猛虎の若旦那と期限つきの婚約者



「……涙を調べたい、とは?」
 留衣が瞠目しながら尋ねた。
「詳しくは家で話そう。とにかく今は早く体を乾かさないと」
 言いながら留衣の手を取った七都は、川原を通過し雑木林の中を歩きはじめた。
 道なき道を進むが、泥だらけの足袋で歩いていた留衣が小石を踏んでしまう。
「いたっ……」
 足裏に痛みが走って体がふらついた。その声に振り返った七都は、留衣の足元に気づいて謝る。
「そうだった、草履を履いていなかったな」
「石を踏んでしまっただけです。気をつけていれば歩けますから」
 心配をかけまいと眉を下げて微笑んでみせた留衣だが、無理をしていることを見破られる。
 七都は一言「失礼」とだけ告げて、その華奢な体を軽々と抱きかかえた。
「わっ」
 突然のことに驚いた留衣は、咄嗟に七都の肩に腕をまわす。
「そもそも命の危険に晒された留衣さんを歩かせた俺が間違っていた。配慮が足らない男で申し訳ない」
 不甲斐なさを反省して歩き進む七都だが、男性に初めて抱きかかえられた留衣はそれどころではなく、困惑と緊張で体を硬直させていた。
 視線を上げれば端整な顔が間近にあり、横を向けば着物の襟元から見える鎖骨や白い首筋が視界に入る。
 結局どこに目をやればいいのかわからなくなり、留衣は最終的にぎゅっと目を閉じた。
 それに気づい七都は、留衣の緊張をほぐそうと話しかける。
「怖かっただろう、突然目の前に虎が現れて」
「え?」
「野生の虎なら食い殺されていた。家にいる使用人の佐喜子(さきこ)さんでさえ、俺の獣化した姿にはいつも腰を抜かしているのだから。様々な獣力者がいる中で、俺は特に凶暴で恐怖を煽るような姿をしている」
 そう語る七都からはなぜだか寂しさが伝わってきた。
 確かに初めて出会った時の虎の姿には驚いた。しかし、七都の優しい瞳や佇まいに人となりが見えて安心できたのも真実だ。
 留衣はあの時の気持ちを素直に言語化して伝える。
「常磐ノ國に野生の虎が生息していないことは知っていました。なので私の目には、まるで異国の神話に出てくる気高く勇猛な神獣が現れたように映りました」
 至近距離のため目を合わせて話すことはできなかったが、七都が思っているような恐怖は感じなかった事実は伝えられた。その言葉を聞いた七都は、じわじわと心が温かくなっていくのを感じた。
「……そうか」
 留衣の緊張をほぐすためにはじめた会話が、いつの間にか七都の奥底にある劣等感を拭うものになった。この時の七都の耳が微かに赤く染まっていたことを、留衣は知る由もなかった。
 雑木林を抜け、拓けた場所に到着した。どうやら七都の家の敷地内に入ったようで、広い庭の奥に一軒の大きな建物が見えた。それは、留衣が先ほど橋の上から見た深緑色の屋根の建物だった。
「え、ここが七都様の家ですか……?」
「ああ。正確には別荘なのだが、父の趣味で異国の邸宅を真似た外観をしている」 
 二階建ての立派な別荘に気が引けた留衣は、七都に抱きかかえられたまま建物に近づいていく。
 すると一階のテラスに五十代前後の小柄な女性が姿を現した。着物の上から白エプロンを身につけ、ソワソワした様子で周囲を見渡している。
「佐喜子さん」
 七都に呼ばれ、はっとした表情を向けた佐喜子は慌てて二人のもとに駆け寄った。
「七都様! ずぶ濡れではありませんか」
「この女性に温かい風呂と着替えの用意をお願いします」
 七都が事前に話していた使用人の女性とわかった留衣は、抱きかかえられたままで恐縮に思いながらも挨拶する。
「初めまして。花山留衣と申します。突然お邪魔して、こんな姿で申し訳ありません」
 すると佐喜子は、自分の自己紹介を忘れるほどに目を見開いたまま留衣を凝視する。
「……あらあら。七都様がこんな可愛らしい女性を連れてくるなんて」
「え?」
「これは盛大におもてなししなくては! 使用人歴三十年の守野(もりの)佐喜子、早急にお風呂の準備をしてまいります!」
 興奮とやる気に満ちた佐喜子は駆け足で建物内に引き返していく。その後を追うように、七都はテラスから建物内へと入った。
「普段は穏やかで仕事もできる佐喜子さんなんだが、たまにああして突っ走るところがある」
 言いながら少し困ったように話す七都が、広間を抜けて長い廊下を進んでいく。とある扉の前で立ち止まると、まるで陶器を扱うようにゆっくりと留衣を下ろした。
「この扉の向こうに脱衣所と浴室がある」
 説明を受けた留衣は、ここまで運んでくれた七都に頭を下げた。
「多大なご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑だとは思っていない。むしろ心配になった。留衣さんが軽すぎて」
 憂いを帯びた目で見つめられ、留衣の心がちくりと痛む。溺れて死にそうになっただけでなく、食事も満足に摂れない困窮者と思われたような気がしたから。
 その時、内側から扉が開かれた。風呂の準備に取り掛かっていた佐喜子が姿を見せ、片手には畳まれたバスタオルが抱えられていた。
「お待たせしました! 留衣様、お入りください」
 佐喜子が声をかけてくれたが、七都を差し置いて自分が先に風呂に入ることに抵抗があった。それを察した七都は、留衣の背中を優しく押し出しながら温かい声色で諭す。
「ここは客人用で、俺の浴室は別にある。それに獣力者の体は丈夫だから簡単には風邪をひかない」
「で、ですが……」
 それでも躊躇する留衣の腕を、佐喜子が遠慮なく掴んで引き寄せる。
「あっ!」
「さあさあ入って! こういう時はお客様を優先するのが七都様の方針ですから!」
 満面の笑みを浮かべる佐喜子の誘導で、留衣が脱衣所内へと足を踏み入れた。
「七都様はこちらでお身体を拭いて、ご自分の浴室で温まってきてくださいね!」
「ありがとうございます」
 佐喜子からタオルを受け取った七都は、不安げな目をする留衣に向けて微かに微笑む。
 扉がゆっくり閉じられると、廊下に静寂が漂った。一人残された七都は広間にある暖炉へと向かいながら、タオルで首元を拭きはじめる。
 そこで、彼女の優しい手のひらでうなじを撫でられたことを思い出し、ふと立ち止まった。
 獣毛に覆われている動物は、体を濡らしてしまうと体温が下がっていく。それを回避するため、本能的に体を大きく震わせて水分を飛ばすことができるのだが、獣化していた七都はそれをしなかった。
 飛び散った水滴が、すぐそばにいる留衣にかかってしまうのを懸念したからだ。
 とはいえ、獣化した姿で全身ずぶ濡れになることもあまり経験がないから、さすがの七都も若干の寒気を感じていた。
「……くしゅっ」
 誰にも聞こえないように小さなくしゃみをした七都は、早足で自分専用の浴室へと向かっていった。

 一方、客人用の脱衣所では佐喜子の手を借りながら、留衣が濡れた着物を脱いでいく。しかし肌襦袢の姿になった途端、恥ずかしさが込み上げてきた。
「あの、佐喜子さん。あとは自分で……」
「いいえ! 七都様にお手伝いするよう頼まれていますから。留衣様はこの佐喜子に全てお委ねくださいな」
 やる気に満ちている佐喜子は、躊躇する留衣の肌襦袢をせっせと脱がしていく。
「さあ、湯船でしっかり体を温めましょう!」
「……はい」
 佐喜子の勢いある豪快さが、留衣の羞恥心を徐々にかき消していく。腕でそっと体を隠しつつ、ようやく浴室へ入った留衣の鼻奥に檜の香りが届いた。
「わあ、すごい……」
 美しい木目の床と壁の空間に、広い洗い場と正方形の檜風呂が設置されている。一人で使用するには贅沢すぎる浴室に驚いた。
 湯気が立ち込めるなか、佐喜子に背中を流してもらい髪まで丁寧に洗ってもらった。留衣がゆっくりと湯に浸かった頃には、緊張感はなくなっていた。
「こんなに広いお風呂に入るのは初めてです」
 そもそも風呂自体が贅沢だった。冷たい水で濡らした手ぬぐいで体を拭くのが当たり前だった留衣は、身体中の血の巡りが良くなっていくのを実感していた。
「そうでしょうそうでしょう。何せ常磐ノ国を代表する、あの雪平製薬会社の代表の別荘ですから」
 佐喜子が誇らしげに話した途端、留衣が多めに瞬きをした。
 雪平製薬会社とは、薬の製造はもちろん研究開発にも力を入れている大きな企業だ。製造した薬は国内の薬種屋にて販売されるため、庶民でその社名を知らない者はいないほどだ。
『俺の名は雪平七都』
 そう名乗っていた彼の正体が明らかになり、留衣が恐る恐る尋ねてみる。
「つまり七都様は、雪平製薬会社の……」
「旦那様と奥様の一人息子で跡取りとなられる若旦那様ですよ〜!」
 片手で湯加減を確認する佐喜子がさらりと答えた。しかし留衣にとってはとんでもない情報に驚きを隠せないでいる。
「若、旦那様……⁉︎」
「あら? 七都様ったら何もお話されていないのですか?」
「お名前は伺っていたのですがお家のことまでは……。でも、今のお話を聞いて全て納得できました」
 壮大な敷地に、まるで旅館のような立派な別荘。上質な着物も滲み出る高貴な雰囲気も、全ては彼が雪平製薬会社の若旦那だから。
 叔父の家で使用人以下のように扱われてきた留衣では、絶対に出会うことのなかった人物。そんな方の別荘の風呂に入っている現状に、申し訳なさと不思議な巡り合わせに混乱した。
 すると佐喜子が柔らかな声色で話しはじめる。
「この別荘にお客様が訪ねてくるなんてこともないので、こうして留衣様がきてくださって私は嬉しいですよ」
「え……?」
「きっと七都様も同じ気持ちです。でないと、わざわざ抱きかかえて家に招いたりしませんから」
 ふふっと笑みを浮かべた佐喜子が、留衣の心を軽くしていく。
 国を代表する製薬会社の若旦那であり虎の獣力者……雪平七都。住む世界が違いすぎる人物に、たくさんの借りを作ってしまっている。それらをどうやって返していけば良いのやら……。
 湯に浸かっていた留衣はのぼせたように頬を赤くしながらしばし考えた。

 日が傾きはじめた頃。
 夕日の光が差し込む大きな窓に、ソファとテーブルが配置されている異国風の応接室。タイル製の大きな暖炉の薪からは炎がゆらめき、室内を優しく暖める。
 風呂を済ませた七都は、黒の着物に紺の羽織姿で一人掛けソファに座っていた。栞を挟んだ本を開き、なんとなく文章を追いながら留衣の戻りを待つ。溺れていた留衣を助けてから二時間以上の時間が経っていた。
 その時、扉がゆっくり開いて佐喜子が先に顔だけを現した。
「七都様。留衣様のお着替えが終わったのですが……」
 神妙な面持ちの佐喜子を見て、七都が不安に駆られる。
「何かあったのですか?」
「いえ、なんというか。私がつい気合を入れすぎてしまって……」
 言いながら扉を全開にすると、佐喜子の背後からそっと留衣が姿を現した。
 白地に椿花の刺繍がよく映えた着物、可愛い花柄の鼻緒の草履。三つ編みで緩くまとめられた後ろ髪と、ほんのり色づく程度の化粧も施されていた。留衣の顔立ちが際立ち、その美しい姿に思わず七都は息を呑む。
 先ほどまでの落ち着いた外見から一変して、明るく華やかな女性へと変貌を遂げていたのだ。
「女性用の替えのお着物がなかったので、私が若い頃に着ていた一張羅を引っ張り出しました! 留衣様にとってもお似合いだったのでお化粧と髪型もこだわりが出てしまいました」
 佐喜子が誇らしげに語る中、七都はいまだに呆気にとられたように留衣から目が離せなかった。さすがに恥ずかしくなってきて、留衣は不安げな顔で気持ちを吐露する。
「……やはり、地味な私には似合わないお着物ですよね」
「そ、そんなことはない。あ、あまりに美しくて驚いたのだ」
 さらりと本音を伝えた七都だが、はっとして口元を押さえ自分の発言を振り返る。今のは彼女に嫌な感情を与えなかっただろうかと心配になり、そっと視線を向けた。
 すると頬を紅潮させていた留衣が、眉を下げて照れながらもにこりと微笑む。
「ありがとうございます。お世辞でもとても嬉しいです」
「っ……」
 決してお世辞ではなかった七都だが、訂正する間もなく佐喜子が会話に割って入る。
「留衣様、謙遜しなくていいんですよ! 七都様の言うとおりお美しいんですから自信を持ってくださいね!」
「佐喜子さんもありがとうございます。せっかくの思い出のお着物なのに、私なんかがお借りしてしまって」
「いいんです! 私はもう着られないですし、留衣様に着ていただけて着物も喜んでいます!」
 明るく気さくな佐喜子の言葉で、留衣の表情が安堵に変わる。七都の知らないところで二人が仲良くなっている。それは喜ばしいことなのだが、なぜか七都は複雑な気持ちを抱いた。
 そんなことより優先すべき話があると自分に言い聞かせて、七都は向かいのソファに留衣を誘導する。
「色々と話したいことがあるから、こちらに座ってくれ」
「は、はい」
 少し緊張が走った留衣は、一礼してゆっくりと七都の正面に座る。そして佐喜子は「夕食の準備をしてまいります」と言い残して急ぎ足で退出する。
 先ほどまで読んでいた本をテーブルにそっと置き、七都は本題について語りはじめる。
「俺はこの別荘で、獣化の研究をしているのだ」
「獣化の研究……?」
「留衣さんの涙を摂取した途端、俺の獣化が解除された。これは前例のない現象で獣力者にとって大発見だ」
 つい前のめりになって説明する七都は、活き活きと瞳を輝かせていた。
「獣力者は一度獣化すると二十四時間は人間の姿に戻ることができない。国家の特殊部隊に属する獣力者も、子供の獣力者も皆同じ条件だ。不便な異能ではあるが仕方のないことだと代々受け継がれてきたが、留衣さんはそれを覆す救世主になるかもしれない」
 獣力者にとって一番の不便は“二十四時間”の縛りだった。それが留衣の涙で解除されたということは、何か特別な成分や力が含まれている可能性がある。
 涙を研究し原因がわかったら、獣化したあと二十四時間待たずとも人間の姿に戻る薬を作れる。そうすれば多くの獣力者が救われる世界になる。七都はそう考えた。
「留衣さんの涙に秘められた力を調べたい。獣化の研究に協力してほしい。この通りだ」
 言いながら七都は頭を下げた。
(雪平製薬会社の若旦那ともあろう七都様が、凡人の私にここまで懇願するなんて……)
 留衣の涙で獣化の解除がされたという現象は、それほどの大発見であることがよくわかった。
 そしてもうひとつ、留衣のなかで湧き上がる感情があった。
 両親が亡くなって以降、叔父家族に虐げられてきた留衣を唯一必要としてくれた最初の人物は、元婚約者の昇だった。そんな彼も最終的には菖を必要とし、不要になった留衣を殺すという計画まで立てていたのだ。
 必要とされない自分は生きている価値がないとさえ思っていたが、今の留衣は七都に必要とされている。その状況にたまらなく嬉しさが込み上げてきた。
(……それに七都様は私の命の恩人。お役に立てることがあるならどんなことも引き受けたい)
 恩返しの方法を見つけた留衣は、胸に手を当てて宣言する。
「なんの取り柄もない私ですが、七都様のためならなんでもいたします。獣化の研究に、是非とも協力させてください!」
 その言葉に更なる希望を見出した七都は、深い感謝の念を抱いて再度頭を下げた。
「本当に、ありがとう……」
 柔らかな銀白色の髪がお辞儀とともに微かに揺れる。つられて留衣もお辞儀をし、同じタイミングに顔を見合った。
 まずは研究に協力してくれる留衣の素性を知る必要がある。七都は言いにくそうに眉を寄せながら、言葉を選んで問いかける。
「差し支えなければ、留衣さんのことをもっと知っておきたいのだが」
「え?」
「たとえば、現在の住まいやご家族について……」
 途端、留衣は口元に手を添えて徐々に顔を青くした。死んだことになっている自分は叔父の家には戻れないし、生きていると知られたら菖と昇にまた何をされるかわからない。
 今後の生活についてまだじっくり考えていなかった留衣は、不安と焦りで言葉を失う。
「……留衣さん」
「! は、はい」
 呼ばれて視線を上げると、七都の優しい眼差しと声が留衣に届く。
「言い忘れていたが、俺には協力を約束してくれた留衣さんを守る義務がある。何を聞いても驚かないから安心して話してほしい」
 その言葉で気持ちが軽くなった留衣は、こくりと小さく頷き決心した。
 大好きな両親が幼い頃に亡くなっていること。叔父の家で使用人として過ごしていたこと。そして、最後まで仲良くなれなかった従妹と、元婚約者の存在。二人が恋仲になっていたことも正直に話した。
 静かに耳を傾けていた七都は、時折悲しげな瞳をしたり眉を寄せたりしていた。自分でも面白みのない人生だという自覚があり、ちくりと胸を痛めた留衣は橋での出来事以外を伝え終えた。
「……以上、となります」
「そうだったか。今まで大変な苦労をしてきたのだな」
 七都の一言が胸に沁みて、留衣はそっと視線を落とす。すると思ってもみない質問が飛んでくる。
「では、留衣さんを橋から突き落としたのはその従妹と元婚約者か」
「っ……!」
 驚いた留衣は一度下げた視線を戻した。深刻な表情でじっと見つめてくる七都が、目撃したままを語りはじめる。
「あの時間帯、俺は一人で川沿いを散歩するのが日課なんだ。一台の馬車が林道を抜けていき珍しいと思い目で追った。道の先にある橋の上に三名の人影が確認できたが顔まではわからなかった」
 そこまで話したところで、七都は眉を寄せて苦悩の顔になる。つまりその後の留衣に降りかかった悲劇の全てを目撃していたことになる。邪魔者で不要な存在の自分が殺される様子を見られていたと知り、留衣は羞恥心に駆られ唇を噛み締めた。
 しかし七都の思いは別にあった。
「あれは紛れもない殺人。彼らの罪は裁かれるべきだ」
「え……?」
「留衣さんの尊厳のためにも絶対に許してはならない」
 七都は自分のことのように憤り、ぎりっと歯を食いしばっていた。
(こんな私のために、本気で怒ってくれている……)
 七都も、そして佐喜子も、初めて出会ったばかりの留衣に親身になって寄り添ってくれる。誰かの心の温かさを感じるのは久々で胸がいっぱいになると、次第に留衣の視界がぼやけてきた。
「すみませ……、気が緩んでしまいました」
 慌てて手のひらで目元を隠すも、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。必死に我慢しようとすればするほど、鼻奥がつんと痛んで抑えられない。
 留衣が袖を摘んで涙を拭おうとしたその時、突然立ち上がった七都に手首を掴まれる。
「待ってくれ」
「っ⁉︎」
「その涙で、もう一度だけ確かめてもいいだろうか」
 言っている意味をすぐには理解できなくて、涙を拭い損ねた留衣が瞬きを繰り返す。
 そっと手を離した七都は、神妙な面持ちで暖炉の前に移動する。ひとつ深呼吸をして心臓のあたりに拳を添えた。瞬間、微かな空気の変動を感じて留衣が見守っていると、例の黒い霧が彼の全身を覆いはじめたのだ。
 獣力者が獣化する瞬間だ。
(すごい……!)
 黒い霧はすぐに消え去り、先ほどまで人間の姿だった七都は溺れた留衣を助けた際の白い虎の姿になって再度現れた。
 獣化中は人の言葉を話せない。そのため人間の七都と同じ青い目が、留衣をじっと見つめて訴えかける。
『もう一度だけ確かめてもいいだろうか』
 先ほどの七都の言葉を思い出した留衣は、急ぎソファから立ち上がる。暖炉前で行儀よく座る彼の前まで移動すると、少し緊張しながら軽く膝を曲げた。
「ど、どうぞ……」
 言いながら七都の口元に赤く染まった頬を寄せて、ぎゅっと固く目を閉じる。留衣の大胆な行動に七都もひどく驚いていた。
 一度目は涙を流す彼女を慰めるため、思わず頬を舐めてしまった。しかし二度目となる今は、涙を口に含むことができればいいだけのこと。
 涙を拭った手の甲や指先だけを差し出してくれれば事足りるのに、その手段に気づいていない留衣は涙で濡れた頬を素直に差し出してきたのだ。
 まるで留衣の頬に口付けでもするような体勢に、味わったことのない緊張感を覚える。一方で心を許してくれているようにも感じ、意を決した七都はゆっくりと口を動かす。
 その時、応接室の扉がガチャっと音を立てて開いた。
「っ⁉︎」
 佐喜子が戻ってきたのかと思い、留衣がぱっと目を開ける。しかしそこには見知らぬ青年が立っており、ドアノブを掴んだまま体を硬直させていた。
 紫黒の髪を後ろで結い、目にかかりそうな前髪の間から琥珀色の丸い瞳が確認できる。そして左耳には、獣力者の証である短冊型の耳飾りが揺れていた。
 少し気怠い雰囲気を纏う彼は、初対面の留衣と獣化した七都を交互に見て一言呟く。
「七都の女?」
 中性的な顔に似合わず、淡白で冷ややかな声だった。“七都の女”と言われてしまった留衣は、肩をびくつかせて焦りを覚える。その隣では、虎の姿の七都が冷静な目を青年に向けていた。
 獣化した七都の正体を知っていたということは、彼は近しい関係者。そう理解はしたものの“七都の女”と誤解されたのは非常に烏滸がましく、また七都を嫌な気分にさせてしまうだろう。
 不安を抱いた留衣は反論を試みるも、すぐに青年の言葉で遮られてしまう。
「どうせ七都に好意を抱いて近づいたけれど、獣化の姿見て恐くて泣き出しちゃった〜って感じだろ」
「え……ち、違います!」
「七都に寄ってくる女はみんな、その外見と地位目当ての汚れた心のやつばっかだな〜」
 青年が呆れ顔で留衣を非難した。過去にもそういった女性が複数人いたような物言いで、完全に誤解している青年は敵意を含んだ瞳を向けてきた。
 まるで狼に睨まれている感覚に陥った留衣は、否定したい気持ちがあるにもかかわらず萎縮してしまった。
 強く睨まれると言葉を飲み込む癖があった。叔父夫婦も菖も昇も、何か反論すると睨みつけることで留衣を黙らせてきたからだ。
(……だけど、これは私だけの問題ではない)
 話すことができない七都のために、自分が誤解を解かなくては。そんな使命に駆られた留衣は震える両手を握りしめて、必死に言葉を探す。
 そんな留衣の様子を目にして、耐えられなくなったのは七都のほうだった。
 素性も性格もよく知っている青年に、留衣という貴重な人材を早く理解させる方法。それは青年の目の前で彼女の涙を摂取し、獣化が解除される場面を目撃させること。
 迷っている暇はない。七都は後ろ足を伸ばし、留衣の肩に大きな前足を置いて起立した。
「きゃっ」
 驚いた留衣が倒れないように踏ん張るが、思ったより重くない。七都が体重をかけないようにしてくれていると気づいて顔を向けると、鼻先がつきそうなほどの至近距離に白い虎の顔があった。
 ドキッと胸を鳴らす間もなく、留衣の頬に残っていた涙を七都が舐めとった。
「っ⁉︎」
 すぐに留衣から手を離した七都は四肢で自立する体勢に戻る。しかし留衣はこんな唐突な形で涙を摂取されるとは思っておらず、舐められた頬全体をカッと赤くさせた。
 その様子を見ていた青年は、明らかに不快感を表しながら七都を見つめる。
「は? なんの真似?」
 途端、虎の四肢から例の黒い霧が発生する。青年が「なぜ?」という顔で驚いていると、あっという間に体全体が覆われはじめた。
 七都と同じ獣力者の青年は、目の前の現象の異常さをすぐに理解する。
「……昼間に人間の姿の七都に会っている。それ以降に獣化したはずなのに二十四時間経過していないうちに獣化が解かれるなんて、あり得ない!」
 二十四時間の縛りは重々承知している青年が、琥珀色の目を丸くする。黒い霧はすぐに消え、人間の姿に戻った七都が帰ってきた。
 その胸ぐらに掴みかかり、青年が声を荒げる。
「説明しろ! 何が起こったんだ⁉︎」
「落ち着け、李九(りく)。きちんと順を追って説明する」
 青年――李九を宥めた七都は掴まれていた胸ぐらを離してもらった。ようやく話せるようになり、まずは留衣に詫びを入れる。
「驚かせてすまなかった」
 言いながら、自身の着物の袖で留衣の頬を拭う。少しずつ熱が引いていた頬が、七都の接近で再度微かに赤く色づく。
「だ、大丈夫です。事前に知らされていましたし、そのために七都様が獣化したのですから」
 留衣は微笑みながら答えた。嫌悪感や不快感を与えたと思っていた七都は、留衣の返事に胸を撫で下ろす。そんな二人のやりとりを見ていた李九が、何か訳があることを悟って一つのため息をついた。
「……悪かったよ。変な言いがかりつけて」
 首根をかきながら、少し気まずい表情をして留衣に謝罪した。その素直で誠実な一面に留衣も安心する。
「私のほうこそ、ご挨拶が遅れてすみませんでした。花山留衣と申します」
「……狩谷(かりたに)李九(りく)。七都と同い年の獣力者で、離れの研究室で働く研究員だ」
 耳飾りに触れながら名乗った李九は、なんと獣化の研究に携わる七都の仲間だった。これからお世話になるであろう人物に向かって、留衣は丁寧にお辞儀をする。
 二人の挨拶を見守っていた七都も、少しばかり安堵の表情をみせた。
 その時、開いていた扉の隙間から室内を覗く顔が浮かび上がる。夕食準備を終えた佐喜子だった。
「お取り込み中すみませんね〜。続きはみんなで夕食を食べながらにしませんか?」
 三人の雰囲気が和やかになるのを見計らっていた佐喜子が、微笑みながら提案してきた。
 言われてようやく空腹感を覚えた三人は、しばし沈黙して視線を泳がせた。七都が小さな咳払いをして、その提案に賛同する。

 会合ができてしまうほどの広さと、大きな窓と暖炉が設備された食堂。十数人が着席できるダイニングテーブルの上には、すでに三人分の夕食が用意されていた。
 七都の誘導で隣の席に促された留衣は、少し緊張しながら着席する。李九はその向かいの席に腰を下ろして、さっさと食事をはじめてしまった。
「俺たちもいただこう」
「は、はい」
 留衣と七都は二人揃って佐喜子が用意してくれた温かい食膳に向かい両手を合わせた。
 七都と李九の出会いは十年前。
 雪平製薬会社の跡取りで獣力者の七都を知っていた李九が声をかけたのがきっかけで仲を深める。それぞれ獣化という異能に興味があり、ともに研究するようになる。
 現在は別荘裏にある離れを研究室とし、李九はそこで寝泊まりしながら食事の時だけ姿を見せる生活を送っているという。
 七都は本日の留衣との出会いや涙に隠された効果について説明した。実際に獣化が解除された瞬間を目の当たりにしている李九は、留衣という貴重な存在をよく理解していた。
「七都、よくこんな激レア人間連れてきたな!」
 焼けた牛肉をナイフで切る李九が高揚感を露わにする。留衣のことをそんなふうに呼ぶのは許していないが、今や研究熱心な彼にとって留衣は新たな発見の種となるだろう。
「そういうわけだから、協力者の留衣さんにくれぐれも失礼のないように頼むぞ」
「わかってるって。俺は貴重な研究材料だけは丁寧に扱うからな」
「李九っ」
「てことで留衣、仲良くしような」
 留衣を親しげに呼び歯を見せて笑った彼は、先ほどとは別人のように上機嫌だった。美味しそうに肉を頬張っている姿に時は、どこかあどけなさも感じられて、留衣はつい笑みをこぼす。
「はい。色々教えてください、李九さん」
「一応同僚になるんだから李九でいいよ」
「いいえ。四つ年上ですので、そういうわけには……」
 眉を下げて遠慮した留衣が小さく切った肉を口に運んだ。
 真面目で律儀な印象を抱いた李九は、そんな留衣の今後について言及する。
「んで、留衣はこれからどうすんの? 死んだことになっている上に頼る人も帰る家もないんだろ? どうやって研究に協力すんの?」
 痛いところを質問されて、飲み込んだ肉が喉に詰まりそうになった。留衣にはまだまだ解決していない問題が山積みだ。すぐに答えられなくて視線を落とした時、隣に座っていた七都がさらりと答える。
「留衣さんには、ひとまず研究員の一人ということにしてここに住んでもらう」
「え……ええ⁉︎」
思いもよらない言葉に驚いた留衣は、思わず持っていたナイフを皿の上に落としてしまう。キンという金属音が食堂に響くと、七都は淡々と考えを述べはじめる。
「部屋も余っているし、美味しい食事を作ってくれる佐喜子さんもいる。俺と李九は獣力者だから防犯対策も問題ない。ここは自然に囲まれた静かな場所だ。留衣さんを苦しめるような者はいない」
 七都の穏やかな声と優しい言葉は、留衣にとてつもない安心感を与えた。世間では死んだことになっている留衣を、七都はここに置区だけでなく、その身も生活も守ってくれようとしている。
 頼る人も帰る家もない今の留衣には本当にありがたい話だった。
「……ですが、これ以上ご迷惑をかけるわけには」
「迷惑ではない。研究に協力いただくのだから、安全な生活の保証をするのは当たり前だ」
 すると頬杖をついて話を聞いていた李九は、目を細めながら心配する。
「留衣がここに住むのはいいけどさぁ。そう簡単にいくか〜?」
「どういう意味だ」
 七都が軽く首を傾げた時、片手に水差しを持つ佐喜子が様子を見に食堂へやってきた。
「なんだか盛り上がっていますね」
「今日から留衣さんもここに住むことになった」
 まだ留衣の返事を聞かないうちに七都が答えてしまう。
「あら! それは素敵ですね!」
 グラスに飲み水を注いで回る佐喜子が、ぱっと笑顔を咲かせて喜んだ。……が、李九と同じ懸念点に気づいて即座に難しい顔をする。
「大賛成ではあるのですが、旦那様と奥様へのご報告をいかがいたしましょうか」
 途端、七都の片眉がぴくりと動いた。その様子を見ていた李九が呆れながら指をさす。
「やっぱり! 最大の問題点を忘れていたな、七都」
「それは……。そもそも留衣さん一人住まわせるくらい、両親が反対するような内容ではない」
 毅然とした態度で七都が反論した。しかしその考え自体が甘いことを李九が指摘する。
「いーや。奥様はともかく、旦那様は絶対に許可しないな」
 二人の間で睨み合いがしばし続いた。そんななか、七都の両親を知らない留衣だけが猛烈な不安を抱く。
 “父の別荘”と七都が説明していたから、持ち主である父親に報告することは理解できる。ただ、反対される可能性があるほどに厳格な人なのかもしれないと考えたのだ。
 すると佐喜子がそっと隣にやってきて説明する。
「七都様のご両親は帝都の本邸に住んでいます。私は使用人ではありますが七都様の“監視役”も任されているので、今回の件をご報告しなくてはいけないのです」
「監視役?」
 なぜそんなものが必要なのかと疑問が湧く。ここは事情を話しておいたほうがよいと判断して、七都が父親との関係を話す。
「父と俺は昔から不仲なのだ。世襲制の会社ゆえ跡取りとなる一人息子の俺が必要なだけで、父は俺の思考や目標を一切認めてくれない。二十歳を迎えた二年前、ようやく別々に生活することを許された」
 視線を落とした七都は、まるで苦いものを口にしたような表情をした。続けて佐喜子が自分の役目について付け加える。
「そこで旦那様が出した条件は、“使用人の佐喜子を監視役とし、変化があれば報告すること”。とは言っても、佐喜子は七都様の研究を応援しておりますので監視というより見守り役。ですが、報告に偽りを書くことはできないので……」
 そうして佐喜子が悩ましい顔をする。
 由緒正しい会社の若旦那で、一見恵まれているように見える。そんな七都の内側は、自由が許されず窮屈な思いを経験してきたのかもしれない。
 両親の本心についてはまだまだわからないことも多い留衣だが、どうも引っかかってしまう。
「あの、旦那様にご承諾をいただけない理由はどこにあるのでしょうか」
 留衣の質問に、他の三人が沈黙する。
 たとえば、七都の父親は研究自体を反対しているだとか、留衣のような庶民との関わりを持ってはいけないだとか。これから研究員としてお世話になる留衣が認められない理由を探った。
「涙の研究を滞りなく進めるためにも、私にできることがあれば何でもやります」
 それが七都のためになると考えた留衣は、恩を返す意味で隣に座る七都に訴えた。
 すると李九と佐喜子が顔を見合わせ、何かを思いつくような素ぶりをみせる。しかし七都だけが瞬時に首を振った。
「理由は俺の異常な家庭問題だ。留衣さんを巻き込むわけにはいかないし、できることもない」
「で、ですが……」
「同居の件はしっかり説明して何としても認めてもらう。何も心配いらない」
 これ以上、七都の都合で留衣に迷惑や面倒をかけるわけにはいかなかった。そんな思いで七都が返答すると、向かいに座る李九が怪しく口角を上げて人差し指を立てる。
「ひとつあるよ。留衣ができること」
「え……⁉︎」
 その言葉に食いついた留衣が目を丸くするなか、七都は何を言い出すのかとハラハラしていた。二人が李九を見つめていると、満面の笑みで李九が言う。
「七都の婚約者になる!」
 途端、食堂内が静寂に包まれ暖炉の薪だけがパキッと音を立てた。聞き間違いでなければ、留衣にできることとして李九が提案したのは『七都の婚約者』だ。その発言に至る意味が全くわからず、留衣の顔が呆然としたまま固まる。
「李九、ふざけるのもいい加減にしろ」
 留衣の隣で不穏な空気を纏う七都が怒りを露わにした。
「え、超真面目に言ってるけど」
「どこがだ。留衣さんに失礼のないようにと伝えたばかりで――」
 言いかけたところで佐喜子の同意の声が入る。
「良い案だと思います」
「え……⁉︎」
 使用人の佐喜子も李九の意味不明な提案に乗り出してしまった。さすがの七都も焦りを覚えていると、佐喜子が真面目な表情で理由を口にする。
「留衣様と同居するということは、若い男女が一つ屋根の下で生活をするということ。たとえ“研究員”だとしても、留衣様を家に招き入れた七都様との仲をご両親は勘繰るはずです」
「ほーら佐喜子さんも言ってる」
 佐喜子を味方につけた李九が、さらに七都の過去について掘り返す。
「これまで旦那様が用意した縁談も全部ぶっ壊しておきながら、留衣との同居は許可しろなんて都合が良すぎるだろ」
「それは……っ、父が勝手に話を進めてしまい、顔を立てるためにも仕方なく顔を合わせただけで……」
「相手女性の前でわざと獣化し追い払うのが顔を立てているのか? 顔に泥を塗るの間違いだろ」
 睨み合う二人の会話を、佐喜子が「またこの話ね」というような顔で見守っていた。
 跡取りでもある七都は、これまでも数多くの縁談話があった。しかし誰もが七都の整いすぎる容姿と雪平の財産目当てだった。そういった下衆な奴らも、それを見抜けない父にも七都は腹が立っていた。
 そうして思いついたのは、下衆な縁談相手の目前で獣化すること。虎の姿を見せつけて恐怖心を煽り、二度と縁談話を持ちかけられないようにした。
 いつしか『雪平の若旦那は恐ろしいほど気性の荒い猛虎』と噂されるようになったが、七都としては作戦大成功だった。
 もちろん、父との溝はさらに深まったのはいうまでもない。
 これまでの七都の行動を考えた上で、李九は留衣を婚約者にすることを提案していた。
「俺が旦那様なら“どうしてもと言うなら次の縁談は絶対成功させろ”と交換条件を出す。それほど旦那様は七都に早く結婚してもらいたいんだよ。会社の未来を安定させるために」
 李九の言葉は、とうとう七都を黙らせてしまった。
 会社の未来、そんな理由のために結婚する意味が七都には理解できない。しかし李九が言うように、留衣の同居の許しが欲しくば縁談を成功させろと父なら要求するに違いない。
 どうしたものかと悩んでいると不意に留衣と目が合ってしまった。すると彼女の口から思わぬ質問が飛んでくる。
「七都様と私では身分が違いすぎますが、それでも婚約者として務まるでしょうか?」
「……は?」
 唖然とする七都をよそに、留衣は難しい顔をしながらぶつぶつと話を続ける。
「さすがに身分を偽ることはできないので、庶民でもお許しをいただけるなら……」
「ま、待ってくれ。何の話をしている」
「何の……、私が七都様の婚約者になるお話をしています」
 すでに心を決めたような表情で留衣ははっきりと答えた。
 七都と李九の話を聞いていて、七都にとって何が一番生きやすい選択なのかを考えた。そうして導き出された答えは、やはり李九と佐喜子が提案する“婚約者になること”だった。
「お二人の提案は七都様のためを思ってのことだというのがよくわかりました。私も七都様のためにはそれが一番かなと」
「いや、しかし……」
 まさか留衣までそんなことを言い出すとは思ってもみなくて、七都が頭を抱えながら困惑する。そこへ李九が助け舟を出すように説明する。
「たとえば研究が終わるまでの期間だけ、留衣を“婚約者”として利用するんだよ。七都は縁談に苦しむことなく研究を続けられるし、留衣も安全な生活を送れる。何も本物の婚約者になれってことじゃない」
 ようやく理解が追いついてきた七都が、的確な言葉を口にする。
「……利害一致、期限つきの偽装婚約者ということか」
「そうそう、それそれ!」
 李九が軽快な返事で場を和ますが、七都はまだ迷っていた。
 偽装婚約者とはいえ、結局は七都の身勝手な都合とわがままを通すために留衣を利用しようとしているだけ。これまでずっと苦労してきた彼女にそんな無理強いはしたくないし、もう一つの不安要素が七都を悩ませる。
「俺は獣力者だ。偽りとはいえ、そんな男の婚約者になることに抵抗はないのか……」
 不安を帯びた青い瞳が留衣を見つめる。自分で質問をしておきながら、返答を聞くのが怖かった。
 一瞬驚いた表情をした留衣は、目尻を下げて温かい笑みを浮かべる。
「ふふ、それはおかしな質問ですね。私は七都様の獣化したお姿も好きですよ」
「っ……!」
 想像の何倍も衝撃的な返答を聞いて、七都は目を見開いたまま固まった。その様子を見てようやく自分の発言の曖昧さに気づいた留衣は、動揺しながら補足する。
「あ、あの、好きというのは、凛々しくて威厳ある姿勢やふわふわで綺麗な毛並みの触り心地などが、という意味で……!」
 言えば言うほど恥ずかしくなってきて、徐々に顔が熱くなる。何を言っても空回りしてしまいそうで、留衣はそのまま沈黙してしまった。
 向かいの席に座る李九と、その近くで立っていた佐喜子が何やらコソコソと会話をはじめる。
「獣化したお姿“も”好きって言った?」
「ええ、佐喜子の耳にもそう聞こえました」
「つまり留衣的にはどっちの七都も“アリ”ってことだよな」
 幸い二人の会話は留衣と七都には届いていない。
 留衣は耳まで真っ赤に染めて肩を窄める。素直で純粋な反応を見ていた七都もつられて頬を赤くする。
 こんなふうに言ってもらえたのは人生で初めてのことだった。
 留衣の言葉は、七都が抱える劣等感や孤独感をいつも軽くしてくれた。そしてそれは言葉だけではないこともすでに実感している。
 溺れていたところを助けた時、虎の姿に最初こそ驚いていた。しかしすぐに微笑みながら感謝の言葉を口にして、獣毛で覆われたうなじを躊躇なく撫でてくれた。
 壮絶な体験をした直後にも関わらず、他者を思いやる真心を持っている。そんな留衣だからこそ、七都も心の底から助けてあげたいと思った。
「……わかった」
 七都は留衣に向けて、ゆっくりと手のひらを差し出した。
「留衣さん。期限つきの偽装婚約者としてよろしくお願いします」
「……は、はい!」
 七都の決意を受けて、留衣が緊張しながら返事をした。握手を交わすと、彼の指先が冷えていることに気づく。
 決断を下した七都の隠れた緊張が窺えた。
 留衣の同居についてはじまった話が、七都の婚約者になる話にまで発展するとは誰が予想できただろうか。それに、これからは研究を進める一方で両親を欺くことにもなる。
 心を痛めないわけがない状況に、留衣の中の決意もさらに強まった。
(私は七都様に命を救っていただいただけでなく、住居と食事と存在意義まで与えてくれた。一生をかけても返せないほどの恩恵を受けているのよ……)
 ならば今この瞬間、七都のためにできることを全力で行うのみ。研究への協力も偽装婚約者という役目も、必要とされる間は完璧に遂行しなくてはならない。
 留衣は握手をしたまま七都に微笑みかける。少しでも緊張が和らぐようにと願って。
 それを見て、胸の奥で微かに音を鳴らした七都は、照れつつも控えめに微笑み返した。重なった手の温もりを感じながら、互いに未来への希望に胸を膨らませる。
 そんな二人をにこにこしながら見つめていた李九はいつの間にか夕食を完食していた。同じく保護者のように見守っていた佐喜子が、空いた食器を片付けはじめる。
 両手を叩いてパンと大きな音を鳴らした李九は、空気を一掃する。
「よし、交渉成立だな! 細かい決め事は明日にして留衣の歓迎会しようぜー」
「そういたしましょう! お酒も用意しますか?」
「いいねー!」
 李九と佐喜子が嬉しそうにはしゃいでいる。静かに握手を解除した二人は、互いに恥じらいながら会話する。
「……食事を再開しよう」
「はい……」
 冷めてしまった残りの肉を食べるなか、ふと留衣が思い出したように小さな笑い声を漏らす。
「留衣さん?」
「ふふ、すみません。今日だけで色々なことがありすぎて、つい笑ってしまいました」
 言いながら、留衣は目尻に溜まった涙を指で拭う。
 菖と昇に橋から突き落とされたこと。溺れて死を覚悟したこと。虎の姿の七都に助けられたこと。そんな彼の偽装婚約者になったことまでが、今日一日に起こった全ての出来事だ。あまりの盛りだくさんな内容に可笑しさが込み上げてきた。なぜなら本日は……。
「忘れられない誕生日になりました」
 言いながら、留衣がとびきりの笑顔を咲かせた。恐怖や絶望を経験したはずの一日を、こうして笑顔で締めくくることができたのも七都のおかげだ。
 だだ漏れる感謝と生きている喜びが留衣の表情に表れたのだが、それは七都の不意をつき鼓動を速めた。
 すぐに我に返って、七都はある言葉について考える。
(……った、誕生日?)
 そんな特別な日とは知らずに、留衣に偽装婚約者をお願いしてしまった。このまま誕生日を終えていいはずがない。七都は静かに手を挙げて、片付け中の佐喜子を呼びつける。
「七都様、どうされました?」
 隣に座る留衣には知られないように、七都は佐喜子にこっそりとお願いする。
「今日は留衣さんの誕生日なので、甘いお菓子や果物も用意してください」
 留衣のための準備であると察した佐喜子が楽しそうに頷いて厨房へと向かっていった。
 見送った七都は、順序が逆になってしまったことを気にしながら留衣に確認する。
「甘い食べ物は好きか?」
「はい! しばらく食べていませんが、子供の頃からの大好物です」
 留衣は柔らかく微笑んで答えた。何気ない会話のなかで、彼女の表情ひとつひとつの変化がよく見えた。それに気づかされるたびに七都の心が綻んでいく。
「そうか。よかった」
 期限つきの偽装婚約者ではあるが、彼女の笑顔は二度と奪われることのないように守っていきたい――。
 そう願った七都も、気づけば自然と笑みをこぼしていた。