ノイズ爆音につき注意

 夏休みが終わっても、あれから凛音とは会わなかった。

 新学期が始まる前、どんな顔で会えばいいのか、何度も考えた。けど、考えるまでもなかった。だって、凛音は俺に話しかけてこなかったから。

 廊下ですれ違っても、同じ教室にいても、最初から、そこに俺はいなかったみたいに。

 もともと、何もなかった。
 そう思えば、辻褄は合った。

 幸い、文化祭の準備で学校は浮き足立っていて、考え込まずに済んだ。

 段ボール、ペンキ、模造紙。
 教室に溢れる雑音に紛れれば、余計なことを考えずにいられる。

 ――はずだった。

「なぁ、悠真」

 凛音、ほかのやつ見つけたかな。それとももう文化祭にはでないのか?

「なぁって」

 あいつ怒ってるよな。それはそうだろ。俺が全部、無駄にしちまったんだから。

「悠真ッ!」

「っ、なんだよ! いきなり!」

 肩を叩かれて、思ったよりも大きな声が出た。

「だからそこ赤で塗るなって、さっきからずっと言ってんだよ!」

「え......」

 手元を見る。

 入口に飾られる《廃校舎》の文字。
 その全部が、見事に赤で塗り潰されていた。

「うわっ、悪い! これ上から塗り直せるかな」

 慌てて言うと、隣で作業していた拓真が、
 大きく息を吐いた。

「......凛音と喧嘩でもしたのか?」

「えっ!? そんなことないけど」

 声が裏返る。

「お前、分かりやすいんだよ。さっきからずーっと凛音のほう見て。恋する乙女かよって」
「ちょ、うるさいから!」

 拓也は段ボールを切りながら、面白そうに続ける。

「でもお前が喧嘩するなんて、珍しいな」
「だから、喧嘩だなんて一言も――」
「揉めても、いつもお前が折れるし」
「それは、お前が折れないからだろ」

 思わず、ため息が出た。

「でも、今回は折られないから喧嘩してんだろ?」

 拓也の手は止まらない。
 段ボールを切る音だけが、やけに大きく響いた。

「......喧嘩じゃねぇって」

 そう言ったはずなのに、自分の声が、どこか曖昧だった。

 今までは、どうでもよかったんだ。

 誰にどう思われても。
 多少、うまくいかなくても。

 今の俺たち、喧嘩っていうのかな。

 派手に殴り合った訳でもない。話さなくなって、目を合わせなくなって、音もしなくなっただけ。

 それを喧嘩と呼ぶなら、ずいぶん静かなものだ。

 今まで喧嘩したことない俺にはわからなかった。

◆◆◆

 丸一日の準備を終えて、俺はひとり下駄箱に向かった。

 廊下の途中で、放送が入る。

『リハーサルを二時から行います。該当する生徒は、それまでに体育館に集合してください』

 一瞬立ち止まった俺は、そのまま家に帰った。

 玄関を開けると、母さんが一瞬だけ時計を見る。

「おかえり」

 早い時間に帰ってきた俺を見て、少し安心したみたいに、柔らかく笑った。

「ただいま」

 これで、よかったんだ。そう、自分に言い聞かせる。

 部屋に戻って、制服を脱いで、ベッドに腰を下ろした。なのに、胸の奥が、落ち着かない。

 スマホが、短く震えた。

 通知は、一件。

 表示された名前を見て、指先が、ぴたりと止まる。

 開かなくても、分かった。

 そこにあったのは、たった一言。

『待ってるから』

 胸の奥に、ずっと押し込めていた音が、微かに、鳴った気がした。

 これでよかったはずなのに。

 どうしたらいいのか、分からなかった。

 部屋の中を行ったり来たりして、何も決められないまま立ち止まる。
 逃げても、考えないふりをしても、胸の奥のざわつきだけが消えなかった。

 俺は、クローゼットの奥に手を伸ばす。

 服の影に隠すようにしてしまってあった、一枚の紙。
 角は折れて、文字はかすれて、何度も握りしめた跡が残っている。

 今まで、一度も使ったことのなかった紙。

 番号を見つめて、息を整える。
 それから、携帯に一つずつ数字を打ち込んでいった。

 間違えていないか、何度も確認して。
 最後の一桁を、思い切って押す。

 プルル、と機械的な音が鳴る。

 耳元に当てた瞬間、心臓の音がうるさくなる。

 もう、変わってしまったかもしれない。
 出てくれないかもしれない。

 その沈黙の時間が、やけに長く感じた。

『もしもし?』

 声が聞こえた。

 低くて、落ち着いた、昔から変わらない声だった。

 喉が、一瞬詰まる。

「......父さん。俺、悠真なんだけど」

 間が空く。

『......悠真?』

 名前を呼ばれただけなのに、胸が少しだけ熱くなる。

 俺は、深く息を吸った。

「......明日、会えないかな」

 言い終えたあと、携帯を握る指に力が入る。

 微かに、息を吸う音がした。

『......どうした』

 驚いたでも断るでもなかった。それだけで、胸の奥が、少しだけ緩む。

「......ちょっと、話したくて」

『明日だな』

 短い返事。

『5時に駅前まで来れるか?』

「......うん」

 頷く代わりに、小さく返事をする。

『じゃあ、待ってるから』

 さっき見た通知と、同じ言葉。

 通話が切れて、部屋が、急に静かになる。
 スマホを握ったまま、俺は、しばらく動けなかった。

 それでも――さっきより、少しだけ、呼吸がしやすくなっていた。