それは陽だまりの記憶。
幼い頃の留衣は、心優しく穏やかな母の膝に座るのが好きな少女だった。
お日様に照らされた縁側で、無邪気に振り返る。
『お母さん。今日はどんな物語を聞かせてくれるの?』
母は愛おしそうに一人娘の髪を撫でて頬を緩ませた。
『そうね〜。留衣には少し難しいかもしれないけれど……』
『大丈夫だよ! 留衣もう五歳だもん』
『じゃあ、少し悲しい結末だけれど大切なお伽話を……』
眉を下げた母は、いつものように優しい声で語りはじめる。
遠い昔の頃から、常磐ノ國には普通の人間と異能を持つ人間・【獣力者】が存在していた。
獣力者は人の姿から獣の姿へと“獣化”することができ、獣特有の強靭な肉体と身体能力を手に入れられるが、人間の姿に戻るのは二十四時間後という不便もあった。
稀少な存在の彼らを、統治者たちは特別に扱い国家の特殊部隊への勧誘を積極的に行なう。その背景には獣力者の異能を国のために利用する意図があったが、自由に生きたい獣力者も当然いたため、すべての獣力者が国に仕えるとは限らなかった。
今から約七十年前。そんな異能を周囲に隠して生きる、八重という娘がいた。
幼い頃に家族を失い、人目を避けるように村のはずれで生活を送る孤独な獣力者だった。
ある時、一人の青年が道端で怪我をしてしまい、通りかかった八重の家に助けを求める。それが運命の出会いとなった。
素直で清らかな心の青年に八重も優しく接し、二人の仲はすぐに深まる。八重が獣力者だと明かされても、青年の心と態度は何も変わらなかった。
この時代は見慣れない獣の姿や力を恐れ、獣力者を忌み嫌う者が大勢いた。それが当たり前だった八重にとって、初めて受け入れてもらえた感動と喜びで胸がいっぱいになる。
必然的に恋に落ちた二人。仲睦まじく夫婦生活をはじめ、やがて可愛い可愛い男児が誕生した。
家族三人での幸せな日々を送っていた半年後、青年の両親に居場所をつきとめられ、青年と息子が連れて行かれる。
青年は由緒正しい家系の嫡子だったため、青年の両親は断固として二人を夫婦として認めなかった。
愛する夫と息子を同時に奪われた八重は泣き続け、静かにその生涯を閉じた。
彼女の悲しみを象徴する涙は、息を引き取った後も枯れることなく頬を伝っていたといわれている。
『……かわいそうなお話だね』
純粋無垢な留衣の瞳が、いつの間にか涙で溢れていた。感受性が強く心優しく育った娘を嬉しく思いながらも、母は八重の物語で思う事を口にする。
『確かにかわいそう。でもね、たとえ短い間だとしても家族三人で過ごした幸せな日々は本物だし、八重の命は続いていくのよ』
それを聞いた留衣は、目を丸くして尋ねた。
『どうして? 八重は死んじゃったんでしょ?』
『ええ。でも八重が産んだ子は、八重と青年の命の欠片を受け継いでいるもの』
優しく説明されて納得すると、留衣は涙を拭いホッと胸を撫で下ろす。
『よかった。じゃあ留衣も、お父さんとお母さんの命の欠片を受け継いでいるのね』
『そうよ。だからこの先何があっても、留衣が生きていてくれるだけで、私たちも生き続けるの』
言いながら優しく微笑む母は、留衣の小さな体を後ろからぎゅっと抱きしめた。そうされる度に、自分は愛されていると実感できた留衣もまた、母によく似た笑顔を咲かせる。
もう二度と味わうことのできない、遠い記憶の幸せなひと時――。
*
「留衣! 起きなさい!」
キンとした声が耳奥に届き、花山留衣はゆっくりと瞼を開けた。肩を滑る黒髪を耳にかけて冷静に返事をする。
「……少し目を閉じていただけよ」
不規則に揺れる馬車内で、正面に座る同い年の従妹・花山菖が不機嫌に睨む。若緑色の着物を纏う地味な留衣とは対照的に、艶めく黒髪に華やかな簪と牡丹があしらわれた着物に身を包む彼女は、まさに気の強いお嬢様のように難癖をつけてくる。
「本当は私に同行して帝都に行くのが乗り気じゃないくせに」
「そんなことは……」
「つまらないって顔に出てるわ。ねぇ、昇さんもそう思うでしょ?」
隣の肩に頭を乗せ、甘ったるい声で菖が同意を求めた。背広姿の青年・亀井昇は、一瞬緩んだ顔を引き締め敵意を含んだ目を留衣に向ける。
「今日は菖の買い物に付き合うと伝えてあっただろ。つまらなさそうにするなよ」
「……はい」
婚約者の昇に何を言っても無駄だとわかっている留衣は、反論はせず静かに視線を落とした。
「昇様、ビシッと言ってくれてかっこいい〜!」
「菖のためならなんでもするさ」
昇の腕に絡みつき体を密着させる菖。それを愛でるような瞳で応える婚約者の姿に、留衣の心はすっかり冷めきっていた。
十歳の時、畳屋を営む両親が揃って自宅で倒れそのまま帰らぬ人となった。
独りとなった留衣は近くに住む叔父夫婦に預けられたが、家族としてではなく使用人以下の扱いを受ける。拭き掃除が甘いと水をかけられたり、罰として食事を抜きにされたりして長年虐げられていた。
最愛の両親を失い居場所もない留衣に、転機が訪れたのは今から一年前。
町に新しい薬種屋が誕生し、越してきたばかりの亀井家の長男・昇に出会う。
お使いで来店した留衣の清らかで透明感のある姿に一目惚れした昇は、『留衣が十八になったら結婚しよう』と婚約を迫る。まっすぐな想いに感化された留衣は、四つ年上の昇の申し出を受け入れた。
嫁に行くことで自分を引き取り負担を強いられていた叔父夫婦を解放できる。それがこれまでの恩返しにもなると考えた留衣は、積極的に引っ張ってくれる昇と夫婦になれる日を楽しみにした。孤独だった人生が、再び色づきはじめるのを実感していた。
しかし、婚約して三ヶ月が経った頃。
昇の訪問日だというのになかなか姿を現さず、心配した留衣が家の窓から玄関先を覗く。
するとそこには、一緒に住んでいる叔父の一人娘・菖が、昇と立ち話をしていたのだ。愛嬌があって明るい声の菖を可愛いと思ったのか、照れくさそうに瞬きする昇の様子がよく見える。
嫌な予感がしたその時、菖は仕掛けるように彼の腕へ手を添え上目遣いをする。留衣という婚約者がありながら単純な誘惑に引っかかった昇は、そのまま菖の体をきつく抱き締めたのだ。
『っ……!』
衝撃的な場面を目撃した留衣は、二人に背を向けて感情を抑え込む。そして再び訪れる孤独の日々を静かに覚悟した。
以降、留衣に対する昇の態度が激変したのは言うまでもない。
世間体を気にしているのか、婚約している留衣との交流はその後も続けた昇だが、そこには必ず菖も同席するようになった。留衣の前では二人の関係を隠すような素振りは全く感じられず、惨めな日々が続く。
町の呉服店やカフェーに立ち寄った際は、彼女の上手なおねだりに絆された昇がどんな高価なものも買い与えた。
女性らしい可愛い仕草が絶えない菖とは対照的に、留衣は男性が喜ぶような甘え方も猫撫で声もできない。昇の心を繋ぎ止められなかったのは、そんな自分にも責任があると感じていた。
だから本日が留衣にとって十八回目の誕生日であることを忘れられていても……。昇の心が菖に向いており、菖もまた昇を愛しているとわかっていても……。
短い間だったけれど、生きる希望を与えてくれた昇への感謝の気持ちを忘れてはいけない。婚約解消が言い渡されるまでは――そう決めていた。
これまでの出来事を思い出し、留衣は膝の上でぎゅっと拳を握る。
あれから九ヶ月が経ったのに、一向に婚約解消の話題は出てこない。日に日に不満が募っていく留衣は、ため息とともに視線を上げる。目の前の席で顔を寄せ合いいちゃつく二人が視界に入り、また少しの不満が蓄積される。
(……早く婚約解消してくだされば、今日の帝都行きは昇様と菖の二人で楽しめたというのに)
留衣にとっては初めての帝都の街行きだったが、二人の付き添いという状況は全然楽しくもなんともない。
これでもかというほどに二人の相思相愛な関係を見せつけられ、胸焼けがしてきた留衣は気分を変えようと窓の外へ目を向けた。
高い位置にある太陽と、秋色の山並みが遠くに見える。美しい景色を眺めていると、留衣の心が自然と浄化されていった。
(昨日の帝都は雨が降っていたようだけど、今日は天気に恵まれてよかったわ)
すっかり乾いた林道をゆっくり走る馬車は滞りなく帝都に向かっている。
留衣たちが暮らす小さな町から帝都までは、通常の街道を走ると馬車で四時間ほどかかる。少しでも早く帝都入りしたい菖は、出発する際にこの林道の通過を提案した。
帝都近郊となるこの辺りは、山林に囲まれていて近くには川も流れている。自然豊かで空気の綺麗な場所ではあるが、坂道や動物の出没も多いため帝都へ向かう裏道という以外に人が訪れることはない。
すると突然、菖はうっとりとした顔で声高らかに話しはじめる。
「明日発売される新作のお着物、早く買いたいわ〜」
昇も楽しげに二日分の予定を口にする。
「帝都入りしたら繁華街を堪能して宿に泊まり、明日目当ての呉服店に行こう」
「嬉しいわ! でも高価なお着物なのに、婚約者の留衣ではなく私が買ってもらっていいのかしら?」
わざとらしく問う菖に、昇は留衣に目もくれずはっきりと答える。
「可愛げのない留衣よりも、愛嬌があって美人な菖のがよく似合うに決まっている」
「昇様ったら。留衣が嫉妬してしまうじゃないですか〜」
「真実だから仕方ないだろ」
二人は楽しげに笑い声を上げる。意地悪な会話とわかっていながら、留衣は無理に笑顔を作って同意の言葉を口にする。
「私も同意見よ。高価で綺麗なお着物は菖のほうが似合うと思うわ」
「……ふん」
どちらが優位に立っているのかを示しても、どんな嫌味を言っても留衣には効果がない。
苛つく菖が唇を噛んだ時、馬車の窓から渓橋が見えてきた。二本の柱で支えられた赤い橋はそれほど長くはなく、下には勢いよく川が流れている。
菖は怪しげに口角を上げた。
「ねえ昇様。せっかくなので馬車を降りて景色を楽しみませんか?」
「ああ、そうしよう」
突然の提案をあっさり受け入れた昇は、御者台に向けて「橋の手前で停めろ」と声をかけた。指示を聞いた御者は、林道と橋の入り口が隣接するところで馬車を停止させる。
客室の扉が開かれ、お出かけ用の上質な帽子を被った昇が先に下車する。そして婚約者である留衣を差し置いて、菖へ手を貸した。
「足元に気をつけるんだよ」
「ありがとうございます。昇様」
嬉しそうに微笑む菖が軽やかに馬車を降りた。どちらが婚約者かわからない扱いだが、すでに慣れている留衣は毅然とした態度でやり過ごす。
それにしても、早く帝都に行きたいはずの菖がどうして「景色を楽しもう」などと言い出したのか。
疑問が残る留衣だが、菖の気まぐれは今に始まったことではないと考えるのをやめる。景色を見に行く二人の帰りを待つ気でいると、菖が振り返って妙に優しく声をかけてくる。
「せっかくだから留衣も来なさいよ」
「え……?」
「素敵な景色、もっと間近で見たいでしょう?」
「……わかったわ」
誘いを断ると彼女の機嫌が損なわれる。そう思った留衣は、誰かに手を差し伸べられることもなく一人静かに馬車を降りた。
昇と菖が寄り添いながら橋の上を歩き進み、留衣は二人から少し距離をとって後ろをついていく。
鳥の囀りと葉擦れの音を耳にして、留衣が周囲を見渡した。そこには壮大な山並みと下流に向かってうねる川が絵画のように広がっていた。
すると、生い茂った木々の隙間から深緑色の屋根がちらりと見えた。
(こんなところに家? それとも別荘か何かかしら?)
留衣が不思議に思っていると、突然菖が髪を揺らして振り返った。
「ねえ留衣! 橋の下を覗いてみてよ」
ゆっくり手招く菖と機嫌の良さそうな昇がそろって留衣を見つめてくる。不審に思いながらも二人に近づいた留衣は、肩ほどの高さがある欄干に両手を置く。
そっと橋の下を覗くと、恐怖を覚えるほどの高さではなかったが勢いよく流れる川が確認できた。
「……昨日の雨で増水したようね」
留衣は冷静に分析し、付近で崖崩れなどの被害がないか心配していた。その時、留衣の背後で菖と昇が目配せして頷き合う。そして菖が重要なことを話しはじめる。
「……実はね、今日帝都入りの宿予約は二名なの」
「え?」
宿予約が二名。つまり菖と昇の予約分で、留衣の宿泊部屋は用意されていないことを意味する。そう理解した瞬間、菖の手が伸びてきて留衣の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「なぜなら……あんたはここで死ぬからよ!」
「っ⁉︎」
菖の極悪な笑みを前に言葉を失っていると、突然両足が地面を離れた。留衣の足元を抱えた昇がその体を持ち上げようとしていたのだ。慌てて足をばたつかせるも解くことができず、草履だけが脱げてしまった。
「……昇様! 何を⁉︎」
咄嗟に欄干へとしがみついた留衣の体が、徐々にその外側へと押し出される。必死に抵抗していると昇が笑みを浮かべて計画を口にする。
「俺は菖と結婚する! でもこのままじゃ、“留衣を捨てその従姉に乗り換えた最低な男”と町の笑い者にされる! だからお前には不慮の事故で死んでもらうんだよ!」
最後にニヤリと微笑み、留衣は背筋をゾッとさせた。
「そうすれば、俺は婚約者を失った可哀想な人になるからな!」
「そして私は従姉を失いながらも憔悴した昇様を献身的に支える良き妻になるの! どう? 完璧な筋書きでしょ〜?」
仮にも同じ時間を過ごした婚約者と従妹だったが、非道な人間へと成り下がり本気で殺そうとしてくる二人に留衣は絶望した。
「……ま、待って、お願い……こんなことやめてください……!」
死への恐怖で声は震え、体は血の気が引いていく。
婚約解消も、二人の結婚も素直に受け入れる覚悟ができていた。二人を悪者にしようなんて思っていなかった留衣が、命だけは助けてほしいと強く願う。
しかしその思いは届かない。痺れを切らした菖は、欄干を握る留衣の左手に拳を振り落とした。激痛を覚えた留衣が、悶え苦しむ声を上げる。
「っああ……!」
「さっさと落ちろ!」
菖の怒号を合図に、昇も力いっぱいに留衣の体を押し出した。心身ともに限界を迎え、留衣はついに手を離してしまう。
「!!!」
落ちる――確信しながら視界に入ったのは、自分を冷たい目で見下し悪魔のような笑みを浮かべる二つの顔。
今日は留衣の十八回目の誕生日。毎年欠かさずお祝いしてくれた亡き両親を思い出した時、不意に母の言葉が聞こえてきた。
『留衣が生きていてくれるだけで、私たちも生き続けるの』
虐げられ辛く悲しい出来事があっても、生きている限り大好きな両親は心の中で生き続ける。
しかし留衣の心はすでにずたずたに引き裂かれ、その体は今真っ逆さまに川へと落ちていく。
(……違うわ。これでようやく、お父さんとお母さんのところにいけるのよ)
この世への未練よりあの世にいる両親に思いを馳せる。そうして留衣は、流れの速い川へと頭から落ちていった。
バシャン!という音と共に水飛沫が高く上がる。
留衣の姿を確認しようと橋の上から覗き込む菖と昇は、冷たい表情で下流を見つめた。
「……留衣、ちゃんと死ぬかしら?」
「この急流では川岸に這い上がることもできないな」
二人は満足げに微笑み合った。橋の上に残った留衣の草履を蹴飛ばした菖は、何事もなかったように昇と馬車へ引き返した。
橋に背を向けて待機していた御者は、戻ってきた二人に気づいて客室の扉を開ける。しかし留衣の姿が見当たらくて昇に尋ねる。
「……留衣様はどちらへ?」
すると昇は胸ポケットから茶封筒を取り出し御者に手渡した。威圧的な目で見下ろし、口裏合わせを強要する。
「橋へは留衣一人が向かった。俺たちは馬車内で待っていたが、留衣が橋から落ちる場面を目撃した」
「っ……⁉︎」
「こんな急流では助からない。俺の婚約者、留衣はたった今死んだ。よいな?」
渡された茶封筒の中身が口止め料だと気づいた御者は、怯えた表情で頷きながらそれを懐におさめた。亀井家に仕える以上、跡継ぎである昇には逆らう勇気も権限もないのだ。
馬車に乗り込んだ昇は、涼しげな顔で隣の菖に声をかける。
「邪魔者は消えた。さあ、帝都の繁華街まで急ごうか」
「はい! 昇様!」
二人の会話を耳にしながら、御者は震える手で手綱を掴み馬車を走らせた。
*
(冷たい、苦しい……!)
日中とはいえ、秋の川は全身に針を刺すような冷たさだった。着物と帯が水を含み、まるで鉛を纏っているように重い。
流されながら徐々に沈んでいく留衣は、固く目を閉じ苦しい表情をする。
(だけど、このまま息をしなければ確実に死ねる)
そう確信して全身の力を抜いた。意識が遠のいていくなか、ふと両親に似た二つの人影が脳裏に浮かび上がる。
大好きな両親が迎えに来てくれた。そう思って手を伸ばしかけた――瞬間、帯の結び部分をガシリと掴まれる。
(……っ⁉︎)
得体の知れない何かにものすごい力でぐいぐいと後方に引っ張られる。浅瀬までやってきたところで、留衣の両足が川底についた。
「っぷは!」
水面から顔を出した留衣は、反射的に大きく息を吸い込む。呼吸ができたことで意識が鮮明となり、気づけば小石が敷き詰められた川原でぐったりと横たわっていた。
「ケホケホ! ……はあ、はあ」
濡れた髪先からは雫がぼたぼたと落ち、着物も足袋も汚れて酷い有様だ。
死を覚悟していた留衣だが、どういうわけか助かった。乱れた呼吸のままゆっくり顔を上げると、そこには全身ずぶ濡れの一頭の大きな虎が大人しく座っていた。
「……っ、虎……?」
白に黒の縞模様が入った体と藍玉のような青い瞳をした虎が、じっと留衣を見つめてくる。
帝都郊外の自然豊かな場所とはいえ、こんなところに虎が生息している話は聞いたことがない。となると、目の前にいるのはおそらく獣化した人間――つまり獣力者だと推測できた。
(私が溺れているのを見て、助けてくれたのだわ……)
危険を顧みず、急流の中を引きずり上げてくれた獣力者。とにかくお礼をしなければと慌てて姿勢を正し、留衣が深々と頭を下げた。
「……た、助けていただき……ありがとう、ござい、ました……」
震える声で感謝の気持ちを伝えた時、ふと橋から落とされた光景が蘇った。恐怖に支配された留衣の全身が、がたがたと震えはじめる。
「……っ……う、うぅ」
張り詰めていた糸がぷつりと切れたと同時に、濡れた体が凍えはじめた。震えを抑えようと襟元を握りしめるも、大量の涙が溢れてくる。
婚約者と従妹に死を望まれ、殺されたのだから無理もない。子供のように泣き続ける留衣を、虎は静かに見守っていた。
獣化している間は言葉を話すことができない。それでも何かしてあげたい衝動に駆られ、虎の獣力者は襟元を握る留衣の手にそっと鼻先を寄せる。
「っ……?」
優しく突かれた感触で我に返った留衣が顔を上げた。いつの間にか距離を詰めていた虎の瞳が宝石のように美しく、不思議と心が落ち着いてきた。
「……励まそうと、してくださったのですか?」
戸惑いながら問うと、虎の獣力者が小さく頷く。ずっと孤独感を味わってきた心に寄り添ってくれたのは、初めて出会った虎の獣力者だった。感謝と嬉しさが込み上げてきた留衣は、頬を紅潮させて笑みをこぼす。
「お優しい方。ありがとうございます……」
同時に涙が頬を伝った。悲惨な状況でありながら健気に微笑む姿を目の当たりにした虎の獣力者は、不思議な感情を抱いて息を呑む。そして何を思ったのか、今度は留衣の頬に鼻先を近づけてその涙を舐めとったのだ。
「っ……!」
ざらりとした感触と温かさを覚えて、留衣が思わずドキリと胸を鳴らす。舐められた頬に手を置いて瞬きを繰り返すと、無意識の行動にハッと気づいた虎の獣力者が恥ずかしそうに顔を背けた。
(……! 確か獣化している間は獣特有の行動をとることもあると聞いたことが)
つまり今のは、動物の本能的な行動なのだろう。猫や犬が飼い主の手を舐めて交流をするような、そんな感覚。大事な情報を思い出した留衣はそっと立ち上がり、感謝の気持ちを伝えるために虎のうなじを優しく撫でた。
「元気が出ました。もう泣きませんのでご安心くださいね」
言いながら繰り返し撫でていると、虎はゆっくりと目を閉じ喉を鳴らしはじめる。体高は留衣の肩くらいで迫力もあるが、反応や仕草は巨大な猫のように可愛らしい。
獣力者が忌み嫌われていた昔に比べ、現在は理解ある世の中になっている。それでも一部の人間はいまだに古い考えを持っていて、抗議活動を行う人々もいる。
何かと不便も多い境遇でありながら赤の他人に優しくできる虎の獣力者に、留衣は深い感動と感謝の念を抱いた。
幼い頃に母から聞いたお伽話が、獣力者への偏見を持たない留衣へと成長させていた。
(でも、このお方はこれから二十四時間、獣化した姿のままということよね?)
溺れていた自分のせいで、虎の獣力者に不便をかけてしまった。申し訳なく思った留衣は、せめて自宅まで送り届けるべきかと考える。
その時、虎の体から突然黒い霧が溢れ出てきた。
「えっ⁉︎」
驚いた留衣は、思わず撫でていた手を引っ込めた。何が起こっているのかわからず、ただただ見守ることしかできなかった。
あっという間に虎の全身が黒い霧に覆われるも、それは一瞬の出来事だった。
徐々に薄まる黒い霧の中から次に姿を現したのは、地面に座りこむ一人の人間。
毛先が外向きに跳ねた銀白色の髪と、左耳には短冊型の耳飾り。スッと伸びた鼻筋と形の整った唇は彫刻のようで、先ほどの虎と同じ青い瞳の眉目秀麗な青年だった。
「あの、貴方は……?」
困惑する留衣だが、自分より少し年上のような彼の正体をすでに理解していた。
紫黒の着物とその上から纏っているとんびコート、足元を含む全身が濡れている理由は一つしかない。留衣を助けてくれた虎の元の姿が、目の前の青年だったからだ。
(……こんな綺麗な男性が、先ほどの白い虎)
猛々しい虎からは想像もつかない、透明感と気品ある人間の姿に驚いた。
しかし獣力者の青年は、突然人間の姿に戻ったことに驚きと戸惑いを隠せずにいる。
「……なぜ獣化が解けたのだ?」
青年は目を見開いたまま、突然留衣の肩を掴んで問いかける。
「きゃっ」
「獣力者は一度獣化すると二十四時間は人間の姿に戻れない! 橋から落ちた君を助けるため獣化したのだから、こんな短時間で解かれるわけがないんだ……!」
「あ、あの……」
「何者だ、なぜ俺の獣化を解いた……⁉︎」
青年に詰め寄られるも、留衣は特別なことは何もしておらず心当たりもないため答えようがない。
「わかりません……。むしろ貴方が突然私の涙を……!」
言いかけたところで、頬を舐められことを思い出し留衣の顔が赤くなる。虎の姿とはいえ、目の前の彼の行動だと考えると恥ずかしさが込み上げてきた。
同じく青年も思い出し、羞恥心に駆られて頬を染める――が、そこでハッと何かに気づいた。
「……まさか、それが原因なのか?」
冷静さを取り戻した青年は留衣の肩からするりと手を離す。一歩後ろに下がると、つい熱くなってしまったことを詫びた。
「いきなり問い詰めて申し訳ない。俺の名は雪平七都。見ての通り、虎の獣力者だ」
獣力者の証である耳飾りがきらりと光り、切れ長の青い目が留衣をとらえる。もちろん悪い人ではないと理解していた留衣も、青年に倣って自己紹介をする。
「花山留衣です。改めまして、先ほどは命を助けていただき本当にありがとうございました」
「……留衣さん。他に怪我や具合が悪いところはないか?」
「はい。おかげさまで……」
無事と答えたかったが、帯は型崩れして草履は紛失。そして二人揃って全身ずぶ濡れのため、無事と答えるには少し嘘が混じる状況だった。
それに、晴れているとはいえ山風が吹けばかなり冷える。このままでは命の恩人である七都に風邪をひかせてしまうと留衣は心配した。
まったく同じことを考えていた七都は、留衣の濡れた髪先に優しく触れて心配そうに囁く。
「このままでは風邪をひいてしまうな。家が近くにあるから来なさい」
「え⁉︎ いいえ、これ以上ご迷惑はかけられません……」
加えて、見知らぬ男性の家にいきなりお邪魔する勇気もなかった留衣は、丁重に断ろうと顔の前で両手を振った。その心情を汲み取り、配慮が足りなかったと反省した七都が説明する。
「家には着替えや風呂を手伝える女性の使用人もいるから安心してくれ」
「そ、そうなのですね。でも……」
「それと、どうしても留衣さんに協力してほしいことが……」
七都の強い意志を宿した瞳に見つめられた留衣は、なぜか胸の高鳴りを覚えた。
(出会って間もない私に、協力してほしいこととは一体……?)
不安に思ったその時、留衣の両肩をがしりと掴んだ七都は魂を込めてお願いする。
「留衣さんの涙を調べたい!」
瞬間、山風が二人を包み込むように吹いた。



