書かれた手紙の送り主に目がいった。
(……雪平、蓮二?)
七都と同じ苗字の男性名であることから、もしかすると実父からの手紙かもしれない。
しかし自分が介入していい内容かわからなかった。あえて佐喜子に問うことはせず朝食を完食した留衣は「ご馳走様でした」と手を合わせる。そして七都と李九を追うように急ぎ研究室へと向かった。
「これが留衣の涙液成分を調べた結果だ」
研究室に到着した七都は、早速一枚の紙を手渡された。呼吸するのも忘れてそれを確認すると、成分名とその詳細などが書かれていたが、どれも見覚えのある成分名ばかりだった。途端、紙を持つ手に力が入った七都は、深いため息とともに目を閉じる。
「……獣化の解除の要因となる特殊な成分は発見されなかったということか」
七都が肩を落として言うと、先に結果を知っていた李九は冷静に説明する。
「留衣の涙の成分の九割は水分。その他の細かなものも含めて一般的な涙と相違ない」
言いながら腕を組み、ふと七都へ疑いの目を向けた。
「なあ。本当に留衣と七都は何の繋がりもないのか?」
「互いに知っている情報を交換したが、繋がるようなところはなかった」
「うーん。なんか納得できないんだよなぁ」
大きく首を傾げて難しい顔をする李九に、七都は眉を寄せて問う。
「何が言いたい?」
「だってさぁ、留衣の涙で獣化が解除されるのは七都だけなんだぞ? その限定的な効果を考えると絶対に何らかの繋がりがないと辻褄が合わない」
そうして背を向けると、李九は少し落ち着きがないように研究室のテーブル周りを歩きながら話を続ける。
「獣力者は遺伝で生まれる。つまり七都の獣化はお前からはじまった異能ではなく、先祖代々受け継がれてきたんだ。そんな強力な異能を解除できるとなると……」
頭の中で仮説をいくつも並べながら、その一例を口にする。
「たとえば、留衣が雪平家の隠し子だとしよう」
「はっ⁉︎」
思わず七都が声を上げるが、李九は構わず続ける。
「獣化は受け継がなかったが雪平の血を引く娘。七都が涙を摂取すると遺伝子レベルの副作用のような効果が働いて、獣化を解除してしまうとか」
「っ……そんなこと」
「二人は血縁関係にある――なんてことがあり得るかもな」
その言葉を耳にして、七都は心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。そうと決まったわけではないのに、なぜだか手のひらに汗が滲み喉が渇いていく。
しかし李九の仮説をすぐには否定できないことを七都も気づいていた。
遺伝で生まれる獣化という異能を解除できるほどの涙に変わった成分はみられなかった。ではどうして自分だけが獣化解除されたのかと考えた時、目にはみえない特別な繋がりを信じざるを得なかった。
ただし血縁関係という仮説だけはどうか間違いであってほしい。なぜだかわからないが、そう強く願う七都が重い口を開いた。
「……今の仮説は、留衣さんには黙っていてくれ」
「そうか、留衣と血縁関係だったら婚約してても結婚できないもんなーって、お前ら偽装婚約者だってば」
いつもの調子で李九が冗談を言った瞬間、七都の情緒が乱れた。
「そんなことはわかっている!」
声を荒げて、無意識のうちに分析結果の紙をぐしゃっと握り潰してしまった。滅多にない七都の本気の怒りを目の当たりにして、李九が沈黙する。
「……違う、悪かった。俺のことはどうでもいい。それを知った留衣さんが心配なだけだ」
「あー……、まあ、そうだな」
衝撃を受ける留衣を想像した李九は、つい癖で七都を揶揄ってしまったことを反省した。我に返った七都も握り潰した用紙を元に戻そうとするが、その胸中では嫌なざわめきと不安が渦巻いていた。
もしも二人が血縁関係だとしたら、苦しむのは留衣のほうだ。万が一にも、李九の仮説のとおり『留衣が雪平家の隠し子』だとしたら、大好きな亡き両親の秘密まで暴いてしまうことになる。
せっかく笑顔が増えてきた留衣が、また傷つくことにならないかと七都が心配していた。
「血縁関係の有無は俺のみで内密に調べを進める。が、こればかりは両親を問い詰めないとわからないな……」
それで何かわかることがあるならと、七都は全て一人で背負う気持ちで取り組むことを決めた。同時に、心の中で密かに芽吹いていた感情をそっと摘み取る。
その時、研究室の扉が開いて二人を追ってきた留衣が遅れて到着する。
「遅れてすみませんでした! 私にも検査結果を教えてください」
「留衣さん……」
呼吸を乱しながら深刻な表情でやってきた姿を見て、七都の胸が締め付けられる。何も得られなかった分析結果と、血縁関係の疑いが浮上したなかで少し動揺してしまった。
しかし、留衣が真剣に獣化の研究へと取り組んでくれているからこそ、正直に答えなくてはいけないと思い直す。
七都は分析結果の紙を背中で隠し、頭を下げて謝罪した。
「留衣さんの涙は一般のものと相違なく、特別な成分の発見には至らなかった。色々と協力してもらったのに申し訳ない」
「それは残念です。でも、七都様の獣化を解除することに変わりはないのですよね?」
「え、はい……」
不甲斐ない分析結果に落ち込むかと思いきや、留衣の返答が意外に前向きだったことに七都が意表を突かれる。
「良かったです。この涙の効果がなくなってしまうほうが怖かったので安心しました」
研究目的である“獣化からの解放”に重きを置く留衣は、ふうと息を吐いて胸を撫で下ろす。涙に特別な成分は見受けられなくても効果に変わりはない。それだけでも充分七都の力になれることを留衣は安堵したのだ。
留衣は変わらず微笑んでくれている。それだけで、七都の不安も今だけは薄まっていく。
すると、次なる検査について早速李九が話しはじめる。
「じゃあ今度は血液検査をしたいんだけど」
血縁を連想させる言葉に七都の指先がぴくりと動いた。留衣は何の疑いも持たず、研究に必要なことだと思い軽く頷いてみせる。
「涙は“透明な血液”とも言われていて、血液と近い関係なんだよ」
「へ〜、そうなのですね。もしかすると血液のほうに特別な成分が見つかるかもしれませんね」
やりがいを感じた留衣がにこりと微笑んだ。それを作り笑いで応えた李九を警戒するように、七都がそっと目を細めた。
留衣には「涙と血液は近い関係」と説明しておきながら、自分たちの血縁関係を調べようとしているのではと疑っていたからだ。
何も知らない留衣は、早速李九に誘われるがまま椅子に座って左腕を捲りはじめる。
「んじゃ、採血の準備してくるよ」
テーブルから離れた李九が研究室奥の道具棚に向かった。その後を追う七都は、ご機嫌な様子で準備を進める彼に耳打ちで警告する。
「李九、例の件は俺が調べると言っただろう。どうして留衣さんの血液を……」
「俺は俺らしく生物的観点から調べるんだよ。それが一番の物的証拠になる」
ごもっともなことを言われて七都が反論できずにいた。その肩を組んできた李九が、宥めるように説明する。
「大丈夫。結果は七都にしか漏らさないから安心しろよ」
得意げにウインクを送って肩を解放した李九は、七都の心配をよそに準備を続ける。こうなってはもう聞き入れてもらえないと察して、七都は引き返していく。
大人しく椅子に座り待機する留衣が視界に入る。胸に手を当てて、緊張をほぐそうと深呼吸を繰り返していた。
そんな留衣が七都の視線に気づく。ぱちっと目が合い、留衣は控えめに微笑みを返してくれた。
(……血縁関係が判明したら、俺は……)
複雑な思いを抱いた七都は、悟られないように微かに口角を上げるので精一杯だった。



