それは陽だまりの記憶。
幼い頃の留衣は、心優しく穏やかな母の膝に座るのが好きな少女だった。
お日様に照らされた縁側で、無邪気に振り返る。
『お母さん。今日はどんな物語を聞かせてくれるの?』
母は愛おしそうに一人娘の髪を撫でて頬を緩ませた。
『そうね〜。留衣には少し難しいかもしれないけれど……』
『大丈夫だよ! 留衣もう五歳だもん』
『じゃあ、少し悲しい結末だけれど大切な物語を……』
眉を下げた母は、いつものように優しい声で語りはじめた。
遥か遠い昔の頃から、常磐ノ國には普通の人間と異能を持つ人間が共存していた。
異能を持つ人間は【獣力者】と区別され、人の姿から獣の姿へと“獣化”できる。
獣特有の強靭な肉体と身体能力を手に入れられるが、人間の姿に戻るのは二十四時間後と決まっており不便もあった。
統治者たちは彼らを特別に扱い、国の特殊部隊への勧誘や優遇を積極的に行なう。その背景は、管理下に置いた獣力者の異能を国のために利用する意図があった。
今から約七十年前。獣力者であることを周囲に隠して生きる、八重という娘がいた。
幼い頃に家族を失い、人目を避けるように村のはずれで孤独な生活を送る。
ある時、一人の青年が道端で怪我をしてしまい、通りかかった八重の家に助けを求める。それが運命の出会いとなった。
素直で清らかな心の青年に八重も優しくなれて、二人の仲は日に日に深まる。それは、八重が獣力者だと明かされても変わらなかった。
この時代、見慣れない獣の姿や力を恐れ、獣力者を忌み嫌う者が大勢いた。それが当たり前だった八重にとって、初めて受け入れてもらえた感動と喜びで胸がいっぱいになる。
必然的に恋に落ちた二人。――が、由緒正しい家柄の一人息子の恋路を、青年の両親は断固として認めなかった。
青年は駆け落ちを決意し、遠い北の地で仲睦まじく夫婦生活をはじめる。やがて二人の間に可愛い可愛い男児が誕生し、家族三人で幸せな日々を送っていた。
しかし、それは長くは続かなかった。半年ほど経った頃に居場所をつきとめられ、青年と跡継ぎとなる息子は連れ戻された。
愛する夫と息子、二人も同時に奪われた八重は毎日泣き続け悲しみに暮れる。
とうとう孤独に耐えられなくなった時、大粒の涙を流したまま倒れた八重の生涯は、ここで閉じることとなった。
『……かわいそうな、お話だね』
純粋無垢な留衣の瞳が、いつの間にか涙で溢れていた。感受性が強く心優しく育った娘を嬉しく思いながらも、母は八重の物語で思う事を口にする。
『確かにかわいそう。でもね、たとえ短い間だとしても家族三人で過ごした幸せな日々は本物だし、八重の命は続いていくのよ』
それを聞いた留衣は、目を丸くして尋ねた。
『どうして? 八重は死んじゃったんでしょ?』
『ええ。でも八重が産んだ子は、八重と青年の命の欠片を受け継いでいるもの』
優しく説明されて納得すると、留衣は涙を拭いホッと胸を撫で下ろす。
『よかった。じゃあ留衣も、お父さんとお母さんの命の欠片を受け継いでいるのね』
『そうよ。だからこの先何があっても、留衣が生きていてくれるだけで、私たちも生き続けるの』
言いながら優しく微笑む母は、留衣の小さな体を後ろからぎゅっと抱きしめた。そうされる度に、自分は愛されていると実感できた留衣もまた、母によく似た笑顔を咲かせる。
もう二度と味わうことのできない、遠い記憶の幸せなひと時――。
*
「留衣! 起きなさい!」
キンとした声が耳奥に届き、比良名留衣はゆっくりと瞼を開けた。黒髪がはらりと肩を滑ると、それを耳にかけて冷静に返事をする。
「……少し目を閉じていただけよ」
ガタガタと揺れる馬車の中、正面に座る同い年の従妹・比良名菖が不機嫌そうに留衣を睨んだ。艶めく黒髪に華やかな簪、牡丹があしらわれた着物に身を包む彼女は、まさに気の強いお嬢様といった顔つきで難癖をつけてくる。
「本当は私に同行して帝都に行くのが乗り気じゃないくせに」
「そんなことは……」
「つまらないって顔に出てるわ。ねぇ、昇さんもそう思うでしょ?」
隣の肩に頭を乗せ、甘ったるい声の菖が同意を求めた。背広姿の青年・亀井昇は、一瞬緩んだ顔を引き締めて、敵意を含んだ目を留衣に向ける。
「今日は菖の買い物に付き合うと伝えてあっただろ。つまらなさそうにするなよ」
「……はい」
婚約者の昇に何を言っても無駄だとわかっている留衣は、反論はせず静かに視線を落とした。
「昇様、ビシッと言ってくれてかっこいい〜!」
「菖のためならなんでもするさ」
昇の腕に絡みつき体を密着させる菖。それを愛でるような瞳で応える婚約者の姿に、留衣の心はすっかり冷めきっていた。
十歳の時、畳屋を営む両親が揃って自宅で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
独りとなった留衣は近くに住む叔父夫婦に預けられたが、家族としてではなく使用人として扱われる。拭き掃除が甘いと水をかけられたり、罰として食事を抜きにされたりして長年虐げられていた。
最愛の家族を失い居場所もない留衣に、転機が訪れたのは今から一年前。
町に新しい薬種屋が誕生し、越してきた亀井家の長男・昇に出会う。
お使いで来店した留衣の、清らかで透明感のある姿に一目惚れした昇は『留衣が十八になったら結婚しよう』と婚約を迫る。
まっすぐな想いに感化された留衣は、四つ年上の昇の申し出を受け入れた。
嫁に行くことで、自分を引き取り負担を強いられていた叔父夫婦を解放できる。それが恩返しになると考えていた留衣は、積極的に引っ張ってくれる昇と夫婦になれる日を楽しみにした。孤独だった人生が再び色づきはじめるのを実感する。
しかし、婚約して三ヶ月が経った頃。
昇の訪問日だというのになかなか姿を現さず、心配した留衣が家の窓から玄関先を覗く。
すると一緒に住んでいる叔父の一人娘・菖が、昇と立ち話をしていた。愛嬌があって明るい声の菖を可愛いと思ったのか、照れくさそうに瞬きする昇の様子がよく見える。
嫌な予感がした、その時。仕掛けるように彼の腕へそっと手を添えた菖が上目遣いをする。留衣という婚約者がありながら単純な誘惑に引っかかった昇は、そのまま菖の体をきつく抱き締めたのだ。
衝撃的な場面を目撃した留衣は、二人に背を向けて感情を抑え込む。そして再び訪れる孤独の日々を、静かに覚悟した。
以降、留衣に対する昇の態度が激変したのは言うまでもない。
婚約している留衣と昇の交流はその後も続いたが、そこには必ず菖も同席するようになった。二人の関係を隠すような思惑は全く感じられず、留衣にとっては地獄のような日々が続く。
呉服店やレストランに立ち寄った際は、彼女の上手なおねだりに絆された昇が、どんな高価なものも買い与えた。
女性らしい可愛い仕草が絶えない菖とは対照的に、男性が喜ぶような甘え方も猫撫で声もできない。昇の心を繋ぎ止められなかったのは、そんな自分にも責任があると感じていた。
そのため、留衣は十八回目の誕生日が本日であることを忘れられていても。昇の心が菖に向いており、菖もまた昇を愛しているとわかっていても――。
少しの期間、生きる希望を与えてくれた昇への感謝の気持ちを、婚約解消が言い渡されるまでは忘れてはいけない。そう決心していた。
当時の感情を思い出し、留衣が膝の上でぎゅっと拳を握る。
あれから九ヶ月が経ったが、婚約解消の話題はいまだに出てこない。不満がなゼロではない留衣は、ため息とともに視線を上げる。目の前の席で顔を寄せ合いいちゃつく二人が視界に入り、また少しの不満が募った。
(……早く婚約解消してくだされば、今日も昇様は菖と二人きりで帝都を楽しめたというのに)
きっと二人が愛し合っている様子を見せつけて楽しんでいるに違いない。なんて嫌な考え方をしてしまった留衣はすぐに反省の色を見せ、気分を変えようと窓の外へ目を向けた。
高い位置にある太陽と、秋色の山並みが遠くに見える。美しい景色を眺めていると、留衣の心が自然と浄化されていった。
(昨日は雨が降っていたようだけど、今日は天気が良くて安心したわ)
秋晴れの林道をゆっくり走る馬車は、滞りなく帝都に向かっている。
留衣たちが暮らす小さな町から帝都までは、通常の街道を走ると馬車で二時間ほどかかる。
そこで菖は、少しでも早く到着するために林道の通過を提案した。
帝都の最西部のこの辺りは、山林に囲まれていて近くには川も流れている。自然豊かで空気の綺麗な場所ではあるけれど、坂道や動物の出没も多いため、帝都へ向かう裏道という以外に人が訪れることはない。こんなに綺麗な景色が広がっているのに、あまり人気がないことを留衣は寂しく思った。
すると突然、うっとり顔の菖が声高らかに話しはじめる。
「明日発売される新作のお着物、早く買いたいわ〜」
昇も楽しげに二日分の予定を口にする。
「繁華街を堪能して宿に泊まり、明日目当ての呉服店に行こう」
「嬉しいわ! でも高価なお着物なのに、婚約者の留衣ではなく私が買ってもらっていいのかしら?」
わざとらしく問う菖に、昇は留衣に目もくれずはっきりと答えた。
「幸薄い顔の留衣よりも、愛嬌があって美人な菖のがよく似合うに決まっている」
「昇様ったら。留衣が嫉妬してしまうじゃないですか〜」
「真実だから仕方ないだろ」
楽しげな二人が笑い声を上げる。意地悪な会話とわかっていながら、留衣は無理に微笑み同意の言葉を口にした。
「私も、高価で綺麗なお着物は菖の方が似合うと思うわ」
「……ふん。どこまでも肯定するのね」
どちらが優位に立っているのか示しても、どんな嫌味を言っても効果がない。
苛つく菖が唇を噛んだ時、馬車の窓から渓橋が見えてきた。
二本の柱で支えられた赤い橋はそれほど長くはなく、下には勢いよく川が流れている。
菖の口角が静かに上がった。
「昇様。せっかくなので馬車を降りて景色を楽しみませんか?」
「ああ、そうしよう」
突然の提案をあっさり受け入れた昇は、御者台に向けて「橋の手前で停めろ」と声をかけた。指示を聞いた御者は、林道と橋の入り口が隣接するところで馬車を停止させる。
客室の扉が開かれ、お出かけ用の上質な帽子を被った昇が先に下車する。そして婚約者である留衣を差し置いて、菖へ手を貸した。
「足元に気をつけるんだよ」
「ありがとうございます。昇様」
嬉しそうに微笑む菖が軽やかに馬車を降りた。どちらが婚約者かわからない扱いの数々はすでに慣れているが、やはり心がピリッと傷つく。
それにしても、早く帝都に行きたいはずの菖がどうしてそんなことを言い出したのか。
疑問が残る留衣だが、景色を楽しむという二人の帰りを待つため座ったままでいた。すると菖が振り返り、妙に優しく声をかけてくる。
「せっかくだから留衣も来なさいよ。素敵な景色、もっと間近で見たいでしょう?」
「……わかったわ」
気分がころころ変わる菖に不安を覚えたが、誘いを断ると彼女の機嫌が損なわれる。そう思った留衣は、誰かに手を差し伸べられることもなく一人静かに馬車を降りた。
橋の上を寄り添いながら進む昇と菖の後ろを、留衣が控えめについていく。鳥の囀りと葉擦れの音を耳にして周りを見渡すと、馬車の窓から見るよりも壮大な山並みと、下流に向かってうねる川が絵画のように広がっていた。
その先の生い茂った木々の隙間から、深緑色の屋根がちらりと見えた。
(こんなところに家? それとも別荘か何かかしら?)
留衣が立派な屋根を見つめていると、菖が髪を揺らして振り返る。
「留衣、橋の下を覗いてみてよ」
視線をやると、ゆっくり手招く菖と機嫌の良さそうな昇がそろって留衣を見つめていた。不審に思いながらも二人に近づいた留衣は、肩ほどの高さがある欄干に両手を置く。
そっと橋の下を覗くと、意外と恐怖を覚えるほどの高さではなく、勢いよく流れる川が確認できた。
「……昨日の雨で増水したようね」
冷静に分析する留衣は、付近で崖崩れなどの被害がないか心配した。その背後では、菖と昇は示し合わせたかのように頷き、重要なことを話しはじめる。
「実は、今日の宿予約は二名なの」
「え……?」
宿予約が二名。つまり菖と昇の予約分で、留衣の宿泊部屋は用意されていないことを意味する。そう理解した瞬間、菖の手が伸びてきて留衣の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「なぜなら……あんたはここで死ぬからよ!」
「っ⁉︎」
菖の極悪な笑みを前に言葉を失っていると、突然両足が地面を離れた。留衣の足元を抱えた昇が、体を持ち上げようとしていたのだ。慌てて足をばたつかせるも解くことができず、下駄だけが脱げて地面に転がった。
「……昇様! 何を⁉︎」
咄嗟に欄干へとしがみついた留衣の体が、徐々にその外側へと押し出される。必死に抵抗している中、昇が思惑を口にしはじめた。
「俺は菖と結婚する! でもこのままでは“留衣を捨て、その従姉に乗り換えた最低な男”と町の者に思われる! だからお前には不慮の事故で死んでもらうぞ!」
言いながらニヤリと微笑む彼に、留衣は背筋をゾッとさせた。
「そうすれば俺は、婚約者を失った可哀想な人になるからな!」
「そして私は、従姉を失いながらも憔悴した昇様を献身的に支える良き妻になるの! どう? 完璧な筋書きでしょ?」
仮にも同じ時間を過ごした婚約者と従妹だったが、非道な人間へと成り下がり本気で殺そうとしてくる二人に絶望した。
「……待って、お願い……こんなことやめてください……!」
死への恐怖で声は震え、体は血の気が引いていく。
婚約解消も、二人の結婚も素直に受け入れる覚悟ができていた。二人を悪者にしようなんて思っていなかった留衣が、命だけは助けてほしいと強く願う。
しかしその思いは届かず。痺れを切らした菖は、欄干を握る留衣の手に拳を振り落とした。激痛を覚えた留衣が、悶え苦しむ声を上げる。
「っああ……!」
「さっさと落ちろ!」
菖の怒号を合図に、昇も力いっぱいに留衣の体を押し出した。心身ともに限界を迎え、留衣はついに手を離してしまう。
「!!!」
落ちる――確信しながら視界に入ってきたのは、自分を冷たい目で見下し悪魔のような笑みを浮かべる二つの顔。
今日は留衣の十八回目の誕生日。毎年欠かさずお祝いしてくれた両親を恋しいと思った時、不意に母の言葉が聞こえてきた。
『留衣が生きていてくれるだけで、私たちも生き続けるの』
虐げられ辛く悲しい出来事があっても、生きている限り大好きな両親は心の中で生き続ける。
しかし留衣の心はすでにずたずたに引き裂かれ、その体は今、川へと真っ逆さまに落ちていく。
(……違うわ。これでようやく、両親のところにいけるのよ……)
この世への未練よりも、あの世にいる両親に思いを馳せた。そうして留衣は、流れの速い川へと頭から落ちた。
バシャン!という音と共に水飛沫が高く上がる。
留衣の姿を確認しようと橋の上から覗き込む菖と昇は、冷たい表情で下流を見つめた。
「……留衣、ちゃんと死ぬかしら?」
「この急流では川岸に這い上がることもできないな」
留衣を橋から突き落とした二人が満足げに微笑み合うと、何事もなかったように馬車へと引き返した。
橋に背を向けて待機していた御者は、戻ってきた二人に気づいて客室の扉を開ける。しかし留衣の姿が見当たらず、恐る恐る尋ねた。
「……昇様。留衣様はどこへ……?」
昇は胸ポケットから分厚い茶封筒を取り出し御者に手渡す。そして威圧的な目で口裏合わせを強要してきた。
「橋へは留衣一人が向かった。俺たちは馬車内で待っていたが、留衣が橋から落ちる場面を目撃した」
「っ……⁉︎」
「こんな急流では助からない。俺の婚約者、留衣はたった今死んだ。いいな?」
渡された茶封筒の中身が口止め料だと気づいた御者は、怯えた表情で頷きながらそれを懐におさめた。亀井家に仕える以上、跡継ぎである昇には、逆らう勇気も権限もないのだ。
馬車に乗り込んだ昇は、涼しげな顔で隣の菖に声をかける。
「邪魔者は消えた。さあ、帝都の繁華街まで急ごうか」
「はい! 昇様!」
二人の会話を耳にしながら、御者は震える手で手綱を掴み馬車を走らせた。
*
(……冷たい、苦しい……!)
水温は全身に針を刺すような冷たさだった。着物と帯が水を含んで体は鉛のように重い。
流されながら徐々に沈んでいく留衣は、固く目を閉じ苦しい表情をする。
(……だけど、このまま息をしなければ確実に)
死ねると予感して全身の力を抜いた。意識が遠のいていく中、ふと両親に似た二つの影が脳裏に浮かび上がる。
ああ、大好きな両親が迎えに来てくれた。
そう思って手を伸ばしかけた――瞬間、帯の結び部分をガシリと掴まれる。
(っ⁉︎)
得体の知れない何かにものすごい力でぐいぐいと後方に引っ張られる。浅瀬までやってきたところで、留衣の両足が川底についた。
「っぷは!」
水面から顔を出した留衣は、反射的に息を吸い込む。呼吸ができたことで意識が鮮明となり、気づけば小石が敷き詰められた川原でぐったりと横たわっていた。
「ケホケホ! ……はあ……はあ」
濡れた髪先からは雫がぼたぼたと落ち、着物も足袋も汚れて酷い有様だ。
死を覚悟していた留衣が、どういうわけか助かった。乱れた呼吸のままゆっくり顔を上げると、そこには全身濡れた一頭の大きな虎が大人しく座っていた。
「……っ、虎……?」
白に黒の縞模様が入った体と藍玉のような瞳をした虎にじっと見つめられ、留衣は息を呑む。
帝都の最西部の自然豊かな場所とはいえ、こんなところに虎が生息している話は聞いたことがない。となると、目の前にいるのはおそらく獣化した人間――つまり獣力者だと推測できた。
(私が溺れているのを見て、助けてくれたんだわ……)
危険を顧みず、急流の中を引きずり上げてくれた獣力者。とにかくお礼をしなければと慌てて姿勢を正し、留衣が深々と頭を下げた。
「……た、助けていただき……ありがとう、ござい、ました……」
震える声で感謝の気持ちを伝えた時、ふと橋から落とされた光景が蘇った。恐怖に支配された留衣の全身が震えはじめる。
「……っ……う、うぅ……」
感情の糸がぷつりと切れ、おまけに濡れた留衣の体が凍えはじめた。制御しようと襟元を握りしめるも、大量の涙が溢れてくる。
婚約者と従妹に死を望まれ、ある意味殺されたのだから無理もない。子供のように泣き続ける留衣を、虎は静かに見守っていた。
獣化している間、獣力者は言葉を話すことができない。それでも何かしてあげたい衝動に駆られ、襟元を握る留衣の手にそっと鼻先を寄せる。
「っ……?」
優しく突かれた感触で我に返った留衣が顔を上げた。いつの間にか距離を詰めていた虎の瞳が宝石のように美しく、不思議と心が落ち着いてきた。
「……励まそうと、してくださったのですか?」
戸惑いまじりに問うと、虎が小さく頷く。ずっと孤独感を味わってきた心に寄り添ってくれたのは、初めて出会った虎の獣力者。嬉しさが込み上げた留衣は、頬を紅潮させて自然と笑みをこぼす。
「お優しい方ですね。ありがとうございます……」
同時に涙が頬を伝った。愛らしい表情を目の当たりにした虎は、一瞬心を奪われる。そして何を思ったのか、今度は留衣の頬に鼻先を近づけてその涙を舐めとった。
「っ……!」
ざらりとした感触と温かさを覚えて、留衣が思わずドキリと胸を鳴らす。舐められたことで赤くなった頬に手を置き瞬きをすると、無意識の行動にハッと気づいた虎が恥ずかしそうに顔を背けた。
(……あ! 確か獣化している間は獣特有の行動をとりがちになると聞いたことがあるわ)
つまり今のは、動物の本能的な行動なのだろう。大事な情報を思い出した留衣はそっと立ち上がり、感謝の気持ちを伝えるために虎のうなじを優しく撫でた。
「おかげで元気が出てきました。もう泣きませんので、ご安心くださいね」
言いながら繰り返し撫でていると、虎はゆっくりと目を閉じ喉を鳴らしはじめる。体高は留衣の身長に届きそうで迫力を放つものの、反応や仕草は猫のように可愛らしい。
獣力者が忌み嫌われていた昔に比べて、現在は理解ある世の中になっている。それでも一部の人間はいまだに古い考えを持っていた。何かと不便も多い境遇でありながら赤の他人に優しくできる虎の獣力者に、留衣は深い感動と感謝の念を抱く。
そんな時、突然虎の体から黒い霧が溢れ出てきた。
「えっ⁉︎」
思わず撫でていた手を引っ込めた留衣は、何が起こったのかわからず見守ることしかできなかった。
あっという間に虎の全身が黒い霧に覆われるも、それは一瞬の出来事だった。
徐々に薄まる黒い霧の中から次に姿を現したのは、地面に座りこむ一人の人間。
銀白色の柔らかい髪は肩まで長く、左耳には短冊型の耳飾り。スッと伸びた鼻筋と形の整った唇は彫刻のようで、先ほどの虎と同じ藍玉の瞳をしている眉目秀麗な青年だった。
「……っ、貴方は……?」
困惑する留衣だが、自分より少し年上のような彼の正体をすでに理解していた。
高価な紫黒の着物や下駄などの全身が濡れている理由は一つしかない。留衣を助けてくれた虎の元の姿が、目の前の青年だったからだ。
(……こんな綺麗な男性が先ほどの虎、少し意外だわ)
猛々しい虎からは想像もつかない、透明感と気品ある人間の姿に驚いた。
しかし獣力者の青年は、突然人間の姿に戻ったことに驚きと戸惑いを隠せずにいる。
「……なぜ獣化が解けたんだ……?」
青年は目を見開いたまま、突然留衣の肩を掴んで問いかける。
「獣力者は、一度獣化すると二十四時間は人間に戻れない……。橋から落ちた貴女を助けるため獣化したのだから、こんな短時間で解かれるわけがないんだ……!」
「あ、あの……?」
「貴女は何者だ。なぜ俺の獣化を解いた……⁉︎」
詰め寄られるも、留衣は特別なことは何もしておらず心当たりもないため答えようがない。
「わかりません……。むしろ貴方が突然私の涙を……!」
言いかけたところで、頬を舐められことを思い出し留衣が頬を赤くする。虎の姿とはいえ、目の前の彼の行動だと考えると恥ずかしさが込み上げてきた。
その初々しい反応につられた青年も、羞恥心に駆られて頬を染める――が、そこでハッと何かに気づいた。
「……まさか、それが原因なのか……?」
少し冷静さを取り戻し、留衣の肩からするりと手を離す。そして一歩後ろに下がると、つい熱くなってしまったことを詫びた。
「いきなり問い詰めてしまい申し訳ない。俺の名は、雪平七都。見ての通り、虎の獣力者だ」
獣力者の証である耳飾りがきらりと光り、切れ長の目が留衣を映した。もちろん悪い人ではないと理解していた留衣も、青年に倣って自己紹介をする。
「比良名留衣です。改めまして、先ほどは命を助けていただき本当にありがとうございました」
「……留衣さん。他に怪我や具合が悪いところはないか?」
「はい。おかげさまで……」
無事と答えたかったが、帯は型崩れして下駄は紛失。そして二人揃って全身ずぶ濡れのため、無事というには少し嘘っぽい状況だった。
それに晴れていても山風は冷える。このままでは命の恩人である七都に風邪をひかせてしまうと心配した。
すると、同じことを考えていた七都が留衣の濡れた髪に優しく触れる。
「このままでは風邪をひいてしまうな。別荘が近いので来てください」
「え……⁉︎ いいえ、これ以上ご迷惑はかけられません……」
加えて、見知らぬ男性の別荘にいきなりお邪魔する勇気もなかった留衣は、丁重に断ろうと顔の前で両手を振った。その心情を汲み取り、配慮が足りなかったと反省した七都が説明する。
「別荘は無駄に広く、着替えや風呂を手伝える女中もいるので安心してください。」
「で、でも……」
「それと、どうしても留衣さんに協力してほしいことがあります」
強い意志を宿した瞳に見つめられ、安堵や困惑よりもなぜか胸の高鳴りを覚えた。
そんな中で、七都が発した言葉は――。
「留衣さんの涙を研究したい」
瞬間、山風が二人の間を吹き抜けたが、留衣は不思議と寒さを感じなかった。
殺されたはずの命が、生きる意味を得たように高揚していたせいで。


